LOGIN誰もが知ってる――長宏グループの社長、一ノ瀬智也は筋金入りの「妻バカ」だ。 最初に出した音声AIの名前は「チイちゃん」 最新スマホの名前は「トシネ」 どうやら、彼の頭ん中には「千歳を全力で愛する」ってプログラムでも入ってるらしい。 ……千歳も、そう思ってた。 でも、現実はちがった。 だって、智也は――ずっと前から、秘書とベッドを共にしてたのだから。 その瞬間、すべてが崩れた。 「……子どもは、降ろす。いらない。 十日後、私は彼の前から、完全に消える」
View More千歳と隼人が結婚したのは、出会ってから三年後のことだった。 隼人の会社は順調に規模を拡大し、 その海外事業の大半は、千歳が責任者として指揮を執っていた。 ふたりはいつしか「最強で最も息の合った稼ぎ頭コンビ」と呼ばれるようになっていた。 そして、ある年の誕生日。 隼人は千歳に、10%の会社株をプレゼントとして贈った。 それだけでも驚きだったのに――彼はその場でひざまずき、真剣なまなざしを千歳に向けて言った。 「安原社長、僕はもう、君に見合うだけの男になれたでしょうか。 どうか――僕の妻になってください」 千歳は、思わず吹き出すように笑った。 そして、何のためらいもなく手を差し出し、はっきりと答えた。 「――喜んで!」 会場には、ふたりの友人や家族が大勢集まっていた。 歓声が響く中、その景色はかつて誰かと結ばれた日と、どこか重なって見えた。 けれど――隼人は違った。 千歳は、何度でも挑戦したいと思った。 何度でも、愛を信じてみたいと思えた。 けれど彼女の人生は、愛だけじゃない。 仕事があって、家族があって、友達がいて―― すべてが絡み合って、今の「安原千歳」という人間ができあがっている。 祝福の声に包まれる中、彼女ははっきりと理解した。 智也と隼人の違いを。 智也は、自分だけを頼ってほしがった。 けれど、彼が裏切った瞬間、千歳には「誰かの奥さん」としての価値しか残らなかった。 隼人は違った。 もちろん「如月夫人」と願ってくれたけど、 それ以上に「安原社長」として、自分の名前で輝いていてほしいと心から望んでくれた。 「……愛してるよ」 千歳は、隼人の耳元でそっと囁いた。 隼人の肩がピクリと震える。 彼は顔を上げて、涙をたたえた瞳でまっすぐに彼女を見つめ返した。 「――僕も、心の底から愛してる。千歳」 …… 結婚から二年後、ふたりには愛らしい娘が生まれた。 名前は、陽だまりのような女の子「もも」。 隼人は千歳が望んだ通り、ただの「いい夫」で終わる男ではなかった。 完璧な「パパ」としても、全力で彼女と娘を支えた。 ももを抱いて出勤する日々。 職場ではすっかり「子連れ出勤マスター」として知られるようになっていた。 千歳は、家
千歳は、すっかり多忙な毎日を送るようになっていた。 朝早くから夜遅くまで働き、時には徹夜での作業もあった。 まるで、他の研究職の仲間たちと変わらない社畜のような日々。 ――けれど、彼女の顔に浮かぶ表情は、充実感に満ちていた。 周囲の友人や家族は、あの離婚が千歳にとって致命的な痛手になると予想していた。 長いこと落ち込んで、何も手につかなくなるんじゃないか――と。 だが、千歳には「悲しむヒマ」すらなかった。 「このデータレポート、生産ラインに送って。あと展示会は、二人つけて一緒に来てもらえる?」 そんな彼女の指示が飛ぶ。 半年も経たないうちに、千歳は部長に昇格していた。 長い髪をすっきりまとめ、きちんとしたメイクに、堂々とした所作。 その姿には、色気と知性が自然とにじみ出ていた。 そして同時に、彼女はチームの中心人物でもあった。 短期間で隼人の会社と大学との連携を成立させ、さらに研究チームの規模を拡大。 投入された資金に見合う、確かな成果を次々と打ち出していた。 その日、ふと彼女がスマホをいじっていると―― 「ゴホン!」 近くで誰かがわざとらしく咳払いした。 千歳が顔を上げると、そこには隼人の姿。 ――もはや、ふたりの「暗号」のようなものになっていた。 千歳は胃腸が弱く、食事にはとても気を使っている。 だから隼人は、毎日違う手作りの弁当を用意して、彼女の健康管理を欠かさなかった。 ふたりは場所も選ばない。 ビルの非常階段の踊り場に腰を下ろして、仕事の話をしながら、もくもくとご飯をかきこむ。 まるで、息ぴったりのビジネスパートナー。 「午後の展示会、僕も一緒に行くよ」 隼人が自然な口調で告げた。 「最近、こっちの大学でギア系の新製品が出たらしくて、ちょっと気になっててさ」 千歳は顔も上げずに返す。 「――了解」 午後、ふたりは連れ立って展示会の会場へ向かった。 現地に到着すると、スタッフたちがすぐに声をかけてくる。 「如月社長、安原部長、ようこそお越しくださいました!」 千歳は、正直に認めざるを得なかった。 あのとき隼人が言っていた言葉は、やっぱり正しかった。 「奥さん」って呼ばれるより、「部長」って呼ばれる方が、ずっと、ずっと気持
