Chapter: 第四章 第38話 独り、思いを馳せる私と和さんが、星降山から下山してから程なくして、鳴神山へと赴いていた金剛さんから、"現在帰投中"との連絡がありました。 戻るまで凡そ一時間程掛かるとのことでしたので、金剛さんたちが帰ってくるまでの空き時間に入浴を済ませてしまおうと思った私は、休憩中の和さんに声を掛けてから浴室へと向かいました。 後ろ髪を結わえていた和紙を取り、何時ものように緋袴を壁際のハンガーにかけて、白の小袖はクリーニングに出してもらう為に畳んでおき、襦袢は洗濯ネットに入れ、和装下着と共に洗濯籠へ……替えの巫女装束とバスタオルを用意して脱衣所の棚へと置くと、私は浴室へと足を踏み入れました。 蛇口を捻り、シャワーヘッドから噴き出した冷水が徐々にお湯へと変わってゆくのを指先で確認すると、私は頭から身体、髪の毛一本一本や手の指先や爪先に至るまで、お湯とシャンプー、それからボディーソープでくまなく身を清めます。 髪や身体を清め終えたら、洗面器にお湯を張り、そこに中性洗剤を入れて、今日一日中履いていた白足袋を浸けます。足袋を長持ちさせるには、二、三分ほどこうして浸した後に自分の手で揉み洗いすると良いと、清さんや御陵本家が管理するお社に務める巫女さんが言っていました。ですので私も、何時も入浴時にその日履いていた足袋を自分で洗うことにしていました。 そうして足袋も洗い終え、もう一度シャワーで髪や身体を軽く清めた私は、背中まで伸ばした後ろ髪が湯に浸らないようヘアゴムで一つに纏め、浴槽にゆっくりと身を浸しながら、浴室の天井を見つめて、ほっと一つ溜め息を吐きました。 脳裏を次々と、無数の言葉が駆け抜けてゆきます。巫女長さんや禰宜の鬼塚さん、依頼人にして宮司の平坂さん等と交わした何気ない日常会話から、鈴木さんと金剛さんから告げられた、特務機関【敷島】が神社関係者を背乗りしているという情報。 それから──天津甕星が、私との意思の疎通を試みる中で紡いだ、呪詛にも似た言葉の数々。 ──"我が成すべきは、只一つ。憂世を絶ち、天地を絶つ"。 ──"この世は辛く、残酷。人という種が存在する故。故に遍く生命を祓い浄め、人という獣が創りし全てをなかったことにする。それこそが我が悲願、我が誓い。この願いは、誓いは……何者にも邪魔立てさせぬ"。 ──"あぁ……憎い。憎くて憎くて、仕方がない"。
Last Updated: 2026-06-19
Chapter: 第四章 第37話 星神との語らいがもたらすもの 少女の先導の下、香々星之宮へと立ち入ると、大きな正五芒星がぼうっと、紫色の光を放ちながら宙に……ちょうど私の目線と同じくらいの高さに浮かび上がりました。 その中央より、腰から下のない黒い人影のようなものが音もなく姿を現し、此方へとゆっくりと顔を向けてきます。「…………!」「──迂闊に銃を向けては駄目です、和さん……! 此方に敵意があると、相手に認識されかねません……!」 即座に小銃を相手に向けて臨戦態勢に入る和さんを素早く制しつつ、私もまた《《ソレ》》へと顔を向け、胸に手を当てながら丁寧に一礼しました。「────」 人影がそのまま実体を得たかのような姿のその相手は、尚も警戒を解かない和さんには目もくれず、ただじっと私のことを観察してきます。 《《ソレ》》は全体的に華奢な体躯で、腰まで伸びた長い黒髪、慎ましやかな胸の膨らみ、そしてくっきりとした腰のくびれなどが確認出来ます。下半身は正五芒星に呑まれており、残念ながら目視で確認することは出来ません。 或いは、元から下半身などない可能性も……ですが、眼前に現れた《《ソレ》》は、華奢なその体躯から私と同年代くらいの少女ではないかと思われました。 断定を避けたのには、理由があります。《《ソレ》》の顔には、鼻らしき微かな突起はあっても鼻の穴は見当たらず、口に至ってはそもそも存在すらしていなかったため、外見的な年齢を推測するのが困難だったためです。 