もう一度、隣に立つために~傷ついた先輩と僕の営業パートナー再出発記

もう一度、隣に立つために~傷ついた先輩と僕の営業パートナー再出発記

last updateآخر تحديث : 2025-09-01
بواسطة:  中岡 始مكتمل
لغة: Japanese
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中堅営業社員・鶴橋蓮が出会ったのは、無口で不器用、だけどどこか影のある中途社員・今里澪。使えないと思っていたその男が、かつて“伝説の営業マン”と呼ばれていた過去を知ったとき、鶴橋の心は静かに揺れ始める。 やがて近づいた距離のなかで、今里の“傷”と“諦め”を知った鶴橋は、恋にも似た感情を抱くようになるが…彼の返事は、ただ一言「俺みたいなん、触らん方がええ」だった。 「救いたいわけやない。俺は、あんたと生きていきたい」 傷ついた過去ごと、ふたりで未来をつくるために。 営業の現場で育まれた“恋”が、静かに確かに動き出す。 再出発系・年の差オフィスBL。静けさの奥に、確かなぬくもりが灯る。

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الفصل الأول

名刺と無言

午前八時三十五分。四月の空は薄曇りで、ビルの谷間にわずかな春の光が沈んでいた。中之島の古びた雑居ビル八階にある〈東陽クリエイト〉のフロアでは、始業前の空気が少しだけざわついていた。紙の擦れる音、コピー機の起動音、インスタントコーヒーの香り。それぞれが慣れ親しんだ職場の日常を織りなすなか、応接スペースのガラス戸の向こうだけが、不自然に静かだった。

鶴橋蓮は営業部のデスクにカバンを置くと、同期の奥村佳奈に軽く会釈しながら、小走りで応接へ向かった。課長に呼ばれたのは、五分前。新しく中途で入ってくる人間の紹介だという。

「来た来た、鶴橋くん。ほな、紹介しとくわ」

応接のドアが開いた瞬間、微かに空気が変わった気がした。いや、正確には…そこに“何か”が立っていた。それが人なのか、それとも影なのか、一瞬判断がつかなかった。窓際に立つ男。白いブラインド越しの朝の光に照らされて、輪郭が淡くぼやけていた。

「今日から入ることになった今里くんや。営業部配属。ちょっと年いってるけど、よろしく頼むな」

安住課長がラフに紹介する。その横で、件の男が一歩だけ前に出た。スーツは紺のシャドーストライプ。だが、サイズがわずかに合っていない。肩のラインが下がり、袖も微かに長い。そのせいか、立ち姿は妙に影のようだった。

「今里です。営業部、よろしくお願いします」

声は驚くほど低く、滑らかではあったが抑揚がなかった。沈んだ声色が、空間の温度をほんのわずかに下げたような錯覚を鶴橋は覚えた。

「奥村です、事務全般担当してます。よろしくお願いしますね」

佳奈がにこやかに挨拶し、次いで鶴橋が頭を下げた。

「営業の鶴橋です。なんか分からんことあったら、言うてください」

今里は小さく会釈し、差し出された名刺を両手で受け取った。指の動きがやけに丁寧で、機械的にすら見えた。名刺を受け取るその手には、かすかな皺があり、指の節が細く長かった。表情は終始穏やかで…いや、穏やかというより、何も浮かんでいなかった。

目が合った。いや、正確には「合った」と気づいたときには、すでに逸らされていた。だがその一瞬、まつ毛の長さと、眼差しの奥に沈んだ影だけが、くっきりと目に焼きついた。

まるで、何かを見たと思った瞬間に、その“何か”のほうから目を閉じたような…そんな感覚だった。

(喋ってるのに、音だけが通ってく感じや。実在感が……ない)

鶴橋は心の中で、思わずそう呟いていた。

安住課長は「ま、困ったら鶴橋くんに聞いて」と軽く言い残し、先にデスクへ戻っていった。佳奈も「じゃ、あとで総務に連れていきますね」と明るく笑ってその場を離れる。応接室には鶴橋と今里だけが残った。

「とりあえず、これコピーしといたらいいと思います」と、今里が差し出したのは、手書きの社員連絡表の写しだった。そこにはすでに部署ごとの名前がきれいに書かれていた。字が、丁寧で整っていた。少し丸みを帯びたフォントのような字だった。

