黙り込んだ私を見て、夫の榊原奏士(さかきば そうし)は笑った。「考えすぎだよ。まったく、美桜は心配性だな」私・朝倉美桜(あさくら みお)は何も言わず、首を横に振った。あの口紅は、半月前に私が買ったものだ。ケースについた小さな傷まで、私のものと同じだった。それに、口紅を見た瞬間、奏士の目にかすかな動揺が浮かんだのを、私は見逃さなかった。夫婦にとって、いちばん大切なのは信頼だと思っていた。だから奏士が深夜まで残業していても、居場所を確かめたことはない。スマホの暗証番号は知っていたけれど、勝手に開いたことも一度もなかった。奏士はよく冗談めかして言った。「美桜って、俺のこと全然気にならないよな」そのたびに、私はこう答えていた。「信じてるから」けれど今日、示し合わせたように話を合わせる二人を見て、背筋が冷えた。同じことが、これまでにも何度もあったのではないか。一度浮かんだ疑念は、もう押し込められなかった。過去の出来事が、次々と脳裏によみがえった。この1年、奏士は急に親孝行になった。以前は月に一度も自分から電話をしなかった人が、突然、何かにつけて母親を気遣うようになった。「母さんが寂しがってる」「母さんの具合が悪い」「母さんに頼まれた」何かにつけて、そう口にするようになった。去年のバレンタインには、付き合い始めた頃に初めて二人で訪れたレストランを予約していた。ところが出かける直前、奏士は申し訳なさそうな顔で言った。「美桜、ごめん。母さんが、胸が苦しいって言うんだ。病院へ連れていかないと」そう言って、私を抱き寄せた。「埋め合わせは必ずする。バレンタインは来年もあるけど、母さんのことは放っておけないだろ」そう言われれば、引き止めることなどできなかった。私は納得したふりをして、彼を送り出すしかなかった。「気をつけて行ってきて。お義母さんの体が一番だから」30歳の誕生日には、奏士の好物を並べて帰りを待った。けれど彼は、とうとう朝まで帰らなかった。翌日、奏士が口にしたのは、たった一言だった。「母さんの腰痛がひどくなって、付き添ってた」あふれそうになる失望をのみ込み、手つかずの料理をすべて捨てた。奏士が残業だと言っていた夜、私が急性胃炎を起こしたことも
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