葉月はふっと笑った。
「だから、なぜ彼はあなたと結婚しないのね?」
寧音の表情が凍りついた。
「葉月、勘違いしないで。彼がたとえあなたと結婚しても、心の中には私しかいないのよ」
そう言って、寧音はわざと手に持ったカップを揺らした。
葉月の目が鋭くなった。それは、結婚式のために彼女が手作りしたペアカップだった。
たとえ使われなくても、自分の大切なものだった。
「返して」
葉月が手を伸ばした瞬間、寧音は自分から床に倒れ込んだ。
カップは粉々に砕け散った。
「何してるの?」
直後、晴樹が飛び込んできて、葉月を突き飛ばすように倒した。
破片が彼女の手のひらに深く食い込み、鋭い痛みが走った。
「彼女がカップを壊したのよ、私はただ……」
「たかがカップ一つ壊れたぐらいで、何大騒ぎしてるんだ。葉月、君って本当に理解できない」
葉月の言葉は途中で止まった。指の隙間からにじみ出る血が床にぽたぽたと落ちていく。
彼の腕の中で、寧音が痛そうに声を上げた。
晴樹はたった二秒だけ躊躇し、すぐに寧音を抱き上げて玄関へ向かった。
「大丈夫だ、俺がついてる。病院に連れて行く」
痛みに、葉月の目には涙がにじんだ。下を向き、カップの破片を見つめる。
この五年間、彼女は晴樹を全力で愛してきた。だが、どんな状況であっても、最終的にはすべて寧音が優先される。
その瞬間、心の奥で渦巻いていた怒りは、すっと静まり返った。
悪いのは自分じゃない。ただ、彼がそれだけの価値もない男だったというだけ。
葉月は、残っていたもう一つのカップと砕けた破片を、まとめてゴミ箱に捨てた。
一瞥もくれなかった。
その夜、葉月は久々に深く眠れた。
翌朝、晴樹からメッセージが届いた。
【ごめん、寧音の母親と母さんって親友で、昔から彼女を守るように言われてたんだ。事故があったら困るし、母さんも君に良い印象持ってないし……】
【寧音がずっと泣いてたんだ。一人で病院に残すなんてできなかった。だから昨夜は帰れなかったけど、誤解しないで】
どこまでも、自分の立場しか考えていないメッセージだった。
葉月はスマホを放り出し、一言も返信する気になれなかった。
午後になって、晴樹が寧音を連れて帰ってきた。
まずは寧音を休ませ、それから葉月の部屋のドアをノックした。
「君があんなにひどく怪我してるなんて知らなかった。もう二度と、あんなことはさせない」
晴樹は彼女の手をそっと握った。強く握ることすらできなかった。
傷は深くはないが、血痕が痛々しい。
葉月は何気なく返事をしながら、手元の結婚式カウントダウンのカレンダーにまた一日を斜線で消した。
このカレンダーを作ったとき、彼女は心から式を楽しみにしていた。
だが今、彼女が数えているのは「離れる日」だけだった。
「葉月、カップはどうしたの?」
葉月は視線をそちらに向けただけで、答えなかった。
晴樹は焦り始めた。
「一つだけって縁起悪いもんな……今度もっといいペアを作りに行こう」
「もう、今度なんてないよ」
「え?」
彼は聞き取れなかったようだが、表情は明らかに不安げだった。
「もし疲れてるなら、準備は俺がやるよ。それに、君が寧音のこと苦手でも問題ない。式が終わったら、彼女とはもう会わないって約束する。
ねえ、葉月?」
手を握られ、葉月が彼を見た。
「手がすごく冷たい。体調でも悪いの?」
彼の顔には、心配と優しさがにじんでいた。
「毛布持ってくるね」
そう言って、彼は急いでクローゼットを開けた。
だが、そこには半分しか服がなかった。消えていたのは、葉月の持ち物だった。
晴樹は慌てて振り返り、部屋の隅々まで見渡した。
その時初めて、かつて彼女のもので溢れていた部屋が、今はすっかり空になっていることに気づいた。
晴樹の声が震えた。
「俺が贈ったプレゼントは?
葉月、君の服は、どこに行ったんだ?」