Chapter: 38.芹沢専務の自宅で鉢合わせた人私はまだ、ホテル暮らしをしている……試験が終わったら、ホテルを出て一番はじめに目についた不動産会社で、一番はじめにおすすめされた物件に住むと決めていた。結局試験は受けられなかったけれど、終わったらすぐに芹沢専務の部屋に置きっぱなしの荷物を引き取りに行くつもりだった。今夜、それを実行に移すべく、芹沢専務のマンションにやって来たところ。遅くなるから別日を指定されるとか、そういうことは避けたくて、連絡せずにマンションに来た。……あいにく、雨が降ってきた。まだカードキーを預かっていることから、マンションのエントランスに入らせてもらうことにする。雨はどんどん激しくなり、やがて横殴りの雨に変わっていったから。紅はソファに腰掛け、駐車場に入っていく車のヘッドライトをぼんやり見つめた。だが、雨のせいで車種はまったくわからない。深いため息と頬杖をつく紅。……実は自分の行動を後悔していた。それは、すべてを与えて興味を失わせ、芹沢専務の好意をなかったことにする作戦のこと。あの日、芹沢専務に体を任せてしまったことを、親友の亮子に言えないでいる。この間2人で会った時、彼女の言葉の端々から、専務に対して特別な気持ちが芽生え始めているのを感じた。……こんなことなら、よけいなことをしなければよかったのに。本当は、この年になって経験がないことは、紅の大きなコンプレックスだった。どこか大人になり切れない自分との決別……そして、誰にも言えない本音。神楽と京香がそういう関係なら、私だって。……そんな気持ちがあったことは、誰にも言えない。そこへ、あらぬ方向から話し声が聞こえた。駐車場から直接上がって来られるドアが開いてとっさにそちらを見る。話し声の主は、芹沢専務と……思わず身を隠してしまったのは、一緒にいる相手がひどく思いがけない人だったから。……どうしてあの人がここに?紅は物陰から2人の様子をうかがった。2人を乗せたエレベーターは、芹沢専務の部屋がある階で停まった。その場で腕組みをして、少し考える。部屋に入って5分?それとも10分、あるいはそれ以上……経験の無さは、これまであらゆる人から聞かされた体験談を思い出して補う。「……よし。行くわよ」時間を見計らい、芹沢専務の部屋まで上がる。エレベーターを降りると……そこに人影はない。間違うはずもない部屋
最後更新: 2026-07-13
Chapter: 37.Side.神楽 膨らむ想い紅をトイレの小窓から出して1時間もしないうちに、店の外が賑やかになった。覗いてみると救急車に消防車、パトカーまで停まっていて驚く。「……ここで気づいてもらえば解決じゃないのか?」声を上げようとした次の瞬間、ずっと開かなかったドアがノックされた。「二階堂さん、大丈夫ですか?」男性の声がして、答える前に響き渡る機械音。特殊な工具を使い、魔法を解くようにドアが開いた。警察と消防に事情を聞かれているうちに、店のオーナーらしき男性が血相を変えてやって来た。「こ、この度は、従業員のミスで店内に取り残されたとのことで……」「えぇ。恐ろしくて精神を病むかと思いました」「そ、それは……大変申し訳ありません!改めましてお詫びに伺いたく……」「二階堂総合病院の外科医です。何かあったらどうぞ」頭を下げ続けるオーナーの肩をポンと叩き、その場を立ち去る神楽。……救出を呼んだのは紅だな。「……バカだな。俺なら平気だと言ったのに」とりあえず昨夜持ち逃げされた携帯を取り返さなければならない……神楽の足は、二階堂総合病院へと向かった。「悪ふざけが過ぎました……大変申し訳ございません」外科病棟ナースステーションに顔を出せば、そこにいた全員が整列して頭を下げた。……そのなかに、颯真の姿もある。「君ら、昨夜泥酔してたように見えたが、勤務に支障はないのか」「ウコンを飲みましたから、大丈夫です」「は?ウン……」「ウコンですっ!」看護師の1人が、昨夜拉致した神楽の携帯を手に乗せ、うやうやしく差し出す。力任せに奪いながら颯真に声をかけた。「片桐さんの携帯、持ってきてるんだろうな?」ちゃんと返せ、と言おうとして……意外な返事に口をつぐむ。「さっき来て、返しました。それで、閉じ込められていたのを知って……」えへへ、とウィンクしながら笑う颯真の手首をつかむ。「さっき……?あいつは今日試験のはずだが?」……先にこっちに来たのか、消防に連絡をしただけじゃなく?「そうみたいだね。この恨みは一生忘れないって凄まれてビビった……」「あいつ、ものすごく怖いからな?……せいぜい首を洗って待っとけ」ニヤリと笑って、ナースステーションを後にする。まぁ、携帯がなければ消防に連絡するのも難しいか。公衆電話を探す方がタイムロスだ。何とか、間に合っていればいいが。この日は結局、
最後更新: 2026-07-12
Chapter: 36.変わっていく想い「……な、何を言ってるんですか、」言葉を切ったのは、腕に触れていた手が、首筋を通って頬に触れたから。……そして、指先がそっと唇を撫でていく。ゴクリと喉が上下する。いつ触れてくるのか、自分の胸に手を当てた瞬間、神楽が唇をふさいだ……触れた唇は、角度を変えて何度も触れ合い、粘膜を舌がやさしく這う。それは官能的とは少し違うキス……優しくて、甘くて……涙が浮かぶ。まさか神楽に、こんなキスをされるなんて。「嫌がられる前に、終わっとく……」長いキスはついばむようなキスに変わって終わった。少し息が乱れている神楽。どうしてか、それが嬉しかった。「暗闇の思い出、塗り替わったろ?」キスの前より遠慮なく紅を抱き寄せ、神楽はいたずらっぽく耳元に唇を寄せ、呟く。「そう、ですね」甘噛みされる耳たぶ……流れるように唇が頬に移り、チュッとキスをして自分の肩に紅の頭を寄せる。「……ちょっとくすぐったいぞ」首を回して神楽の首元に顔を向けた。暗闇で距離感がわからないが、どうやらまばたきをするまつ毛が首に当たるらしい。「……それじゃあ、」少し上にズレてみれば、唇が首に当たった。……イタズラ心を起こして、チュッとキスをしてみれば……「こんなところでやめろ……俺はいつでも狼になれるんだからな?」「狼って……言い方が古いです!」まるでじゃれ合うようなやり取り。言葉も仕草も、神楽に見せる自分じゃない……「意味がわからない?……それじゃ、ここを出たら教えてやるから、覚悟しとけよ?」明るい笑い声を聞きながら思う。真っ暗闇なのに、パニックにならない。それはさっきからずっと、神楽が配慮してくれているからだ。納戸に閉じ込められて、声が枯れるほど泣き叫んだ思い出が、本当に変わっていく……神楽の優しいキスと、抱きしめてくれた甘い思い出に。抱きしめられて安心して……しばらく眠ったらしい。ふと目を覚ますと、トイレの個室から光が漏れていることに気づく。「……夜が明けたな」「そうみたいですね」神楽は寝ていなかったようだ。目覚めるのを待って声をかけた?立ち上がり、トイレのドアを開ける神楽。そこに小さな窓があるのが、神楽の後ろにいる紅にも見える。確認すると、すぐ下に降りられそうな足場があり、そこから地面にも難なく行けそうだとわかった。「この窓から、出られないか?」「え