虚ろな切れ長の目……白目の部分が一切存在しない真っ黒な双眸のみが、《《ソレ》》の顔に明確に存在している唯一のパーツでした。 刹那── 影法師の額と胸の中央に、正五芒星が音もなく浮かび上がります。《《ソレ》》は天津甕星の分身体──上空にて渦を巻く暗雲の中に潜む《《影》》とは別に、私と意思疎通をするために生み出された、云わばもう一つの《《影》》とでも言うべき存在でした。 初日の夜──金剛さんと香々星之宮を訪れた際、天津甕星は眷属となった少女たちを通して私という存在を認めたこと、香々星之宮まで導いたことを告げた後、暗雲の中に潜む影を用いて、言葉で直接私に立ち入りを赦す旨を伝えてきました。 ですが、神との安直な意思疎通は障りを齎し、対象の心身を蝕みます。私があの時、側頭部を鈍器で勢い良く殴られたような激しい頭痛に見舞われ、目や鼻から大量に
Last Updated: 2026-06-13
Chapter: 第四章 第36話 星降る山へと向かいてしかしながら、私たちのやるべきことは変わりません。悲観してばかりいたら、それこそ生きて帰ることなど出来ないでしょう。 私は星を司る神・天津甕星と接触を試みるため、和さんを連れて星降山へ……金剛さんたちは車で鳴神山の旧軍施設へと、日没後それぞれ出発しました。 旧軍施設が幾つも残されている鳴神山……神隠しが頻発しているそこで、特務機関【敷島】は何かしているに違いない。それこそが神隠しの正体であり、"高天原計画"の儀式であると私と金剛さんは考えていました。 そのため、金剛さんは私に対し、周防さんや鈴木さんと共に、星降山の調査と鳴神香々星奇譚の読み込みで多忙な私の代わりに、鳴神山の旧軍施設とその周辺を探ってこようと思うが如何、と提案してきたのでした。 甚だ危険な役目ではありますが、どうやら金剛さん的には、私には天津甕星との接触、それから彼の神格の正体を突き止めることに注力して欲しいようで、私は決して無理をしないと約束させた上で、彼の行動を容認する他ありませんでした。 星降山への入口までの道中、和さんは【敷島】の手の者に尾行されていないか、何度も何度も入念に後ろを警戒していました。少しでも足音のような物音が聞こえると、手にした小銃を躊躇なく、背後の暗闇へと向け、誰何する……それを繰り返しました。 護衛任務はこれで二度目だという和さん……まだまだ動きがぎこちなく、金剛さんが纏っているような、余裕綽々、泰然自若といった雰囲気は、残念ながら未だ持ち合わせていないようでした。 物音や周囲の暗闇に対して過度に警戒するその様は、見ていて少し不安になります。こんな時、金剛さんなら……と変に比較してしまうのは、私が彼に安心感を覚えてしまったが故なのでしょう。 和さんと共に、徒歩で香々星神社を出発してから凡そ二十分が経過した頃──天津甕星を祀る神域・香々星之宮へと通ずる、星降山の入り口が私たちの前にその姿を現しました。 薄暗い木々が周囲を覆い尽くし、鬱蒼とした山林を形成している中にポツンと、まるでそこだけ空間が丸ごと抉り取られたかのように入り口は開かれており、巨大な鳥居が存在をこれでもかと誇示する様は、見る者を容赦なく萎縮させます。 「うわ……何というか……雰囲気あるわね、ここ……」 和さんがごくりと、息を呑む音が耳に届きます。彼女はただただ、雰囲気に
Last Updated: 2026-06-05
