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第3話

Author: 静かなる水の舟
千歳の顔色が冴えないことに、すぐ秘書が気づいた。

この状況で軽く見るわけにはいかない。

誰もが知っている――千歳は、智也にとって命よりも大切な存在だということを。

秘書は慌ててその様子を智也に報告した。

そして五分後。

ちょうど国際会議を終えたばかりの智也が、休む間もなく千歳のもとに駆けつけた。

彼はまず千歳の額に手を当て、次に手つかずのままのスナック類を見て、心を痛めた。

「うるさかった?居心地、悪かったかな」

千歳の肩をそっと抱いて、智也は優しく囁く。

「……帰ろうか」

千歳は黙って頷いた。

すると智也は、まるで使用人のように千歳にコートを着せ、ハンドバッグを肩にかけて、腕を差し出す。

その一連の動きの中、彼の目線が周囲に向けられることは一度もなかった。

でも、千歳には分かった。

誰かの視線が、自分にずっと注がれていたことを。

帰宅後、智也はすぐにエプロンを着けてキッチンへ向かった。

兆単位の資産を動かす男が、料理をするなんて誰も想像できないだろう。

けれど、智也にとってそれは特別なことじゃなかった。

千歳は食にうるさく、それでいて人には優しい。

たとえお手伝いさんの料理の味が合わなくても、文句を言わずに静かに食べる量を減らすだけ。

それを見て、智也は彼女に料理を任せるわけにはいかないと決めていた。

キッチンで三十分、手際よく立ち回り、智也は三品一汁の夕食をテーブルに並べた。

息をつく暇もなく、智也は箸でひと切れのスペアリブをつまみ、千歳の口元へと差し出した。

「あーん」

千歳がちょうど飲み込んだ、その瞬間。

スマホの着信音が鋭く部屋に響いた。

画面を一瞥し、智也の表情が一瞬だけ強張る。

だがすぐに笑顔を作って、自然に言った。

「ごめん。会社の出資者からなんだ。ちょっとだけ電話出てくるね」

五分後、戻ってきた智也は申し訳なさそうな顔をして頭を下げた。

「トラブルがあって……ごめん。君は先に食べてて。すぐ戻るから」

返事を聞く間もなく、彼は嵐のように玄関へ駆け出していった。

千歳には分かっていた。

今の時間、彼を引っ張っていく相手は――あの秘書しかいない。

胸の奥に溜まっていた食欲は、すっかりどこかへ消えてしまった。

千歳は無言で玄関を出て、タクシーを止めた。

智也の車載記録を辿って、ある高級マンションの前で降りる。

ちょうどその頃、智也も同じマンションの地下駐車場に車を停めたばかりだった。

偶然にも――この場所は千歳が大学時代に親から贈られた、自分名義の部屋だった。

ルームメイトとのトラブルを心配した両親が、わざわざ購入してくれた部屋。

智也はその事実を知らない。

千歳は「空き家のままだったから」と適当な理由をつけて、管理室に向かった。

モニターを確認してもらっていると、エレベーターのドアが開く。

そこには――

智也と真理奈が、抱き合ってキスを交わす姿が映っていた。

千歳の目が見開かれる。

画面の中の智也は、真理奈の服の裾に手を差し入れ、強く、ためらいなくその体をまさぐっていた。

真理奈は甘い笑みを浮かべ、くすぐったそうに手で制する仕草をしながら、それを受け入れる。

そして、より深いキスへ。

エレベーターが十七階に到着した瞬間、智也はもう我慢できないといった様子で、真理奈を抱き上げてそのままフロアへ消えていった。

あまりに早く、あまりに自然すぎて、モニターを見ていたスタッフさえ気づかない。

だが、千歳だけは――

モニターの前で、ただ静かにそのすべてを見届けた。

涙が、突然頬を伝って落ちた。

裏切られていたことも、それが長く続いていたことも、もう全部知っていたはずなのに。

それでも、どこかで「違うかもしれない」と思っていた自分の甘さを、千歳は思い知った。

――どれだけ愛していたとしても、どれだけ信じていたとしても。

自分が全てを捧げた相手が、あんなふうに他の女に飢えた目を向けている姿を見ることほど、残酷なものはなかった。

かつての智也は違った。

起業当初、彼のまわりにはいろんな誘惑があった。

クラブに行こうと誘う友人たちもいたけれど、彼はそれをすべて断っていた。

「誰にでも欲情するなんて、それは人間じゃない。獣だ」

彼はそう言っていた。

そして照れくさそうに、こう付け加えた。

「……まあ、欲情するけど、君にしか反応しないけどね」

千歳はその時、恥ずかしくなって智也の胸を軽く叩いた。

――だから、どんな場所に行っても、彼のことは信じていられたのに。

でも今、智也は何度も、千歳との信頼を踏みにじった。

愛も、誓いも、すべて――

彼の手で、無惨に壊された。

千歳は抜け殻のようにタクシーに戻り、無言で座席に身を沈める。

ふと、スマホに通知が表示された。

――病院からの予約確認メッセージだった。

「一ノ瀬千歳様、6月15日午後2時にて人工妊娠中絶手術のご予約を確認いたします」

画面を見つめながら、千歳は静かに「確認」のボタンを押した。

涙が、止まらなかった。

夜遅く、ようやく帰宅した千歳は、ベッドに潜り込んだ。

どうしても我慢できなくなって、母に電話をかけた。

「……お母さん」

そのひと言だけで、胸の奥からすべての感情が溢れ出そうになる。

泣きそうになったが、心配をかけたくなくて、必死にこらえた。

けれど、母親はすぐに気づいた。

「どうしたの?千歳……何かあったの?」

千歳は口を開きかけたが、真実を吐き出す勇気はなかった。

「なんでもないよ……ちょっとだけ、お父さんとお母さんに会いたくなっただけ。15日に帰ってもいい?」

母はすぐに喜びの声をあげた。

「あらまあ、お父さんも今ちょうど聞いてたわよ。何作ろうかって、もうワクワクしてるわ。

千歳は私たちの宝物なんだから、いつ帰ってきてもいいのよ」

電話を切った後、千歳の頬は涙で濡れていた。

それから間もなく、玄関のドアがそっと開く音がした。

――智也だった。

真理奈と甘い時間を過ごし終えた後、シャワーを浴びてから帰ってきたらしい。

そっと千歳に寄り添い、彼は囁いた。

「愛してるよ」

その手が千歳の頬に触れた瞬間――

濡れていた肌に驚いて、智也は慌てて明かりをつけた。

「どうした?体調悪いの?すぐ病院行こう」

千歳はその手を制した。

目の前の、美しいはずの顔が、どうしようもなく汚れて見えた。

平手を飛ばしたかった。

大声で叫びたかった。

なぜ、どうして、と問い詰めたかった。

けれど彼女は、声を震わせながらこう言った。

「ねえ……智也。夢で見たの。あなたが浮気してたって」
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