最後更新: 2026-07-11
Chapter: 35.暗闇の2人「いや……なん、なんで何も見えないの、やだ、やだ……明かり、明かりをつけてっ!」落ち着こうと思うのに、苦しいほど動機が激しくなる。目を閉じても開けても変わらないという状況は、紅をパニックにさせた。「……落ち着け」バタバタと手を振り回す紅の手を素早く掴み、強く抱きしめる神楽。「目を閉じて、胸に顔を埋めてろ」返事の代わりに、何度も首を縦に振る。……震えてしまって、もう声も出ない。「大丈夫だ、俺がいるからな」浅い呼吸を繰り返す紅の背中を落ち着けるように撫で、耳元で声をかけてくれた。神楽の心臓の鼓動、後頭部に感じる手のぬくもり……紅は少しずつ落ち着きを取り戻す。「……確か、診察用のライトがあるはずだ」ポケットを探り、神楽はカチッという音と共に弱い光をぼんやり灯す。できるだけ光が広がるような位置に安定させ、紅を見つめた。「大丈夫か……?」自然と脈を取る神楽。顔を覗き込む表情は紛れもなく医者で、紅に深い安心感を与える。「ごめんなさい、取り乱して」「いいよ。急に真っ暗になったら、そりゃ怖いだろ」「……子供の頃、父親に納戸に閉じ込められてすっかりトラウマになってしまって」そんな話をするつもりはなかった。……男が関心を持つのは自分の外側だけ。胸の内を話して喜ぶ人がいるわけない。「な、なに話してるんだろ、私……」閉められたドアを確認しようと神楽の腕から離れようとしたのに、再び抱きしめられた。「納戸に閉じ込められたのか、かわいそうに……怖かったな」紅はその優しい言い方に違和感を覚えた。こんなに話し方をする人じゃない。今度は自分から神楽の目元を覗き込む。「……なんだよ」「いえ、ずいぶん優しいので……」「ちょっと前から……俺は優しくなったんだよ」「そうなんですか?それは……次の標的を手中に収めるために?」「……標的とか、何の話だ?」女……?という紅に、呆れ顔で首を横に振る神楽。ふと……2人の間に静寂が訪れた。「もう一度確認してみるか」神楽はドアをつかんで回し、揺すってもみた。が、状況は変わらない。「ベランダはどうだ?」さっきは確認する前に明かりが消えてしまい確認できなかった。「……ん」立てかけた診察用ライトを手に持ち、紅に手を差し出す神楽。明かりが移動して暗くなるから、という配慮だろう。紅は素直にその手を握った。
最後更新: 2026-07-10
Chapter: 34.このタイミングでアクシデント「あ〜ご予約の『財閥一族』様ですね?こちらへどうぞ〜」総勢20名ほどが参加する歓迎会。人数の関係で店の2階を貸し切りにしてもらった。「……予約名、財閥一族ってなんだよ」呆れ顔の神楽に質問される。「……病院名は出さないほうがいいかなって思って」「気が利くな。こういう飲食店で病院名を連呼されるのはあまりよろしくない」褒められたけど……財閥一族というふざけた団体名にしたお咎めはないのだろうか。「人数分のコップとお箸、取り皿、置いときま〜す!」「おしぼりでぇ〜す」階下から次々に運ばれるそれらを、神楽はテキパキとテーブルに並べていく。「集まってから配るんじゃ、時間のロスだ」「はぁ……」後について、紅もおしぼりを席に置いて行った。ひと通り終わると、スタッフが置いていったメニューを手に取り、紅を呼ぶ。「こういう場合、定番料理は先に注文しておくと楽だ」「はい、」階下に降りる神楽についていくと、スタッフにスラスラと注文をした。「唐揚げとシーザーサラダ、だし巻き玉子とキムチチャーハン、お新香を各10人前」そんなにたくさん頼んで残らないか心配になるが、神楽はそんな表情を察して独自の理論を展開した。「こういう場所では、メニューを開いて注文するという行為を、人は面倒に思うものだ。なぜなら、食べに来ているというより飲みに来ていて、更にコミュニケーションを取りに来ているからな」「あぁ、確かに……そうかもしれませんね」「かもしれない、じゃなくてそうなんだよ」肯定に気分を良くしたらしい神楽は、料理とは別にバナナジュースを頼んで2階に上がっていく。そして運ばれてきたジュースを、紅の前に置いた。「酒を飲む前にこれを飲んでおきなさい。ミルク成分が胃に膜を張ってくれて悪酔いを防げる」素直にストローを差しながら、自分だけ飲んでいいのかと思う。「明日、試験だろ」「……覚えてたんですか」「覚えてますよ。記憶力に自信はあるのでね」クスっと笑う紅に、サッと視線を向ける。「……なんだよ、」「高校時代のこと、綺麗に忘れてたくせに!……記憶力に自信とか、笑っちゃいます」「……それは、」どんな言い訳が飛び出すかと、少しワクワクして神楽に目を向ける。けれど彼は意外にも、目を伏せて、顔をこわばらせていた。「やだ神楽さん、冗談ですよ?」「いや、」こちらに向
最後更新: 2026-07-09
Chapter: 33.人間らしい神楽に……いつもより早く出勤したのは、いつもより早く目覚めてしまったからで、他に理由はない。昨夜からモヤモヤする気持ちが落ち着かない。……そうだ、医局の掃除をしよう。颯真がやってきて、これから何かと引っ掻き回しそうな気がするし、名案よね?!医局には誰もいなかった。奥の神楽の部屋に入ったのは、いつものクセと、奥から順に掃除をしようと思ったから。薄暗い室内……明かりをつけようとして、ブラインドが下げられていることに気づく。窓を開けるついでにブラインドを上げようと、近づいたソファに人が寝ていることに気づいた。「神楽……帰らなかったんだ」ソファに横たわるものの、アーム部分から足が飛び出している。曇り空から顔を覗かせた朝の太陽が、その寝顔をそっと照らした。意地悪だったり険しかったり、ときに色気を乗せる事もあった瞳は閉じられ、動かない長いまつ毛が影を作っている。スッと通った鼻梁……その下の唇の周りに、初めて見る無精ひげが妙に男性を感じさせて、思い切り顔を背けてしまった。こんな無防備な寝顔、契約妻だった頃だって見たことない。呼ばれたベッドルームで、早々に寝てしまったことはあったけど、あの時は寝顔を見られることがわかっている計算された寝顔。けれど今目の前にある神楽の寝顔は、ただの1人の男で医者で……仕事に疲れきった情けない寝顔。それは紅に、助けてあげたくなるような、そっと寄り添って抱きしめたくなるような気持ちを湧き上がらせる。そらした視線をもう一度寝顔に向け、自然と頬に手がいく自分の行動をおかしいと思う。……親指で唇に触れてしまったのはどうしてなのか。……ふと、まぶたが開いて、いつもの二重が形作られる。見上げる神楽と、見下ろす紅の視線が絡み合った。「あ……」驚きすぎて、すぐに手を引っ込められない。「ご、ごめん、なさい」恐ろしくゆっくり手を離すと、同時に神楽も上体を起こした。引っ込めかけた手首を取られ、そのまま引き寄せられたのは、とても自然な流れで……「あったかい手だな」唇を近づけ、耳元で言う神楽。頬に唇が触れた……無精ひげを感じて、バカみたいに心臓が暴れる。なによこれ。なんなのよこれ。「か、かわいそうになったから、つい……」「あぁ…ひげか。……ヤバいな。シェーバーでも借りてくるか」自然な笑顔と頭に乗っかる手の重みを残して、神楽
