4人で囲んだ食卓に、私の席だけがなかった のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

10 チャプター

第1話

私たち4人は、同じ施設で育った。成人してからは一緒に家を借り、先に帰宅した人が夕食を作った。誰かが病気になれば、残りの3人が交代で夜通し看病した。航は、ここがこれからの私たちの家になると言ってくれた。引っ越してきた日、毎週日曜日は全員で夕食をとり、誰かが遅くなっても必ず待つと約束した。去年、序のいとこの小春が、それまで世話になっていた親戚の家を追い出され、一時的に空き部屋に居候することになった。小春が初めて残業で夜9時まで帰ってこなかったとき、航は食事を始めようとしなかった。「来たばかりなんだから、帰ってきたときに俺たちが食べ終わってたら可哀想だろ」2回目は小春のスマホの充電が切れて連絡が取れず、帰宅したのは夜11時だった。私たち4人は空腹をお菓子で紛らわせながら、鍋をずっと温めて待っていた。小春は目を潤ませ、帰宅したときに誰かが待っていてくれたことなんて、今まで一度もなかったと言った。ある日曜日、私は学童保育施設で当番をしていた。熱を出した子の保護者から迎えが遅れると連絡があり、私は最後まで付き添うことにした。グループラインには、【少し遅れるけど、9時40分までには帰る】と二度伝えておいた。夜9時38分、私は家のドアを開けた。食卓はすでに片付けられ、シンクには4人分の食器が重ねられていた。小春は申し訳なさそうに言った。「お腹が空きすぎて胃が痛くなっちゃって。航くんが先に食べようって言ってくれたの。怒ってないよね?」航は私の手からバッグを受け取った。「冷蔵庫に卵があるから、うどんでも作ろうか?」「いらない」と私は答えた。すると序が横から口を挟んだ。「寧々は前から帰りが遅いとき、自分でご飯を作ってただろ? だから慣れてると思ってさ」確かに、私は慣れていた。でも先月、小春の帰りが遅くなったときは、大好物のエビをちゃんと取っておいてあげたのに。翌日、大家さんが契約更新について確認しに来た。私は「私は退去します。ほかの人たちがどうするかは、本人たちに確認してください」と伝えた。大家さんが帰ったあと、みんなはダイニングテーブルをもっと大きなものに買い替えようと相談しながら、置き場所の寸法を測り始めた。小春はメジャーをあちこちに当てながら、嬉しそうに言った。「幅180センチの
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第2話

翌日、仕事から帰ると、私の部屋の前に段ボール箱が2つ積まれていた。中には私の私物ばかりが詰め込まれていた。指導案のノート数冊にデスクライト、それから去年航にもらったクマのぬいぐるみ。ぬいぐるみは片耳が箱から飛び出し、埃をかぶっていた。私は部屋の前で、しばらくその光景を見つめていた。すると、栞がキッチンから顔を出した。「寧々、やっと帰ってきた!小春ちゃんの荷物を片付けてたんだけど、収納が足りなくなっちゃってさ。とりあえず寧々の物を出しておいたよ」小春が慌てて駆け寄ってきた。「寧々さん、私は動かさないでって言ったんです。でも航くんが、寧々さんは物が少ないから自分の部屋に置けばいいって……」皿を手にした航が出てきて、眉をひそめた。「勝手に動かしたみたいに言うなよ。みんなで住んでるんだから、スペースは必要な人が優先して使うのが当たり前だろ」私は聞き返した。「じゃあ、なんで自分のスニーカーは片付けないの?」玄関の靴棚は、2段まるまる航の靴で埋まっていた。買ったきり、一度も履いていない靴も多い。そう聞かれた航は、言葉に詰まった。ソファに座っていた序が、私をなだめるように口を挟んだ。「寧々の物は小さいし、片付けやすいだろ? 小春の画板は上に物を重ねると傷むから、ほかに置く場所がないんだよ。なんでもそんなにきっちり分けなくていいだろ。家族みたいなもんなんだからさ」私は腰をかがめ、段ボール箱を抱え上げた。「そうね。家族だもんね」あまりにも平然としている私を見て、航はかえって戸惑っているようだった。航は私の部屋までついてきて、ドア枠にもたれながら片付ける様子を眺めていた。「本当に怒ってないのか?」「怒ってないよ」「ならいいけど」航が私の頭を撫でようと手を伸ばしてきたので、私は身をかわした。伸ばされた手が宙で止まった。「寧々、お前最近どうしたんだよ?」私はクマのぬいぐるみを収納棚の一番下に押し込んだ。「別に。疲れてるだけ」航が何か言いかけたそのとき、部屋の外から小春の声が聞こえてきた。「航くん、私の胃薬どこでしたっけ?」航はすぐに振り返った。「また胃の調子が悪いのか?」航が出ていくと、ドアがパタンと閉まった。ドア越しに、航が序に白湯を用意させ
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第3話

