朝六時。 塩入深雪は、目覚まし時計が鳴る三秒前に目を覚ました。「……あと五分」 そう呟いて、布団に顔を埋める。 そして五分後。「──って、無理! 遅刻する!」 飛び起きた。 寝癖を手ぐしで直し、顔を洗って、トーストをくわえながら鞄を掴む。 今日も、いつも通りの朝だった。 大学の奨学金返済。 実家への仕送り。 家賃と生活費。 二十三歳の深雪にとって、「余裕」という言葉は辞書の中にしか存在しない。 昼はカフェ「Cafe Luce」。 夜は居酒屋。 二つのアルバイトを掛け持ちして、空いた時間に文章を書く。 それが、深雪の日常だった。「深雪ちゃん、おはよう」「おはようございます!」 カフェに駆け込むと、先に来ていた店長が笑った。「今日もギリギリね」「すみません!」「でも間に合ってるから偉い」「それ、褒めてます?」「半分くらい」 笑いながらエプロンを身につける。 忙しい。 疲れる。 眠い。 それでも、この仕事が嫌いなわけではなかった。 注文を受けて、料理を運んで、お客さんに「ありがとう」と言ってもらう。 そういう小さなやり取りが、深雪は好きだった。 そして、もう一つ。 深雪には誰にも話していない「好きなこと」がある。 文章を書くこと。 スマートフォンを開けば、そこには別の名前のアカウントがある。 ペンネーム──「ひなたのねこ」。 日常の小さな出来事。 電車の中で見かけた親子。 雨の日に傘を貸してくれた見知らぬ人。 コンビニ店員の何気ない一言。 そんな些細な出来事を、深雪は文章にしていた。 最初は完全な趣味だった。 けれど、ある日。 投稿したエッセイがコンテストで入賞した。 それをきっかけに、女性向けファッション誌から声がかかり、現在は月一回のコラムまで担当している。 けれど。 深雪は、そのことを周囲にはほとんど話していない。 別に隠したいわけではない。 ただ──。「文章で食べていけるわけでもないし」 そう思っていた。 だから、昼はカフェ。 夜は居酒屋。 文章は、その合間。 それで十分だと思っていた。 その日の夜。 居酒屋の仕事を終え、深雪は午前一時過ぎに帰宅した。「つかれた……」 ベッドに倒れ込む。 スマートフォンを見ると、編集部から
Last Updated : 2026-10-20 Read more