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奏士の顔が青ざめた。「藤代先生から連絡が来てるでしょう」これ以上、話すことはなかった。「自宅については財産分与で私の取得を求める。預貯金の分与に加えて、不貞と傷害の慰謝料も請求する。それから、1年前の事故については刑事告訴した。示談には応じない。あとは代理人と警察を通して」「俺を刑務所へ送るつもりか?」声が震えていた。「決めるのは私じゃない。裁判所よ」そう言って背を向けようとした。背後に、突然人の気配を感じた。とっさに顔をそらすと、銀色の刃が耳元をかすめた。振り返った先にいたのは、茉由だった。髪は乱れ、目だけが異様なほどぎらついていた。「あんたさえ死ねばいい!」甲高い声が響いた。「あんたがいるから、奏士くんは私も子供も捨てたのよ!全部あんたのせい!」奏士がすばやく私の前に立ちはだかった。恐怖で顔がこわばっていた。「茉由、正気か!美桜を傷つけたら、絶対に許さない!」けれど、茉由の耳には届いていないようだった。うわ言のようにつぶやいた。「奏士くんは、私に子供を諦めさせた。もういらない、美桜とやり直したいから二度と近づくなって……私を愛したことなんて一度もないって。ずっと愛していたのは美桜だけで、私は一時の気の迷いだったって言ったの」茉由の声が、急に高くなった。「だから、あんたが憎い。あんたさえいなければ、奏士くんは私を選ぶ!ずっと私を愛してくれる!死んでよ。あんたが死ねば、奏士くんは私のところへ戻ってくる!」茉由はナイフを握り直し、私めがけて突っ込んできた。奏士が彼女を蹴り倒した。そしてすぐに振り返り、私の顔をのぞき込んだ。「けがはないか?」その直後、刃物が肉を刺し貫く鈍い音がした。いつ起き上がったのか、茉由が奏士の背後に立ち、ナイフを背中に深く突き立てていた。両手で柄を握ったまま、茉由は血に染まった自分の手を見つめた。茉由は我に返ったように目を見開き、その顔が恐怖に引きつった。「違う……わざとじゃない」全身を震わせた。「先に蹴ったのは奏士くんよ。殺すつもりなんてなかった……」突然、悲鳴を上げ、その場から走り去った。「美桜……」奏士の声は、かすれていた。そのまま、地面に崩れ落ちた。「救急車を呼んでください。それから警
7日目。【美桜、頼む】【せめて無事だと知らせてほしい】10日目。【家の明かりは、毎晩つけてる。前に、暗いと俺が靴を見つけられないって言ってたよな。今は帰れば明かりがついてる。でも、美桜がいない】15日目。【初めてデートしたレストランへ行った。店の人はまだ俺たちを覚えてた。美桜はどうしたのかと聞かれて、出張中だと答えた】20日目。【毎日捜してる。遼一さんも、美桜の友達も、何も教えてくれない。当然だと思う。でも一度だけ会って、直接謝らせてくれないか】25日目。【美桜のものは全部そのままにしてある。ドレッサーも、歯ブラシも、スリッパも。毎朝、帰ってきたときすぐ履けるように、スリッパをそろえてる】30日目。【今日、心療内科へ行った。俺には治療が必要だと言われた。美桜、本当に悪かったと思ってる。許してほしい】私が戻ったのは、奏士のためではない。すべてに決着をつけ、自分の人生をもう一度始めるためだ。その新しい人生に、彼の居場所はない。翌日、藤代弁護士の事務所を訪れた。机には証拠書類が並べられていた。彼は一つずつ手に取り、内容を説明していった。「最後に、こちらがご希望の刑事告訴に関する書類です。現在、警察にも証拠を提出し、捜査が進んでいます」一番下の書類を抜き、私の前へ差し出した。「相手が事実を認めて賠償し、朝倉さんと示談できれば、処分や量刑で考慮される可能性はあります」「示談するつもりはありません」藤代弁護士は静かにうなずいた。「では、その方針で進めましょう」突然、スマホが鳴った。知らない番号だった。「もしもし」「美桜」奏士の声だった。1か月以上聞いていなかった声が、ひどく遠いところから聞こえてくるように感じた。第10章私は何も言わなかった。「帰ってきたんだろ」声が震えていた。「美桜、戻ってきたんだよな。頼むから、一度だけ会ってくれないか」「この番号をどうやって知ったの?」「いろんな人に聞いた。ずっと捜してたんだ……美桜、頼む。話したいことがたくさんある」「話なら、法廷で」「美桜……」私は通話を切った。兄のマンションに着き、車を降りた。すぐに奏士の姿が目に入った。一瞬、誰だか分からないほど痩せていた。そこ