「ありがとうございます、助かります」

受け取った鶴橋は一礼し、今里の隣をすり抜けてドアに手をかけた。その瞬間、微かに感じた。衣擦れの音の向こう、わずかな香り…整髪料でも香水でもない、どこか懐かしいような、無臭に近い洗剤の匂い。男の生活感が、ぎりぎりまで希薄になった末に残ったような匂い。

(…この人、何歳やろ)

そう思ったときにはもう、今里は背を向けて、静かにカバンを下ろしていた。

数分後、デスクに戻った鶴橋は、自分の椅子に腰を下ろしながら、ふと応接の方へ目をやった。ブラインド越しに、今里の背中が、まだそこにあった。

じっと立ったまま、窓の外を見ている。何を見ているのか、何を思っているのか、それは分からなかった。ただ一つ確かなのは…彼の姿が、どうしようもなく“そこに在る”ということだった。

まるで、誰にも気づかれないまま部屋に紛れ込んだ薄い影のように。

だが、その影だけが、妙に目についた。消えかけのペンの線のように…しかし確かに、そこに引かれていた。

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名刺と無言
午前八時三十五分。四月の空は薄曇りで、ビルの谷間にわずかな春の光が沈んでいた。中之島の古びた雑居ビル八階にある〈東陽クリエイト〉のフロアでは、始業前の空気が少しだけざわついていた。紙の擦れる音、コピー機の起動音、インスタントコーヒーの香り。それぞれが慣れ親しんだ職場の日常を織りなすなか、応接スペースのガラス戸の向こうだけが、不自然に静かだった。鶴橋蓮は営業部のデスクにカバンを置くと、同期の奥村佳奈に軽く会釈しながら、小走りで応接へ向かった。課長に呼ばれたのは、五分前。新しく中途で入ってくる人間の紹介だという。「来た来た、鶴橋くん。ほな、紹介しとくわ」応接のドアが開いた瞬間、微かに空気が変わった気がした。いや、正確には…そこに“何か”が立っていた。それが人なのか、それとも影なのか、一瞬判断がつかなかった。窓際に立つ男。白いブラインド越しの朝の光に照らされて、輪郭が淡くぼやけていた。「今日から入ることになった今里くんや。営業部配属。ちょっと年いってるけど、よろしく頼むな」安住課長がラフに紹介する。その横で、件の男が一歩だけ前に出た。スーツは紺のシャドーストライプ。だが、サイズがわずかに合っていない。肩のラインが下がり、袖も微かに長い。そのせいか、立ち姿は妙に影のようだった。「今里です。営業部、よろしくお願いします」声は驚くほど低く、滑らかではあったが抑揚がなかった。沈んだ声色が、空間の温度をほんのわずかに下げたような錯覚を鶴橋は覚えた。「奥村です、事務全般担当してます。よろしくお願いしますね」佳奈がにこやかに挨拶し、次いで鶴橋が頭を下げた。「営業の鶴橋です。なんか分からんことあったら、言うてください」今里は小さく会釈し、差し出された名刺を両手で受け取った。指の動きがやけに丁寧で、機械的にすら見えた。名刺を受け取るその手には、かすかな皺があり、指の節が細く長かった。表情は終始穏やかで…いや、穏やかというより、何も浮かんでいなかった。目が合った。いや、正確には「合った」と気づいたときには、すでに逸らされていた。だがその一瞬、まつ毛の長さと、眼差しの奥に沈んだ影だけが、くっきりと目に焼きついた。まるで、何かを見たと思った瞬間に、その“何か”のほうから目を閉じたような…そんな感覚だった。(喋ってるのに、音だけが通ってく感じや。実在感が……ない)鶴
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朝会、書類のズレ