最後更新: 2026-07-08
Chapter: 110.永遠の1枚「桜……」 覗き込む鏡の向こうに、愛しい人の姿。 「龍之介さん……」 振り向いた桜に、目を細める龍之介。視線を横に流し、らしくもなく、下を向く。 「綺麗すぎて、直視できねぇな。ホント……こんなに綺麗な女、初めて見る」 顔立ちから、黒いタキシードが似合うと言われたのだろう。 背中に特徴的なデザインが描かれたスーツがよく似合う。 「そっちへ行ってもいいですか?」 「あ、そりゃ……もちろん」 龍之介は両手をスラックスのポケットに入れ、落ち着かない様子だ。 彼に近づこうと方向転換するため、長い裾を持ち上げる桜に気づいたらしい。 龍之介は慌てて自分から桜に近づいた。 「あぁ、そばにいると緊張する。……ほら」 桜の手を自分の胸元に当て、龍之介は困ったような視線を送る。 「……龍之介さんだって、カッコよすぎて、私もですよ?」 彼の両手を自分の鎖骨の下あたりに持ってくると……龍之介はニヤリと笑う。 「ほんとだ……!」 笑い合う2人に、撮影スタッフが声をかける。 「風もなくてちょうどいいので、撮影を始めましょうか!」 「「はい、よろしくお願いします」」 偶然、ハーモニーを奏でる2人の声…… 窓の向こうで桜の花びらが揺れた。 ホテルの前は、見事に満開の桜が咲き誇り、チラチラと雪が舞うように花びらが散り始めている。 「……綺麗」 ほんのりピンク色の桜と青空……そして葉の緑が、美しい自然の色を描いていて、桜の心に忘れられない思い出を積み重ねていく。 「あ…!いたいた!」 遠く、真理と美紀の声が聞こえて、桜は振り返った。 そこには、蔵之介や昭仁、斎藤や義母の姿も見える。 「まま、ぱぁぱ……」 真理に抱かれた龍桜。ちゃんとタキシードを着せてもらったようだ。 2人に向け、手を伸ばす龍桜を、そっとしゃがんだ真理が手放す。すると龍桜は、おぼつかない足取りながら、よたよたと走り出した。 「……龍桜!」 ドレスやタキシードが汚れるのも構わず、2人は龍桜に視線を合わせるようにその場にひざますき、手を広げた。 よたよたした足取りが、やがて小走りになる。手を前に出して、危なっかしい足取りに、桜も龍之介もハラハラと目が離せない…… 「キャッ…!」 龍桜が転んでしまった。
最後更新: 2026-06-16
Chapter: 109.蝶になった桜「龍之介さん……もう起きたんですか」「うん……嬉しくて、よく眠れなかった」メンズスーツブランドMatusiro.Hommeのプレ公開ショーから日を置かず、桜と龍之介は東京から少し離れた場所のシティホテルに宿泊している。今日は、ウェディングフォトの撮影会。結婚式をしたい、という桜のひとことで、龍之介があっという間に決めてしまったプランのテーマは「桜」「桜の花びらが舞う中で結婚式の写真を撮ろう」と、桜前線を追いかけ、この町にやってきたのだ。「お天気はどうだろう……」ベッドから降りてカーテンを開けてみれば、見事なまでの青空……「龍之介さん……持ってますね?」「ん?何をだ?」「今日はいいお天気だから、運を持ってるな、って!」良いことは全部、龍之介さんのおかげ。悪い事が起こったら、それは半分こ。いつの間にかそんな考え方になっていた。「そういうの、持ってるっていうのか……」はてな顔がキュートで、桜は自分から龍之介に抱きついた。キスをねだり、熱くなる龍之介を受け入れようとして……「ダメです、龍之介さん!カメラマンさんを待たせちゃう」スッと離れ、お先に……とシャワー室へ向かう桜。いつもなら龍之介に先を譲るが、今朝の私にはやることがたくさんあるのだ。「……煽っといて、放置?」熱っぽいまなざしで桜を追うも、シャワー室には鍵がかけられて開かない……「もぅ………っ!今夜覚えとけよっ!」髪をかきむしる龍之介だった。入れ替わりに龍之介をシャワー室へ押し込み、桜は大きな鏡の前に座る。この日のために龍之介が通わせてくれたエステサロンから、たくさん受け取った化粧品の数々……今日使い切っておしまいだ。「化粧水は……たっぷりと、手のひらにとって、なじませる。その後、コットンに浸してはり付けて、しばし時間を置く……」担当のエステティシャンに基礎化粧品の使い方を教わって実行している。普段も同じようにやるといいですよ、と言われたけれど、龍桜の世話が忙しくてそれどころじゃない……!シャワーを終えて、龍之介がやってきた。桜は顔に乗せていたコットンを慌てて取る。「……なに焦ってんの?」「だって、コットン顔に乗せて……変でしょ?」「全然。桜なら、キュウリとか梅干しとか、何をはり付けてても可愛いわ」そんなものはり付けません……と言いながら、腰のあたりをバシっ
最後更新: 2026-06-14
Chapter: 108.桜舞う幸せ始まりこそ派手な演出だったものの、その後は大人の男をイメージしたブランドだからか、比較的静かにショーは進んでいく。龍桜が座っていてくれないので、後ろに人がいない事を確認して立って見ていた。それは、すごいとか圧巻とか……言葉を超えたステージだった。こんなに心臓が高鳴ったのは生まれて初めてで、なんとかなだめようと自然に胸元に手を置いてしまう。「落ち着いて……私……あの人は龍之介さんで、私の、旦那さんなんだから」コソコソ、自分にだけ聞こえるようにつぶやいた言葉の先に、龍之介が見える。片側に長めの前髪を垂らし、もう片側はピッタリと撫でつけたヘアスタイルは、誰もが似合うものじゃない。西門龍之介という強烈な個性がそれを可能にしていると理解できる。中央に堂々と立つ、ひときわ背の高い人……少しメイクもしているのだろう。いつも以上に目力が強く、妖しい雰囲気で……私の夫だなんて、信じられない。惚れ直す、というのはこういう事をいうんだと思う。ステージを踊るように歩く龍之介を瞬きも忘れて見ていた。やがてステージ裏に引っ込み、やっと少し、心臓の高鳴りから解放されてホッとする……他のモデルたちも下がり、しばらくの暗転のあと、照明と音楽の雰囲気が明らかに変わったステージ。……またも息を呑む。柔らかい照明に照らされたステージに、白いスーツを着た龍之介がゆっくりと歩いてくる。髪は前髪を幾筋かハラリとおろしたヘアスタイルに変わっていて、手には大きな花束……白いスーツ、いや……あれは、結婚式で新郎が着るような、タキシード?中のベストはグレーで、ジャケットは少し長めのデザインで、とてもよく似合う。龍之介が結婚式を挙げたいと言っていたことを思い出した。あんな姿で私の隣に立ってくれるとしたら……「……素敵」見惚れているうちに、ショーはすべて終わったらしい。スタッフが呼びに来て、龍之介の楽屋に向かった。以前の麗香の一件以来、桜がステージを見に来ると、龍之介はこうして必ず楽屋に呼ぶようになった。その上、誰からの差し入れも食べず、桜に手渡される弁当を待っているのだから可愛らしい。そうなれば、桜も腕によりをかけて作り、張り切って持ってくる。この日は鮭とたらこのおにぎり。そして卵焼きとソーセージと、手作りのピクルスだ。「……2人とも、ホールの中暑かったろ?気持ち悪くな
最後更新: 2026-06-13