水曜日の夜、大家さんが契約更新の書類を持ってやってきた。大家さんは航に契約更新の書類を渡すと、ほかの住人にも同居人の確認書類を配り、記入するよう促した。小春は書類を受け取ろうとしなかった。「あの、私は居候ですし、名前は書かなくてもいいですよね?」航は小春の前に書類を差し出した。「居候だなんて何言ってるんだ?もう長いこと住んでるし、家族みたいなものだろ」大家さんは手元の書類を確認した。「そういえば、高瀬さんは退去されるんですよね?予定どおりでよろしいですか?」食卓の周りが、一瞬で静まり返った。航が私を見た。「退去って、どういうことだ?」私は航の前に置かれた契約更新の書類に目を向けた。「言葉どおりの意味だよ」「どこに引っ越すつもりなんだ?」「会社の寮だよ」航は私をじっと見つめた。ここ数日、私が荷物を片付けていた理由をようやく理解したようだった。しかし、次の瞬間には表情を険しくした。「日曜日にお前を待たずに飯を食べたからか?寧々、たったそれだけのことで、ここまでするのかよ?」序もこちらを見た。「言いたいことがあるなら普通に言えよ。引っ越しを盾に脅す気か?」栞がため息をついた。「寧々、最近ちょっと神経質になりすぎじゃない?一緒に暮らしてれば、誰だって嫌な思いくらいするよ。小春ちゃんだって、親戚の家を追い出されて大変だったんだから、少しは気遣ってあげないと」私は栞に尋ねた。「じゃあ、いつまで気遣えばいいの?」栞は答えられなかった。小春が目を赤くして立ち上がった。「全部、私のせいですよね?私、今すぐ出ていきます。だから寧々さんは出ていかないでください」小春がスーツケースを引き寄せようとすると、序がその手を押さえた。「お前のせいじゃない」航も小春の前に立ちはだかった。「出ていくべきなのは、お前じゃない」その言葉に、その場にいた全員が一瞬固まった。航も言いすぎたと思ったのか、こちらを向いて弁解しようとした。けれど、私は思わず笑ってしまった。「そうだね。出ていくのは私だよ」私はペンを取り、退去確認書に名前を書いた。航は不機嫌そうに顔をこわばらせた。「わかったよ。そこまで意地を張りたいなら、好きにすればいい。外で数日暮らして
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第4話

