LOGIN奨学金返済と仕送りのためバイトを掛け持ちする塩入深雪は、「ひなたのねこ」の名で活動するエッセイストという秘密を持つ。そこへ謎の男「T」から月100万円の愛人契約の申し出が届く。断る深雪だが、Tは彼女の文章も日常も知り尽くしていた。やがて常連客「和光」と若き社長・佐倉大晴が現れ、三人の正体がつながっていく。お金で価値を決められることを拒み、自分の力で人生を切り拓く痛快逆転ラブコメディ。
View More朝六時。
「……どうしよう」 佐倉大晴は、パソコンの画面を見つめたまま固まっていた。 画面には、一通のメール。 深雪からの返信だった。 『あなたが「ひなたのねこ」だと知っていることは、どうか忘れないでください』 昨夜、自分が送ったメールに対する返信ではない。 それでも、深雪の文章を何度も読み返してしまう。 「……怒ってるよな」 当然だった。 いきなり月100万円の愛人契約を持ちかけたのだから。 普通なら警戒する。 いや。 普通なら警察に相談するかもしれない。 「……やっぱり失敗だったか」 佐倉は額を押さえた。 仕事なら、失敗の原因を分析して次の手を考えられる。 経営判断。 市場調査。 投資。 交渉。 どれも得意だ。 だが。 「女性との距離の縮め方だけは、どうしても分からない……」 机の上には、一冊の雑誌が置かれている。 そこには深雪のコラムが掲載されてい
翌日の午後。 深雪は、Cafe Luceのカウンターで一人、スマートフォンを睨んでいた。「……Tって、誰なんだろう」 昨日から、そればかり考えている。 メールの内容からすると、Tは深雪の文章をかなり前から読んでいる。 しかも、ただ読んでいるだけではない。 深雪自身のことまで、ある程度知っているようだった。「怖いな……」 けれど、気になる。 深雪は検索画面を開いた。 ペンネーム「ひなたのねこ」。 自分自身について検索するのは、少し恥ずかしい。 けれど、Tを探す手がかりがあるかもしれない。 検索結果を眺める。 自分のコラム。 過去のエッセイ。 読者の感想。 そして──。「あ」 一つの記事が目に留まった。『今注目の若手エッセイスト・ひなたのねこ』 掲載されたのは数か月前。 そこには、連載している雑誌名も、簡単なプロフィールも載っている。「……これだけなら、誰でも読めるよね」 Tが特別な人物だとは限らない。 そう考え直したところで。「深雪」 背後から声がした。「わっ!」 スマートフォンを慌てて伏せる。「何してんの?」 そこにいたのは、居酒屋のバイト仲間、立花薫だった。「な、何でもない」「怪しい」「本当に何でもないって」「ふーん」 薫は深雪の隣に座った。 いつも通り、華やかなメイク。 流行の服。 SNSで見れば、きっと毎日楽しそうに見える。「ねえ」 薫が突然言った。「深雪ってさ、金持ちの男に愛人にならないかって言われたら、どうする?」「……え?」 深雪は固まった。「なんで?」「いや、昨日SNSでそういう話が流れてきたから」「……」 偶然。 たぶん偶然。 深雪は自分に言い聞かせた。「私は断るかな」「即答?」「うん」「もったいな」 薫は笑った。「月100万円とかなら?」「……」「生活全部面倒見てくれるとか」「それでも嫌」「なんで?」 深雪は少し考えた。「……自分が、自分じゃなくなる気がするから」 薫が黙った。「お金をもらうことが嫌なんじゃない。でも、その人に選ばれたことが、自分の価値みたいになるのは嫌かな」「……ふーん」 薫はそれ以上何も言わなかった。 ただ、どこか納得していない顔をしていた。「まあ、私なら一回話くらい聞く
