誠士が電話に出るために病室を出た。
戻るまで待ってろと言い残して。
考え込んでいると、親友の東雲楓(しののめ かえで)が目を赤くして病室に飛び込んできた。
「あんなクズ、忘れた方がマシだよ。先生が言ってた。脳が自分を守るために、一番つらい記憶だけを消したって」
スマホのチャットには、七年間分の私の全てが詰まっていた。
母が颯真を助けて焼死した日から、私はそのまま彼の家の「妹」になった。
彼は私に優しかった。だから私は、それを恋だと勘違いした。
やがて私は、恥も外聞もかなぐり捨てて、何度も彼にアプローチした。
彼は冷静な顔で私に服を着せ、そして――結婚を承諾した。
それでも私は信じた。ようやく想いが届いたんだって。
けれど、あの夜。
彼が仏前に跪き、電話越しの美苑にむき出しの欲を吐いた声を聞いた。
「彼女を娶るのは、恩返しと因縁の清算。来世で、もう関わらずに済むように」
そのとき初めて、自分の愚かさを思い知った。
あの晩、楓と二人で泣きながら語った。
「彼のことを忘れられるなら、骨を抜かれて皮を剥がれてもいい」
朝まで泣き明かしたあの日。
私の顔色が悪いのを見た颯真は、焦って私を抱きかかえ車に乗せた。
けれど途中で、美苑が帰国したと知ると、あっさりと私を車から突き落とした。
走ってきた車に弾かれ、私は海を跨ぐ橋から落ちた。
そして願い通り、彼の記憶だけを――綺麗さっぱり失くした。
過去を聞いても、心が重くなることはなかった。ただ、ほっとした。
「楓、三日後の式――私があんたの代わりに誠士と結婚するよ」
颯真との婚約が発表されたあの日、彼氏のいるはずの楓までもが、政略結婚を求められた。
「正気?相手は颯真の宿敵なんだよ?何年も女優囲ってるような男に、あんたを渡すとか無理。奈落の次が地獄じゃん」
私は手術同意書を見せた。そこにあるのは、誠士の名前だった。
「天敵じゃなきゃ、こっちから願い下げだよ。
少なくとも、命を助けてくれたし、あの場の恥もかかせずに済んだ。
誰と結婚しても変わらないなら、せめて借りのある人の方がいい……それに、お義父さんが御影家に逆らえると思う?」
あの頃、海市中が私を後ろ指さしていた時、楓の父が私を「娘」だと公言してくれた。
だから皆、黙らざるを得なかった。
今、楓の家が苦しいなら、私は「娘」として、この結婚を受け入れて当然だと思った。
その代わりに、楓が私のために用意してくれた。
結婚祝いとして、最高の「贈り物」を。
それを渡すのは、結婚式当日。颯真に。
楓を帰し、私はひとりで別荘に戻った。荷物をまとめるために。
無意識に鍵の暗証番号を誕生日にしてみる。でも、何度やっても開かない。
【荷物を取りたいけど。パスワード、教えてくれない?】
メッセージはいつものように、返事もなく無視された。
体が冷えきって、諦めかけた頃、ようやく鍵が『カチャ』と音を立てて開いた。
パスワードは、彼とあの女の結婚日だった。
そして、ドアの隙間から聞こえてきた。女の子の甘ったるい声。
「ねえ、颯真。ねえこの数珠……わたしが撫でてたから、すっごく艶が出てるでしょ?」