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口紅が暴いた、夫と義母の一年間の嘘

口紅が暴いた、夫と義母の一年間の嘘

By:  冷え性のココナッツCompleted
Language: Japanese
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夫の車で、2日前になくしたはずの口紅を見つけた。 私が何か言うより先に、夫は口を開いた。 「それ、母さんのだよ」 訝しむ私の目の前で、夫はすぐに義母に電話をかけた。 義母は間髪を入れず、嬉しそうに声を弾ませた。 「ずっと捜してたのよ。あなたの車に落としてたのね」 まるで打ち合わせでもしていたような二人の受け答えに、私はその場で固まった。 ふいに、恐ろしい疑念が胸をよぎった。 ——もしかして、この二人はいつもこうして口裏を合わせているの?

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Chapter 1

第1話

黙り込んだ私を見て、夫の榊原奏士(さかきば そうし)は笑った。

「考えすぎだよ。まったく、美桜は心配性だな」

私・朝倉美桜(あさくら みお)は何も言わず、首を横に振った。

あの口紅は、半月前に私が買ったものだ。ケースについた小さな傷まで、私のものと同じだった。

それに、口紅を見た瞬間、奏士の目にかすかな動揺が浮かんだのを、私は見逃さなかった。

夫婦にとって、いちばん大切なのは信頼だと思っていた。

だから奏士が深夜まで残業していても、居場所を確かめたことはない。

スマホの暗証番号は知っていたけれど、勝手に開いたことも一度もなかった。

奏士はよく冗談めかして言った。

「美桜って、俺のこと全然気にならないよな」

そのたびに、私はこう答えていた。

「信じてるから」

けれど今日、示し合わせたように話を合わせる二人を見て、背筋が冷えた。

同じことが、これまでにも何度もあったのではないか。

一度浮かんだ疑念は、もう押し込められなかった。

過去の出来事が、次々と脳裏によみがえった。

この1年、奏士は急に親孝行になった。

以前は月に一度も自分から電話をしなかった人が、突然、何かにつけて母親を気遣うようになった。

「母さんが寂しがってる」

「母さんの具合が悪い」

「母さんに頼まれた」

何かにつけて、そう口にするようになった。

去年のバレンタインには、付き合い始めた頃に初めて二人で訪れたレストランを予約していた。

ところが出かける直前、奏士は申し訳なさそうな顔で言った。

「美桜、ごめん。母さんが、胸が苦しいって言うんだ。病院へ連れていかないと」

そう言って、私を抱き寄せた。

「埋め合わせは必ずする。バレンタインは来年もあるけど、母さんのことは放っておけないだろ」

そう言われれば、引き止めることなどできなかった。

私は納得したふりをして、彼を送り出すしかなかった。

「気をつけて行ってきて。お義母さんの体が一番だから」

30歳の誕生日には、奏士の好物を並べて帰りを待った。

けれど彼は、とうとう朝まで帰らなかった。

翌日、奏士が口にしたのは、たった一言だった。

「母さんの腰痛がひどくなって、付き添ってた」

あふれそうになる失望をのみ込み、手つかずの料理をすべて捨てた。

奏士が残業だと言っていた夜、私が急性胃炎を起こしたこともある。

冷や汗が止まらないほどの痛みに耐えかねて電話をすると、義母が高血圧でめまいを起こしていて、そばを離れられないから、自分で何とかしてくれと言われた。

思い返せば返すほど、胸の奥がざわついた。

「美桜」

奏士の声で、私は我に返った。

「母さんの腰痛がまた出たらしい。ちょっと行ってくる」

「今から?」

今日は、私たちの結婚記念日だった。

この日のために、ずっと前から準備していた。

2週間前から何度も予定を確認し、1週間前には店も予約した。

午後は半休を取り、一度家に戻ってシャワーを浴び、いつもより丁寧に化粧もした。

もう店へ向かう途中だったのに、それでも駄目なのか。

「うん。今回はかなり痛むって言うから、放っておけない」

奏士はそう言いながら、車を路肩に寄せた。

私は表情を変えずに言った。