その日は、一つもついていなかった。奏士はリビングの照明をつけた。「美桜?」返事はなかった。もう一度、先ほどより大きな声で呼んだ。「美桜、いるのか?」誰も答えなかった。眉をひそめ、寝室へ向かった。扉を開けても、そこも暗いままだった。照明をつけると、ベッドは空で、掛け布団がきれいに畳まれていた。サイドテーブルにあった本も、ハンドクリームも、充電器もなかった。クローゼットからは、美桜の服がすべて消えていた。奏士は慌ててスマホを取り出し、電話をかけた。「おかけになった電話は、電源が入っていないか——」胸に不安が走ったが、すぐに打ち消した。何を慌てる必要がある。子供ではないのだから、行く場所くらいあるだろう。まだ怒っているだけだ。わざと電源を切り、明かりも消し、自分を焦らせようとしている。女は皆そういうものだ。口では放っておいてと言いながら、男が慌てるのを待っている。洗面所へ行くと、何も置かれていない洗面台が目に入った。急に、家が以前より広くなったように感じた。そのとき、奏士のスマホが鳴った。体が跳ねた。美桜からだろうか。画面に表示されたのは、知らない番号だった。「はい」「榊原奏士さんで間違いありませんか。こちらは中央警察署です。奥様から、故意に交通事故を起こされ、けがと流産の被害を受けたという相談がありました。事情を伺いたいので、一度署までお越しください」耳鳴りがして、頭の中が真っ白になった。美桜は知っていた。事故が故意だったことも、何もかも。奏士は立ち上がると、寝室へ駆け込み、美桜のドレッサーの引き出しを開けた。空だった。美桜は自分のものをすべて持ち去っていた。髪の毛一本さえ、残っていなかった。ドレッサーの前にしゃがみ込み、一番下の引き出しを開けた。そこには、口紅が一本置かれていた。母親のものだと嘘をついた、あの口紅だ。その下に、小さな紙が挟まっていた。書かれていたのは、短い言葉だった。【私たちは、もう終わり】針で何度も刺されるように、胸が痛んだ。息をしても、歩いても、座っても、鈍い痛みが消えなかった。奏士は床に崩れ落ち、そのまま突っ伏した。床の冷たさが、服越しに骨まで染み込んでいった。そのとき初めて、
花束を抱え、保温ポットを提げて、外科病棟のエレベーターに乗った。いつもの病室の前まで来ると、表情を整えてから扉を開けた。室内には誰もいなかった。ベッドはきれいに整えられていた。奏士は入口に立ったまま、動けなくなった。通りかかった看護師が、毎日のように食事を届けに来る夫の顔を覚えていて、声をかけた。「朝倉さんのお見舞いですか?昨日、退院されましたよ」「退院?」奏士が眉を寄せた。「いつですか?」「昨日の午後です。背の高い男性がお迎えに来ていました」背が高かったと聞き、奏士は遼一のことだろうと思った。「行き先は何か聞いていませんか?」看護師は首を横に振った。「特には。ただ、退院手続きも精算もすべて済んでいます。ご主人はご存じなかったんですか?」「ええ、知っています。今日迎えに来るつもりだったので、思ったより早かったなと」無理に笑って取り繕うと、看護師は軽く会釈して去っていった。奏士は空の病室の前に立ち尽くした。腕の中にはユリの花束があり、重い保温ポットの持ち手が指に食い込んでいた。まだ怒っているのか。これだけ下手に出ているのに。いら立ちが胸に湧いた。小さくため息をついた。まあいい。自分で帰ったなら、迎えに来る手間が省けた。美桜を迎えに行くついでに茉由の見舞いにも顔を出すのは面倒だと思っていたから、かえって都合がよかった。奏士はそのまま産婦人科病棟へ向かった。病院を出る頃には、外はもう暗くなりかけていた。その日は茉由がいつになく甘えて、奏士を帰そうとしなかった。車でかなり時間のかかる店のスープカレーが食べたいと言い張ったのだ。遠いから明日にしようとなだめても、茉由はすぐに涙を流した。妊娠してから感情の波が激しくなり、一度泣き始めるとなかなか止まらない。体に障ってはいけないと思い、奏士は仕方なく車を走らせた。けれど、買って戻る頃には少し冷めていた。茉由は一口食べ、顔をしかめた。「冷めたらおいしくない」「温め直そうか?」「もういい。食べたくなくなった」器を押しやり、スマホで動画を眺め始めた。奏士のことなど、もう見ようともしなかった。奏士はベッド脇に座り、彼女の横顔を眺めた。日に日にわがままになる茉由に比べ、美桜は穏やかだった。
