雨に濡れたせいで、葉月は少し風邪を引いたようだった。
朦朧とした頭のまま眠りに落ち、次に目を覚ましたときにはすでに午後になっていた。
部屋を出た瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは、晴樹が寧音の濡れた髪を丁寧に拭いている光景だった。
「もう、そこまで拭かなくても大丈夫よ。ちょっとしか濡れてないし」
「ダメだよ、ちゃんと乾かさないと。風邪引いたら辛いのは君なんだから」
葉月はその場に立ち尽くしたまま、ふと昔のことを思い出した。
付き合い始めて最初の年、晴樹は楽しみにしていたライブに葉月を連れて行った。
葉月の体調が悪かったが、彼の気分を壊したくなくて我慢していた。
けれど彼はすぐに異変に気づき、ライブ開始からわずか10分で彼女を連れて病院へ向かった。
あとになって、晴樹は「もっと早く気づければよかった」とそう悔やんでいた。
あれから四年間。葉月が咳をするだけで、晴樹は何か大ごとが起きたかのように慌てていた。
なのに、今日の彼は、すべての気遣いを別の女性に向けている。
「葉月、誤解しないで、俺たちは……」
寧音の髪を拭き終えた晴樹が、ようやく彼女の存在に気づいた。
その直後、寧音が口を開いた。
「私の部屋にゴキブリが出たの。怖くて、それで晴樹が『しばらくここに住めばいい』って」
葉月は晴樹を見つめた。「それが言ってた急用?」
「寧音は君と違って、甘やかされて育ったから、ちょっとしたことでも耐えられなくて……」
その瞬間、葉月の目が赤くなった。
ようやく自分の発言の酷さに気づき、晴樹は慌てて言い直す。
「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ」
葉月の両親は彼女が幼い頃に離婚し、彼女は親戚の家を転々としながら育った。
だからこそ、彼女の一番の夢は「自分の家を持つこと」だった。
付き合って三年目、晴樹は必死に働き、この家を買った。「ここが、ふたりの家だよ」そう言ってくれた。
なのに今、彼はその家に別の女を住まわせようとしている。
しかも、彼女の一番脆いところを、迷いなく突き刺してきた。
「大丈夫だよ」
傷ついたのは、自分が差し出した弱さのせい。そう納得した。
でもこれからは差し出さない。
晴樹は安心したように、葉月の手を強く握った。
そのとき、寧音が無邪気に問いかける。「晴樹、この部屋、私にくれたけど、あなたはどこで寝るの?」
晴樹の手が一瞬ピクリと震える。
「書斎で寝るよ」
寧音が部屋に入っていった後、晴樹はすぐに葉月に弁明した。
「結婚前のカップルって、会う時間を減らしたほうがいいって言うだろ?俺たちのために、距離を取ったほうがいいかと思ってさ」
葉月は、静かに手を引き抜いた。
「大丈夫だよ」
口調は穏やかなのに、その一言が妙に晴樹の胸に重く響いた。
深夜、雷雨が突然降り出した。
葉月のスマホに晴樹からメッセージが届く。
【葉月、君が隣にいないと落ち着かないよ】
ちょうどその時、寧音からも写真付きのメッセージが届いた。
写真の中、晴樹はベッドの縁に座り、寧音に手首を握られたまま、いつもより柔らかい笑みを浮かべていた。
【雷が怖くて眠れなかったら、彼が「一緒にいてあげる」って。呼び戻してもいいけど】
葉月は胸が苦しく、息が詰まるようだった。
彼女は起き上がり、風邪薬を取り出した。そこへ晴樹から、もう一通メッセージが届く。
【でも、君との未来のためなら、不安でも耐えてみせるよ】
葉月はコップに水を注ぎ、風邪薬と込み上げる吐き気ごと無理やり飲み込んだ。そして、指先で数文字を打ち込んだ。
【うん、おつかれさま】
そのまま、寧音とのトークルームを開き、ひと言だけ送った。
【いいよ、好きにして】
ベッドに身を沈め、葉月は頭の中で日数を数える。
あと十四日。もうすぐだ。