日曜日の朝8時、約束の時間ぴったりに引っ越し業者がやってきた。業者は私の足元にある3つの段ボール箱に目をやり、それからがらんとした部屋を見渡した。「荷物はこれだけですか?」「はい、これだけです」3年も暮らした場所なのに、いざ出ていくとなると、荷物はたったの段ボール3箱分だった。航たちは朝早くから出かけていた。序は小春の正式採用に関する書類を受け取りに会社へ付き添い、栞はケーキを取りに行った。航はみんなの送迎役だ。出かける前、航は私の部屋のドアを開けて念を押した。「角煮用の肉は冷蔵庫にあるから、昼までに下ごしらえを済ませといてくれよ。小春は喉の調子が悪いから、味付けは薄めにしてくれ」私は引き出しを片付けていたので、振り返りもしなかった。「わかった」航は私の返事に満足したようだった。「それでいいんだよ。家族なんだから、いつまでも引きずることないだろ」航はドアを閉める際、机の端に置いてあった私の水筒まで持っていった。「これ、小春に貸してやってくれ。今日、水筒を忘れたらしいんだ」それは去年、航が誕生日にプレゼントしてくれたものだった。水筒の底には、ある言葉が刻まれていた。【寧々には、いつだって帰る家がある】私は遠ざかる航の背中を見送り、呼び止めることもしなかった。30分後、引っ越し業者の作業員が段ボール箱を運び出し始めた。すると、一番下の段ボール箱が突然破れ、アルバムが1冊転がり落ちた。衝撃でページが開き、中の写真が飛び散った。施設を出たときの記念写真、初めて一緒に家を借りたときの集合写真、そして4人で狭いキッチンにぎゅうぎゅうになりながら私の誕生日を祝ったときの写真が、床一面に散らばる。作業員が腰をかがめ、写真を拾うのを手伝ってくれた。「皆さん、仲が良さそうですね」私は写真を1枚ずつ箱に戻した。「昔は、仲が良かったんです」最後の1枚を拾い上げる。この家に引っ越してきた初日に撮った写真だった。航は鍵を掲げ、序はほうきを肩に担ぎ、栞は床にしゃがんでダイニングテーブルを組み立てていた。私は真ん中に立ち、目がなくなるほど笑っていた。写真の裏には、航の字でこう書かれていた。【俺たち4人、ようやく肩身の狭い思いをせずに暮らせるようになった】けど、小春がやって
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第5話

タクシーが高速道路に入ったとき、ふとスマホを確認すると、航と共有していた位置情報がまだ表示されていた。画面上の赤い点は、市の西側へ向かって移動していた。きっと今ごろ、航たちは大慌てで小春を迎えに向かっているのだろう。私はアプリを開き、航との位置情報の共有を解除した。画面から赤い点が消えた。そのまま私は5人のグループラインを退会し、航たちの連絡先も削除した。まるで、この3年間の思い出まで一緒に消し去ったかのようだった。市の南部にある新設の学童保育施設は、写真で見た以上に散らかっていた。受付には未開封の教材が積み上がり、壁の予定表は最新のものではなかった。皆川さんには2人の保護者が詰め寄り、返金を求めていた。グレーの上着を着た女性が、私を見るなり声を上げた。「あなたが新しい責任者なの?こんな若い子に、何ができるのよ」皆川さんが間に入って説明しようとしたが、私は先に苦情の記録用紙を受け取った。「お子さんは浩くんですよね?」周藤浩(すどう ひろし)の母親は一瞬、驚いた顔をした。「うちの子を知ってるの?」「お子さんの記録を拝見しました」私は防犯カメラの記録と職員のシフト表、宿題ノートを机の上に並べた。「浩くんの宿題が3日続けて終わらなかったのは、本人だけの問題ではありません。職員による声かけや見守りが不十分だったことも原因です。対応が不十分だった分については、必要に応じて返金し、今後の見守り体制も改善します。もう一度だけ私たちに任せていただけるなら、今後2週間は私が責任を持って浩くんの様子を見守ります」浩の母親は数秒間、じっと私を見つめた。「その約束、本当に守れるの?」「口約束にはしません。きちんと書面に残します」私はその場で対応内容をまとめた書面を印刷し、署名した。浩の母親も、ようやく怒りが収まったようだった。帰り際には、私に向かって軽く頷いてくれた。「わかったわ。あなたは口先だけの人じゃなさそうね」皆川さんが大きく息をついた。「着任早々あんな約束をして、守れなかったらどうするの?」私は袖をまくり、施設内の片付けを始めた。「心配しても仕方ありませんから。問題が起きた以上、誰かが責任を持って対応しなければなりません」そう言ったあと、私はふと自分の言葉
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第6話