翌朝。 深雪は、眠い目をこすりながらスマートフォンを見つめていた。 昨夜のメール。 月100万円の愛人契約。 何度読み返しても、書いてあることは変わらない。「……夢じゃなかった」 ため息をつく。 午前一時まで働いたあとに、こんなメールを受け取るなんて。 しかも相手は、自分の文章を読んでいるという。「どういう人なんだろう……」 深雪はメールをもう一度開いた。 差出人は「T」。 本名も、年齢も、職業も分からない。 ただ、メールには一つだけ具体的な条件が書かれていた。『月額100万円をお支払いします』「……100万円」 思わず口に出す。 100万円。 それだけあれば、奨学金の返済もかなり楽になる。 実家への仕送りだって増やせる。 今月、シフトを一日減らしてもいい。 毎日終電近くまで働く必要もなくなる。 ──でも。「だからって、愛人は無理でしょ」 深雪は首を横に振った。 お金が欲しくないわけではない。 むしろ、欲しい。 ものすごく欲しい。 けれど、お金と引き換えに誰かとの関係を買うことには抵抗があった。 それに。「私、そんなに器用じゃないし」 愛人なんて、できるわけがない。 相手の機嫌を取って、恋人のふりをして、秘密の関係を続ける。 想像しただけで胃が痛くなった。 深雪は返信画面を開く。『申し訳ありませんが、お断りします』 入力して。 送信。「よし」 これで終わり。 そう思った。 ところが。 五分後。 スマートフォンが震えた。『承知しました』「……早っ」 返信が早すぎる。 深雪は警戒しながら続きを読む。『ですが、理由を教えていただけませんか?』「理由?」 そんなもの決まっている。 愛人になりたくないから。 深雪は少し考えてから返信した。『お金で人間関係を作るのが嫌だからです』 送信。 すると、今度は三分ほどで返ってきた。『あなたらしい回答ですね』「……は?」 深雪の眉が寄る。『どういう意味ですか?』 返信。 しばらく待っても、今度は返事が来なかった。「……何なの?」 気味が悪い。 けれど、同時に引っかかる。 ──あなたらしい。 まるで、以前から自分を知っているような言い方だった。 その日の昼。 深雪はいつものようにCafe Luceで働
朝六時。 塩入深雪は、目覚まし時計が鳴る三秒前に目を覚ました。「……あと五分」 そう呟いて、布団に顔を埋める。 そして五分後。「──って、無理! 遅刻する!」 飛び起きた。 寝癖を手ぐしで直し、顔を洗って、トーストをくわえながら鞄を掴む。 今日も、いつも通りの朝だった。 大学の奨学金返済。 実家への仕送り。 家賃と生活費。 二十三歳の深雪にとって、「余裕」という言葉は辞書の中にしか存在しない。 昼はカフェ「Cafe Luce」。 夜は居酒屋。 二つのアルバイトを掛け持ちして、空いた時間に文章を書く。 それが、深雪の日常だった。「深雪ちゃん、おはよう」「おはようございます!」 カフェに駆け込むと、先に来ていた店長が笑った。「今日もギリギリね」「すみません!」「でも間に合ってるから偉い」「それ、褒めてます?」「半分くらい」 笑いながらエプロンを身につける。 忙しい。 疲れる。 眠い。 それでも、この仕事が嫌いなわけではなかった。 注文を受けて、料理を運んで、お客さんに「ありがとう」と言ってもらう。 そういう小さなやり取りが、深雪は好きだった。 そして、もう一つ。 深雪には誰にも話していない「好きなこと」がある。 文章を書くこと。 スマートフォンを開けば、そこには別の名前のアカウントがある。 ペンネーム──「ひなたのねこ」。 日常の小さな出来事。 電車の中で見かけた親子。 雨の日に傘を貸してくれた見知らぬ人。 コンビニ店員の何気ない一言。 そんな些細な出来事を、深雪は文章にしていた。 最初は完全な趣味だった。 けれど、ある日。 投稿したエッセイがコンテストで入賞した。 それをきっかけに、女性向けファッション誌から声がかかり、現在は月一回のコラムまで担当している。 けれど。 深雪は、そのことを周囲にはほとんど話していない。 別に隠したいわけではない。 ただ──。「文章で食べていけるわけでもないし」 そう思っていた。 だから、昼はカフェ。 夜は居酒屋。 文章は、その合間。 それで十分だと思っていた。 その日の夜。 居酒屋の仕事を終え、深雪は午前一時過ぎに帰宅した。「つかれた……」 ベッドに倒れ込む。 スマートフォンを見ると、編集部から