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Home / BL / もう一度、隣に立つために~傷ついた先輩と僕の営業パートナー再出発記 / 誰にも触れられない背中

誰にも触れられない背中

Author: 中岡 始
2025-06-24 12:30:05

退勤十五分前、社内の空気はゆっくりと温度を落としはじめていた。パソコンの電源を切る音、引き出しを閉める音、椅子のキャスターが床を擦る音が、ぽつぽつと鳴り始める。喧騒とは違う、終わりの気配がフロアに漂っていた。

鶴橋蓮は、まだ自席で書類を整理していた。資料のチェックリストをひとつひとつ確認し、確認印を押し、今週の営業進捗をまとめる作業に集中していた。もともとこうした作業は嫌いではない。淡々と積み上げていくことで、明日への区切りが見える気がする。

そのときだった。視界の端に、細い影が静かに差し込んできた。

「今日の分です。お疲れさまでした」

低く、よく通る声が耳に落ちた。だが、その音には感情の起伏がなかった。ただ、そこにあるべき言葉を淡々と置いただけのような響きだった。

机の端に、一枚の茶封筒が置かれている。印字された宛名もなく、ただ手書きで「営業・クライアント資料」とだけ書かれていた。字は細く、筆圧の弱い、どこか躊躇いを含んだ筆跡だった。

「ありがとうございます」と、鶴橋は反射的に言葉を返したが、そのときすでに今里は背を向け、自席へと戻っていくところだった。歩幅は静かで、姿勢に無駄がない。振り返ることもなく、まるで風景の一部のように椅子へ沈み込んでいった。

封筒を手に取る。微かに紙がこすれる音がした。中身は、今日の朝会で課題として挙がっていたクライアント向けの提案資料。しかも、すでに修正と加筆が施されている。会議の議事録に沿って、ポイントが整理され、構成が刷新されていた。

だが、この作業は誰にも指示されていなかった。課長も特に言及していなかったし、役割分担の中にも組み込まれていなかった。少なくとも鶴橋自身が気づいていた限りでは、この資料を作る義務は誰にもなかった。

にもかかわらず、そこには“必要なこと”が、すでにすべて整えられていた。

(“使えへん”って、誰が決めたんやろ)

封筒を開いたまま、手の中で微かに震える資料を見つめる。ホチキスの位置は揃えられ、ページの角はきっちり折り目がついている。添付されているメモは、一枚目の余白にそっと貼られていた。そこには「三頁目

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