千歳の顔色が冴えないことに、すぐ秘書が気づいた。
この状況で軽く見るわけにはいかない。
誰もが知っている――千歳は、智也にとって命よりも大切な存在だということを。
秘書は慌ててその様子を智也に報告した。
そして五分後。
ちょうど国際会議を終えたばかりの智也が、休む間もなく千歳のもとに駆けつけた。
彼はまず千歳の額に手を当て、次に手つかずのままのスナック類を見て、心を痛めた。
「うるさかった?居心地、悪かったかな」
千歳の肩をそっと抱いて、智也は優しく囁く。
「……帰ろうか」
千歳は黙って頷いた。
すると智也は、まるで使用人のように千歳にコートを着せ、ハンドバッグを肩にかけて、腕を差し出す。
その一連の動きの中、彼の目線が周囲に向けられることは一度もなかった。
でも、千歳には分かった。
誰かの視線が、自分にずっと注がれていたことを。
帰宅後、智也はすぐにエプロンを着けてキッチンへ向かった。
兆単位の資産を動かす男が、料理をするなんて誰も想像できないだろう。
けれど、智也にとってそれは特別なことじゃなかった。
千歳は食にうるさく、それでいて人には優しい。
たとえお手伝いさんの料理の味が合わなくても、文句を言わずに静かに食べる量を減らすだけ。
それを見て、智也は彼女に料理を任せるわけにはいかないと決めていた。
キッチンで三十分、手際よく立ち回り、智也は三品一汁の夕食をテーブルに並べた。
息をつく暇もなく、智也は箸でひと切れのスペアリブをつまみ、千歳の口元へと差し出した。
「あーん」
千歳がちょうど飲み込んだ、その瞬間。
スマホの着信音が鋭く部屋に響いた。
画面を一瞥し、智也の表情が一瞬だけ強張る。
だがすぐに笑顔を作って、自然に言った。
「ごめん。会社の出資者からなんだ。ちょっとだけ電話出てくるね」
五分後、戻ってきた智也は申し訳なさそうな顔をして頭を下げた。
「トラブルがあって……ごめん。君は先に食べてて。すぐ戻るから」
返事を聞く間もなく、彼は嵐のように玄関へ駆け出していった。
千歳には分かっていた。
今の時間、彼を引っ張っていく相手は――あの秘書しかいない。
胸の奥に溜まっていた食欲は、すっかりどこかへ消えてしまった。
千歳は無言で玄関を出て、タクシーを止めた。
智也の車載記録を辿って、ある高級マンションの前で降りる。
ちょうどその頃、智也も同じマンションの地下駐車場に車を停めたばかりだった。
偶然にも――この場所は千歳が大学時代に親から贈られた、自分名義の部屋だった。
ルームメイトとのトラブルを心配した両親が、わざわざ購入してくれた部屋。
智也はその事実を知らない。
千歳は「空き家のままだったから」と適当な理由をつけて、管理室に向かった。
モニターを確認してもらっていると、エレベーターのドアが開く。
そこには――
智也と真理奈が、抱き合ってキスを交わす姿が映っていた。
千歳の目が見開かれる。
画面の中の智也は、真理奈の服の裾に手を差し入れ、強く、ためらいなくその体をまさぐっていた。
真理奈は甘い笑みを浮かべ、くすぐったそうに手で制する仕草をしながら、それを受け入れる。
そして、より深いキスへ。
エレベーターが十七階に到着した瞬間、智也はもう我慢できないといった様子で、真理奈を抱き上げてそのままフロアへ消えていった。
あまりに早く、あまりに自然すぎて、モニターを見ていたスタッフさえ気づかない。
だが、千歳だけは――
モニターの前で、ただ静かにそのすべてを見届けた。
涙が、突然頬を伝って落ちた。
裏切られていたことも、それが長く続いていたことも、もう全部知っていたはずなのに。
それでも、どこかで「違うかもしれない」と思っていた自分の甘さを、千歳は思い知った。
――どれだけ愛していたとしても、どれだけ信じていたとしても。
自分が全てを捧げた相手が、あんなふうに他の女に飢えた目を向けている姿を見ることほど、残酷なものはなかった。
かつての智也は違った。
起業当初、彼のまわりにはいろんな誘惑があった。
クラブに行こうと誘う友人たちもいたけれど、彼はそれをすべて断っていた。
「誰にでも欲情するなんて、それは人間じゃない。獣だ」
彼はそう言っていた。
そして照れくさそうに、こう付け加えた。
「……まあ、欲情するけど、君にしか反応しないけどね」
千歳はその時、恥ずかしくなって智也の胸を軽く叩いた。
――だから、どんな場所に行っても、彼のことは信じていられたのに。
でも今、智也は何度も、千歳との信頼を踏みにじった。
愛も、誓いも、すべて――
彼の手で、無惨に壊された。
千歳は抜け殻のようにタクシーに戻り、無言で座席に身を沈める。
ふと、スマホに通知が表示された。
――病院からの予約確認メッセージだった。
「一ノ瀬千歳様、6月15日午後2時にて人工妊娠中絶手術のご予約を確認いたします」
画面を見つめながら、千歳は静かに「確認」のボタンを押した。
涙が、止まらなかった。
夜遅く、ようやく帰宅した千歳は、ベッドに潜り込んだ。
どうしても我慢できなくなって、母に電話をかけた。
「……お母さん」
そのひと言だけで、胸の奥からすべての感情が溢れ出そうになる。
泣きそうになったが、心配をかけたくなくて、必死にこらえた。
けれど、母親はすぐに気づいた。
「どうしたの?千歳……何かあったの?」
千歳は口を開きかけたが、真実を吐き出す勇気はなかった。
「なんでもないよ……ちょっとだけ、お父さんとお母さんに会いたくなっただけ。15日に帰ってもいい?」
母はすぐに喜びの声をあげた。
「あらまあ、お父さんも今ちょうど聞いてたわよ。何作ろうかって、もうワクワクしてるわ。
千歳は私たちの宝物なんだから、いつ帰ってきてもいいのよ」
電話を切った後、千歳の頬は涙で濡れていた。
それから間もなく、玄関のドアがそっと開く音がした。
――智也だった。
真理奈と甘い時間を過ごし終えた後、シャワーを浴びてから帰ってきたらしい。
そっと千歳に寄り添い、彼は囁いた。
「愛してるよ」
その手が千歳の頬に触れた瞬間――
濡れていた肌に驚いて、智也は慌てて明かりをつけた。
「どうした?体調悪いの?すぐ病院行こう」
千歳はその手を制した。
目の前の、美しいはずの顔が、どうしようもなく汚れて見えた。
平手を飛ばしたかった。
大声で叫びたかった。
なぜ、どうして、と問い詰めたかった。
けれど彼女は、声を震わせながらこう言った。
「ねえ……智也。夢で見たの。あなたが浮気してたって」