もう一度、隣に立つために~傷ついた先輩と僕の営業パートナー再出発記

もう一度、隣に立つために~傷ついた先輩と僕の営業パートナー再出発記

last updateLast Updated : 2025-09-01
By:  中岡 始Completed
Language: Japanese
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中堅営業社員・鶴橋蓮が出会ったのは、無口で不器用、だけどどこか影のある中途社員・今里澪。使えないと思っていたその男が、かつて“伝説の営業マン”と呼ばれていた過去を知ったとき、鶴橋の心は静かに揺れ始める。 やがて近づいた距離のなかで、今里の“傷”と“諦め”を知った鶴橋は、恋にも似た感情を抱くようになるが…彼の返事は、ただ一言「俺みたいなん、触らん方がええ」だった。 「救いたいわけやない。俺は、あんたと生きていきたい」 傷ついた過去ごと、ふたりで未来をつくるために。 営業の現場で育まれた“恋”が、静かに確かに動き出す。 再出発系・年の差オフィスBL。静けさの奥に、確かなぬくもりが灯る。

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Chapter 1

名刺と無言

午前八時三十五分。四月の空は薄曇りで、ビルの谷間にわずかな春の光が沈んでいた。中之島の古びた雑居ビル八階にある〈東陽クリエイト〉のフロアでは、始業前の空気が少しだけざわついていた。紙の擦れる音、コピー機の起動音、インスタントコーヒーの香り。それぞれが慣れ親しんだ職場の日常を織りなすなか、応接スペースのガラス戸の向こうだけが、不自然に静かだった。

鶴橋蓮は営業部のデスクにカバンを置くと、同期の奥村佳奈に軽く会釈しながら、小走りで応接へ向かった。課長に呼ばれたのは、五分前。新しく中途で入ってくる人間の紹介だという。

「来た来た、鶴橋くん。ほな、紹介しとくわ」

応接のドアが開いた瞬間、微かに空気が変わった気がした。いや、正確には…そこに“何か”が立っていた。それが人なのか、それとも影なのか、一瞬判断がつかなかった。窓際に立つ男。白いブラインド越しの朝の光に照らされて、輪郭が淡くぼやけていた。

「今日から入ることになった今里くんや。営業部配属。ちょっと年いってるけど、よろしく頼むな」

安住課長がラフに紹介する。その横で、件の男が一歩だけ前に出た。スーツは紺のシャドーストライプ。だが、サイズがわずかに合っていない。肩のラインが下がり、袖も微かに長い。そのせいか、立ち姿は妙に影のようだった。

「今里です。営業部、よろしくお願いします」

声は驚くほど低く、滑らかではあったが抑揚がなかった。沈んだ声色が、空間の温度をほんのわずかに下げたような錯覚を鶴橋は覚えた。

「奥村です、事務全般担当してます。よろしくお願いしますね」

佳奈がにこやかに挨拶し、次いで鶴橋が頭を下げた。

「営業の鶴橋です。なんか分からんことあったら、言うてください」

今里は小さく会釈し、差し出された名刺を両手で受け取った。指の動きがやけに丁寧で、機械的にすら見えた。名刺を受け取るその手には、かすかな皺があり、指の節が細く長かった。表情は終始穏やかで…いや、穏やかというより、何も浮かんでいなかった。

目が合った。いや、正確には「合った」と気づいたときには、すでに逸らされていた。だがその一瞬、まつ毛の長さと、眼差しの奥に沈んだ影だけが、くっきりと目に焼きついた。

まるで、何かを見たと思った瞬間に、その“何か”のほうから目を閉じたような…そんな感覚だった。

(喋ってるのに、音だけが通ってく感じや。実在感が……ない)

鶴橋は心の中で、思わずそう呟いていた。

安住課長は「ま、困ったら鶴橋くんに聞いて」と軽く言い残し、先にデスクへ戻っていった。佳奈も「じゃ、あとで総務に連れていきますね」と明るく笑ってその場を離れる。応接室には鶴橋と今里だけが残った。

「とりあえず、これコピーしといたらいいと思います」と、今里が差し出したのは、手書きの社員連絡表の写しだった。そこにはすでに部署ごとの名前がきれいに書かれていた。字が、丁寧で整っていた。少し丸みを帯びたフォントのような字だった。

「ありがとうございます、助かります」

受け取った鶴橋は一礼し、今里の隣をすり抜けてドアに手をかけた。その瞬間、微かに感じた。衣擦れの音の向こう、わずかな香り…整髪料でも香水でもない、どこか懐かしいような、無臭に近い洗剤の匂い。男の生活感が、ぎりぎりまで希薄になった末に残ったような匂い。

(…この人、何歳やろ)

そう思ったときにはもう、今里は背を向けて、静かにカバンを下ろしていた。

数分後、デスクに戻った鶴橋は、自分の椅子に腰を下ろしながら、ふと応接の方へ目をやった。ブラインド越しに、今里の背中が、まだそこにあった。

じっと立ったまま、窓の外を見ている。何を見ているのか、何を思っているのか、それは分からなかった。ただ一つ確かなのは…彼の姿が、どうしようもなく“そこに在る”ということだった。

まるで、誰にも気づかれないまま部屋に紛れ込んだ薄い影のように。

だが、その影だけが、妙に目についた。消えかけのペンの線のように…しかし確かに、そこに引かれていた。

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