朝九時を過ぎたころ、営業部の定例朝会が始まった。会議室には六人ほどの社員が集まり、手元の資料をパラパラと確認している。壁際にはプロジェクター、中央には長机。毎週同じように繰り返される風景に、誰も特別な緊張感は抱いていなかった。鶴橋は部屋の隅で資料を受け取りながら、ふと隣に立つ今里に視線を向けた。昨日入ってきたばかりの中途社員。年齢は自分よりもずいぶん上、物腰は柔らかいが、どこか所在がない。服の皺や身振りひとつとっても、何かが少しだけずれているように見えた。その今里が、紙の束を机の上に配っていく。順番に並べられたはずの資料を、社員たちが手に取り、めくり始めた瞬間だった。「ん?…あれ、これ順番おかしない?」最初に声を上げたのは村瀬だった。彼は若手の営業で、まだ二年目。口調は軽く、やや挑発的だが、数字を出すことに関しては非の打ち所がない。その村瀬が、紙の山を手にして首をかしげた。「ほんまやな…議題一が三枚目に来てるし、日付も前後してるわ」奥村も小声でつぶやく。会議室の空気が一瞬だけ波立つようにざわついた。「これ、昨日の分と混ざってへん?」誰かが言い、紙を机の上に出して整理し始める。資料は一見してきちんと綴じられているように見えたが、順番がばらばらになっている箇所が複数あった。整った形式の中に、目立たないほころび。気づく者だけが気づく小さな違和感。安住課長が苦笑しながら言った。「あ〜ごめんごめん。これ、今里くんの準備やったよな」軽い調子だった。声の調子も、手のひらをひらひらと振る仕草も、まるで「たいしたことじゃない」と言わんばかりに、場を収めようとしていた。今里は、その声に応じて静かに立ち上がった。「申し訳ありません」その一言は、会議室の空気を再び静かにさせた。が、その声にはどこか、不自然なほど波がなかった。低く、はっきりとした発音。だが、謝罪の言葉に伴うような感情の起伏は、微塵も感じられなかった。まるで、その台詞を百回以上繰り返してきたかのような、慣れきった抑揚のなさ。「いや、やばくないっすか?新入りでこれ……」村瀬が椅子に浅く腰掛けながら、横目で鶴橋に小さく囁いた。声は低く抑えられていたが、その嘲笑の響きは、妙に耳に残った。鶴橋はそれには答えず、ただ今里のほうを見ていた。彼は再びゆっくりと座り、手元の資料を整え直していた。薄い指先
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会議後の沈黙
会議室を出ると、廊下にはうっすらと暖かい光が射していた。春の陽が曇り空の隙間から差し込み、壁の白にやわらかく映えている。少し湿った空気が、朝のざわつきをほんのり和らげていた。廊下の奥に向かって歩く背中が一つあった。背筋は真っ直ぐとは言えず、わずかに右肩が落ちて見えた。スーツの生地は薄く、肩口には擦れたような皺が入り込んでいる。数歩先を、ゆっくりと静かに、まるで人の流れに溶け込むようにして、今里が歩いていた。鶴橋がその背中に視線を向けていると、隣に並んできた佳奈が、声を潜めるようにして言った。「……なんか、ちょっと変わった人やね」足音が交わるのを避けるように、彼女は軽くスニーカーのかかとを引きずって歩く。声色に含まれるのは、単なる印象ではなく、少しの戸惑いと、ほんの僅かな同情だった。「変というか…空気って感じやな」鶴橋は無意識にそう答えていた。口にしてみて、自分でもその表現が妙にしっくりきていることに気づく。確かに、空気のようだった。そこにいるはずなのに、存在を感じさせない。それでいて、視界の端に必ず引っかかるような、そんな人間だった。「いるのに、いないって感じやな。声も、なんか聞き取りやすいのに…残らへんっていうか」佳奈が小さく首を傾げる。鶴橋も同意を込めて目を細めた。歩きながら振り返ると、今里はもう廊下の曲がり角を左に折れていた。姿が消えてしまうその直前、何気なくその背を見ていた目が、ある一点で止まる。肩口に刻まれたスーツの皺。そこに光がかすかに落ちていた。照明の光ではなく、窓の外から射し込んだ自然光が、淡くその布のしわを浮かび上がらせていた。その瞬間、ふいに鶴橋は胸の内に奇妙な感覚を抱いた。人の背中に宿る“生活”のようなもの。日々の疲れ、長年身に染みついた習慣、繰り返し着用されたことでなじんでしまった布地。そこに刻まれているのは単なる摩耗ではなく、記憶に近い何かだった。佳奈はもう別の話をし始めていた。昼休みのメニューとか、総務が新しい備品を注文したこととか。だが、鶴橋の耳にはあまり入ってこなかった。あの背中の形が、まだ頭の奥でじわじわと残っていた。ただ古びたスーツを着ているだけ。そう言ってしまえばそれまでだ。しかし、あの落ちた肩のラインと、わずかに傾いた姿勢は…それ以上の何かを語っているように思えた。「この人、どんなとこで、何してきた