Chapter: 107.Side.龍之介 桜の話「……しっ!」「な、なんですか、こんなところで?!」今日、美紀がカフェにやってくることは、桜に昨日のうちに聞いていた。プレショーの本番を来週に控え、今日も舞台装置の確認と衣装、立ち位置などの決定をして……椎名社長に送ってもらった。カフェの近くで降りたところで……美紀が生垣を曲がってこちらにやってくるのが見えたのだ。そこで、とっさに思いついたこと……「驚かせてごめんな。今日桜と、どんな話をしたのか教えてくれよ」何か言いたそうで、言い出せない桜が心配で聞いたこと。けれど美紀は、眉間にシワを寄せ、険しい表情になる。「……そんなの、いくら旦那さんでも、第三者にホイホイ言うわけないじゃないですか。……私達の結束は、鉄より硬いんですから」両手を握り合わせ、美紀は俺に向かって笑顔を見せる。「俺たち夫婦の絆はダイヤモンドより硬いぜぇ……なぁ、教えてくれよ。桜、なんか言ってたろ?結婚式の話ばっかりして、龍之介がうぜぇとか」「あぁ…!言ってましたね!」「……………え、まじ?」軽くショックを受ける俺を、楽しそうに手を叩いて笑う美紀。ダメだこりゃ……と、聞き出すのを諦めかけた時だ。「帰ったら話をしてくれると思いますよ?……意外な話だとしても、ちゃんと最後まで聞いてあげてくださいね?」「……意外な話って、?」「例えば、その……」うまい例えが出なかったらしく、美紀はジリジリと後ずさっていき、気づけばかなり離れてしまっていた。「龍之介さん…!頑張ってくださいね」……気になりすぎるんだが。美紀を捕まえたものの、結局、何の情報も得られなかった。結婚式はしなくていいという本音がどこにあるのか、探りたかったのだが。美紀に手を振り返して、カフェの裏から家に入った。「おかーしゃぁい!」ドアが開く音で、部屋から龍桜が飛び出してきた。帰ってくるだけで毎回ものすごい喜びようでとても嬉しい。「ただいま、龍桜!」パッと抱き上げ、ぐるんと一回転してやって、部屋に入る。ダイナミックな動きが楽しかったのか、もう一回とねだられた。「おかえりなさい。……龍之介さん」「ただいま」桜が顔を出し、すぐにその顔を見つめた。……何か言いたいことがあるか、自然と表情から探ってしまう。「あの、龍之介さん……後でちょっと、いいですか?」「あん?あぁ…もちろん!」良かっ
最後更新: 2026-06-12
Chapter: 106.今だに言えない本音「綺麗でしたね。真理さん……」「あぁ。母さんも物持ちがいいな。自分の婚礼衣装を持ってるなんてさ」真理と蔵之介の結婚式は、龍之介家族と母に見守られ、厳かに行われた。「私、西門蔵之介は、真理だけを一生守り抜くと、ここに誓います」「私も……誓います」義母によって酒が注がれる盃。三々九度の作法に則り、2人は口をつける。自分の婚礼衣装を身につけた真理を、義母が眩しそうに見つめていることに気付いた。きっと、自分と組長の結婚の儀を思い出しているのだろう。家族の前で婚姻届を記入した2人の表情は晴れやかだ。きっとここまで来るのに、この2人にも、いくつもの眠れない夜と涙があったのだろうと想像した。「おめでとうございます……どうか、幸せになってください」つい、涙がこみ上げてしまった。自分とは違う形で、きっと真理さんはたくさん悩んで苦しんで、蔵之介さんの手を取る決意をしたと思う。まだ自分の家族には認められてもらえない中で、西門の名前を名乗る道を選んだことが、どれほど勇気がいることだったかと思うと泣けてくる。「桜ちゃん……これからはお義姉さんとして、改めてよろしくね」「はい……姉妹ができて、嬉しい」「私も、娘が2人もできて……なんだか泣けちゃうわね」龍之介と蔵之介が、そっと視線を交わした。義母の家には蔵之介夫婦だけが泊まることになり、龍桜を連れ、私達は帰路につくことになった。「桜、本当に結婚式、挙げないか?」龍桜をチャイルドシートに乗せながら、龍之介が何気なく言った言葉に、桜は反射的に下を向く。それは、自分の生い立ちがかけた呪いだと感じていた。龍之介さんと再会できて籍を入れ、家族になれたのに……これ以上の幸せが訪れたら、すべてを失ってしまいそうで、怖い。「いえ、私は……」「どうしてだ?俺が桜の花嫁姿を見たいんだが」「それは……」龍之介には、今だに暗い心を抱える自分を、知られたくなかった。表面的には、私は幸せな主婦だ。カフェの経営という夢まで叶えた幸せな主婦だから、明るい自分だけを見ていてほしい。そして……実は龍之介に打ち明けられずにいることがあった。結婚式というより、先にその話をしなければならない。「蔵之介たちが、日本にいる間に挙げたい。……そう頻繁に帰ってくることもないだろうからな」「あ……」先日、真理の実家に行った帰り道
最後更新: 2026-06-11
Chapter: 105.Side龍之介 仕事と結婚「いや、俺はもうステージは……」「どうしてです?この前のショーも、龍之介さんキッチリ目立って、さすがの迫力でしたよ?」松白屋、会議室。メンズスーツブランド「Matusiro.Homme」の社内向けに発表するショーが終わり、いよいよブランド公開の運びとなった。メインモデルは龍之介。そして10人ほどのモデルが集められ、会議とショーの打ち合わせが重ねられる日々。先に到着した斎藤と話しながら、椎名社長とモデル達、その他関係者を待っているところだ。「定期的にやっていきたいんですよね。ショーって楽しいじゃないですか!……なんか華やかで、ワクワクするし!」「わかりますけどねぇ……俺は嫁も子供もいるし、あんまり目立って隠れるような生活はしたくねぇし」やはり極道時代は、太陽より夜、日なたより日陰や裏通りが似合う毎日だった。「これから龍桜もどんどんわんぱくになっていきますからね!?そしたら全力で付き合ってやりたいんですよ。野球とかサッカーとか……」「なるほど!そこまで言われたら、無理強いはできませんね」モデルを断る龍之介の理由を、斎藤はそれはそれで嬉しそうに聞いてくれる。「ありがとうございます!……その代わり、初めてのブランド公開のショーは、絶対にキメてみせますから!」「そうですね、皆で頑張りましょう!」やがて続々と関係者が集まってきた。挨拶を交わしながら、ふと自分の目線の先に立った斎藤を見て、龍之介は思った。斎藤さん……背ぇ高ぇな。肩幅が広くて、手足も長い。頭も小さいし……何より全体のバランスがよくてスーツが似合う……!2回目以降のメインモデル……斎藤さんがやればいいんじゃねぇの?話し合いは進み、大事なことが次々に決まっていく。そんな様子を見ながら、龍之介は頃合いを見計らって発言した。「ブランド公開のショー以降も、定期的に開催していくってのは、アリなんですかね?」「2回目以降もぜひやっていきたいと思います。プレショーの段階で連絡してきたバイヤーもかなり多かったし」「SNSでも拡散されてましたよね。あの松白屋がメンズスーツブランドを展開した、って……」関係者の話を聞く限り、ショーはやって損はない。むしろ積極的にやったほうがいいという意見が多数だ。加えて……担当役員の斎藤専務のGOがあるのだから……できないはずがない。「それなら、俺の後釜
最後更新: 2026-06-10
