ログイン私、高瀬寧々(たかせ ねね)は、同じ施設で育った篠原序(しのはら はじめ)、森川栞(もりかわ しおり)、そして恋人でもある阿川航(あがわ わたる)と、成人してから一緒に暮らし始めた。 毎週日曜日には4人揃って食事をする約束をしていた。誰かの帰りが遅くなっても、必ず待つ。それが私たちの決まりだった。 去年、序のいとこの綾瀬小春(あやせ こはる)が、それまで世話になっていた親戚の家を追い出され、空き部屋に住むことになった。 小春が初めて残業で夜9時まで帰ってこなかったとき、航は「帰ってきたときに俺たちが食べ終わってたら可哀想だろ」と言って、食事を始めようとしなかった。 二度目に帰宅が夜11時になったときも、料理を温めながら待っていた。小春は目を潤ませ、「今まで誰も待ってくれたことなんてなかった」と言った。 ある日曜日、私は学童保育施設で当番をしていた。熱を出した子の保護者から迎えが遅れると連絡があり、私は最後まで付き添うことにした。グループラインには【少し遅れるけど、9時40分までには帰る】と二度伝えておいた。 9時38分、家のドアを開けると、食卓はすでに片付けられ、シンクには4人分の食器が重ねられていた。小春は「お腹が空きすぎて胃が痛くなっちゃって。航くんが先に食べようって言ってくれたの。怒ってないよね?」と言った。 確かに、私は我慢することに慣れていた。ただ、先月小春の帰りが遅くなったとき、私は小春の大好物のエビをちゃんと取っておいてあげたのに。 翌日、大家さんから契約更新について聞かれ、私は「私は退去します。ほかの人たちがどうするかは、本人たちに確認してください」と答えた。
もっと見る半年後、市の南部にある学童保育施設が増設されることになった。皆川さんが本部へ昇進し、私がその後任を務めることになった。会議の日、人事担当者から何か希望はないかと尋ねられた。私は契約書にひととおり目を通した。「お給料は上がりますか?」オンラインで会議に参加していた皆川さんが、笑いながら呆れたように言った。「もう、お金のことばっかりなんだから。3割アップよ。社宅も2LDKの部屋になるけど、これで満足?」「まあ、ぎりぎり合格ってところですね」会議室がどっと笑いに包まれた。私もつられて笑った。今でも、私は人の世話を焼くことがある。職員が体調を崩せば、代わりに子どもたちの見守りを担当する。お迎えが遅い子がいれば、最後まで残って待つ。でも、自分の頑張りを隠すのはもうやめた。急なシフト交代は、勤務表にきちんと記録する。書類の提出を忘れた人には、自分で残って対応してもらう。人に優しくするのはいい。でも、それを当たり前だと思われるのはごめんだ。その後、私たちが育った児童養護施設の園長先生が、近々退職することになった。ある日曜日、園長先生から私たち4人に連絡があり、食事に誘ってくれた。私が着いたのは一番最後だった。個室の扉を開けると、航と序と栞はすでに席に着いていた。テーブルには、一人分の席が空けてあった。後から慌てて用意した席ではない。椅子には、子どもの頃に大好きだった黄色いクッションまで置かれていた。序が立ち上がり、少しぎこちない口調で尋ねた。「道、混んでなかった?」「そうでもなかったよ」栞が黒糖まんじゅうの皿を私のほうへ寄せた。「さっき買ってきたばかりだよ。今度はちゃんと覚えてたから」私はひとつ手に取った。「ありがとう」向かいに座る航は、半年前より少し痩せていた。航は私に料理を取り分けることも、いつ戻ってくるのかと尋ねることもしなかった。ただ、豚の角煮が載った皿を、そっと私の前に寄せてくれた。園長先生は私たちを見渡し、小さくため息をついた。「あんたたち、子どもの頃は毎日べったりだったのにねえ。一生離れないものだと思ってたよ」栞はうつむいた。序はコップを手に取ったまま、しばらく何も言わなかった。航は私を見つめていた。
その言葉に、航と栞は思わず顔を見合わせた。「……なんだって?」小春はマグカップを握りしめた。指の関節が白く浮き上がっている。「ここに来たばかりの頃、寧々さんがすごく羨ましかったんです。航くんは寧々さんの仕事のシフトを覚えていて、栞さんは帰りが遅いときも明かりをつけて待っていた。序くんだって、口では面倒くさがりながらも、雨の日には迎えに行っていた。私も、誰かにそんなふうに大切にされたかったんです」航が小春の言葉を遮った。「だから、わざと寧々の居場所を奪おうとしたのか?」「追い出すつもりはなかったんです」小春の声が震えた。「ただ、試してみたかっただけなんです。お腹が痛いって言ったら、みんな寧々さんを待たずに先に食事を始めてくれたし、画板を置く場所がないって言えば、寧々さんの荷物をどかしてくれました。4つしかマグカップを買わなくても、誰も買い直せとは言いませんでした。いつだって、みんなは私を選んでくれたんです。だから、もっと私を優先してほしくなったんです」その場にいた誰もが、言葉を失った。小春は私に目を向けた。「寧々さん、私だって自分が悪いことは分かっています。でも、自分が一番に選ばれるのが嬉しかったんです。まさか寧々さんが本当に出ていくなんて、思いもしませんでした」私はしばらく小春を見つめた。「思いもしなかったんじゃないよ。私がどれだけ傷ついても、自分の欲しいものさえ手に入れば、それでいいと思ってたんでしょ」小春の目から涙がこぼれ落ちた。けれど、今度は誰もすぐには慰めに行かなかった。航はひどく険しい顔をしていた。「マグカップのことがわざとだったなら、部屋のこともか?」「……はい」「じゃあ、水筒は?」「水筒を会社に忘れたって嘘をついたら、航くんが寧々さんのを持ってきてくれたんです」航はぎゅっと目を閉じ、手にしていた花束をゴミ箱に投げ捨てようとした。私は航を制した。「茶番はやめて」航は勢いよく私を振り向いた。「寧々、小春がわざとやってたなんて知らなかったんだ」「知ってたら何か違った?小春が手を伸ばしたからって、私のものを差し出したのは航たちでしょ。下心があったとわかった途端、全部小春のせいにするつもり?選んだのは航たちだよ。