Chapter: 第四章 第35話 迫り来る蜃気楼私たちが此岸町に現地入りしてから、早くも四日が経過しようとしています。 私は何時ものように夜明け前に起きてシャワーを浴び、姿見の前で和装下着を身につけて白足袋を履き、素早く襦袢、白の小袖、緋袴の順で素早く巫女装束に着替え、後ろ髪を和紙で一つに結わえた後、居室兼寝室へと向かい、まだ自力で巫女装束に着替えられない和さんの着付けを手伝います。その間に周防さんは国旗掲揚へ、金剛さんと鈴木さんは朝食の用意と昼食の下準備を始めます。 私は日没後に星降山へと赴いては、星神・天津甕星との接触を試みたり、下山後も鳴神香々星奇譚をじっくりと読み込み、気になった箇所に付箋をしては、調査ノートに該当箇所を箇条書きにして纏めるという作業を深夜二時まで行っていましたので、やや寝不足気味ではありますが、行動に何ら支障はありません。 御堂本家当主にして《《現人神》》・清治さんの下で八雲ちゃんと一緒に教育プログラムを受けた際、一緒に徹夜して提出レポートを仕上げたことが何度かありますので、脳や身体が慣れてしまったのかもしれません。尤も、徹夜という行為は決して褒められたものではありませんが……。 午前六時半頃に談話室に集合し、金剛さんと鈴木さんが作ってくれた朝食を摂ります。その際に、昨夜社務所内で起こった怪奇現象について和さんや周防さんが話すのは最早定番と化していました。 今朝は珍しく、金剛さんも参戦……とびきり意地悪そうな笑みを湛えつつ、彼は部下三人に対し言いました。 「──良いか、お前ら。怪異の話をしているとな……その怪異が近くまで《《寄ってくる》》ぞ」 「……え?」 その言葉に和さんは青ざめ、周防さんは言葉を失い、鈴木さんはポカンとしていました。三者三様の驚き方は、見ていてとても面白かったです。 朝食後は各々歯磨きをし、朝拝まで敷地内とその周辺を皆で掃除します。ここまでの行動パターンが、すっかり香々星神社での朝の日常となっていました。 現状、私たちを取り巻く環境に、大きな変化は見られません。子供世代、若者世代が概ね友好的なのに対し、大人世代が冷ややかな反応を示すのも変わりません。 何か一つ、変わったことがあるとするならば── 「──おはよう御座います、《《巫女さま》》。今日も変わらず、お美しい」 朝の散歩中と思しき氏子総代の一人である老婦人が、愛想笑い
Last Updated: 2026-05-29
Chapter: 幕間 第34話 月に叢雲、花に風同時刻── 御陵 奏が嘗て教育プログラムを受けた、御堂本家。その屋敷内にある当主の執務室を訪れる、一人の見目麗しい巫女の姿があった。 「──失礼します、ご当主さま」 「ほぅ……誰かと思えば、叢雲《むらくも》じゃないか」 執務室の扉を開けて入ってきた巫女に背を向けたまま、御堂本家当主・御堂 清治はふっと笑みを零す。それにつられるかのように、叢雲と呼ばれた巫女の少女も、整った小さな口許に薄らと冷たい笑みを浮かべた。 裏御三家が誇る《《夢見鳥》》が一柱・御堂 叢雲。それが少女の名前だった。否……声も見た目も、そして立ち居振る舞いも、完璧に少女のそれであるが、実際は清と同年代の少年──即ち男であった。 線の細さ、そして見た目と声の清らかさを武器とすべく、転生する度に去勢手術を受けており、表向きは清たちと同じく女である。彼が男であることを知る者は、《《夢見鳥》》たちと彼の両親を除けば誰一人として存在しない。 《《夢見鳥》》としての実力は本物であり、総合的な強さでは、一族の最高傑作と謳われる清に次ぐとの評価を得ている。それ故に、"現人神の懐刀"と呼ばれ、内外から畏怖されていた。 「珍しいな。お前が自分から、私の元を訪れようとは」 「えぇ、まぁ。恐れながら、ご当主さまに具申したきことが御座いまして、ね」 「ほぅ……では、聞かせてもらおうか」 叢雲の方へ、清治はゆっくりと向き直る。翡翠色の瞳の奥底に、仄暗い焔が灯っているのが見えた。 普通の人間なら萎縮してしまうであろう、清治の全身から放たれる圧倒的なプレッシャーを受けても尚、叢雲は平然としている。寧ろ、余裕綽々たる態度であった。 「──ご当主さま。今こそ正しく、機を見るに敏。裏御三家内に不和をもたらす元凶・御門本家……その当主代理をこの世から抹殺するべきかと存じます」 「ふむ……続きを聞こう」 「はっ──特務機関【敷島】との争いは現状、我々裏御三家が優位に立っております。八雲が熊襲で暴れ回り、彼の地に展開していた【敷島】の精鋭を蹴散らしたことが大きいでしょう。我らは今、勢いに乗っております」 しかしながら──"月に叢雲、花に風"と言われるように、良いことにはとかく邪魔が入りやすく、長続きしないものである。熊襲での敗北を受け、【敷島】が反撃の狼煙を上げるのは時間の問題であるし、何より御
