詩奈が神谷邸へ転がり込んで3日目、手首を切った。傷はごく浅く、血もほとんど出ていなかった。それでも、いつも冷静な蒼士は我を失った。数十億円規模の国際契約を決める会議を取りやめ、ろくに眠りもせず、詩奈のベッドのそばにつききりになった。詩奈の誕生日には、都心の大型ビジョンを何面も借り切った。映し出されたのは、たった一言。【詩奈、これからもずっと笑っていて】親友は怒りに震え、そんな扱いに耐えてまで蒼士の妻でいることはないと私に言った。私は何も答えられなかった。それでも、どうしても納得できなかった。共に過ごした日々に、わずかでも本当の愛情があったと信じたかった。涙をこらえて問いただすと、蒼士は昔と変わらない優しい声で私をなだめ、髪を撫でた。「千夏なら分かってくれるだろ。詩奈はもう、何もかも失ったんだ」人工心臓のあたりが、きつく締めつけられるように痛んだ。苦笑しか返せなかった。藤原家を失ったのは、蒼士が藤原グループを潰したからではないか。どうして、その埋め合わせを私がしなければならないのだろう。「でも、詩奈はあなたを愛してない。あなたはあの人の家庭を壊したんだよ。恨まれていてもおかしくない」蒼士は一瞬黙り込み、かすれた声で答えた。「詩奈に特別な感情なんてない。お前の家族だから、放っておけないだけだ」大型ビジョンを借り切り、一晩中ベッドのそばにいた人が、よくそんなことを言える。二人の関係は、もうとっくに一線を越えていた。思わず乾いた笑いが漏れた。「蒼士、詩奈は私の家族なんかじゃない。あの人は家政婦の娘だよ。私の人生を20年も奪って、私の両親の愛情まで独り占めした相手なの」蒼士の表情が険しくなった。「千夏、いつからそんなに嫉妬深くなった?詩奈だって何も知らなかった被害者だ。お前を守ると約束した。破る気はない。お前はれっきとした俺の妻だ。それ以上、何が欲しいんだ。詩奈は命を絶とうとするほど追い詰められている。こんなときまで張り合うのか?」あまりにも馬鹿げていて、笑いそうになった。詩奈のどこが被害者なのだろう。裕福な家で育ち、何不自由なく暮らしてきた。それでも飽き足らず、今度は私のそばにいる人まで奪おうとしている。喉の奥にこみ上げる苦いものをのみ込み、蒼士を見上げた。
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