私は小春とふたりきりで会うつもりはなかった。土曜日は、新設された学童保育施設の見学会だった。この半月ほど対応を待ってもらっていた保護者たちが一斉に訪れ、施設内は人であふれかえっていた。午後まで対応に追われていると、浩が学校のテストで100点を取った答案用紙を手に、事務室へ飛び込んできた。「高瀬先生!母ちゃんが、ちゃんと勉強を頑張るなら、ここをやめなくていいって言ったんだ!」浩は答案用紙を私の机にバンと置いた。「見て!100点取ったよ!」あとから入ってきた浩の母親は、相変わらず厳しい口調だった。「まだ1回だけでしょ。調子に乗らないの」けれど、すぐに皆川さんに向き直って言った。「来年度も引き続きお願いします」それを聞いていたほかの保護者たちも、次々と継続利用の手続きをしてくれた。事務担当の職員が集計を終えると、私に向かって合図を送った。退会を希望する保護者の割合は、40%から3%まで下がっていた。皆川さんはみんなの前で、私が正式にこの施設の責任者に就任することを発表した。拍手が沸き起こる中、入り口に4人が立っているのが見えた。航は花束を抱えていた。序は果物の詰め合わせを持っていた。栞は黒糖まんじゅうの箱を提げていた。小春は一番後ろに立ち、新しいマグカップを両手で持っていた。航は何事もなかったかのように近づいてきた。「おめでとう。みんなも来てるんだ。今夜は一緒に飯でも食おう」近くにいた職員が、笑顔で尋ねてきた。「高瀬先生、こちらは彼氏さんですか?」航がうなずこうとした瞬間、私は先に口を開いた。「元彼です」事務室が一瞬で静まり返った。航の表情が険しくなった。「寧々、わざわざ人前でそんな言い方する必要あるか?」「どこか間違ってる?」「俺はまだ別れたつもりはないぞ」「私はもう別れたつもりだよ」小春がそっと航の袖を引いた。「航くん、やめてください」ほんのささいな仕草だった。けれど、航はすぐに小春のほうを振り向いた。「お前は気にしなくていい。病み上がりなんだから、座ってろ」そんなふたりを見ていると、私の中に残っていたわずかな未練さえ、すっと消えていった。航は私とやり直したくて、ここまで来たはずだ。それなのに、小春が少し袖を引いた
けれど、航は夜まで待たなかった。午後4時、先にやってきたのは栞だった。栞は事務室には入らず、廊下の突き当たりで私を待っていた。手には黒糖まんじゅうの箱を提げていた。「西のほうにある、あのお店のだよ」栞は箱を差し出した。「寧々の好きなやつ」私は受け取らなかった。栞の指先が一瞬こわばった。「前はちゃんと覚えてたんだよ。でも、そのあと小春ちゃんが好きだって何度も言うから、いつの間にか勘違いしちゃって……寧々、本当にごめんね」私は栞を見つめた。「勘違いしたんじゃないでしょ。私なら気にしないと思って、覚えていなくても構わないって思っただけだよ」栞はうつむいた。しばらくして、ようやく言葉を絞り出した。「家の中、もうめちゃくちゃなの」私は何も言わなかった。栞は力なく笑った。「あの日の夕食、結局誰も食べなかったの。航はケーキを床に叩きつけるし、序は言い方がひどすぎるって航を責めるし。小春ちゃんはずっと泣いて、出ていくって言い出すし。誰も片付けもしないし、今日も誰も朝ご飯を作らなかったの」なんだか笑えてきた。「つまり、家事をする人がいなくなったから、私を連れ戻しに来たの?」「違うの!」栞はすぐに顔を上げた。「気づいたの。この3年間、家のことは何から何まで寧々に頼りきりだったんだって。光熱費の支払日も、薬の置き場所も、序の食べられないものも、航のシャツの洗い方も。単に家政婦代わりの人がいなくなって困ってるんじゃないの。私たちは、寧々がしてくれることを、空気みたいに当たり前のものだと思ってた」その言葉は、航の「俺と一緒に帰るぞ」よりも、ずっと誠実に聞こえた。でも、今さら反省したところで、これまでのことが帳消しになるわけじゃない。栞は紙袋を窓際に置いた。「もう戻ってきてとは言わない。ただ、私が間違ってたって伝えたかったの」栞が帰って間もなく、序もやってきた。序は手ぶらで、開口一番に尋ねてきた。「お前、航と本当に別れたのか?」「うん」「考え直す余地はないのか?」「ないよ」序は眼鏡を押し上げた。「そうか。俺もあいつをかばうつもりはない。ただ、小春が出ていくって聞かないんだ。お前からも説得してくれないか?」私は序をじっ
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