Last Updated: 2026-05-22
Chapter: 幕間 第33話 憂い、忘れがたく御陵 宗一は、憂えていた。 鳴神山地の此岸町へと、《《まつろわぬ神々》》に関する調査のため送り出した巫女、御陵 奏の精神状態を。そして、彼女の安否を憂えていた。 早川の瀬に坐す姫君──ミコトによって齎された、奏が鳴神山地に眠る《《まつろわぬ神々》》の王・天津甕星に魅入られたとの報せ。それは、奏の特異体質を知る宗一を不安にさせるには、十分であった。 その報せから程なくして、奏の護衛である【彼岸】第五小隊長・金城 剛彦から、天津甕星に《《印》》を刻まれたことで彼女は強いショックを受けて泣き出してしまったので、心の整理をさせるため部屋の中で一人にしてあるとの連絡も受けていたので、尚更である。 やはり、奏を送り出すべきではなかったか。遍く神々を惹き付ける特異体質、それは強みであると同時に致命的な弱点でもある。 神々と心を通わせることが出来る代わりに、障りによって心身を蝕まれる。非常に便利だが、相手次第では心身を侵食されて衰弱し、最悪の場合は命を落としかねない。 正に諸刃の剣……況してや、相手は最強と謳われる、《《まつろわぬ神々》》の王にして、星を司る神。魅入られたが最後、奏が廃人となってしまう可能性、危険性が常に付き纏うことは薄々分かっていたことだ。 薄々分かっていたのに、自分は彼女を── 「……お兄さま」 鈴を転がすような、透き通った声が耳に届き、宗一は考えるのを止めて、ふと顔を上げた。見ると、純白の寝間着浴衣に身を包んだ清が、執務室の扉を開けて入ってくるところだった。 「……清。まだ、寝ていないと駄目だろう?」 宗一が咎めると、清は血の気の失せた青白い顔を僅かに綻ばせて、ぴったりとした白足袋に包まれた小さな爪先を優雅に滑らせながら、宗一の傍らまで歩み寄り、彼の右手をそっと握り締めた。 「……いえ、お兄さま。私には分かります。お兄さまは今、何かを憂えていらっしゃいます。そして恐らく、それは私が抱くものと同じ憂い」 「……そうか。お前も、鳴神山地へと赴いた奏のことが心配なんだな」 「……はい、お兄さま。故に、お兄さまの元へと馳せ参じました。お兄さまが、独りで抱え込むことのないように」 特務機関【敷島】に全てを奪われた奏……天涯孤独の身の上となってしまった彼女を、宗一と清は今日に至るまで本当の妹のように可愛がってきた。文字通り
Last Updated: 2026-05-15
Chapter: 第五章 第152話 命を賭して時間を稼げ 涙の王国── 意図せず敵本拠地が巨大要塞パルマノーヴァであることを突き止める快挙を成し遂げた堕天使バルマー指揮下の帝国第二軍であるが、その代償は余りにも重いものであった。 第二軍を目の上の瘤と危惧する敵幹部、優美なる黒豹オセが主君アザゼルの許可を得て強襲部隊を編成。第二軍はこれまで以上の猛攻に晒されることとなったのだ。 神出鬼没の敵軍を相手に第二軍は奮闘しているが、状況は芳しくない。毎日のように死傷者が出るのだから。将兵たちは少しずつ疲弊し、精神に異常を来たしつつあった。「──失礼します、閣下」 まだ年若い参謀が、司令部で独り煙草を吸っているバルマーの元へと歩み寄ってくる。ハルモニア軍では、参謀も最前線で臨機応変に立ち回ることが奨励されているため、司令部にて偉そうにふんぞり返って胡座《あぐら》をかく者など滅多にいない。 