人は皆、罪の子なれば── "崩壊の砂時計"──突如としてそれが出現したことにより、世界は一変した。遥かなる天空より来たる、翼持つ者たち──"天使"の暗躍。地の底より這い出てくる異形──"魔族"の活発化。そして、嘗て人間だった者たちの成れの果て──"堕罪者"の出現。 それらの脅威が跋扈し、終末までの残り時間が可視化された世界を、相棒の黒狼マルコシアスと共に旅する黒衣の少女──その名はセラフィナ。 彼女の歩む旅路の果てに、待ち受けているものとは──
View More──世界は、歪んでいた。
生命は皆、生まれながらにして罪をその身に宿していた。 他の生命を奪わねば、生きてゆくことが出来ぬ……"生きる"とは即ち罪を重ねてゆく行為に他ならない。日々、生命のやり取りが世界中の至る所で繰り広げられていた。 中でも特に罪深い存在とされたのが、人間であった。彼らは、自分たちこそが生命の頂点であると驕り高ぶり、不必要な殺戮を楽しんだ。自分勝手に善悪の概念を定義し、同族同士で殺し合うなどは日常茶飯事であった。 何より、彼らは他の生命と比べても欲望が極めて深かった。決して満たされることを知らぬその様はさながら、底なし沼のようでさえあった。 専横を極める、醜悪なる存在──ある意味で、彼らは歪んだ世界そのものを体現していると言えた。 だが──そんな世界を創造したと自ら称する夜の帳が下りた帝都アルカディアの大神殿に、パイプオルガンの荘厳な音色が響き渡る。 ステンドグラス越しに射し込む月明かりが、演奏者の姿を照らし出す。喪服を思わせる純黒のシンプルなドレスに身を包み、長く艶やかな銀髪を吹き込んでくる夜風に揺らめかせながら、その者は優雅な動きで亡き者たちに捧ぐ鎮魂歌を演奏していた。 この世に存在する、ありとあらゆる芸術作品が全て陳腐な瓦落多に見えてしまうほどの美貌を惜しげもなく衆目に晒しながら、演奏者……死天衆の長ベリアルはただ黙々と、物悲しい旋律を奏で続ける。 その場に居合わせた誰もが、ベリアルの一挙一動に注目していた。神殿内の清掃をしていた巫女たちも、祈りを捧げに訪れた者たちも……皆、手を止めて彼の演奏に耳を傾けていた。 月明かりに照らされながら、無表情のまま淡々とパイプオルガンを奏でるベリアルの姿は、何と形容すれば良いのか分からぬほどに幻想的かつ神秘的であった。 演奏を終えると、万雷の拍手がベリアルに向けて送られる。皇帝ゼノンと同等、或いはそれ以上の腕前。人々が彼の紡ぐ旋律に心を大きく揺さぶられるのは、至極当然とも言えた。 だが── 胸にそっと右手を当て、黒のストッキングに覆われた細い両脚を軽く交差させつつドレスの裾を空いた左手で軽く摘み、恭しく頭を下げながらも、ベリアルの青く澄んだ目は人々を向いておらず、何処か遠くへと向けられていた。 「…………」 彼の胸中に去来していたのは、果たして如何なる思いだったのだろうか。それを知る者は恐らくこの場には居るまい。彼が今日に至るまでに歩んできた道のりも、秘めたる祈りも、願いも全て。
同時刻、精霊協会本部大広間── 物音一つ、そればかりか埃一つすら立てずにその場へと悠然と舞い降りると、ベリアルはそのままレヴィの方へと瞬時に間合いを詰める。 「──聖教騎士団創設以来の傑物と称される貴女の実力、如何ほどのものか確かめさせてもらいましょう。くれぐれも、この私を失望させないで下さいよ?」 言い終わらぬ内に、ベリアルの手刀が空間を斬り裂く。レヴィは即座に反応し、最小限の動きでその一撃を躱してみせる。 だが── 「……うっ!?」 胸に鋭い痛みが走ったかと思うと、足腰から急に力が抜けた。紅い華びらを思わせる飛沫が鮮やかに舞い、レヴィはその場に片膝を付く。 手刀を繰り出すと同時、ベリアルはレヴィの片膝を目にも留まらぬ疾さで蹴り抜いていた。それにより、本来想定していた回避行動が出来なかったのだと、レヴィは瞬時に悟った。 