兄の朝倉遼一(あさくら りょういち)が病院へ迎えに来たとき、外では冷たい雨が降っていた。ロビーで待っていた私を見つけると、兄は足早に近づき、黙って荷物を受け取った。兄は痛ましそうに、しばらく私の顔を見つめていた。それでも兄が口にしたのは、一言だけだった。「行こう。車は外だ」車内には暖房がきいていた。助手席には兄の上着と、きれいに畳まれたブランケットが置いてあった。「羽織っておけ。風邪をひくぞ」差し出された上着を、私は素直に受け取った。大きな上着を羽織り、膝にはブランケットをかけた。暖房もよく効いていた。それでも、体の芯は冷えたままだった。「お兄ちゃん、1年前の事故……わざとだったの。私に子供を産ませたくなくて、奏士が故意に起こした」声は小さかった。けれど兄には、はっきり聞こえたはずだ。ハンドルを握る指の関節が、白く浮き上がった。私は一つずつ、起きたことを話していった。痛みが限界を超えると、自分の身に起きたことさえ、他人事のように話せるらしい。残酷な事実を一つずつ口にするうちに、まるで誰か別の人の話をしているような感覚に陥っていた。ハンドルを握る兄の手が震えていた。兄は脇道へ入り、静かな場所に車を止めた。「あいつは自分の子を奪ったうえに、愛人には、お前はもう子供を産めないとまで言った。お前を突き飛ばして腰のけがを悪化させ、その足で妊娠中の愛人を追いかけた。愛人の食べ残しをお前に食べさせて、それでも少し謝れば許すと笑ってたんだな」怒りで声が震えていた。「美桜、お前は扱いやすいんじゃない。優しいんだ。あいつは、その優しさにつけ込んだだけだ。お前は何も悪くない」その言葉を聞いた途端、張りつめていた糸が切れた。涙がこぼれた。「必ず、償わせる」兄は私を見て、黙ってうなずいた。「分かった。美桜がどう決めても、俺は味方だ」「少し遠くへ行きたい。今はまだ、家には戻りたくない」「どこへ行きたい?」「分からない。できるだけ遠いところ」兄は少し考えてから言った。「ニュージーランドで牧場をやっている友人がいる。しばらくそこに滞在したらどうだ。誰にも邪魔されずに済む」「うん」「いつ発つ?」「できるだけ早く」スマホを開き、藤代弁護士とのトーク画面に文字を打ち
店員が救急車を呼んでくれた。担架で運び出される途中、奏士からメッセージが届いた。【茉由が腹痛と出血で入院した。子供に何かあったら、お前を許さない】私の容体を尋ねる言葉は、一つもなかった。目を閉じた。心が冷え切ってしまうと、かえって頭は冴えてくるらしい。私は弁護士に連絡し、離婚協議書をできるだけ早く作ってほしいと頼んだ。病院のベッドに横たわった私の腰には湿布が貼られ、手の甲には点滴の針が刺さっていた。レストランから救急車で運ばれて以来、涙は一滴も出ていなかった。もう期待していない相手のために、流す涙などなかった。病室の扉が少し開いた。看護師だと思って顔を上げずにいると、ためらいがちな声で名前を呼ばれた。「美桜」顔を上げた。奏士が片手に保温ポット、もう片方に花束を持って立っていた。「昨日は軽く押しただけのつもりだった。こんな大けがになるなんて思わなかったんだ」心配しているような口調だった。「仕事に戻って。私は平気だから」「そんな言い方するなよ……本当に悪かった。美桜がいないと駄目なんだ。今回だけ、許してくれないか」目を赤くした奏士を見ても、心は動かなかった。不倫に、一度きりなどない。一度しか見つかっていないだけだ。「平気だと言ったでしょう。もう帰って」私は寝返りを打ち、彼に背を向けた。「ご飯、食べてくれよ。明日また来る」それから1週間、奏士は完璧な夫を演じた。毎日、仕事が終わるとまっすぐ病院へ来た。持ってくる食事も、鮭のおにぎりとだし巻き卵、やわらかく煮た鶏肉と温野菜、豆腐を添えた炊き込みご飯など、日替わりで変わった。こんなことを続ければ、いずれ私が許すと思っているのだろう。翌日に退院が決まると、奏士はほっとした様子で言った。「美桜なら分かってくれると思ってた。家に帰ったら、好きなものを作るよ」そこへ、看護師が処置用のトレーを持って入ってきた。点滴を確認しながら、何げない調子で話しかけてきた。「ご主人、毎日よくいらっしゃいますね。いつもこちらに来る前に産科病棟にも食事を届けているようですけど、ご親族の方も入院されているんですか?」シーツをつかむ指に、無意識に力が入った。「ええ、向こうに親戚がいるんです。何号室ですか?あとで私も顔を出