「私も一緒に行く」

「いや、来なくていい」

奏士は間髪を入れずに断った。これまで何度もそうしてきたように。

車を降り、走り去る奏士を見送った。

口紅を見たときの奏士の動揺と、不自然なほど息の合った受け答えが、頭から離れなかった。

1分後、私は配車アプリを開いた。

行き先は、奏士の母のマンション。

本当に具合が悪いのか、この目で確かめるつもりだった。

マンションに着き、部屋のインターホンを押した。

扉を開けたのは、奏士だった。

ここへ来るまで張りつめていた気持ちが、ふっと緩んだ。

疑った自分を心の中で責めた。奏士は化粧品に詳しくない。奏士の母が同じ口紅を持っていただけなのかもしれない。

「どうして来たんだ?」

「やっぱり心配で。お義母さん、腰が痛いんでしょう?」

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第1話
黙り込んだ私を見て、夫の榊原奏士(さかきば そうし)は笑った。「考えすぎだよ。まったく、美桜は心配性だな」私・朝倉美桜(あさくら みお)は何も言わず、首を横に振った。あの口紅は、半月前に私が買ったものだ。ケースについた小さな傷まで、私のものと同じだった。それに、口紅を見た瞬間、奏士の目にかすかな動揺が浮かんだのを、私は見逃さなかった。夫婦にとって、いちばん大切なのは信頼だと思っていた。だから奏士が深夜まで残業していても、居場所を確かめたことはない。スマホの暗証番号は知っていたけれど、勝手に開いたことも一度もなかった。奏士はよく冗談めかして言った。「美桜って、俺のこと全然気にならないよな」そのたびに、私はこう答えていた。「信じてるから」けれど今日、示し合わせたように話を合わせる二人を見て、背筋が冷えた。同じことが、これまでにも何度もあったのではないか。一度浮かんだ疑念は、もう押し込められなかった。過去の出来事が、次々と脳裏によみがえった。この1年、奏士は急に親孝行になった。以前は月に一度も自分から電話をしなかった人が、突然、何かにつけて母親を気遣うようになった。「母さんが寂しがってる」「母さんの具合が悪い」「母さんに頼まれた」何かにつけて、そう口にするようになった。去年のバレンタインには、付き合い始めた頃に初めて二人で訪れたレストランを予約していた。ところが出かける直前、奏士は申し訳なさそうな顔で言った。「美桜、ごめん。母さんが、胸が苦しいって言うんだ。病院へ連れていかないと」そう言って、私を抱き寄せた。「埋め合わせは必ずする。バレンタインは来年もあるけど、母さんのことは放っておけないだろ」そう言われれば、引き止めることなどできなかった。私は納得したふりをして、彼を送り出すしかなかった。「気をつけて行ってきて。お義母さんの体が一番だから」30歳の誕生日には、奏士の好物を並べて帰りを待った。けれど彼は、とうとう朝まで帰らなかった。翌日、奏士が口にしたのは、たった一言だった。「母さんの腰痛がひどくなって、付き添ってた」あふれそうになる失望をのみ込み、手つかずの料理をすべて捨てた。奏士が残業だと言っていた夜、私が急性胃炎を起こしたことも
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第2話
奏士の母がキッチンから顔を出した。私を見るなり、満面の笑みを浮かべた。「まあ、美桜さんも来たの?奏士がポタージュを作ってくれたのよ。ちょうどいいわ、あとで一緒に飲みましょう」足が止まった。家ではキッチンに立とうともしない人が、母の家ではポタージュを作るの?黙って部屋へ入ると、奏士の母は嬉しそうに話し続けた。「最近はしょっちゅう顔を見せてくれるの。料理を作ったり、一緒に食事をしたり。本当に優しい息子だわ」私は努めて穏やかに尋ねた。「具合はどうですか?」「もうずいぶん楽よ。奏士が来てくれると安心して、痛みもすぐ引くの」あまりに自然な口ぶりに、疑っている私のほうがおかしい気がしてきた。ただ息子に会いたかっただけなのかもしれない。考えすぎだったのだろうか。奏士の母に勧められてソファに腰を下ろし、何げなくローテーブルに目を向けた。テーブルの中央に、ボウルが一つ置かれていた。底にはわずかにポタージュが残り、縁には薄い口紅の跡がついていた。奏士の母の顔を見た。その日は口紅を塗っていなかった。