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群れのなかの異物
午後三時を少し過ぎた頃、営業部の休憩室にはゆるい笑い声が漂っていた。コーヒーマシンの横で、村瀬と数人の若手社員が紙コップを手に、週末の話題で盛り上がっている。壁際には観葉植物、隅に積まれた古新聞。蛍光灯の明かりが白く均一に空間を照らしていて、そこには誰もが安心して過ごせる程度の、緊張感のない空気が流れていた。「いや、マジでさ。あの人、何が得意なんすかね。今日も電話とって“はい、今里です”しか言ってなかったし」村瀬がそう言って、紙コップを傾けた。周囲の数人がくすっと笑い、その場は瞬時に“共感”の空気に包まれた。からかいのトーンは、直接的に相手を貶めるものではなかったが、確かにその中心にいる“あの人”が、ここにはいないことを前提とした話し方だった。「もう名刺だけ渡して、電話対応専門とかでいいんじゃないすか。受付席でも置いたらどうすかね」さらに村瀬が口角を上げて言うと、今度は誰かが吹き出した。少しだけ大きな笑い声が、ドアの外まで漏れる。そのときだった。休憩室の入り口に、すっと人の気配が現れた。今里だった。誰も気づく間もなく、その姿はそこにあった。が、誰とも目を合わさず、何も言わず、ただ部屋の端のウォーターサーバーへ向かって歩いてきた。足音はほとんどしなかった。革靴が床をかすめる音すら、他の笑い声のなかに吸い込まれていった。彼は紙コップを一つ取り、水を注ぐと、それをそのまま手にして部屋を横切った。村瀬が一瞬だけ動きを止めた。だが今里は彼の存在を認識している様子もなく、無言で通りすぎる。肩にかかったスーツのラインはゆるく、体にきちんと合っているとは言い難い。ネクタイはきっちりと締められていたが、その几帳面さと裏腹に、首元には少し疲れが滲んで見えた。水を口に含む仕草も、ため息すら吐かない。歩き方も、姿勢も、あまりに静かすぎた。まるでこの場の空気とは違うリズムで、ひとりだけ別の時間にいるようだった。鶴橋は、壁際のイスに腰掛けたまま、その様子を何気なく見ていた。自分から話しかけるでもなく、ただ静かに観察するように、視線を追っていた。何が変だというわけではない。だが、何かが“足りない”のだ。体の芯が空洞になっているような歩き方。誰にも気を使わないのに、誰にも敵意を向けていない。存在を主張しないのに、そこにいれば必ず目を引いてしまう。(ただの冴えないおっさ
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終業のあと、まだ席にいる
時計の針が午後七時を指していた。ほとんどの社員はすでに退社し、オフィスはしんと静まり返っている。複合機の電源は落とされ、照明も節電モードで一部だけが残されていた。明かりは窓際の一角にだけ淡く灯っており、その下に、ひとりだけ座っている男の背中があった。今里澪は、自席の前で黙々と紙を捌いていた。椅子に深く腰掛けるでもなく、猫背にもならず、ほとんど音を立てずにファイルを並べ直している。机の上には封筒、紙資料、ホチキス留めの契約書類、それらが几帳面に四角く整えられ、机に収まっていた。鶴橋蓮は、鞄を肩にかけながらその様子を一瞬見て、立ち止まった。誰もいないオフィスに響くのは、自分の足音と、今里の動かす紙のかすかな音だけ。人の声も、電話の着信音も、コピー機の稼働音もすでにない。その静寂の中で、紙が擦れる音だけが確かに響いていた。彼は蛍光灯の光を背にしていた。上から落ちるその光が、髪にわずかに反射している。整えられた分け目から覗く地肌、耳にかかる前髪。どこか生活感のない横顔。だがその静けさは、ただ無機質というよりも、何かを遠ざけているように見えた。鶴橋は声をかけかけて、言葉を呑んだ。