Chapter: 8.涼しい顔で……Side.大雅「大雅さん……結婚って、本気ですか?」「結果的にこうなった。想定外もあったが、まぁ基本的に考えは変わらない」ため息を吐くのは、マネージャーの権堂甚八。屈強な肉体を持つ38歳だ。昨夜スイートルームを出て、すぐ下の階の部屋に泊まった。朝になってやって来た権堂と、朝食を取りにレストランの個室に入り、結婚の報告に眉根を寄せられる。「違う方法で、作戦を進められたら良かったのに」瞬間的に視線を向ける俺と目を合わせ、権堂は即座に目を伏せる。違う方法で作戦を進める?……それができたらどんなに良かったか。だがもう遅い。すべてははじまってしまったのだから。「春希くんの存在を知ったら、その花さんという女性はどう思うのでしょう……」「そりゃあまぁ、驚くよな。そして都合のいいように解釈してくれるだろ。……しばらくはそれでいい」権堂はもう一度ため息をつき、サブマネージャーの三井と共にスイートルームへ上がる。俺は簡単な朝食を食べてからレストランを出て、裏から事務所の車に乗った。「今日は新作ドラマの顔合わせです。……少し遠いので、お休みになりますか?」「いや、たっぷり寝たから大丈夫だ」権堂とは別行動になったので、別のスタッフがハンドルを握っている。昨夜は花と別の部屋だったおかげでよく眠れて、前日の寝不足が解消された。「……クセになるタイプだな」「は?……何か、おっしゃいましたか?」ドライバーに小さなつぶやきを拾われて苦笑した。「……少し寝るよ」シートを倒して目を閉じ、うっかり思い出してしまったあの夜のことが、頭の中を占めていく。香坂花という女、見た目よりずっと華奢だった。細い首、手足……青白い顔色は満足に食事も取っていないのではないかと思わせて……そのせいかいつまでも頭から離れない。不健康そうな美女なら仕事で山ほど見ている。だがそれは、食べられないのではなく食べないという選択だ。花とは根本からして違う。そして、彼女のどこか肝の座った瞳は、こちらの本心を見抜きそうで、少々焦ったことは否めない。……昨夜は、途中から自分を見失ってしまった。あんなに何度も求めるつもりではなかったのに、気づいたら花を抱き枕のように抱きしめ、眠っていたのだから驚く。「しかも、俺を知らなかった……」人前に出て行って、騒がれないのはデビュー当時以来のこと。……経歴を調
最後更新: 2026-07-12
Chapter: 7.意外な人の出迎え立ち尽くす花に、50代くらいの女性が歩み寄る。「本当に、大丈夫ですか?……春くん!ちょっといらっしゃい!」背後に声をかけると、ちょこんと顔を覗かせる小さな男の子。年齢は、2〜3歳くらいだろうか……「お怪我はありませんか?痛むところとか……」「あ、大丈夫です」本音を言えば、ぶつけた痛みなど忘れるほど、心が痛い。……こんなに大事なことを伏せたまま結婚したってこと?女性は花の様子を確認して、ホッとした表情になる。わずかに顔がこわばっている花には、気付かないようだ。「どうぞ、こちらがリビングです」奥へと案内し、女性はスイートルームと同じような両開きのドアを開ける。「え?……これは、いったい……」「まぁ……驚かれますよね」庭を望む広いリビング。……その庭も、かなりの広さがあるとわかる。床は大理石……?壁は微妙な色合いのグレーが美しい。空間に合わせた絵画、絶妙な位置に配置された壺……家具はもちろん、装飾品の数々はどれもかなり値の張るものだ。とにかく圧倒されるほどの洗練された贅沢な空間……だったと思われる。「……大雅さんの息子さんがやりたい放題でして。ほほほ……」床に転がるオモチャに用心しながら視線を横に向け、驚いた。タイガーマクナカロンホテルのロビーに飾られていたのと同じような、大きな写真パネルが飾られている。もちろん大雅の写真だ。……憂いを帯びた表情でこちらを見ている。「ふ…ふふ……!」笑い出す花を見て、同じように口元を緩めながら女性が言い訳をする。「春くんがイタズラ盛りでしてね。でもさすがにこれは、ねぇ……」大雅の高い鼻に、マジックで鼻毛が描かれていたのだ……!「テーブルに乗れば、描き放題ですから……」「そうでしょうね……」イタズラ描きは写真パネルだけではなかった。美しいグレーの壁にはところ狭しと「何か」が書き殴ってあり、それは大理石の床にも及んでいる。よく見ると、高価な壺の中にはミニカーやぬいぐるみが無造作に突っ込まれ、むき出しの針が特徴的なデザインの時計は、その針そのものが折れ曲がっている……しばらく2人で笑っていると、小さな竜巻のように走り回っていた男の子が女性に捕まった。「春くん、お姉さんにご挨拶しましょ」女性は押さえられて嫌がる男の子をガッチリとらえながら、まずは自己紹介をした。「早瀬奈津です。|
最後更新: 2026-07-11
Chapter: 6.覚悟と衝撃会社は週末で休みに入ったけれど、早朝6時のスイートルームの朝……花はパチリと目を覚ました。「……ここにスタッフが来るって言ってた」花はベッドから降りて、窓辺から下を見おろす。平日より人は少ないのだろうが、豆粒状に見える人たちが、これからどこに行くのか少し気になった。まさか、自分がまた、こんなホテルに泊まるなんて。いやいや、結婚するなんて。しかも相手は鈴里大雅という芸能人。本当にこれで良かったのか、不安は消えない。……というより、時間がたつほど増していく。そして、ふと思い出した。まだ瑠璃に連絡していない……「えぇっ?!……本当に?本当に結婚決めちゃったの?」「うん、そうしないと天野不動産との契約を白紙に戻すって言うから」「だとしてもあんた、結婚は一生に1度の大事なことだよ?」青い目のカラコンをして、厚底すぎる奇怪な靴を履く今どき女子が言うには、ずいぶん古風な考えだと思う。「大丈夫、だよ……多分」それにいきなり体も繋がってしまった。そのせいか、どこか他人とは思えないというのが本音。もしかしたら、そう思わせるために早急に体を重ねたのかもしれない。……だとしたら、大雅の作戦は成功したということだ。それにしても、わからない。どうして私だったのか……どうして結婚を急いだのか……そして私を、どこで知ったのか……「……瑠璃のおじさん、人づてにお見合いを頼まれたって言ってたけど、それって具体的に誰からなのかわかる?」「仕事関係者だと思う。お父さんの会社、不動産だけじゃなくて手広くやってるでしょ?だから取引先や仕事仲間が多くて、いい人いないか?って頼まれたのかなぁって思ってた」具体的に知らなくても仕方ない。スターゆえに秘密で話を進めたかったのかもしれないし……でも、そこまでして結婚したい理由は?社会的影響力があって成功しているスターが、誰かいい人いないかって相手を探すとは思えない。瑠璃には落ち着いたらまた連絡をすると約束して電話を切る。……そうだ、結人にも知らせなきゃ。留学を終えての帰国はまだ先だとしても、時々顔を見せに帰ってくるし。「結人なら、大雅さんと結婚したって言ったら喜んでくれるかも」2年前、運命の荒波に飲み込まれるような出来事を経験した。最近やっと落ち着いてきたけれど、人生を自由に過ごすなんて夢のまた夢で、携帯す
最後更新: 2026-07-10
