INICIAR SESIÓN未練の呪いは、解けたはずだった。 なのに次の呪いは、職場の“隣席”から始まった。 優しさのふりで踏み込んでくる年下の同僚。 断れば悪者、返せば距離ゼロ。逃げ道のない「いい人ムーブ」に、呼吸が削られていく。 ──大人の恋は、奪うだけじゃない。取り戻すこともできる。 男運は、この人に全振りしていた。気づいた時には、もう戻れない。
Ver más氷室所長は資料から目を上げず、ボールペンの先だけを止めた。「朝比奈さん、今の件。更新鍵は俺が持つ。管理には“氷室判断”で返す。いいな」「……はい」“いいな”は命令じゃない。逃げ道を残した確認。それでも胸の奥がふっと軽くなるのは、私が今、誰かのルールに守られているからだ。コピー機の前に戻る。紙が吐き出される音が、規則正しくて救いになる。規則。機械。感情が混ざらない。そういうものが、今日はありがたい。背中に気配が近づく。一メートルが、九十センチになる。自分で気づくその前から、感覚が過敏になる。空気が体温を帯びるのが分かって、指先が一瞬だけ冷たくなった。「朝比奈さん」榊の声は柔らかい。柔らかいのに、刃みたいだ。柔らかい刃は、避けにくい。防御が難しい。「さっき所長と……何の話?」(来た)“雑談のふりをした探り”この人はいつも、業務の箱に私事を混ぜる。混ぜた瞬間に、私のほうが“拒否しづらい人”になるって知っている。私はコピーされた紙を揃えたまま、顔だけを半分向けた。笑顔の筋肉だけ使う。目は笑わせない。「業務です。共有が必要なら、所長から回ります」“あなたには渡さない”ではなく、“手順に乗せる”と言う。拒否の角を、ルールで丸める。榊は一拍だけ黙った。その一拍で、彼の中の計算が音を立てるのが分かる。「じゃあ」と引くか、「でも」と押すか。「……そっか。了解」了解。敬語じゃない。なのに声は丁寧で、顔は優しい。いい人の仮面のまま、今日も私の境界線を指でなぞってくる。「昨日、眠れた?って送ったの、嫌だった?」
隣の席には、出勤した榊恒一。彼がキーボードを叩く音が一定のリズムで続く。1メートル。守れてる。守れてるのに、気配だけで肺が縮む。「朝比奈さん、今日、早いですね」声だけが近い。画面から目を離さず、笑顔の筋肉だけ動かした。「うん。早く来れたから」それ以上の会話を切るように、書類の束を抱えて立った。コピー機へ向かう途中、賃貸管理の担当からチャットが入った。“更新の鍵、入居者に見られないように”──その話、子どもじゃないのに「聞かれたら困る」類のやつ。カウンターの向こう、氷室所長が目線だけで呼んだ。冷たいようで、無駄がない。自然に氷室の横へ寄り、声を落とす。「所長、更新鍵の件なんですけど……」「……ああ。ここで言うな」氷室が手元の資料で視界を隠し、私の言葉を受け止める。内緒話。職場の“安全な距離”で成立する小さな共犯。さっきまでしづらかった呼吸が、ようやく最後まで通った。その瞬間だった。背中側の空気が、ぴたりと止まる。榊が、こちらを見ているのが分かった。見えなくても分かる。視線は、匂いみたいに越境する。(……ああ、これが嫌なんだ)氷室は顔色ひとつ変えず、淡々と続けた。「朝比奈さん、今日の内見、俺が同行する。榊は別件回せ」「はい」それ以上は言わない。榊の椅子が軋む音がした。たぶん、笑っているふりをしている。“いい人ムーブ”の仮面のまま、居場所が消える音を聞いた顔で。
翌朝。開店前のカウンターは静かで、コピー機の音だけが規則的に鳴る。私と氷室所長だけが、静かにそれぞれの仕事をしていた。スマホは机の端に。印刷物を揃えながら、画面から指先だけ遠ざけた。画面が震えたのは、ちょうど「境界線の匂い」を鎖骨に置いた直後だった。『おはよう。昨日、よく眠れた?』スマホの通知は、榊恒一と表示された。業務連絡じゃない。ただの挨拶よりも悪い。体調の侵入だ。既読をつけないまま、スマホの画面に視線を貼りつけた。“見なかったこと”にできる距離が欲しい。榊くんは、彼氏でも何でもない。ただの後輩。友達枠ですらない。こういうやり取りはやめて欲しい。榊くん、あなた彼女いるでしょう?SNSで匂わせていたでしょう?同時に、追撃が来る。『今日、内見一件増えた。10:30の荒木様、車出すよ』『あと、無理しないでね』敬語を使え!敬語を。これでも私、榊くんの2つ上なんですけど?榊くんは業務と私事を同じ箱に入れてくる。断れば私が悪者。返せば“距離ゼロ”の承認。その仕掛けが、上手い。指先で、DIORのローションの残り香をこすり落とすようにしてから、短く返す。『承知しました。10:30、資料共有お願いします』──眠れたかなんて、聞くな。
内見車を降りた瞬間、外気が肺に入った。冷たい。ありがたい。密室じゃないだけで、人間は生き返る。物件の鍵を返して、書類を整えて、店に戻る。ドアが閉まる音で、現実がまた始まった。カウンターの向こうで、氷室所長が書類をめくっている。背筋が伸びる。あの人の前では、変な“湿度”が通用しない。仕事の距離は仕事の距離として固定される。ありがたい。「朝比奈」呼ばれた。低い声。必要なことしか言わない声。「さっきの申込。保証会社、返事遅いな」「はい。今日中に押します」「押すじゃない。押せ」短い。鋭い。でも不思議と、胸が苦しくならない。氷室所長の言葉は、境界線を越えない。侵入じゃない。“指示”だ。私は端末を取り、電話をかける。「いつもお世話になっております。アオパの朝比奈です」言葉が整っていく。呼吸が戻っていく。電話が終わった瞬間、所長が私の手元を一瞥した。「声、落ち着いたな」「……え?」「さっきまで浅かった」……気づいてたんだ。拾い上げるのは、私の“事情”じゃなくて、仕事に必要な部分だけ。こういう“触れない手当て”が、いちばん効く。私は一瞬、口角が上がりそうになった。こういうのが、大人の救命ボートなんだと思った。「ありがとうございます」「礼はいらん。結果で返せ」相変わらず皇帝。でもその一言で、私は地面に足がついた。鍵束を戻し、資料を棚に差し、ペンを持ち直す。世界がまっすぐになる。肺が、やっと自分のものに戻った。……そのとき、背中に視線が刺さった。振り向かなくても分かる。遅れて店に戻ってきた榊くんが、こちらを見ている。氷室所長の“正しい距離”に救われた直後に、榊くんの“近い気配”が、余計に浮き彫りになる。私は気づいてしまった。──榊くんは、私を見ているんじゃない。私が“戻った瞬間”を見ている。私を、「いつもの場所」に戻すために。