画面に映る言葉遣いや儀式の場面は、まず批評の入り口になると考えている。映画が宗教的な要素をどのように言語化するか――侮辱的な語句なのか、象徴的な表現なのか、あるいは歴史的事実の再解釈なのか――を丁寧に見分けることで、その作品の意図と受容の温度が見えてくる。
演出面ではショット構成や音楽、編集のリズムが宗教的表現を助長するか抑制するかを注視する。たとえば'The Last Temptation of Christ'を観たとき、カメラの寄りや宗教的イメージへの繋ぎ方が、単なる
冒涜か深い問いかけかを左右していた。俳優の演技は、作品が侮辱を狙っているのか、対話を促しているのかを伝える重要な手がかりだ。
最後に社会的反響や歴史的文脈も無視できない。公開当時の政治状況、宗教団体の力関係、検閲やボイコットの有無は、批評が単純に美学だけで済ませられない理由になる。私はこうした多層的な観点を組み合わせて、映画の“冒涜”というラベルが妥当かどうか判断している。