Chapter: 5.これが夫婦?最奥で、その温度まで感じるような吐精を繰り返す大雅。「……んっ、今締めるなよ……」避妊を、してくれなかった。それが彼の本当の人間性だとしたら……花は少し悲しくなった。大雅はその後、花のナカから抜くことなく再び抽送を繰り返す。キスをして胸を揉みしだきながら……花の体を忙しく撫で回しながら……そんな大雅に自然に高められ、花に初めての快感を教える大雅。激しく、色濃く……濃密な夜は更けていき、やがて花は意識を手放した。目覚めると、暗かったはずの部屋に日が差し込んで明るくなっていることに気づく。広いベッドに1人で横になっていて、羽布団の下は全裸のままだ。……らしくないことをしてしまった。「やっぱり、イケメンの魔力ってすごい……」てっきりリビングにいると思った大雅の姿はどこにもなかった。体にシーツを巻いて、恐る恐る歩いてきた緊張を解き、花は昨日まとめておいた服に袖を通す。「……夢を、見ていたのかしら」スターに遊ばれた。からかわれた?そんな思いを消したのは、ベッドサイドに残されたメモを見た時。『仕事があるので先に出る。モーニングでもブランチでも、コールすれば持ってきてくれるよう手配してある。もう一泊するなら連絡して。遅くなるがここに帰ってくるから』携帯番号と、PS.として続きがあった。『バッグにも携帯がなかったね。家に忘れたの?』バッグの中を探られたのか……夫婦だから?「……本当に、夫婦になったの?」そこまで考えて、ハッとした。「そういえば今日は、平日……?」このまま急いで会社に行けば、何とか間に合う時間。もちろんアパートに寄る時間はない。室内を見渡すと、見慣れない大きなスーツケースが置いてあった。その上に黒いTシャツが1枚……きっと大雅のものだろう。……ということは、彼はどちらにしてもここに帰ってくる?「……ごめんなさい、借ります!」ブラウスを脱いで黒いTシャツに着替えたのは、同じ服で出勤すれば、社長の時日に何を言われるかわからないからだ。サイズが大きくて服の中で体が泳ぐ……いい匂いがするところが大雅の服だと主張しているようで、くすぐったい気持ちになる。少し迷ってブラウスをソファに置いて、花はスイートルームを飛び出した。「あれあれ……?花ちゃん〜昨日と同じスカートじゃないの?」始業時間ギリギリに飛び込ん
最後更新: 2026-07-09
Chapter: 4.逃げられない?!「お、お見合いって、こんなに早く話がすすむものなんですかね?」「人によって、じゃない?」花を抱き起こし、椅子に座らせると、大雅はペンを渡してくる。……初めて見る婚姻届。そこに、印鑑を押す箇所があることに気づいた。「あ、今日は印鑑を持ってないので、こ、婚姻届を完成させることは難しそうです……」「……ん?」手渡される「香坂」と彫られた真新しい印鑑……「捺印は義務じゃなくなったけどね。押したいなら使って」準備していたということ……?なぜ、そこまでして……「……早くして。天野不動産に迷惑かけたくないんだろ?」婚姻届を前に固まる花に、冷たい声が落ちてきた。もちろん迷惑などかけたくない。路頭に迷った私たち姉弟に手を差し伸べてくれた瑠璃とおじさんの顔が頭に浮かぶ。でも、ここまでの話は聞いていない。「……どうして、私なんですか?」俳優として必要があったとして……天野不動産と手を組む必要があったとして……どうして私なの?普通なら、娘である瑠璃に行く話だ。「説明するつもりはない」突然大雅の態度が変わった気がした。「君が抱える問題はすべて解決する。俺が誰かわかったろ?できないことは何もない」「私が抱える問題って……」確かに私は問題を抱えている。それがどんなことなのか、言葉にしなくてもわかっているかのような大雅。「……弟のこともな」「お……弟って、」結人のことを言われたのは想定外だ。横に立つ大雅を見上げると、そのあまりの冷たい目に凍りついた。「……結人くんは留学中で、将来を約束されるほど優秀みたいじゃない?」ニヤリと笑う綺麗な顔に寒気が走る。この人、本当にただの成功した芸能人?裏で闇の組織と繋がっている……という物騒な妄想が膨らんだ。「お、弟に、何かしたら……許さないんだから」「そう思うなら書きなよ」しばし見つめ合い……微動だにしない2人。先に動いたのは大雅だった。「そこまで嫌なら……もういいや」「え……」あっさり婚姻届を片付けようとする手を、思わず止めてしまう。「なに」「いや、その……書きます」弟に何かあったら大変だという気持ちと、瑠璃と天野不動産に迷惑をかけられないという気持ちから。別に付き合っている人がいるわけではないし、この先の人生、恋愛ごとに自分が関わるとも思えない。一瞬思い浮かぶ人を無視して…
最後更新: 2026-07-08
Chapter: 3.結婚するからいいの?抱きしめられた大雅の胸からは、規則的な心臓の音が聞こえる。それは一定のリズムを刻んで、とても正確……「あの、」大雅の胸に手を当て、少し押す。「胸の音は正確でした。心配いりません」「は?」「ドキドキしていなかったということです」近い距離だったので、何とも言えない顔で見下されたのは見えた。それがどんな意図を持っての表情なのかはわからないが。「……それを確かめさせたくて、抱き寄せたのでは?」「ドキドキしてなかったから、君に惹かれて抱き寄せたわけじゃないと見破ったって言いたいのか?」「いえ……」ただ、心臓の音に異常がないことを確かめてほしかったのかと思っただけだ。……それにしても、いつまでこんなに接近していなければならないのか。居心地の悪さを感じてさり気なく腕を解いて離れようとした。そんな花に気づいて、逃すまいと強まる腕の力。「あ、あの……」いい加減失礼ではないのか?私だって一応女性なのに、会ったばかりでこんなに触れてきて……「……まわりくどいことはやめよう」「まわりくどいとは……?」見上げた瞬間、何かが唇に触れた。メガネがなくてよく見えないが、それが大雅の唇で、そしてこれがキスだということはわかった。密着した唇は、強弱をつけて押し付けられ、意図もって官能的な気分にさせようとしていると感じた。「……ふっ、ハァッ、」舌先が唇をなぞり、そっと中に入ってきた。喋ろうともがく舌を絡め取り、体の力が抜けるのを待たれてる……目を閉じていてもわかった。大雅は薄目を開けて、私の反応を見ていると。角度を変え、だんだん強く激しくなるキスに、期待されている通りの反応をしそうになって……負けじと崩れ落ちそうな足を踏ん張った。きっと、彼の心臓は今も規則的に鼓動を奏でているだろう。だんだん、余裕がなくなっていく私とは裏腹に……「……やめてくださいっ!」ドンっと胸を押したタイミングが絶妙だったのか、思いのほか簡単に離れた大雅。それどころか押された勢いで、ソファに変な体勢で倒れている。「……いきなりなんですか?私はお見合いをしに来たんですけど?それとも何ですか?お見合いってのはこうやって、突然抱きつかれてキスをすることなんですか?……だとしたら私はお断りですっ!」バックを手に出口に向かいながらつい振り返ってしまったのは、突き飛ばしたせいで
最後更新: 2026-07-07
