居内若葉(いうち・わかば)が朝五時から駅のトイレを磨いているのは、このアルバイトが好きだからではない。 中学二年生の途中から教室へ行けなくなった。卒業後も進学せず、履歴書の学歴欄には中学校の名前が一つあるだけ。人と話す仕事はうまく続かなかった。二十二歳になった今、若葉が確実にできると言えるのは、汚れを落とすことくらいだった。 ――うわ、こびりついとる。力入れな、落としきれんなぁこの汚れは……。 便器の状態を見ただけで、洗浄するために最適なブラシを選べるようになった。働き始めたころは吐き気がした臭いにも、今は顔をしかめなくなった。なにもかも、若葉にとっては不本意に身についた技術だった。 それでも、この仕事が来月もあるとは限らない。 早朝トイレ清掃だけでは暮らしていけず、家事代行サービスの派遣会社『パウパウ』に登録して、日中はそこのアルバイトをしていた。けれどパウパウにも、次に客から苦情が入れば登録を打ち切る、と先週告げられたばかりだ。 最後の個室を出た若葉は、手袋を外して時刻を確かめた。家事代行の現場へ向かう電車に遅れるわけにはいかない。 特に、今日の派遣先は、尾木健三(おぎ・けんぞう)の家だからだ。 尾木は七十五歳で、広い家に一人で暮らしている。若葉が担当したのはまだ数回だが、そのたびにパウパウへ苦情が入った。掃除の順番が気に入らない。物の置き方が違う。挨拶の声が小さい。 パウパウ側は若葉の話など、ほとんど聞かなかった。 ――尾木さんから、また連絡があったけど。いい加減にしてもらえます? 次やらかしたら、契約終了にさせてもらいますので。 電話口で言われた担当者の言葉を思い出す度、動悸が走る。 尾木に怒鳴られるのも怖い。だが、尾木からパウパウへ電話が一本入れば、仕事そのものがなくなる。そのほうがずっと怖かった。 + + + 玄関を開けた尾木は、若葉の顔を見るなり眉を寄せた。 「来たか、女。今日は前みたいな雑な仕事してくれるな」 「はい。気ぃつけます」 「はっ、相変わらずその訛り、なんとかならんのか。ここは横浜だぞ」 若葉は、すみません、とだけ呟き、靴を揃え、持参した道具を手に取った。 床を拭き、洗面台を磨く。尾木はときどき部屋へ入ってきて、若葉の手元を見た。何か言われるたびに返事をして、
Last Updated : 2026-10-13 Read more