「お義母さん、誰か来ていたんですか?」さりげなく尋ねると、奏士の母は一瞬、表情をこわばらせた。代わりに奏士が答えた。「ああ、近所の人だよ。たまたまポタージュができたところに来たから、一皿出したんだ」私はうなずき、それ以上は追及しなかった。しばらくして、奏士が何でもないことのように言った。「美桜も来たことだし、俺は会社へ戻るよ。急ぎの仕事が入った」「運転、気をつけてね」立ち上がった彼に、そう声をかけた。私はゆっくりとポタージュを飲み終えた。奏士の母がため息をついた。「今日は結婚記念日なんだって?でも、奏士を責めないであげてね。男は仕事が大事だもの。一度くらい予定が流れたって仕方ないでしょう。私はもう平気だから、美桜さんも早く帰ったら?」「そうします。お大事に」バッグを持ち、マンションを出た。ふと、レストランの予約をまだ取り消していないことに気づいた。店の番号を表示し、そのまま電話をかけた。「今夜7時に予約している朝倉です。予約を取り消したいのですが」「朝倉様……」電話口のスタッフが、わずかに言いよどんだ。「そのお席でしたら、すでにお連れ様がお見えにな
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第3話
奏士の母もすべて知ったうえで、二人の密会を隠し続けていた。胃の奥から、激しい吐き気がこみ上げた。さっき飲んだポタージュの味が舌に残っていた。思い出すだけで、飲み込んだものをすべて吐き出したくなった。奏士は指先で女の鼻を軽くつつき、甘やかすように笑った。「食いしん坊だな。そんなに好きなら、また作ってやるよ」「いつもそう言うだけなんだから」女は拗ねたふりをしながら、フォークで肉を一切れ刺し、奏士の口元へ運んだ。「はい、あーん」奏士は素直に口を開けた。ふと顔を上げた奏士が、すぐそばに立つ私に気づいた。目が合った。奏士の顔から、さっと血の気が引いた。奏士は椅子を引く音を立てて立ち上がった。「どうしたの?」女も彼の視線を追い、こちらを振り返った。「美桜、話を聞いてくれ」奏士はそう言うなり、女をかばうように一歩前へ出た。女を守ろうとするその仕草に、胸の奥がひりついた。「何を聞けっていうの?」自分でも驚くほど、冷たい声が出た。「ここではやめよう。家に帰ってから話す。茉由は悪くない」悪くない。その一言に、胸を深くえぐられた。「じゃあ私は?私が何をしたの?」「奥さん、奏士くんを責めないでください……全部、私が悪いんです」小日向茉由(こひなた まゆ)と呼ばれた女は、涙声でそう言った。テレビドラマで何度も聞いたような台詞だった。妻に見つかっておきながら、よくそんなことが言えるものだと思っていた。けれど今なら分かる。謝っているのではない。私を煽っているのだ。「責めるなら私を責めてください。気持ちを抑えられなかった私のせいで、奏士くんは悪くありません」奏士くん。ずいぶん親しげな呼び方だった。茉由を見つめていた私は、彼女の首元で光るネックレスに気づいた。母が亡くなる前、私に残してくれたものだった。なくしたと気づいてから、家中を何度も捜した。とうとう見つからず、声を上げて泣いた。あのとき奏士は私を抱き締め、こう言ったのだ。「お母さんがいなくても、俺がずっとそばにいる」けれど、母の形見を持ち出し、ほかの女の機嫌を取るために使ったのも奏士だった。かっと頭に血が上った。私はテーブルへ歩み寄ると、置かれていたグラスをつかみ、中の水を二人に浴びせた
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第4話
店員が救急車を呼んでくれた。担架で運び出される途中、奏士からメッセージが届いた。【茉由が腹痛と出血で入院した。子供に何かあったら、お前を許さない】私の容体を尋ねる言葉は、一つもなかった。目を閉じた。心が冷え切ってしまうと、かえって頭は冴えてくるらしい。私は弁護士に連絡し、離婚協議書をできるだけ早く作ってほしいと頼んだ。病院のベッドに横たわった私の腰には湿布が貼られ、手の甲には点滴の針が刺さっていた。レストランから救急車で運ばれて以来、涙は一滴も出ていなかった。もう期待していない相手のために、流す涙などなかった。病室の扉が少し開いた。看護師だと思って顔を上げずにいると、ためらいがちな声で名前を呼ばれた。「美桜」顔を上げた。奏士が片手に保温ポット、もう片方に花束を持って立っていた。