「…お疲れ様です」言葉にしかけたそれは、喉の奥で詰まり、消えてしまった。今里は鶴橋に気づいていない様子で、資料を順にファイルへと差し込んでいる。動きは丁寧だが、無駄がなかった。所作に迷いがない。まるで身体だけが機械のように動いているような、感情を交えない動きだった。ブラインドは閉じかけていたが、わずかに開いた隙間から、外の光が入り込んでいた。春の宵、街の灯がぼんやりと窓ガラスに映り込み、その残照が今里の頬を横切る。暗がりのなかで彼の輪郭だけが、静かに浮かび上がっていた。その横顔は、何も語らなかった。けれど、語らないことが、あまりにも多くを示しているように思えた。疲れているようでいて、疲れていない。孤独に見えて、どこか達観したような落ち着きがある。何かを諦めきった人間の、淡々とした空気がまとわりついていた。鶴橋は自分の足がその場から動かないことに、ふと気づいた。帰るべき時間はとっくに過ぎている。それなのに、その背中から目が離
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重なりすぎた付箋
朝の光が窓越しに差し込む時間帯、営業フロアはいつものように慌ただしく立ち上がっていた。電話のベルがひとつ鳴って、すぐに止む。その余韻に重なるように、キーボードのタイピング音や書類をめくる乾いた音が入り混じる。空調の風が均一に天井から流れ、コーヒーの香りが微かに漂う中、鶴橋蓮は自販機横の倉庫室から戻ってきた。外回りの資料を取ってくるついでに少し伸びをしたせいで、肩が微かに重い。デスクに戻ると、見慣れないファイルがひとつ置かれていた。A4サイズのクリアファイルに、緑色の付箋がひとつ貼られている。文字は細く、整った字でこう書かれていた。「進捗整理(営業チーム)・資料更新済」手に取ってページをめくると、各資料の右上には異なる色の付箋が貼られていた。黄色、水色、そして朱色。どれも重ねて貼られ、ページが開きやすいよう端がずれている。まるで階段のように見えるそれは、ひと目で目次のように機能していた。最初は気にも留めず、内容を読み進めていたが、ふと鶴橋は手を止めた。付箋の並びが、自分が過去の打ち合わせで話した順番と、妙に一致している。見込み案件から契約進行中のクライアント、その後に新規候補。無意識のうちに話しやすい順にしているつもりだったが、その順序を“誰か”が拾って並べ替えたような、そんな配置だった。(…いや、たまたま?)手に持つ書類をもう一度めくり直して確認する。中身の構成も、以前自分が社内会議で使った資料の流れに近い。会話の中で出た細かい修正希望も、すでに反映されていた。思わず、声を出しそうになる。一番最後のページを見て、さらに息を詰めた。ファイル名がPDF出力用として印刷されており、「営業チーム用(202X\_0425\_Tsuruhashi)」と書かれていた。データ作成者の名前ではなく、誰のためのものかが明記されていた。思わず椅子の背もたれに寄りかかる。背中に固い感触が伝わるなか、周囲の雑音がふっと遠のいたように感じられた。誰かが、明確に自分のためにこの資料を作った。しかも、それを「そうとは悟られないように」さりげなく置いていった。作業して
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小さな手間のための時間
午後一時半、昼休みが明けたばかりの社内には、まだ微かに外気のぬるさが残っていた。エアコンの風が控えめに吹き、フロア全体は淡く沈んだ空気に包まれている。電話の着信音が時折鳴り、キーボードの打鍵音が連続して響く。そのなかを、鶴橋は軽く伸びをしながら、不要書類の束を手に立ち上がった。シュレッダーにかける資料を処理しようと、短く歩き出す。その途中、視線の先にひっそりと動く人影があった。今里澪だった。自席に座ったまま、机の端に資料の束を整えて並べている。前日配布した会議用資料。その綴じの甘さを気にしたのか、今里はひとつひとつ手に取り、ホチキスの留め直しをしていた。鶴橋は足を止めかけ、そのまま少し背を丸めて資料を抱えたまま様子を見た。