Chapter: 59.再び出会った2人「2本足は久しぶりだ……」テーブルを降り、言葉の通りその場に立つ蓮。感動しながらも、ハッとして後ろを向く。「あの……今何か、着るものを、」レオから蓮になった姿は全裸だ。「あぁ、頼むよ」さり気なく凛花に背を向けるも、全裸だ。窓の向こうにこの瞬間誰かがやってきたら大変だ。「そうだ!まずはシャワーを浴びたら?」目をそらしながら蓮の手を取り、バスルームに案内する凛花の足取りは軽い。触れた手はあったかい……そして何より、背中にあの、大きなカマが見当たらないのだ。「シャワーはこの栓をひねると出てくるから。シャンプーはこっちで、ボディソープは……」「わかる。レオ時代、凛花に洗ってもらうとき、何回もシャワーとソープ間違えたって叫んでたからな」「あ……聞かれてたんだ?!」笑い合う声は、これまでの人生で一番明るいと思う。「それじゃ、ゆっくり入ってね」「凛花も……」「え?」出ていこうとする凛花の腕を取り、熱い視線を向ける蓮……そりゃ、今すぐ抱きしめ合いたいけど……目にはいるソレも、準備万端のようだけど……「ちょっと、落ち着く時間が必要だから。今はまだ……」背伸びをして蓮の頬に口づけ、バスルームを出た。父の部屋で新品の下着とリラックスウェアを見つけ、脱衣室へと運ぼうと歩き出す。……すると、さっきまで聞こえていたシャワーの音がやんで、妙に静かになっていることに気づく。「……もしかしたら、まだ安全じゃないんじゃ、」病室に訪ねてきた見知らぬ男のことを思い出した。死神最高幹部との戦いに負け、蓮は死神という役割をなくし、その存在を完全に失って二度と戻らないと。なのに戻った。多分死神ではなく、人間として。……生まれ変わった?どうしてそんな奇跡が起きたのかはわからないけど。「蓮さんっ!」静かになったバスルームの扉を勢いよく開けた凛花。「……ん、どうした?」ソープにまみれた蓮は確かにそこにいた。なんだ。シャワーを止めて洗っていただけか……シャワーが終わるまで、結局心配でその場を離れられなかった凛花。ウロウロと廊下を行ったり来たりしながら、ようやく父の服を着た蓮が脱衣室の扉を開ける。「……どうした?待たせたか?」濡れた髪の蓮がひどくカッコよくて色っぽくて……触れられる喜びと今までの寂しさと不安で、抱きついて泣き出した。「これで安
最後更新: 2026-07-09
Chapter: 58.母からのヒント「……っ?!」凛花のきっぱりした言い方に言葉を失い、男性はそのまま部屋を出ていった。途端に体から力が抜け、崩れ落ちるようにベッドに横になる。「蓮が、その存在を失ったなんて……」どんな姿であれ、目に見えるものですらなくなったという言葉に、今さらショックを受ける。復活させるなんて言ったけど……私に本当にそんなことができるだろうか。聖なる人……私はその娘だって強気で言ったけど、おぼろげな記憶の中の母は光に溶け込んでいて、思い出そうとしても詳細がわからなくなっている。それでも、心に浮かぶ光の母に届くようにと願いながら思った。どうか、蓮を復活させる手段を教えてください。……弱音を吐かず、どんなことでもしてみせるからと心に誓い、いつの間にか凛花は眠ったようだ。『こんなに、大きくなって……』『あぁ、ママに似て美人になったろ?』『あら、鼻筋が通っているところはパパにそっくりよ?』『そうか……?』楽しげに会話する男女の声が聞こえる。それは……水の中で聞こえるような、明瞭に聞こえる声ではなかった。けれど、温かくてふんわりと包んでくれるような、今すぐに目を開けてすがりたくなるような声。『凛花……お母さんは、いつもあなたを見守っているのよ』頭に優しい手のぬくもりを感じた。『……お、母さん』必死で重たいまぶたを持ち上げ、すくそばにいる人を目に映す。それは、長い金色の髪をなびかせた美しい人。そうだ……私の母はこんな人だった。いつも笑顔で、叱られた記憶がない優しい母。『お母さん……』『凛花、成長して……やっとこうして会えたわね』喉元からこみ上げそうになる嗚咽。……ずっと会いたかった母が今ここにいて、私の頭を撫でてくれているのが嬉しかった。けれど、確かに泣いているのに、涙は頬を伝っていかない。それがどうしてなのか……自分が水の中にいるからだとわかった。『お母さん……蓮さんを助けて』その人がどういう人かなんて、説明は不要だと思った。母にはすべてが見えている。子供の頃別れたあの日から、母はこの日が来ることをずっと待っていた……『凛花、助けるのはあなたよ』切羽詰まった状況だというのに、母はどこか嬉しそうで……私はギュッと母の手を握り、繰り返す。『もう!ちゃんと答えてよぅ……』母は私のおでこにそっと口づけ、首を傾げながら笑顔になり…
最後更新: 2026-07-05
Chapter: 57.不思議な男性「いいですよ」死神に恋をして突然別れ、さまざまなつらい気持ちを味わって事故に遭い、体の自由が効かない今の私に怖いものなんてない。「……私が誰か、気にならないんですか?」「この世の人間ではないですよね」「正解です。……さすが、何度も立ち上がった方だ」立ち上がった……?蓮が消えた後のことを言っているのだろうか。「立ち上がったのは、父や友達がいてくれたからです。皆、私が生きることを望んでくれました。それに……蓮さんのことも諦めてませんから」「いまだに、ということですか」「……はい」自分の決意に自分で驚いた。あんなに泣いたのに、私はまだ彼を諦められない。けれど、意外な自分の本音を自覚したことで、凛花にはある種の強さが備わっていた。ここまで来て、もう何も失うものはない。凛花は突然現れた目の前の男を見て思う。この人は……冥界からの使い、それとも、死神最高幹部が仕向けた者……?「私が誰か、教えましょうか?」「私になんの用ですか?」薄ら笑う男に見下されても、凛花は怯まなかった。「あなたは……戦いに敗れました」もはや自分の正体を明かすだけ無駄だと悟ったのか、男は話を続ける。「戦いって、死神最高幹部との……」いったいいつ始まっていたというのか、見上げる凛花の視線をかわし、窓の方へ歩きながら男が言う。「誘惑に負け、蓮と似た人物に心を惹かれましたね。口づけて触れ合って……本当なら相手に蓮の正体が知られるところだったのに、それを免れたのは、運が良かったとしか言えません」「あの2人は蓮さんに似ていたから、もしかしたら本人なんじゃないかって思いました。心が弱っていて、似た人に惹かれたのは認めますけど」脳裏をよぎるのは、栗田医師、そして伊藤課長……まさか、あの2人をスルーできたら、私は死神最高幹部に勝てたの?「問題はそこじゃないんです」窓際に立ち、こちらを向く男性。逆光なのか、表情がわかりにくい。とっさに枕元のライトをつけようとして、男性が言った意外な言葉に手が止まる。「狼になって助けるとは……」「狼って……まさかあの時の、」栗田医師に迫られて困っていた時、突然現れた闇に浮かび上がる狼。あれが蓮だったというのか。ふと、交通事故に遭う直前にも見えたことを思い出した。本当に、動物に姿を変えていたんだ……「あなたはそんな狼を追ってこんな
最後更新: 2026-07-02