「昨日は軽く押しただけのつもりだった。こんな大けがになるなんて思わなかったんだ」心配しているような口調だった。「仕事に戻って。私は平気だから」「そんな言い方するなよ……本当に悪かった。美桜がいないと駄目なんだ。今回だけ、許してくれないか」目を赤くした奏士を見ても、心は動かなかった。不倫に、一度きりなどない。一度しか見つかっていないだけだ。「平気だと言ったでしょう。もう帰って」私は寝返りを打ち、彼に背を向けた。「ご飯、食べてくれよ。明日また来る」それから1週間、奏士は完璧な夫を演じた。毎日、仕事が終わるとまっすぐ病院へ来た。持ってくる食事も、鮭のおにぎりとだし巻き卵、やわらかく煮た鶏肉と温野菜、豆腐を添えた炊き込みご飯など、日替わりで変わった。こんなことを続ければ、いずれ私が許すと思っているのだろう。翌日に退院が決まると、奏士はほっとした様子で言った。「美桜なら分かってくれると思ってた。家に帰ったら、好きなものを作るよ」そこへ、看護師が処置用のトレーを持って入ってきた。点滴を確認しながら、何げない調子で話しかけてきた。「ご主人、毎日よくいらっしゃいますね。いつもこちらに来る前に産科病棟にも食事を届けているようですけど、ご親族の方も入院されているんですか?」シーツをつかむ指に、無意識に力が入った。「ええ、向こうに親戚がいるんです。何号室ですか?あとで私も顔を出
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第5話
兄の朝倉遼一(あさくら りょういち)が病院へ迎えに来たとき、外では冷たい雨が降っていた。ロビーで待っていた私を見つけると、兄は足早に近づき、黙って荷物を受け取った。兄は痛ましそうに、しばらく私の顔を見つめていた。それでも兄が口にしたのは、一言だけだった。「行こう。車は外だ」車内には暖房がきいていた。助手席には兄の上着と、きれいに畳まれたブランケットが置いてあった。「羽織っておけ。風邪をひくぞ」差し出された上着を、私は素直に受け取った。大きな上着を羽織り、膝にはブランケットをかけた。暖房もよく効いていた。それでも、体の芯は冷えたままだった。「お兄ちゃん、1年前の事故……わざとだったの。私に子供を産ませたくなくて、奏士が故意に起こした」声は小さかった。けれど兄には、はっきり聞こえたはずだ。ハンドルを握る指の関節が、白く浮き上がった。私は一つずつ、起きたことを話していった。痛みが限界を超えると、自分の身に起きたことさえ、他人事のように話せるらしい。残酷な事実を一つずつ口にするうちに、まるで誰か別の人の話をしているような感覚に陥っていた。ハンドルを握る兄の手が震えていた。兄は脇道へ入り、静かな場所に車を止めた。「あいつは自分の子を奪ったうえに、愛人には、お前はもう子供を産めないとまで言った。お前を突き飛ばして腰のけがを悪化させ、その足で妊娠中の愛人を追いかけた。愛人の食べ残しをお前に食べさせて、それでも少し謝れば許すと笑ってたんだな」怒りで声が震えていた。「美桜、お前は扱いやすいんじゃない。優しいんだ。あいつは、その優しさにつけ込んだだけだ。お前は何も悪くない」その言葉を聞いた途端、張りつめていた糸が切れた。涙がこぼれた。「必ず、償わせる」兄は私を見て、黙ってうなずいた。「分かった。美桜がどう決めても、俺は味方だ」「少し遠くへ行きたい。今はまだ、家には戻りたくない」「どこへ行きたい?」「分からない。できるだけ遠いところ」兄は少し考えてから言った。「ニュージーランドで牧場をやっている友人がいる。しばらくそこに滞在したらどうだ。誰にも邪魔されずに済む」「うん」「いつ発つ?」「できるだけ早く」スマホを開き、藤代弁護士とのトーク画面に文字を打ち
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第6話