航は私を見つけると、すぐに近づいてきた。「なんで電話に出ないんだよ?20回以上もかけたんだぞ」航の口調はひどく刺々しかった。まるで自分こそが被害者だと言わんばかりの態度だった。私はカードキーをかざし、ガラスのドアを開けた。「用があるなら手短に話して。9時から会議があるの」航はさっと手を伸ばし、ドアを押さえた。「一緒に帰るぞ。散々騒いで、引っ越しまでしたんだから、もう気が済んだだろ昨日は夜遅くまで待ってたんだぞ」私は航を見つめた。「それで?」「それでって、なんだよ?」航は眉をひそめた。「俺たちがお前を待たずに飯を食ったから、怒ってたんだろ?だから昨日はちゃんと待ったじゃないか。角煮だって、お前の分を残してある」私は耳を疑った。「航、私が家を出たのは、あの日の仕返しにみんなを待たせたかったからだと、本気で思ってるの?」「違うのかよ?」航は少し声を落とした。「寧々、望みがあるならちゃんと言ってくれよ。何も言わずに姿を消されて、俺がどれだけ困ったと思ってるんだ?」施設の職員たちが次々と出勤してきた。何人かが、こちらに視線を向けていた。航は苛立ちを抑えながら、私の腕をつかんだ。「とりあえず帰るぞ。わざわざこんな遠くまで来て、何がいいんだよ。お前の部屋は小春にこれ以上触らせないようにした。ちゃんと残してあるから」私はその手を振り払った。「あそこはもう、私の家じゃないよ」航の表情が固まった。「どういう意味だよ?」「別れよう」その言葉は、思っていたよりもすんなりと口から出た。けれど、航には意味が伝わっていないようだった。航は数秒間私を見つめたあと、突然鼻で笑った。「そういうのはもういいって。別れるっていうのはふたりの問題だろ。俺は納得してないぞ」「付き合うにはふたりの同意が必要だよ」私は航から一歩距離を取った。「でも、別れるのに相手の同意はいらない」航の顔から笑みが消えた。「小春のせいか?」「小春だけの問題じゃないよ。みんなが何度も何度も、小春を優先してきたから。小春の帰りが遅いときはみんなで待つのに、私の帰りが遅いときはもう鍋まで洗ってる。小春が胃を痛めれば、1時間もかけて黒糖まんじゅうを買いに
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第7話

けれど、航は夜まで待たなかった。午後4時、先にやってきたのは栞だった。栞は事務室には入らず、廊下の突き当たりで私を待っていた。手には黒糖まんじゅうの箱を提げていた。「西のほうにある、あのお店のだよ」栞は箱を差し出した。「寧々の好きなやつ」私は受け取らなかった。栞の指先が一瞬こわばった。「前はちゃんと覚えてたんだよ。でも、そのあと小春ちゃんが好きだって何度も言うから、いつの間にか勘違いしちゃって……寧々、本当にごめんね」私は栞を見つめた。「勘違いしたんじゃないでしょ。私なら気にしないと思って、覚えていなくても構わないって思っただけだよ」栞はうつむいた。しばらくして、ようやく言葉を絞り出した。「家の中、もうめちゃくちゃなの」私は何も言わなかった。栞は力なく笑った。「あの日の夕食、結局誰も食べなかったの。航はケーキを床に叩きつけるし、序は言い方がひどすぎるって航を責めるし。小春ちゃんはずっと泣いて、出ていくって言い出すし。誰も片付けもしないし、今日も誰も朝ご飯を作らなかったの」なんだか笑えてきた。「つまり、家事をする人がいなくなったから、私を連れ戻しに来たの?」「違うの!」栞はすぐに顔を上げた。「気づいたの。この3年間、家のことは何から何まで寧々に頼りきりだったんだって。光熱費の支払日も、薬の置き場所も、序の食べられないものも、航のシャツの洗い方も。単に家政婦代わりの人がいなくなって困ってるんじゃないの。私たちは、寧々がしてくれることを、空気みたいに当たり前のものだと思ってた」その言葉は、航の「俺と一緒に帰るぞ」よりも、ずっと誠実に聞こえた。でも、今さら反省したところで、これまでのことが帳消しになるわけじゃない。栞は紙袋を窓際に置いた。「もう戻ってきてとは言わない。ただ、私が間違ってたって伝えたかったの」栞が帰って間もなく、序もやってきた。序は手ぶらで、開口一番に尋ねてきた。「お前、航と本当に別れたのか?」「うん」「考え直す余地はないのか?」「ないよ」序は眼鏡を押し上げた。「そうか。俺もあいつをかばうつもりはない。ただ、小春が出ていくって聞かないんだ。お前からも説得してくれないか?」私は序をじっ
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第8話