立ち上がろうにも、足に力が入らない。蹴られた際に骨の一部が砕けたようだ。そうこうしている間にも、腰に帯びた剣を無音で抜いたベリアルが、ゆっくりと歩み寄ってくる。 「──はい、終わりです」 喉元にすっと剣を突き付けられる。完敗だ。ほんの一瞬で無力化されてしまった。レヴィは諦めたようにほっと一つ溜め息を吐く。 「……斯様な形で幕引き、か。ガブリエル様お一人すら守り切ることが出来ずに死ぬことになろうとは、我ながら情けないものだな」 「いえいえ……私を相手にした割には、良くやった方じゃないですかね? 凡百の輩ならあの時点で反応すら出来ずに、そのまま胴体が綺麗に真っ二つですから。皮膚が若干裂けた程度で済ませたことは、素直に称賛しますとも」
天地を揺るがすような咆哮を発しながら、パズズが勢い良く跳躍し、アモンの懐へと迫る。 唸りを上げて振るわれた拳……それをアモンはその場から一歩も動くことなく、背に生やした翼で軽々と弾き返した。 衝撃と反動で大きく怯むパズズを見て、アモンはにこりともせずに呟く。 「……悪くない。たった一撃の拳ではあるが、それに万感の思いが込められている。其方のこれまで感じてきた怒り、憎しみ……だが」 翼を大きく広げて飛翔し、間合いを取り直そうとするパズズに肉薄しながら、アモンは抑揚のない声で残酷な現実を突き付ける。 「──その程度の一撃では、この私アモンに傷を付けることなど、到底不可能であると知れ」 音もなく繰り出されたアモンの拳が顎を打ち抜き、直撃をまともに受けたパズズは血飛沫を上げながら地面に叩き付けられた。 身を起こそうとするパズズを嘲笑うようにアモンの拳が何度も何度も振り下ろされ、その度にパズズの巨躯は大きく沈み込み、砂塵が舞い踊る。 「……どうした? 万夫不当の大精霊。其方の持つ力は、この程度のものなのか?」 血濡れた拳を何度も振り下ろしながら、アモンは無表情のままパズズに問う。梟頭の異形は、まるで興醒めしたかの如く目を細め、憐れむようにパズズの顔を見下ろしていた。 ──"この、恥辱……注ぎがたし"!! パズズの目の奥が憤怒に彩られる。アモンもパズズの纏う闘気が増したのを感じたのか、追撃の手を止めて跳躍、素早く間合いを取り直す。 ──"許す
──"我に! 我らに! 大地の女神シェオルのご加護あれ"!! パズズの叫びに呼応するかの如く、死者たちが黒い液体へと変貌したかと思うと、吸い寄せられるように彼の巨獣の足下へと音もなく収束してゆく。 間もなくパズズの巨体は液体の中に沈み、不規則にその輪郭を変え始めた。その表面に、取り込まれた死者たちの苦悶に満ちた顔が次々と、浮かんでは消える。 その中にはシェヘラザードの、そして先日アッカド国王シャフリヤールと共に宿を訪れた宰相ハールーンの姿もあった。 やがて──黒い炎が轟々と、液体の表面より次々と噴き出したかと思うと、その中から痩せ細った巨獣が……パズズが再び、その姿を現した。 筋骨隆々だった先程までとは異なり、極限まで戦闘に不必要なモノを削ぎ落とし、防御を捨てて敏捷力を高めたその姿は、更に禍々しさを増している。腕は四本に増え、黒い体毛は死者たちの血でぐっしょりと濡れていた。 パズズは自らの手の中で弱々しく呼吸を繰り返すセラフィナの身を案じるかのように、一瞬だけ視線を彼女へと向ける。慈しみと親愛に満ちた眼差しは、明らかにシェイドやキリエに対して向けられていた、侮蔑と憤怒に満ちたものとは異なっていた。 まるで、父が我が子を愛おしむかのような── 刹那──風を切り、巨体に見合わぬほどの凄まじい疾さで、パズズはシェイドたちに向けてスタートを切っていた。 シェイドが瞬時に反応し、キリエを庇うように前へ出て銃弾を放つも、パズズはさも当然かのように、正確無比なるその弾丸を躱してみせた。 「──ちっ!!」