千歳は正面玄関を避けて、こっそりと市役所の地下駐車場へと回った。 そこには、隼人が待っていた。 千歳が、どこか満足そうに戸籍謄本を見つめているのを見て、隼人がふっと笑って言った。 「……ねぇ、もしよかったら、どこかでご飯でも食べない?」 千歳は、迷うことなく頷いた。 ふたりは人目を避けて、プライバシーに配慮された隠れ家的なレストランを選び、個室に入った。 テーブルには、たっぷりの料理が並べられる。 千歳はお腹が空いていた。 というより、最近ずっと食欲がなかったのだ。 智也とのいざこざに振り回され、さらに試作開発の立ち上げ準備もあって、心身ともに疲れきっていた。 頬も以前よりほっそりしていて、顔色も冴えなかった。 隼人はそんな彼女の皿に、静かに料理を取り分ける。 千歳が小動物のように口を動かしてもぐもぐと食べる姿を見て、彼の胸には不思議な満足感が広がっていった。 気づけば、食事は終わっていた。 そのとき、隼人がふと口を開いた。 「……千歳さん。智也と離婚した後で、もう一度、結婚したいって思う?」 千歳は手を拭く動作を止めた。 その問いに、すぐには答えなかった。 代わりに、一瞬だけ目を伏せて、ゆっくりと考え込む。 やがて、彼女は静かに答えた。 「……うん、きっとすると思う」 その答えに、隼人の瞳が一瞬で明るくなる。 千歳は続けた。 「両親の姿を見て、私は『理想の愛』ってものを信じてた。 だからこそ、それを智也にも求めたし、期待してたの。 でも、その想いは裏切られた。 ……だけど、それでも、もう一度誰かと出会える気がするの。父と母のように、温かくて、誠実な人に」 「私は運がいい方だと思ってるし、これからもそう信じてる」 隼人は、手にした湯飲みをぎゅっと握りしめた。 さっき注がれたばかりの熱いお茶が指に触れ、確かに熱かったはずなのに―― 彼は、その痛みにすら気づいていなかった。 彼は、ほんの少しだけ、息をのんだ。 そして、勇気を振り絞って尋ねる。 「……じゃあさ。僕のこと、その候補に入れてもらえたり……するかな?」 今度は、千歳の方が驚いた番だった。 そういえば、母がぽろりとこぼしていたことがある。 ――「如月くんがあんなに親切なの
千歳が智也と再び顔を合わせたのは、三日目の午後のことだった。 正確に言えば――智也がプライドを捨て、業界の知人たちに頼み込んで、ようやく実現した一度きりの面会だった。 以前のような、洗練されたエリートの面影は、そこにはなかった。 無精ひげを伸ばし、顔の半分はマスクで隠し、まるで世間から逃げるような姿。 それもそのはずだった。 ここ数日の間に、ネット上での騒動は拡大の一途をたどり、智也と真理奈は「悪人カップル」として徹底的に叩かれていた。 長宏グループの株価は、開場直後からまさかのストップ安。 新商品に至っては返品が相次ぎ、その理由も至ってシンプルだった。 「自分が浮気したくせに『愛妻家』を装って、妻の名前を商品に使うとか、冗談じゃない」 消費者たちはそんな偽りの姿勢に、完全に背を向けたのだ。 社内も大混乱。 株主たちは一斉に辞任を要求し、女性社員の多くが不快感を理由に転職を検討し始めた。 経済の専門家たちは口を揃えて言う。 「今の長宏グループは、死にかけの駱駝のようなもの。再生の道があるとすれば――『一ノ瀬智也』という重荷を切り捨てるしかない」 そんな中、千歳の前に現れた智也は、すっかり憔悴していた。 これまでのような落ち着きや優しさは影を潜め、焦燥と苛立ちが彼を支配していた。 「千歳……君は一体、どうしたいんだ! 君だって知ってるだろ!?長宏は俺の命みたいなもんなんだ! それを、君は壊そうとしてる! ここ数日、何人から罵声の電話が来たと思ってるんだ?どれだけの損失が出たか、わかってるのかよ!」 智也の叫びに、千歳は静かに、けれどはっきりと答えた。 「違うよ。壊したのは――私じゃない。あんたよ」 その一言に、智也は動きを止める。 千歳はゆっくり、でもはっきりと続けた。 「自分が浮気しておきながら認めようとしなかったのも、私のお父さんを怒らせて、病院送りにしたのも、ネットで私を陥れて、名誉を汚したのも――全部、あんた。 これは自業自得よ」 千歳のその一言に、智也の目が赤く染まった。 まるで今にも泣き出しそうな声で、彼は問う。 「じゃあ……じゃあ君は、俺に何をすれば満足するんだ? 真理奈の子どもはもう諦めさせた。彼女はもうこの街を追い出して、君の前に二度と
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