声はかけない。ただ、静かに、目だけを向けていた。今里は無表情だった。だが、その指の動きはどこか異様なほどに丁寧だった。紙をひと束ずつ取り上げ、留め直し、端を指先で撫でていく。そのとき、手のひら全体を使うのではなく、人差し指と中指で紙の表面をなぞるようにして、空気を抜いていくような動きをした。滑らかな仕草。だが、それは明らかに意識的なものではなく、長年の癖のように見えた。指の腹が紙の端をなぞると、静電気のような感覚が伝わってきそうだった。紙がきしむ音もせず、ただ時間だけがそこに流れていた。鶴橋はそれを、まるで映画の一場面のように感じた。日常の中の断片、それだけで心がなぜか引き寄せられる。(これ、誰も気づかへんようなとこやのに…)誰も頼んでいない作業だった。誰からも指摘されていないし、誰からも評価されない。資料の綴じが少し甘いことなど、会議では誰も気にしなかった。だが今里は、それを「放っておけなかった」ように見えた。何度も同じように紙を取り上げ、手のひらで整え、位置を合わせてホチキスを留める。ほんのわずかだが、留める角度も揃っていることに、鶴橋は気づいた。ほんのわずかなズレが、彼のなかでは“乱れ”になるのかもしれない。(この人、何にこんなに丁寧なんやろ)思わず、もう一度息を吸い込む。質問のような、独白のよ
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「使えへん」って、ほんまに?
プリンターのローラー音が、乾いたリズムで鳴っていた。午前十一時半、まだ昼休み前の中途半端な時間。営業フロアの空気は、朝の忙しさを一通り過ぎたあとの、わずかな弛緩を孕んでいた。鶴橋は複合機の前に立ち、出力を待っていた。契約書類の一部を急ぎで印刷しているところだったが、機械の調子がいつもよりわずかに遅く、時間が歯痒いほどに流れていた。そのとき、背後から足音が近づいてきた。ヒールの音。一定のテンポで、軽やかに床を叩く。「おつかれさん」振り返ると、奥村佳奈が笑顔を浮かべて立っていた。細い指で髪を耳にかけながら、複合機の操作パネルを横目で確認している。「次、私。けっこう詰まってる?」「ああ、もうすぐ終わる思う。ちょっと時間かかっとるけど」そう言って鶴橋は目の前の機械を見やった。印刷はあと三枚。佳奈は鶴橋の隣に立ち、印刷が終わるのを待ちながら、ぽつりと口を開いた。「ねえ、鶴ちゃん」「ん?」「今里さんって、ほんまに使えへん人やと思う?」問いかけは唐突だった。だが、その声色には責めるでもなく、冗談でもなく、ただ純粋な“気になってる”という温度があった。鶴橋は、返事に詰まった。何気ない会話の中で、この手の質問は往々にして職場の“空気合わせ”につながる。適当に笑って「まあ、空気やなあ」とでも返せば会話は流れていく。けれど、今はなぜか、それができなかった。「…いや、ミスはあるけど」印刷された紙を受け取りながら、言葉を継ぐ。「なんかこう、“やろうとしてる”って感じはあるな」自分でも、何を根拠にそう言ったのか曖昧だった。だが、その言葉は口を突いて出たというより、心の奥から自然と流れ出てきたものだった。佳奈は鶴橋の横顔をちらりと見て、目元を少しだけ和ませた。「見てる人は見てる、ってやつやね」そう言って、軽く紙束を受け取り、操作パネルに自分のデータを呼び出し始めた。笑顔の奥にある何かを読み取るには、鶴橋にはまだ時間が足りなかった。彼はその場から離れ、資料を片手に自席へと戻って
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誰にも届かない昼休み
