昼のチャイムが鳴る前から、社内にはそれとなく休憩の空気が漂い始めていた。誰かが椅子を引く音、弁当袋を開けるラップ音、雑談の第一声。いつものことだった。昼休みの始まりは、業務と業務の間の、一時だけ許された緩みであり、居場所の輪郭が色濃く浮かび上がる時間でもあった。
営業部の一角では、村瀬が声を上げて弁当の中身に突っ込みを入れ、佳奈がそれを笑いながら受けている。別の席では二人組がスマホを見せ合って何か話している声が聞こえてくる。音と音の重なり合いが、昼という空白を満たしていく。
そんななか、ひとりだけ別のリズムで動く人影があった。
今里澪が立ち上がったのは、鶴橋が自販機横のカップコーヒーを選んでいたちょうどそのときだった。遠くない距離にあるその姿に、自然と目が向いた。
今里はデスクに散らばった資料を丁寧に揃え、引き出しの中から財布を取り出した。それを上着の内ポケットに入れ、軽く身支度をする。動きに無駄はなく、しかしどこか儀式めいて見えるほど、整いすぎていた。
鶴橋がボタンを押してカップが落ちる音がしたが、そのわずかな衝撃のような音にも、今里は反応しなかった。誰とも目を合わせず、何も言わずに、静かにオフィスの扉を開けて出ていく。
イヤホンもつけず、スマホも持っていない。手ぶらで、ただ外へ出るためだけに歩いていた。
足音は、驚くほど軽かった。革靴の底が床に吸い込まれていくようで、音を残さない。まるで、誰にも存在を気づかれないように歩く術を知っているようだった。
鶴橋はカップを持ったまま、今里の背中を無意識に追っていた。ドアが開いて光が差し、背中がその向こうへ消える。誰も気にしていない。ただ自分だけが、その沈黙を目に焼き付けていた。
フロアの外は、春の陽射しが眩しく、街路樹の桜がゆるやかに揺れていた。花びらが風に舞い、ふわりと今里の肩口にひとひら落ちた。肩に落ちたその花びらは、軽く揺れながら、しばらくそこにとどまり、やがて風に押されて彼の背中へと滑り落ちていく。
けれど彼はそれに気づかず、ただまっすぐ歩いていく。
(どこで、何食うてんねやろ。毎日、決めてんのかな)
そんな疑問がふと浮かび、胸の内で消えてい