私は小春とふたりきりで会うつもりはなかった。土曜日は、新設された学童保育施設の見学会だった。この半月ほど対応を待ってもらっていた保護者たちが一斉に訪れ、施設内は人であふれかえっていた。午後まで対応に追われていると、浩が学校のテストで100点を取った答案用紙を手に、事務室へ飛び込んできた。「高瀬先生!母ちゃんが、ちゃんと勉強を頑張るなら、ここをやめなくていいって言ったんだ!」浩は答案用紙を私の机にバンと置いた。「見て!100点取ったよ!」あとから入ってきた浩の母親は、相変わらず厳しい口調だった。「まだ1回だけでしょ。調子に乗らないの」けれど、すぐに皆川さんに向き直って言った。「来年度も引き続きお願いします」それを聞いていたほかの保護者たちも、次々と継続利用の手続きをしてくれた。事務担当の職員が集計を終えると、私に向かって合図を送った。退会を希望する保護者の割合は、40%から3%まで下がっていた。皆川さんはみんなの前で、私が正式にこの施設の責任者に就任することを発表した。拍手が沸き起こる中、入り口に4人が立っているのが見えた。航は花束を抱えていた。序は果物の詰め合わせを持っていた。栞は黒糖まんじゅうの箱を提げていた。小春は一番後ろに立ち、新しいマグカップを両手で持っていた。航は何事もなかったかのように近づいてきた。「おめでとう。みんなも来てるんだ。今夜は一緒に飯でも食おう」近くにいた職員が、笑顔で尋ねてきた。「高瀬先生、こちらは彼氏さんですか?」航がうなずこうとした瞬間、私は先に口を開いた。「元彼です」事務室が一瞬で静まり返った。航の表情が険しくなった。「寧々、わざわざ人前でそんな言い方する必要あるか?」「どこか間違ってる?」「俺はまだ別れたつもりはないぞ」「私はもう別れたつもりだよ」小春がそっと航の袖を引いた。「航くん、やめてください」ほんのささいな仕草だった。けれど、航はすぐに小春のほうを振り向いた。「お前は気にしなくていい。病み上がりなんだから、座ってろ」そんなふたりを見ていると、私の中に残っていたわずかな未練さえ、すっと消えていった。航は私とやり直したくて、ここまで来たはずだ。それなのに、小春が少し袖を引いた
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第9話