シェイドたちが、セラフィナを奪還すべく大精霊パズズと対峙していた丁度その頃── シェイドたちとは別行動を取っていた聖教騎士団長レヴィと大天使ガブリエルもまた、精霊教会本部へと足を踏み入れていた。 本部の中には、足の踏み場もないほどに将兵や巫女たちの遺体が転がっている。息絶えた巫女の中にはまだ年端もいかない少女の姿もあり、虚ろに見開かれたその目は苦痛と哀しみに彩られていた。 大広間へと通ずる巨大な扉を、レヴィはいとも簡単に蹴り破る。破壊された扉の先──大広間の最奥に彼女はいた。 ──巫女長ラマシュトゥ。 追い詰められた状況であるにも関わらず、彼女は一切動じることなく、軽薄な笑みを浮かべ、優雅に足を交差させながら玉座に腰を下ろしていた。 泰然自若とは、正にこのことを言うのであろう。眼前のラマシュトゥからは、精神的な余裕さえ感じられた。 「──随分と派手にやってくれたのぅ? 聖教会の犬どもよ」 「──先に手を出してきたのは、そちらの方だろう? 巫女長ラマシュトゥ。否……嘆きの女王ラマシュトゥ」 言い終わるや否や、レヴィは被っていた制帽を、円盤投げの要領でラマシュトゥ目掛けて投擲した。ラマシュトゥの首が音もなく宙を舞い、赤黒い血が噴水の如く噴き出した。 だが── 「……くっくっくっ」 地面に転がるラマシュトゥの頭部が、レヴィを見つめてニヤリと笑ったかと思うと、頭部を失った身体ともども黒い液体となって融合し、何事もなかったかのように元の姿で再構築される。 「……よもや、妾の正体を聖教徒が看破するとは思わなんだ。その一点のみは敵ながら天晴れ、よくやったと褒めてやろうぞ。じゃが──」 ラマシュトゥの輪郭が、不規則に変化する。見る見るうちに彼女は、本来の人ならざる者へとその姿を変えてゆく。 引き締まった体躯のパズズとは異なり、巨体ではあるものの痩せ細った体躯の、背に翼を生やした黒き巨獣。大きく裂けた口には無数の牙が生えており、真っ赤な血を思わせる涎が、ぽたぽたと口端から滴り落ちている。 ──"子を亡き者とする嘆きの女王ラマシュトゥ。その魔手は娘とその子に迫り、その抱擁は抗いようのない死へと、哀れな子らを誘うであろう"。 生まれたばかりの子を死へと誘う流行病をもたらす大精霊ラマシュトゥ……それが、長きに渡り精霊教会を
アッカド郊外にある、大精霊パズズを祀った大神殿に辿り着いたシェイドたち……そこに広がっていたのは、正に惨憺たる光景だった。 王国軍の将兵や、精霊教会の巫女たち。皆、血を流して事切れている。中には上半身と下半身が真っ二つとなっており、文字通り見るに堪えないような無惨な状態となって息絶えている者も、ちらほらと散見された。 「──うっ……!」 噎せ返るような血の臭いや臓腑の臭いに、キリエは思わず手で口を覆う。少しでも視線を動かせば、必ず血塗れの死体が転がっている。地獄を彷彿とさせる濃厚な異臭と死の気配が、この場を支配していた。 大神殿は半壊し、半ば瓦礫の山と化している。瓦礫に上半身を圧し潰されて息絶えた巫女が、まだ死亡して間もないのか、血塗られた白く小さな手足をぴくぴくと痙攣させている様が何とも生々しい。 「……ここで、一体何が起こった?」 「……分かりません。誰か、せめて一人でも生存者がいれば話を聞けるのですが、この様子では……」 その時── 半壊した大神殿の入り口に倒れている巫女が、わずかに身動ぎしたのを、キリエは見逃さなかった。 居ても立ってもいられず、マルコシアスの背からひらりと飛び降りると、キリエは覚束ない足取りで、血を流して倒れているその巫女の元へと向かう。 「……貴方は」 「……嗚呼。その、声は……若しかして、キリエさん、ですか……」 薄らと目を開くと、倒れていた巫女──シェヘラザードは、キリエの方へと顔を動かした。苦しそうに咳き込む度、ごぼっと不気味な音を立てながら、口から大量の血が零れ落ちる。
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