その朝、屋敷は、息をひそめたように静まり返っていた。 神条陸は、妻の部屋の扉を開けた。 クローゼットは空だった。窓辺に飾られていた花も、読みかけの本も、彼女がここにいた証は何ひとつ残っていない。 ドレッサーの上にあるのは、結婚指輪と、一通の封筒。 そして、すでに署名を終えた離婚届。 今日は、三年間の契約が満了する日だった。 わかっていたはずだ。自分で決めた期限だ。それなのに、陸はその場から一歩も動けなかった。 足元に、一枚の紙が落ちている。 拾い上げた瞬間、指先から血の気が引いた。 産婦人科の診断書だった。患者名の欄には、見慣れた名前がある。 ——妊娠八週。 「……葵」 呼んだ名前に、答える声はなかった。 * 三年前。 白石家の郵便受けに、裁判所からの封筒が届いていた。 【競売開始決定】 白石葵は、その文字を何度も読み返した。読み返したところで、意味が変わるわけではない。 明治から続く白石家の屋敷は、このままでは遠からず人手に渡る。 「姉さん……」 振り返ると、制服姿の弟・湊が立っていた。高校三年生。本来なら受験勉強に全てを注いでいるはずの時期だ。 「大丈夫。学校に行きなさい」 「でも、父さんの病院代だって……俺、やっぱり大学はやめて働くよ」 「湊」 葵は、弟の言葉を静かに遮った。 「それを決めるのは、まだ早い。姉さんが何とかするから」 何とかできる当てなど、どこにもなかった。 半年前、父の事業が破綻した。信頼していた取引先に裏切られ、残ったのは十二億円の借金だけ。父はその心労で倒れ、今も病院のベッドの上にいる。 葵は昼は事務の仕事を、夜は家庭教師を掛け持ちしている。それでも、毎月の利息にすら届かなかった。 湊を送り出したあと、葵の携帯が鳴った。知らない番号だった。 「白石葵様ですね。神条銀行の者です」 無機質な男の声が、淀みなく告げる。 「白石家の債権は、先日すべて当行が譲り受けました。本日午後三時、神条ホールディングス本社へお越しください」 「……本社、ですか? 銀行ではなく?」 「社長が、直接お会いになるそうです」 * 都心にそびえる神条ホールディングスの本社ビルは、空を切り取る刃のように見えた。 銀行、不動産、投
Last Updated : 2026-10-26 Read more