その言葉に、航と栞は思わず顔を見合わせた。「……なんだって?」小春はマグカップを握りしめた。指の関節が白く浮き上がっている。「ここに来たばかりの頃、寧々さんがすごく羨ましかったんです。航くんは寧々さんの仕事のシフトを覚えていて、栞さんは帰りが遅いときも明かりをつけて待っていた。序くんだって、口では面倒くさがりながらも、雨の日には迎えに行っていた。私も、誰かにそんなふうに大切にされたかったんです」航が小春の言葉を遮った。「だから、わざと寧々の居場所を奪おうとしたのか?」「追い出すつもりはなかったんです」小春の声が震えた。「ただ、試してみたかっただけなんです。お腹が痛いって言ったら、みんな寧々さんを待たずに先に食事を始めてくれたし、画板を置く場所がないって言えば、寧々さんの荷物をどかしてくれました。4つしかマグカップを買わなくても、誰も買い直せとは言いませんでした。いつだって、みんなは私を選んでくれたんです。だから、もっと私を優先してほしくなったんです」その場にいた誰もが、言葉を失った。小春は私に目を向けた。「寧々さん、私だって自分が悪いことは分かっています。でも、自分が一番に選ばれるのが嬉しかったんです。まさか寧々さんが本当に出ていくなんて、思いもしませんでした」私はしばらく小春を見つめた。「思いもしなかったんじゃないよ。私がどれだけ傷ついても、自分の欲しいものさえ手に入れば、それでいいと思ってたんでしょ」小春の目から涙がこぼれ落ちた。けれど、今度は誰もすぐには慰めに行かなかった。航はひどく険しい顔をしていた。「マグカップのことがわざとだったなら、部屋のこともか?」「……はい」「じゃあ、水筒は?」「水筒を会社に忘れたって嘘をついたら、航くんが寧々さんのを持ってきてくれたんです」航はぎゅっと目を閉じ、手にしていた花束をゴミ箱に投げ捨てようとした。私は航を制した。「茶番はやめて」航は勢いよく私を振り向いた。「寧々、小春がわざとやってたなんて知らなかったんだ」「知ってたら何か違った?小春が手を伸ばしたからって、私のものを差し出したのは航たちでしょ。下心があったとわかった途端、全部小春のせいにするつもり?選んだのは航たちだよ。
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第10話

半年後、市の南部にある学童保育施設が増設されることになった。皆川さんが本部へ昇進し、私がその後任を務めることになった。会議の日、人事担当者から何か希望はないかと尋ねられた。私は契約書にひととおり目を通した。「お給料は上がりますか?」オンラインで会議に参加していた皆川さんが、笑いながら呆れたように言った。「もう、お金のことばっかりなんだから。3割アップよ。社宅も2LDKの部屋になるけど、これで満足?」「まあ、ぎりぎり合格ってところですね」会議室がどっと笑いに包まれた。私もつられて笑った。今でも、私は人の世話を焼くことがある。職員が体調を崩せば、代わりに子どもたちの見守りを担当する。お迎えが遅い子がいれば、最後まで残って待つ。でも、自分の頑張りを隠すのはもうやめた。急なシフト交代は、勤務表にきちんと記録する。書類の提出を忘れた人には、自分で残って対応してもらう。人に優しくするのはいい。でも、それを当たり前だと思われるのはごめんだ。その後、私たちが育った児童養護施設の園長先生が、近々退職することになった。ある日曜日、園長先生から私たち4人に連絡があり、食事に誘ってくれた。私が着いたのは一番最後だった。個室の扉を開けると、航と序と栞はすでに席に着いていた。テーブルには、一人分の席が空けてあった。後から慌てて用意した席ではない。椅子には、子どもの頃に大好きだった黄色いクッションまで置かれていた。序が立ち上がり、少しぎこちない口調で尋ねた。「道、混んでなかった?」「そうでもなかったよ」栞が黒糖まんじゅうの皿を私のほうへ寄せた。「さっき買ってきたばかりだよ。今度はちゃんと覚えてたから」私はひとつ手に取った。「ありがとう」向かいに座る航は、半年前より少し痩せていた。航は私に料理を取り分けることも、いつ戻ってくるのかと尋ねることもしなかった。ただ、豚の角煮が載った皿を、そっと私の前に寄せてくれた。園長先生は私たちを見渡し、小さくため息をついた。「あんたたち、子どもの頃は毎日べったりだったのにねえ。一生離れないものだと思ってたよ」栞はうつむいた。序はコップを手に取ったまま、しばらく何も言わなかった。航は私を見つめていた。
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