「もうすぐ産まれるのに、それでも競輪へ行くつもりなの?」 少しかすれた女の声が耳に刺さった。 神谷正人は、はっと顔を上げた。 さっきまで自分は、創業五十周年記念式典の控室にいたはずだった。七十四歳。連結売上高八千億円、従業員三万人、全国千四百店舗、十八の食品工場を抱える「ひかりグループ」の創業会長として、秘書の森下由佳から渡された経営速報を眺めていた。 それなのに。 「……ここは」 目の前にあるのはタブレットではない。 古びた卓袱台。赤鉛筆。吸い殻の残った灰皿。競輪専門紙。 首を振る古い扇風機から、ぬるい風が流れてくる。畳は日焼けし、壁には小さな染みがあった。窓の外から聞こえてくるのは車の走行音と、遠くで鳴く蝉の声だった。 そして、自分の右手には封筒が握られている。 中には一万円札が三枚。 三万円。 正人の指が震えた。 「正人さん。聞いてるんですか?」 振り返った瞬間、息が止まった。 神谷千鶴がいた。 二十三歳。 長い黒髪を後ろでまとめ、大きく膨らんだ腹を庇うように片手を添えている。頬は少し痩せ、目の下には疲れが滲んでいた。 それでも、生きていた。 「……千鶴」 「何ですか」 五十年間、夢の中でしか呼べなかった名前だった。 正人は思わず一歩近づきかけ、止まった。 千鶴がわずかに身体を強張らせたからだ。 当然だった。 二十四歳の神谷正人は、どうしようもない男だった。 愛知県小牧市の運送会社で荷役をしていた。朝から重い荷物を持ち、汗まみれになって働けば、若い夫婦が慎ましく暮らしていく程度の給料は得られた。 それなのに給料日になれば酒を飲んだ。 先輩に誘われれば競輪場へ行った。 最初は千円だった。 当たれば、自分には見る目があると思った。 外れれば、次で取り返せると思った。 三千円負ければ五千円。五千円負ければ一万円。選手の脚質、直前の成績、風向き、並び。負けるたびに理由を探しては、自分の判断そのものが間違っていたとは認めなかった。 負けを認められない人間ほど、賭け金を増やす。 そして今日。 千鶴が出産に備えて、少しずつ貯めていた三万円まで持ち出そうとしていた。 「それは、産まれる時のためのお金です」 千鶴の声が震える。 「病院のお
Last Updated : 2026-10-05 Read more