LOGIN海市のみんなは知ってる。 颯真が私と結婚を決めたのは、仕方なく……だったって。 この七年間、何度私が想いを伝えても、彼はいつも数珠を撫でてばかり。 その瞳には、一度だって欲なんて浮かばなかった。 でも、あの夜だった。 彼が、心を寄せる女からの国際電話を受けたのを見てしまった。 女の子の声を聞いた瞬間、あの冷静だったはずの彼が、明らかに動揺して…… 熱を帯びたその手には、欲望が溢れてた。 次の日、美苑が帰国。 彼は躊躇いもなく私を車から突き落とし、自分は空港へ向かった。 私は大橋から落ちて、記憶をなくした。 その間に、彼があの女にプロポーズしたニュースが、街中を駆け巡った。 そして、その翌日。 彼はようやく現れた。 病室で彼は言ったの。 「結婚届は出してもいい、ただし――ふたり同時に妻にする」って。 そのまま、三人の結婚式を発表してのけた。 呆気にとられる私は、誠士の腕に抱かれながら、ぽかんと彼を見つめた。 「……あんた、誰?」
View Moreそのときだった。 突如、私のすぐ横を――車が猛スピードで突っ込んできた。 「ひより!」 颯真が咄嗟に私を抱きしめ、地面を転がるように庇ってくれた。 数回転がってようやく止まったとき、彼の身体はすでに傷だらけだった。 それでも彼は、痛みを無視して、真っ先に私の顔を覗き込んだ。 「ひより、大丈夫か……?」 でも、私は―― 頭に残っていた古傷に衝撃を受け、そのまま意識を手放した。 次に目を開けたとき、見えたのは誠士の顔だった。 ベッドのすぐそばで、彼は切羽詰まった様子で医師に問いかけていた。 「頭を打ってます。記憶の回復は、まだ断定できません」 私は喉がカラカラで、かすれた声で尋ねた。 「……ねぇ、あなたが私の……夫?」 誠士は眉をひそめて、じっと私を見つめた。 「今度は……もう忘れないでくれよ。だって俺たち、もう子どもまでいるんだから」 私がくすっと笑って、手で口を覆うと、ようやく彼は安心したように目を細めた。 「……つまり、前のことは思い出した?」 そう尋ねたその瞬間―― 病室のドアが開いた。 そこに立っていたのは、颯真だった。 私は首を横に振り、まるで見知らぬ人を見るように彼を一瞥したあと、視線をまた誠士に戻した。 「ううん……たぶん、大事じゃない人のことは忘れちゃったみたい。でも、あなたとの幸せな瞬間はちゃんと覚えてるよ」 颯真が連れてきた医師が診断を下した。 「今回の衝撃でも記憶が戻らないようなら、おそらく――永久的な記憶障害です」 その言葉に、颯真は力を失ったようにその場に崩れ落ちた。 もう、病室の中に足を踏み入れることすらできなかった。 その後の調査で、あの車は――美苑が仕向けたものだったと判明した。 彼女は私を殺そうとしていたのだ。 だが、すぐに捕まることを恐れた颯真は―― 警察が連れて行く前に、路上で彼女を刺し殺した。 その頃、私は退院したばかりだった。 混み合った通りの向こう側―― 真っ赤な手で血を滴らせた颯真が、遠くから私を見ていた。 私は、咄嗟に薬指を押さえてしまった。 それを見て、颯真はすぐに気づいた。 ――私が、嘘をつくときの癖。 彼のくれた指輪があったはずのその場所には、もう別の指輪がはまっていた
「俺は、お前を愛してる。だけど、そう言い切るには――仕方なかったって、自分に言い聞かせるしかなかったんだ。 『還すため』に、お前と結婚するって。そう思えば、お前の母親の遺言から逃げられると思った」 そう言いながら、彼はスマホを差し出してきた。 そこに映っていたのは、私の――眠っている顔だった。 「……あの夜、電話なんてしてなかった。ただ……お前の写真を見ながら、してはいけないことをした」 そして今度は、私が捨てたはずの数珠を取り出し―― 私の手首に、勝手にはめてくる。 「忘れてても大丈夫。俺がぜんぶ、話してあげるから。 これは数珠だ。結婚を決めたときに、仏様に頼んで手に入れた――ふたりが、来世も来来世も、一緒にいられるようにって」 その瞬間、私は息を呑んだ。 ――あの頃。 私が彼を好きだった時、彼も……私を想っていたの? でも、それでも。 今の私には――もう、ただ気持ち悪かった。 「じゃあ訊くけど、そんなに私を『愛してた』なら―― なんで、海市中の人間に『私が恥知らずで、必死に追いかけてるだけ』って思わせたの? なんで、私が式場で道化師みたいに見えるのに、別の女の人に夢中な顔をしてたの? 颯真、あんたが本当に愛してたのは、私じゃない。あんた自分でしょ」 私は手首を振り払って、数珠を床に投げ落とす。 そのまま、かかとで――思い切り、踏み砕いた。 「たとえ記憶が戻ったって、私は今日のこの選択を絶対に後悔しない」 その言葉で、彼の目の光がふっと消えた。 「……でも、お前は言ってたじゃないか。 もし、数珠を一緒に着けられたら、その時は、過去の全部を許してくれるって……」 私は返事をせず、そっと誠士の手を取る。 もう迷いも、未練もなかった。 「忘れたの。だから、あんたも忘れて」 振り向かずに、そのまま車へ乗り込んだ。 その日から、颯真は――ぱたりと姿を消した。 すべてが終わったと思った。 けれど、それは「終わり」じゃなく、「間」だった。 彼は、専門医を何人も呼び寄せ、「記憶を取り戻す方法がある」と、しつこく言い続けた。 私はすべて、扉の外で断った。 ……そして、五ヶ月が経ったある日。 ようやく、彼は私のふくらんだお腹に気がついた。 その瞬