そのため、司令部が参謀や各部隊の指揮官で埋め尽くされるのは総指揮官の召集がかかった時と、定期的に行われる作戦方針を定める会議の時くらいである。「──貴官は確か、この度第二軍に配属されたばかりの新人であったな」「はっ──閣下の下で働けること、光栄に思います」 キレのある動きで敬礼する参謀を見て、バルマーは煙草の煙を吹かしながら顔を少しだけ綻ばせた。まるで、息子でも見ているかのように。 実際、バルマーに限らずハルモニアの将軍は、自らの指揮下にある将兵たちを我が子のように大事にしている。大勢の命を預かっている身なので、一人一人の命を軽々しく扱うことなどまずしない。将が兵たちに対し死ねと命令することなど、ハルモニアの歴史的に見ても稀である。「──閣下。恐れながら、閣下に進言したきことがあり参りました。今一度、私の話をお聞き願えますか?」「許可する。遠慮なく話し給え」 煙草の火を消すと、バルマーは身を乗り出して話を聞く体勢に入る。若干表情を強ばらせつつも、参謀は意を決したように口を開く。「連日のように死傷者を出し、将兵たちの士気が少しずつではありますが下がって
Last Updated: 2025-10-04
Chapter: 第五章 第151話 離反する決意 穏やかなある日の午後……"同族殺し"の異名を持つ天使ラグエルは、ハルモニア国境を突破してグノーシス辺境伯領へと侵入していた。 天空の神ソルに見切りをつけ、天界から離反した嘗ての同胞──死の天使サリエルを討つために。「…………」 領主の館──その庭に植えられている木の枝に、小鳥に扮して留まる。視線の先には、サリエルにサポートして貰いながら歩行訓練に勤しむセラフィナの姿があった。「ふふっ……その調子ですよ、セラフィナさん」 おっかなびっくりといった様子で、それでも一歩一歩着実に踏み締めながら歩みを進めるセラフィナ。そんなセラフィナを微笑ましく思っているのか、サリエルは満開の花を思わせる眩しい笑顔を見せていた。「……サリエル。お前、そんな顔も出来たのか……」 初めて見る、嘗ての同胞の眩しい笑顔。全てのしがらみから解き放たれ、自由の身となったからだろうか。 天界にいた頃のサリエルは、何時も決まって悲しそうな顔をしていた。死の天使という役割に重責を感じていたのもあるだろうが、何より主君たる天空の神ソルの示す方針が心優しいサリエルには合わなかったのだろう。「おっと──」 躓いて転びそうになるセラフィナを、サリエルは真正面からぎゅっと抱き留める。「もう……足元ばかり見ていても駄目ですけど、だからと言って前ばかり見ているのも駄目ですよ?」「ごめん──正直、歩行訓練が必要になるほどの重篤な傷を負ったのって、これが初めてだからさ……あれ、歩くのってこんなに難しかったっけ──って、私自身困惑しているんだよね……」「ふふっ……なら、仕方ないですね。慣れて良いものでもありませんし、次は斯様な事態に陥らぬよう……もっと上手く立ち回らないと、ですよ?」 セラフィナの額にそっとキスをすると、サリエルは小首を傾げながらにこっと笑う。その様はまるで、我が子を慈しむ母のようだった。「…………」 殺すなら、今だ──ラグエルの脳が、素早く指示を出す。
Last Updated: 2025-10-03
Chapter: 第五章 第150話 元聖教騎士と三日月の魔女 グノーシス辺境伯領、領主の館── その日のリハビリを恙無く終えたセラフィナが眠りについたことを確認すると、シェイドは寝る前に少し酒でも飲もうかと考え、階下へと向かう。 この時間帯なら、侍女のラミアとエコーは既に自室で寝る準備に入っているが、執事のナベリウスはまだ起きているだろう。彼との他愛ない世間話は、酒の肴に丁度良い。 階段を降りて食堂へと向かうと、意外にもそこには先客がいた。「──あら、君は確かシェイド君……だったかしら?」 