Chapter: 56.連れて行ってほしい「ありがとうございます。それでは早速来週から、よろしくお願いします」面接は呆気なく採用となり、足取りも軽く事務所を出る凛花。エレベーターで1階に降りる。事務所が入るビルは決して綺麗とはいい難いけれど、素朴で落ち着きがあり、病み上がりの凛花にはちょうどいい安心感を与えてくれた。歩道に出てふと立ち止まったのは、右に行けば最寄り駅で、左にいけばちょっと素敵なカフェが見えたから。「……あれ」左右を見渡す凛花の目に、意外なものが映った。……大型犬、いや、狼?そこだけ浮かび上がる静止画ような光景に目が離せなくなる。「……待って」歩き出した途端、こちらを見ていた狼が、さっと走り出した。街の雑踏のなか、人にぶつかることなく走り抜ける狼を追って、凛花の足も、自然と早まっていく……危ないっ……!という誰かの声と、キャーっ……という叫び声、急ブレーキの音は、ほとんど同時だったと思う。次の瞬間、ドンッと何かにぶつかり、硬いアスファルトに自分が叩きつけられた時には、まだ意識があった。痛みはないのに、自分が濡れていく感覚……「事故だっ!救急車っ……!」体が、血の海に沈められていくような感覚の中……私は意識を手放した。「……まだ、ダメだ。凛花、生きろ」懐かしい声に涙が出た。「……もういい。連れて行ってください」真っ白な空間のなかに、横たわった私は体を起こす。少し先に……会いたいと願い続けた蓮が見える。後ろ姿……お願い、こちらを向いて。「急にあなたがいなくなったから、私は病気になったんです」顔だけがこちらを向いて、横顔を見せてくれる。「……会社も辞めて、でも命が続くから生きていた。いろんな人の助けがあったから」こちらを向いてくれないなら、自分から行く。せっかく会えたのに、顔も見れないなんて絶対にいや。両手を床につけ、腰をあげようとした。足を踏ん張ろうとするのに、力が入らない……「蓮さん、私……立てない。立てないです」床につけた両手に体重をかけ、動かない下半身を引きずって移動する。「お願い、行かないで……待ってて、私が、行きますから」こちらに向けていた横顔が、一瞬下を向いた。まさか……消えてしまうの?また?……どこに行くかもどこにいるかも教えないままで?「蓮……さん、」ポキっと、何かが折れた音がした。見下ろすと、体重をかけていた右手に
最後更新: 2026-07-01
Chapter: 55.凛花を救ったのは……「お父さん、朝食準備できたよ。あと、お弁当も」「あぁ!こりゃ美味そうだな!いつもありがとうな、凛花」仕事を辞めて家にいるようになって、初めはそっとしておいてくれた父だったが、1週間が過ぎてこう言われた。「再就職を急げとは言わない。家事も無理にとは言わない。けどな、朝になったらリビングへ出てきなさい。顔を洗って髪をとかして、服を着替える。それだけでいいから……な?」つらそうな表情を見て、どれほど父に心配をかけていたのかと思う。それからは進んで朝食の準備と父に持たせるお弁当を用意するようになった。「たいしたものじゃないよ。朝食なんて目玉焼きとトーストだし、お弁当もウインナーと野菜を炒めたのと冷凍コロッケだし……」父はそれでも嬉しいと言ってくれた。父に心配をかけないために始めたことではあるものの、料理をするようになれば自然と買い物に出るようになり、そうなればうまい具合に外の空気を吸える。それがやがて自分を少しずつ癒していき、やっと、ぼんやりした時間をもてあますようになった頃、父が意外なことを言った。「……犬?」「あぁ。もう成犬なんだが、海外に引っ越しをする先生が預け先を探していたんだ。凛花は大の犬好きだし、相談もなく名乗りを上げてしまったよ」「それは別にいいけど……」聞けば大型犬の部類に入る精悍な顔立ちのあの犬だと知らされる。ジャーマンシェパード。警察犬として活躍することも多い賢い犬だ。「シェパードくん……はじめまして」我が家にやって来た、まだ名前も知らない犬。ひざまずいて迎える凛花に落ち着いた様子で近づき、そっと前足を膝に乗せてきた。「君は、なんていう名前?」後からついてきた父が答える。「レオ、って名前だそうだ。成犬だし、名前を変えたら戸惑わせるだろうから、そのままレオでいこうか」「レオ……」簡単に頭をよぎる似た名前。……蓮。呼び間違えたりしたら、恥ずかしいな。リビングの端にケージが設置されるのを見て、少し意外に思った。我が家にはそれなりに広い庭がある。レオのようないかにも運動が必要そうな犬なら、いつでも走りまわれる庭で飼うのかと思った。「室内で買われていたそうなんだ。マンション育ちらしい」「なるほど!お坊ちゃん育ちってわけね?」それからは、レオの世話が凛花の生活のほとんどになった。朝と夕方の散歩、食事、水浴びな
最後更新: 2026-06-25
Chapter: 54.めぐみと再会……わずかな希望驚いて視線を外せない凛花に、めぐみの目が自然に向く。少し唇が開いて、明らかに驚いた様子……まさか、私のことを覚えているの?伊藤課長はベテランの女性社員をめぐみの担当にしたので、席は遠く離れてしまった。このままお昼休みまで待つしかない。凛花は時々離れた席のめぐみに視線をやり、時間が過ぎるのを待った。「鈴原凛花さんよね?」ちょっと集中している間に、お昼休みの時間がやって来たようだ。声に振り向くと、そこにはめぐみが立っている。「めぐみさん……今までどこに?」つい、追求するようなキツい言い方をしてしまった……何も覚えていないかもしれないのに。反省する凛花に、めぐみは笑いかける。「私は覚えてるわよ。とりあえず、個室のそば屋さん知ってるから、そこで」これで、蓮の行方もわかる……久しぶりに、からだ中に血液が巡るのを感じた。「あの日、すべてが終わったのよ」そば屋に落ち着き、注文を終えためぐみが口を開く。「目が覚めたら、隣に寝ていたはずの連さんがいなくなってて、もぬけの殻になってました。慌ててめぐみさんの部屋に行ったけど、めぐみさんも鮫島くんもいなくなってて」課長が変わり、鮫島も何も覚えていなかったことをまとめて話す凛花。「あの日目を覚ましたら、私は冥界にいた。それで……すべてが終わったんだって確信したの」「……蓮さんは、」「それが、わからないのよ。彼の指導係だったわけだから、私が戻っているということは、彼も冥界に戻っているはずなのに」めぐみはそっと眉間にシワを寄せた。「蓮がもどらないことに、最高幹部が躍起になってたわ」ところで……と、めぐみは唐突に話を変える。「あなたは全部覚えているのね?」「はい。でも、蓮さんがどこに行ったのかわからなくて、その話をできる人もいなくなってしまったので、少し心を病みました」凛花の言葉に、めぐみは目を見開いた。そして次の言葉に、凛花は思わず立ち上がりそうになった。「もしかしたら、蓮によく似た人が周りに現れて……いない?」「……伊藤課長!……蓮さんに似てると思いませんでしたか?それから、課長の奥さんの名前が、アミルっていうんですけど」「アミルは冥界にいたわよ?……伊藤課長は、蓮には似ても似つかないと思うけど?」それを聞いて愕然とした。私は、短い間に蓮の顔も忘れてしまったのか……「でもまぁよく聞
最後更新: 2026-06-22