INICIAR SESIÓN私は、誰からも愛されなかった久我家の実の娘、上原千夏(うえはら ちなつ)だ。 上原家に引き取られた頃には、私の代わりに令嬢として育てられた上原詩奈(うえはら しいな)は、誰もが認める申し分のない娘になっていた。一方の私は、礼儀も作法も知らない田舎者にすぎなかった。 詩奈は盛大な結婚式を挙げ、名家の藤原家へ嫁いだ。 私は厄介払い同然に、神谷家で日陰者扱いされていた愛人の子、神谷蒼士(かみや そうし)に嫁がされた。 誰もが私を疎んでいた。蒼士も同じだと思っていた。 けれど彼だけは、笑ってこう言ってくれた。 「千夏、これまでの人生は選べなかった。でも、これからは俺がずっと守る」 この人だけは違う。そう信じていた。 やがて蒼士は一族の主導権争いに勝ち、神谷ホールディングスの実権を握った。 彼が真っ先にしたのは、藤原グループを破綻へ追い込み、詩奈を自宅へ迎え入れることだった。 そのとき、ようやく分かった。 蒼士もほかの人たちと同じだった。 蒼士が愛していたのも、やはり私ではなく詩奈だった。
Ver más私は控室を出た。蒼士を振り返ることはなかった。会場の正面玄関を出たところで、薄汚れた服に乱れた髪の女が、植え込みから飛び出してきた。「千夏!あんたが私をこんな目に遭わせた!殺してやる!」詩奈だった。この3年、神谷邸で徹底的に無視され続け、最後には蒼士から追い出された。その後、訴訟と借金で財産を差し押さえられ、今では正気まで失っていた。私が手を出すまでもない。そばにいたボディガードがすぐに詩奈を取り押さえた。地面でもがきながら、詩奈は醜く顔を歪めて私を睨みつけた。「どうしてあんたが、そんな偉そうに立っていられるのよ!上原家の令嬢として育てられたのは私よ!実の親からさえ要らないと言われた田舎者のくせに!どうして蒼士を奪って、こんな場所に立てるのよ!」その姿を見ていると、怒りより先に虚しさがこみ上げた。「詩奈、かわいそうな人」私はしゃがみ込み、憎しみに濁った目をまっすぐに見た。「あなたは一生、誰かのものを奪わなければ、自分の価値を確かめられなかった。私の両親も、婚約者も奪って、勝ったつもりになってた。でも結局、あなたは誰かにすがり、その人を食い尽くさなければ生きられない。何も変わってない。私は泥の底へ突き落とされ、全員に捨てられても、自分の力で這い上がった。だから今、ここにいる」詩奈は言葉を失った。水たまりに映った、見る影もない自分の姿に目を落とし、全身を震わせた。「私は壊れた心臓を摘出し、新しい心臓で生き直した。蒼士だって、同じように私の人生から切り捨てられる。あなたは、私が捨てたものにしがみついたまま、そこで朽ちていけばいい」それだけ言って立ち上がった。「あなたを壊したのは私じゃない。欲を抑えられなかった、あなた自身よ」ボディガードに合図し、叫び続ける詩奈を警察へ引き渡した。その後、詩奈は精神科の診察を受け、措置入院になったと聞いた。その夜、東都には珍しいほど激しい雨が降った。蒼士は私が滞在するホテルの前で、一晩中雨に打たれていた。胸に、一冊の分厚いファイルを抱えていた。蒼士が保有する神谷ホールディングスの全株式と、不動産、投資資産。そのすべてを私へ譲るための書類だった。総額は2兆円を超える。持っているものをすべて差し出してでも、私をもう一度振り向かせたかっ
3年後。東都最大の国際コンベンションセンターで、国際心臓血管医学シンポジウムが開かれていた。神谷ホールディングスは、このシンポジウムの最大スポンサーだった。蒼士は最前列の関係者席に座っていた。この3年、蒼士は仕事だけを続ける、抜け殻のような男になっていた。仕事では冷酷な手腕を振るい、私生活では何一つ楽しみを求めなかった。毎年2000億円もの資金を、人工心臓の研究へ投じている。世間は社会貢献に熱心な経営者だと称賛した。けれど本人だけは知っていた。二度と戻らない人に、金で償おうとしているだけだった。ステージでは、司会者がこの日の目玉となる講演者を紹介していた。「続いて、新型バイオ人工心臓プロジェクトの研究協力者であり、世界で初めてこの臨床試験に成功した方をご紹介します。上原さんです!」会場が大きな拍手に包まれた。蒼士は上の空で水のグラスを取り、何気なくステージへ目を向けた。スポットライトが落ちる。白いオーダースーツをまとった女性が、まっすぐ前を見て舞台袖から歩み出た。緩く巻いた長い髪。鮮やかな口紅。その堂々とした足取りには、自信がにじんでいた。彼女は微笑んでマイクを受け取り、会場を見渡した。澄んだ声が、広いホールに響く。「皆さん、こんにちは。上原千夏です」グラスが蒼士の手から落ち、乾いた音を立てて割れた。彼は、光の中に立つ女性を凝視した。息をすることすら忘れていた。千夏だ。間違いなく、千夏だった。……3年前の事故で、誰もが私を死んだと思った。蒼士は知らなかった。海外の医療チームが、私の乗った車をすぐ後ろから追っていたことを。車が炎に包まれる寸前、彼らは意識を失った私を救い出し、待機していた医療搬送機へ運び込んだ。事故現場に残った損傷の激しい遺体は私ではなく、焼けた人工心臓も交換を予定していた古い機器だった。研究機関は私の意思を尊重し、機密扱いだった臨床試験への移送記録を伏せた。私は、その事故を境に過去のすべてを捨てたかった。海外で過ごした3年間、成功率10パーセントの手術を乗り越え、何度となく起きた合併症にも耐えた。生き延びただけではない。患者の立場から研究へ協力し、今ではプロジェクトの患者アドバイザーを務めている。頬には血色が戻り