すっかり酔い潰れた様子でテーブルの上に突っ伏し、すやすやと静かな寝息を立てているサリエル……そんな彼女を介抱していたアスタロトが、シェイドを見つめて柔和な笑みを湛える。 肝心のナベリウスの姿が見当たらないことに疑問を覚えたシェイドが彼の居場所を尋ねると、アスタロトはワインが注がれたグラスを優雅に揺らしながら答えた。「ナベリウスなら、夜風を浴びてくると言って先刻、屋敷の外へと出て行ったわよ。偶に堕天使の姿に戻って、辺境伯領の空を飛び回ってるみたい。幾ら今の生活が充実していても、ストレスは溜まるものだから」「そりゃあ、残念。酒でも飲みながら世間話でもと、思ったんだが……」 シェイドが溜め息混じりにそう言うと、アスタロトはまるで悪戯っ子のようにくすっと笑う。「──あら? 私が相手ではご不満かしら?」「いや、別に構わないが……これまで、御伽噺の中でしか語られてこなかった伝説の魔女さまと、酒の席でご一緒するのは些か緊張するけども……」「なら、決まりね……ほら、こっちに来て」 対面の席を指差し、座るように促すと、アスタロトは厨房へと小走りで向かい、シェイド用のワイングラスを拝借して再び戻ってくる。「サリエルが、天界以外のワインを飲んだことがないって言うから、試しに飲ませてみたのだけれど……この子、予想以上にお酒に弱かったみたいで……匂いを嗅いだだけで、ご覧の通り。酔い潰れて、寝てしまったのよ」 シェイドのワイングラスに、エリゴールが
Last Updated: 2025-10-02
Chapter: 第五章 第149話 理想主義者の妄言「──死天衆が一柱アモン、サンタンジェロ城下の聖教騎士団司令部より只今帰還致しました」 玉座の間に姿を現したアモンを見つめると、ベリアルは穏やかな声音で成果の可否を問うた。「ご苦労さまです。それで──如何でしたか?」「聖教騎士たちの反発により、交渉は難航するかと当初は思われたが……聖教騎士団長レヴィの一声で、どうやら彼らも納得してくれたらしい」 枢機卿《カルディナル》たちは兎も角、少なくともレヴィと聖教騎士団は、巨大要塞パルマノーヴァの攻略とアザゼル征討に力を貸してくれることを約束してくれた。 ダマーヴァンドの悲劇にハルモニアが関与しておらず、アザゼルの指示を受けて遊撃隊として独自に動く死の天使アズラエルの仕業であることも疑うことなく信用し、皇帝ゼノンがしたためた書状も嫌な顔一つせず受け取ってくれたので、一応は一定の成果があったと見て良い。 聖教騎士団長レヴィとしても、正に渡りに船と言った状況。巨大要塞パルマノーヴァ攻略とアザゼル征討を断る理由など、なかったのではないかと推察される。 アモンの報告を、ハルモニア皇帝ゼノンは無表情のまま黙って聞いている。その胸中には、一体如何なる感情が渦を巻いているのだろうか。「それと、陛下──聖教騎士団長レヴィより、陛下に渡して欲しいと託されたものが御座います」「……ほぅ? して、それは何だ?」「聖女シオンのしたためた、陛下宛の訴状とのこと」 アモンがシオンの訴状を見せると、ゼノンは煩わしそうに手で払いながら、訴状の受け取りを拒絶する。「其方が読め──今、この場で」「……御意。陛下がそうお望みと仰るのであれば」 アモンはゼノンの反応に困惑しつつも、聖女シオンの訴状の内容を詩でも諳んじるかのように読み上げる。 ──ハルモニア皇帝ゼノン様、風雲急を告げております。長きに渡り互いを憎悪し、血を流し続けてきた我ら聖教会と貴国ハルモニア……両勢力の在り方が、今こそ変わる時ではないでしょうか。 ──ゼノン様
Last Updated: 2025-09-30