銃口は、颯真自身の胸元へと向けられていた。 「ひより、お前が今こんな風なのは、記憶を失ってるからだ。だから責めたりしない。 でも――少なくとも、俺が『颯真兄さん』だってことは覚えてるだろ? お前が戻らないって言うなら……今ここで、俺は死ぬ」 彼は、私がまだ「少しだけ」記憶を持っていることを見抜いていた。 ――でも、彼は知らない。 その欠片の記憶こそが、私を正気に戻してくれたのだと。 記憶を失った私に、彼がかけた言葉も行動も―― ひとつとして優しさがなかった。 だから、たとえ何かを思い出したとしても、私の心はもう彼に傾くことはなかった。 「……颯真、私ね。ずっと後悔してたことがあるの」 その言葉を聞いて、彼は必死に首を振った。 「そんなはずない……ひより、今のは怒ってるだけだよね?」 ――願うように、縋るように。 けれど私は微笑んでいた。冷たく、穏やかに。 「私が人生で一番後悔してるのは……母があんたなんかのために、命を落としたこと」 その瞬間、彼の目から光が消えた。 「――ッ!」 乾いた銃声が、礼堂の天井を震わせた。 鮮血が弧を描きながら、絨毯を赤く染める。 けれど、弾丸は致命傷には至らなかった。 彼は、かろうじて生きていた。 ――病院のベッドで目を覚ましたとき、彼の視界に私の姿はなかった。 痛みを抱えたまま、血の滲む胸を押さえながら、彼は私の家の門の前へ。 真冬の夜。雪は絶え間なく降り続き―― その白の中、彼はずっとひとり、跪いていた。 やがて、別荘の灯りが最後のひとつまで消えた。 でも、そこに私の姿が映ることはなかった。 雪は三日三晩、降り続いた。 ――その三日間、私は誠士とふたり、誰にも邪魔されない静かな時間に溺れていた。 颯真は、ただ黙って――三日間、私の家の門の前で雪に打たれていた。 そして四日目。 空からようやく光が差し、雪が止んだその日。 私は誠士に連れられて、ひさびさの外出に出ようとしていた。 だけど――車の前に、ぼろぼろになった彼が立ち塞がった。 顔色は真っ白で、体は震え、まるで今にも崩れ落ちそうだった。 「ひより……帰ってきてくれないか?」 その声の奥にあったのは、これまで一度も見せたことのない深い情
「これより――御影誠士さんと樅山ひよりさんの結婚を正式に宣言いたします!」 司会の声が響き、誠士が私を腕の中に抱き寄せて、そっと唇を重ねた。 目の前が、祝福の拍手と笑顔で溢れる。 皆が口を揃えて言う。 私は御影家の若様が、手を尽くして手に入れた奥さんだって。 そのとき―― 「俺は認めない!」 バンッと扉が開き、颯真が真っ赤な目で飛び込んできた。 わずか一週間ぶりの姿なのに、伸び放題の髭、荒れた顔…… あんな彼は見たことがなかった。 「ひより……やっぱり、仏さまは俺の願いを聞いてくれたんだ。 迎えに来たよ」 私は眉をひそめて、無意識に誠士の背中に隠れた。 その仕草を見て、颯真の瞳に一瞬だけ走る苦しげな色。 「……怖いのか?」 小さく笑って、彼は自分に言い聞かせるように言葉を続けた。 「ひより、お前が俺たちの結婚を壊したのは、記憶を失ったせいだ。きっと誰かに操られてるだけなんだ。 俺が全部悪かった。あんな風に扱ったこと、謝る。でも、御影にだけは嫁がせない。あいつは俺と張り合うためにお前を利用してる。 お前が愛してるのは、俺だろ?一緒に帰ろう。ゆっくり記憶を取り戻せばいい」 そう言って、彼は私が捨てたはずの指輪を取り出し、手を伸ばしてきた。 「お前は俺の花嫁なんだ。お前が望んだ結婚式……俺が用意する、お前だけのために」 その場に連れてきたのは、数百人規模の私設警護。 圧に満ちた空気に、会場がざわめき出す。 誠士は私の手を強く握りしめた。 絶対に手放さないという決意が、その温度に伝わってくる。 そして次の瞬間、客席からもぞくぞくと立ち上がる男たちの姿が。 手には、武器――銃や警棒が握られていた。 この状況――誠士はすでに予期していたらしい。 手筈はすべて整っていて、あとは引き金ひとつで火花が散る寸前だった。 私は深呼吸して、沈黙を破る。 「私があんたを愛してるって?……その証拠は、どこにあるの?」 颯真はそっと胸元から、一冊の焦げ跡のあるお経を取り出した。 ――かつて火事からかろうじて残ったものだ。 「お前はこれを、何千何万回も俺のために書いたんだ。それを愛じゃないなんて、俺には信じられない」 彼の手からそれを受け取り、私は無言で床に置いた