蒼士はすべての仕事を放り出した。会社へ行かず、誰にも会おうとしなかった。ある真夜中、雨の中をさまよい、敷地外の大型ゴミ置き場を狂ったようにあさった。異臭のするゴミの山から、千夏が捨てた割れたペアマグを見つけ出した。それを部屋へ持ち帰り、冷たい床に座り込むと、破片を接着剤で一つずつつなぎ合わせた。破片が指に深く食い込み、血と涙が混じってマグへ落ちた。蒼士はひどい不眠症になった。目を閉じると、振り返りもせず去っていく千夏の背中が浮かんだ。詩奈はまだ邸宅にいたが、苛立ちと不安を募らせていた。使用人たちは蒼士の態度が変わったことに気づき、もう詩奈を特別扱いしなかった。呼びつけられても後回しにし、最低限のことしかしなくなった。息が詰まるような冷遇に耐えられなくなった詩奈は、2階の階段でわざと転んだ。けがをすれば、蒼士が一度くらい様子を見に来ると思ったのだ。やがて蒼士が部屋から出てきた。階段の下に倒れた詩奈を見下ろす目には、何の感情もなかった。執事に冷たく言いつけた。「転びたいなら、好きなだけそこに寝かせておけ。死にたいと言っても止めるな。千夏を死なせたくせに、自分だけ生きたいなんて虫がよすぎる」そう言いながらも、一番悪いのは自分だと、蒼士には分かっていた。詩奈を甘やかし続けなければ、ここまでひどいことにはならなかった。背を向けて部屋へ戻る蒼士を見て、詩奈はとうとう声を上げて泣き崩れた。千夏が死んだ瞬間、自分は徹底的に負けたのだと、ようやく気づいた。詩奈はかつて、蒼士にとって手の届かない初恋の相手だった。蒼士の未練につけ込み、藤原家が彼に潰されても、怒るどころか心の中では喜んでいた。そもそも藤原家へ嫁いだのも、財産が目当てだった。今や蒼士は絶大な権力を手にしている。かつて蒼士の価値を見抜けず、結果として千夏のものにしてしまったことが悔しくてたまらなかった。だから、取り戻して当然だと思った。神谷邸へ来てからは、自分の勝ちは決まったも同然だと信じていた。他人の居場所を奪うのは、子どもの頃から得意だった。上原家でも、涙を数滴こぼすだけで、養父母は千夏に冷たく当たった。今回も同じだと思っていた。かわいそうなふりを続ければ、蒼士はやがて千夏を捨てるはずだった。だが千
雨は一晩中降り続いた。翌朝、蒼士は全身を泥で汚し、包帯から血をにじませたまま、事故現場から回収された遺品の箱を抱えて邸宅へ戻った。詩奈は、何が起きたのかまだ知らなかった。薄いシルクのナイトウェア姿で駆け寄り、絆創膏を貼った指をわざと見せながら不満げに訴えた。「蒼士、どこへ行ってたの?一人で怖かった……」蒼士は足を止めた。かすり傷しかない指を見つめ、それから腕の中の箱へ目を落とした。蒼士の表情が一変した。「怖かった?」突然、詩奈の首をつかみ、壁へ激しく押しつけた。詩奈は恐怖に目を見開き、必死にその腕を叩いた。顔色が見る間に紫色へ変わっていく。「その程度の傷で医者を呼び戻したせいで、千夏は死んだ!お前が殺したんだ!」蒼士の目は血走り、手の甲には筋が浮き上がっていた。本気で、この女の首を折ってやりたいと思った。千夏のあとを追わせたかった。けれど詩奈が意識を失いかけた瞬間、蒼士は自嘲するように笑い、手から力を抜いた。詩奈を殺して、何になる。それで千夏が生き返るのか。何より、千夏を追い詰めた張本人は自分だ。蒼士が手を放すと、詩奈は床へ崩れ落ちた。首を押さえ、激しくせき込みながらえずいた。蒼士はそれきり、詩奈を見ようともしなかった。やがて憎しみさえ消え、蒼士の目は空っぽになった。無言で詩奈の横を通り過ぎ、千夏が最後に使ったゲストルームへ入ると、内側から鍵をかけた。詩奈はその場で動けなくなった。もう自分の思いどおりにはならない。詩奈は本能的にそう悟った。翌日、秘書が青ざめた顔で詩奈の本当の診療記録を持ってきた。詩奈にうつ病の診断歴はなく、動悸の所見もない。毎日薬だと言って飲んでいたものも、ただのサプリメントだった。秘書は、蒼士が激怒して詩奈を追い出すものと思っていた。蒼士は、荒れ果てた部屋に座り込み、証拠を眺めながら乾いた笑いを漏らしただけだった。世界で一番愚かなのは自分だ。嘘ばかりの詩奈に、いいように操られた。そのせいで、あれほど自分を愛してくれた千夏を傷つけ続けた。蒼士は床に座り込んだまま、震える手で遺品の箱を開けた。中には、黒く焼けて変形した人工心臓の一部が収められていた。指先でそっと触れた途端、涙がぽたりと落ちた。本来、千夏の心臓
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