昼のチャイムが鳴る前から、社内にはそれとなく休憩の空気が漂い始めていた。誰かが椅子を引く音、弁当袋を開けるラップ音、雑談の第一声。いつものことだった。昼休みの始まりは、業務と業務の間の、一時だけ許された緩みであり、居場所の輪郭が色濃く浮かび上がる時間でもあった。営業部の一角では、村瀬が声を上げて弁当の中身に突っ込みを入れ、佳奈がそれを笑いながら受けている。別の席では二人組がスマホを見せ合って何か話している声が聞こえてくる。音と音の重なり合いが、昼という空白を満たしていく。そんななか、ひとりだけ別のリズムで動く人影があった。今里澪が立ち上がったのは、鶴橋が自販機横のカップコーヒーを選んでいたちょうどそのときだった。遠くない距離にあるその姿に、自然と目が向いた。今里はデスクに散らばった資料を丁寧に揃え、引き出しの中から財布を取り出した。それを上着の内ポケットに入れ、軽く身支度をする。動きに無駄はなく、しかしどこか儀式めいて見えるほど、整いすぎていた。鶴橋がボタンを押してカップが落ちる音がしたが、そのわずかな衝撃のような音にも、今里は反応しなかった。誰とも目を合わせず、何も言わずに、静かにオフィスの扉を開けて出ていく。イヤホンもつけず、スマホも持っていない。手ぶらで、ただ外へ出るためだけに歩いていた。足音は、驚くほど軽かった。革靴の底が床に吸い込まれていくようで、音を残さない。まるで、誰にも存在を気づかれないように歩く術を知っているようだった。鶴橋はカップを持ったまま、今里の背中を無意識に追っていた。ドアが開いて光が差し、背中がその向こうへ消える。誰も気にしていない。ただ自分だけが、その沈黙を目に焼き付けていた。フロアの外は、春の陽射しが眩しく、街路樹の桜がゆるやかに揺れていた。花びらが風に舞い、ふわりと今里の肩口にひとひら落ちた。肩に落ちたその花びらは、軽く揺れながら、しばらくそこにとどまり、やがて風に押されて彼の背中へと滑り落ちていく。けれど彼はそれに気づかず、ただまっすぐ歩いていく。(どこで、何食うてんねやろ。毎日、決めてんのかな)そんな疑問がふと浮かび、胸の内で消えてい
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誰にも触れられない背中
退勤十五分前、社内の空気はゆっくりと温度を落としはじめていた。パソコンの電源を切る音、引き出しを閉める音、椅子のキャスターが床を擦る音が、ぽつぽつと鳴り始める。喧騒とは違う、終わりの気配がフロアに漂っていた。鶴橋蓮は、まだ自席で書類を整理していた。資料のチェックリストをひとつひとつ確認し、確認印を押し、今週の営業進捗をまとめる作業に集中していた。もともとこうした作業は嫌いではない。淡々と積み上げていくことで、明日への区切りが見える気がする。そのときだった。視界の端に、細い影が静かに差し込んできた。「今日の分です。お疲れさまでした」低く、よく通る声が耳に落ちた。だが、その音には感情の起伏がなかった。ただ、そこにあるべき言葉を淡々と置いただけのような響きだった。机の端に、一枚の茶封筒が置かれている。印字された宛名もなく、ただ手書きで「営業・クライアント資料」とだけ書かれていた。字は細く、筆圧の弱い、どこか躊躇いを含んだ筆跡だった。「ありがとうございます」と、鶴橋は反射的に言葉を返したが、そのときすでに今里は背を向け、自席へと戻っていくところだった。歩幅は静かで、姿勢に無駄がない。振り返ることもなく、まるで風景の一部のように椅子へ沈み込んでいった。封筒を手に取る。微かに紙がこすれる音がした。中身は、今日の朝会で課題として挙がっていたクライアント向けの提案資料。しかも、すでに修正と加筆が施されている。会議の議事録に沿って、ポイントが整理され、構成が刷新されていた。だが、この作業は誰にも指示されていなかった。課長も特に言及していなかったし、役割分担の中にも組み込まれていなかった。少なくとも鶴橋自身が気づいていた限りでは、この資料を作る義務は誰にもなかった。にもかかわらず、そこには“必要なこと”が、すでにすべて整えられていた。(“使えへん”って、誰が決めたんやろ)封筒を開いたまま、手の中で微かに震える資料を見つめる。ホチキスの位置は揃えられ、ページの角はきっちり折り目がついている。添付されているメモは、一枚目の余白にそっと貼られていた。そこには「三頁目
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