花束を抱え、保温ポットを提げて、外科病棟のエレベーターに乗った。いつもの病室の前まで来ると、表情を整えてから扉を開けた。室内には誰もいなかった。ベッドはきれいに整えられていた。奏士は入口に立ったまま、動けなくなった。通りかかった看護師が、毎日のように食事を届けに来る夫の顔を覚えていて、声をかけた。「朝倉さんのお見舞いですか?昨日、退院されましたよ」「退院?」奏士が眉を寄せた。「いつですか?」「昨日の午後です。背の高い男性がお迎えに来ていました」背が高かったと聞き、奏士は遼一のことだろうと思った。「行き先は何か聞いていませんか?」看護師は首を横に振った。「特には。ただ、退院手続きも精算もすべて済んでいます。ご主人はご存じなかったんですか?」「ええ、知っています。今日迎えに来るつもりだったので、思ったより早かったなと」無理に笑って取り繕うと、看護師は軽く会釈して去っていった。奏士は空の病室の前に立ち尽くした。腕の中にはユリの花束があり、重い保温ポットの持ち手が指に食い込んでいた。まだ怒っているのか。これだけ下手に出ているのに。いら立ちが胸に湧いた。小さくため息をついた。まあいい。自分で帰ったなら、迎えに来る手間が省けた。美桜を迎えに行くついでに茉由の見舞いにも顔を出すのは面倒だと思っていたから、かえって都合がよかった。奏士はそのまま産婦人科病棟へ向かった。病院を出る頃には、外はもう暗くなりかけていた。その日は茉由がいつになく甘えて、奏士を帰そうとしなかった。車でかなり時間のかかる店のスープカレーが食べたいと言い張ったのだ。遠いから明日にしようとなだめても、茉由はすぐに涙を流した。妊娠してから感情の波が激しくなり、一度泣き始めるとなかなか止まらない。体に障ってはいけないと思い、奏士は仕方なく車を走らせた。けれど、買って戻る頃には少し冷めていた。茉由は一口食べ、顔をしかめた。「冷めたらおいしくない」「温め直そうか?」「もういい。食べたくなくなった」器を押しやり、スマホで動画を眺め始めた。奏士のことなど、もう見ようともしなかった。奏士はベッド脇に座り、彼女の横顔を眺めた。日に日にわがままになる茉由に比べ、美桜は穏やかだった。
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第7話
その日は、一つもついていなかった。奏士はリビングの照明をつけた。「美桜?」返事はなかった。もう一度、先ほどより大きな声で呼んだ。「美桜、いるのか?」誰も答えなかった。眉をひそめ、寝室へ向かった。扉を開けても、そこも暗いままだった。照明をつけると、ベッドは空で、掛け布団がきれいに畳まれていた。サイドテーブルにあった本も、ハンドクリームも、充電器もなかった。クローゼットからは、美桜の服がすべて消えていた。奏士は慌ててスマホを取り出し、電話をかけた。「おかけになった電話は、電源が入っていないか——」胸に不安が走ったが、すぐに打ち消した。何を慌てる必要がある。子供ではないのだから、行く場所くらいあるだろう。まだ怒っているだけだ。わざと電源を切り、明かりも消し、自分を焦らせようとしている。女は皆そういうものだ。口では放っておいてと言いながら、男が慌てるのを待っている。洗面所へ行くと、何も置かれていない洗面台が目に入った。急に、家が以前より広くなったように感じた。そのとき、奏士のスマホが鳴った。体が跳ねた。美桜からだろうか。画面に表示されたのは、知らない番号だった。「はい」「榊原奏士さんで間違いありませんか。こちらは中央警察署です。奥様から、故意に交通事故を起こされ、けがと流産の被害を受けたという相談がありました。事情を伺いたいので、一度署までお越しください」耳鳴りがして、頭の中が真っ白になった。美桜は知っていた。事故が故意だったことも、何もかも。奏士は立ち上がると、寝室へ駆け込み、美桜のドレッサーの引き出しを開けた。空だった。美桜は自分のものをすべて持ち去っていた。髪の毛一本さえ、残っていなかった。ドレッサーの前にしゃがみ込み、一番下の引き出しを開けた。そこには、口紅が一本置かれていた。母親のものだと嘘をついた、あの口紅だ。その下に、小さな紙が挟まっていた。書かれていたのは、短い言葉だった。【私たちは、もう終わり】針で何度も刺されるように、胸が痛んだ。息をしても、歩いても、座っても、鈍い痛みが消えなかった。奏士は床に崩れ落ち、そのまま突っ伏した。床の冷たさが、服越しに骨まで染み込んでいった。そのとき初めて、
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第8話