Chapter: 第五章 第148話 山が動く時 聖マタイ王国、サンタンジェロ城下── 聖教騎士団の司令部……その目の前に、巨大なドラゴンに跨った梟頭の大男が現れたのは、夜明け前のことであった。 死天衆が一柱、堕天使アモン──何の前触れもなく、転移魔法で突如として出現した彼を見た聖教騎士たちは、聖教騎士団長レヴィの命を狙った奇襲と判断。瞬く間に、アモンと彼が騎乗せしドラゴンは、武器を手にした誇り高き若獅子たちに取り囲まれた。「──我は誇り高き死天衆が末席、堕天使アモン。聖教騎士団長レヴィ殿にお目通り願いたい。ハルモニア皇帝ゼノンより、レヴィ殿宛の書状を預かっている」 聖教騎士たちに取り囲まれても何ら動じることなく、アモンは威厳に満ち満ちた声でそう告げた。「異教徒の守護者たる死天衆が、聖教会の神聖なる土地に足を踏み入れるとは言語道断。この地より疾く去れ。我らが騎士団長はご多忙、貴様如きに割く時間などない!」 レヴィの副官に相当すると思しき若き青年将校が、聖教騎士たちを代表して答える。才気と忠義心、そして若さ故の野心に溢れた好青年であった。「聞こえなかったか? 疾く去れ、敵国ハルモニアの守護者たる死天衆が、神聖なる聖教会の土地に足を踏み入れることは決して許されぬ」「──そこまでだ、アントニウス。それに皆も」 白を基調とした将官服を纏いし麗人が、数名の参謀を引き連れて司令部の中から姿を現し、アモンや彼を取り囲む聖教騎士たちの元へと歩み寄ってくる。 聖教騎士団長レヴィ──聖教騎士団創設以来の傑物と称される才女にして、聖アポロニウスの血を引く最後の一人。「騎士団長殿……しかし……!」 アントニウスが反論しようとすると、レヴィは諭すような口調で淡々と、「アモン卿がその気になれば、この場にいる聖教騎士たち全員を瞬時に皆殺しにするなど造作もないこと。それをしないということは、端から襲撃の意図はない」 レヴィは続けてアモンを見やると、「アモン卿もアモン卿です──要らぬ誤解を招くような真似は、控えて頂きたい。休戦協
Last Updated: 2025-09-29
Chapter: 第五章 第147話 敵に塩を送る ──"敵軍、帝国第二軍が涙の王国にて発見す。敵拠点は巨大要塞パルマノーヴァ。繰り返す。敵拠点は巨大要塞パルマノーヴァ"。 エリゴール指揮下の第三軍に代わり、涙の王国に進駐した堕天使バルマー指揮下の帝国第二軍。そしてベリアルの指示の下、行方を眩ませたアザゼルたちを見つけ出すべく"涙の王国"に地域を絞り込み捜索に当たっていた竜の王アポカリプシスの眷属たち。 彼らが命懸けで入手したその情報は瞬く間に、ハルモニア皇帝ゼノンと死天衆たちの知るところとなった。 帝都アルカディア大神殿、玉座の間──「──お呼びに御座いますか、陛下?」 ベリアルとバアルが転移魔法で姿を現すと、ハルモニア皇帝ゼノンは能面を思わせる無表情のまま頷く。「其方らならば、既に周知のことと思うが──アザゼルたちの行方が、漸く判明した。尊い犠牲を払って」「はい、陛下。本土決戦用の星形要塞……巨大要塞パルマノーヴァ。アザゼルたちはそこを拠点とし、日々兵力の増強に勤しんでいる。兵糧要らずの強力な軍隊を、今こうしている間にも作り続けています」 兵糧要らずの軍隊とは、厄介だ──ゼノンは軽く舌打ちをする。戦が長引けば長引く程、アザゼルたち"獣の教団"が当然のことながら有利になろう。「──報道機関の連中は今頃、大喜びだろうな。"若者たちよ、戦場に行け"──などと無責任な言葉で、国民の……特に戦争を知らぬ若者たちの戦意高揚を煽るだろう」「その辺りはご心配なく、陛下。既に、国内全ての報道機関に対し、此方から圧力をかけておきました。少しでもアザゼルたちや要塞パルマノーヴァの件を報じたら、死天衆の名のもとに粛清する。報じたが最後、明日の朝日を拝むことはないと知れと伝えてあります」「ほぅ……見事だ、我が友」 流石はベリアルだ。仕事が早い。報道機関なるものが如何に無責任で愚かなのか……それを良く理解している。 自分たち報道機関が、無知蒙昧なる民衆を導いてやっているのだ──彼らはそう信じて疑わない。上から目線で虚実入り混じった情報を垂れ流し、誤った情報を報じ
Last Updated: 2025-09-28