7日目。【美桜、頼む】【せめて無事だと知らせてほしい】10日目。【家の明かりは、毎晩つけてる。前に、暗いと俺が靴を見つけられないって言ってたよな。今は帰れば明かりがついてる。でも、美桜がいない】15日目。【初めてデートしたレストランへ行った。店の人はまだ俺たちを覚えてた。美桜はどうしたのかと聞かれて、出張中だと答えた】20日目。【毎日捜してる。遼一さんも、美桜の友達も、何も教えてくれない。当然だと思う。でも一度だけ会って、直接謝らせてくれないか】25日目。【美桜のものは全部そのままにしてある。ドレッサーも、歯ブラシも、スリッパも。毎朝、帰ってきたときすぐ履けるように、スリッパをそろえてる】30日目。【今日、心療内科へ行った。俺には治療が必要だと言われた。美桜、本当に悪かったと思ってる。許してほしい】私が戻ったのは、奏士のためではない。すべてに決着をつけ、自分の人生をもう一度始めるためだ。その新しい人生に、彼の居場所はない。翌日、藤代弁護士の事務所を訪れた。机には証拠書類が並べられていた。彼は一つずつ手に取り、内容を説明していった。「最後に、こちらがご希望の刑事告訴に関する書類です。現在、警察にも証拠を提出し、捜査が進んでいます」一番下の書類を抜き、私の前へ差し出した。「相手が事実を認めて賠償し、朝倉さんと示談できれば、処分や量刑で考慮される可能性はあります」「示談するつもりはありません」藤代弁護士は静かにうなずいた。「では、その方針で進めましょう」突然、スマホが鳴った。知らない番号だった。「もしもし」「美桜」奏士の声だった。1か月以上聞いていなかった声が、ひどく遠いところから聞こえてくるように感じた。第10章私は何も言わなかった。「帰ってきたんだろ」声が震えていた。「美桜、戻ってきたんだよな。頼むから、一度だけ会ってくれないか」「この番号をどうやって知ったの?」「いろんな人に聞いた。ずっと捜してたんだ……美桜、頼む。話したいことがたくさんある」「話なら、法廷で」「美桜……」私は通話を切った。兄のマンションに着き、車を降りた。すぐに奏士の姿が目に入った。一瞬、誰だか分からないほど痩せていた。そこ
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第9話
奏士の顔が青ざめた。「藤代先生から連絡が来てるでしょう」これ以上、話すことはなかった。「自宅については財産分与で私の取得を求める。預貯金の分与に加えて、不貞と傷害の慰謝料も請求する。それから、1年前の事故については刑事告訴した。示談には応じない。あとは代理人と警察を通して」「俺を刑務所へ送るつもりか?」声が震えていた。「決めるのは私じゃない。裁判所よ」そう言って背を向けようとした。背後に、突然人の気配を感じた。とっさに顔をそらすと、銀色の刃が耳元をかすめた。振り返った先にいたのは、茉由だった。髪は乱れ、目だけが異様なほどぎらついていた。「あんたさえ死ねばいい!」甲高い声が響いた。「あんたがいるから、奏士くんは私も子供も捨てたのよ!全部あんたのせい!」奏士がすばやく私の前に立ちはだかった。恐怖で顔がこわばっていた。「茉由、正気か!美桜を傷つけたら、絶対に許さない!」けれど、茉由の耳には届いていないようだった。うわ言のようにつぶやいた。「奏士くんは、私に子供を諦めさせた。もういらない、美桜とやり直したいから二度と近づくなって……私を愛したことなんて一度もないって。ずっと愛していたのは美桜だけで、私は一時の気の迷いだったって言ったの」茉由の声が、急に高くなった。「だから、あんたが憎い。あんたさえいなければ、奏士くんは私を選ぶ!ずっと私を愛してくれる!死んでよ。あんたが死ねば、奏士くんは私のところへ戻ってくる!」茉由はナイフを握り直し、私めがけて突っ込んできた。奏士が彼女を蹴り倒した。そしてすぐに振り返り、私の顔をのぞき込んだ。「けがはないか?」その直後、刃物が肉を刺し貫く鈍い音がした。いつ起き上がったのか、茉由が奏士の背後に立ち、ナイフを背中に深く突き立てていた。両手で柄を握ったまま、茉由は血に染まった自分の手を見つめた。茉由は我に返ったように目を見開き、その顔が恐怖に引きつった。「違う……わざとじゃない」全身を震わせた。「先に蹴ったのは奏士くんよ。殺すつもりなんてなかった……」突然、悲鳴を上げ、その場から走り去った。「美桜……」奏士の声は、かすれていた。そのまま、地面に崩れ落ちた。「救急車を呼んでください。それから警
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