Chapter: 49.彼女たちの苦悩 夜の眠りは浅くて短かったけれど、昨夜のように眠れないということはなかった。 早くに目が覚めたマリッサは、東の空に薄く霞がかかるのを見ながら自らに言い聞かせる。(今日の夜、ハロルドに答えを告げるわ) 場所はこの寝室で。 きちんと真向かうためにはハロルドの執務室へ出向くか、あるいはマリッサの昼の居室へ呼ぶべきなのだと思う。 だけど二人の幕引きは、この寝室で行うのが相応しいのだとマリッサには思えるのだ。(侍女の誰かに、その旨の連絡をしてもらわなくてはね) そう思いながら朝食を終えたマリッサは、ハロルドへの伝言を書くための紙を選んでいた。 廊下側の扉が叩かれたのはそのときだ。 対応した侍女が足早に駆け寄ってくる。「妃殿下。王妃様よりお召しでございます」「王妃様から?」「はい。すぐにお部屋へお越しくださいとのことです」 マリッサは手にしていた数枚の紙へ視線を落とす。 せめて紙を選んでしまいたい。この憂鬱な作業を後回しにするのは気が重い。 しかしほかの貴婦人ならばともかく、王妃が「すぐに」と言っているのだから、待たせるわけにもいかない。 おそらく内容は離縁に関することだろう。 王太子と王太子妃の結婚は国の一大事、離縁だって同様だ。国の中枢に位置する王妃が気に掛けるのも当然と言える。 仕方なくマリッサは机に紙を置き、侍女を連れて部屋を出る。 今日の王妃の居室近くは静かだった。いつもならば貴婦人の笑いさざめく声が聞こえてくるのだがそれもない。 やはり王妃はマリッサと離縁の話をするつもりなのだろう。 マリッサの侍女が来訪を告げると、顔なじみの侍女が現れて扉を開ける。 中には柔らかな香の匂いと、静かな空気が満ちていた。「こちらへ」 呼ばれてマリッサは王妃の正面に腰かける。 続いて王妃は人払いをした。いつもはないことなのでマリッサは戸惑うが、これから話す内容のことを考えれば仕方ないのかもしれないと思いなおし、つれてきた侍女に控室へ行くよう指示した。 部屋の中にいるのが二人だけになったところで、王妃が切り出す。「あなたとハロルドの仲は、どうなっていますか?」 どう返事をするべきか。マリッサが悩んでいると、先に王妃が口を開く。「ロジャーの母が私ではなく、別の女性であることは知っていますね?」「はい」「その女性の素性は知っていま
Last Updated: 2025-10-21
Chapter: 48.それが本当の ディーンの口からクレアの名を聞いたとき、マリッサの喉の奥では「やはり」という言葉が出かけて止まった。 なんとなく想像はしていたのだ。 宮廷に姿を見せないクレア。ハロルドとロジャーの激しい口論。そして、クレアの名を呼びながらうなされるハロルド。 断片的に知っていたことが、ひとつの像となって結びついただけ。だから衝撃は受けたけれど、思うほどではなかった。「王太子殿下は子どもの頃からずっと、クレア様を慕っていたんです」 しかしディーンは殊更にゆっくりと話を続ける。「その気持ちはクレア様がロジャー様の妻になっても変わりませんでした。だから王太子殿下はクレア様を望みました。国王陛下もそれを認め、クレア様が王太子殿下の寝室に侍ることになったのです。ハロルド殿下はよりによって、兄の妻を初の女性として選んだ……」 ディーンの瞳がふと探るような色を帯びた気がする。「……しかもそれは真っ先に妃殿下へ言うべきことだったはず。それをきっと隠したままだった。そうですね? 我が従弟殿はいつもそうだ。大事なことを言わない。最も近くにいらっしゃる妃殿下にさえ黙っているなど、そんな酷いことがあっていいのでしょうか」 悔しげなディーンの言葉が終わると同時に、部屋の中の空気がひどく重くなった気がする。 けれど、目の前の彼が言うほどには「酷い」と思っていない自分に、マリッサは気づいた。 言葉はときに真実を遠ざけることがある。 相手を思うからこそ語らないことだってある。 そんな優しさだってこの世にはあるのではないだろうか。 ハロルドが黙っていたのは、マリッサを軽んじたからではない。 だから時が来たらきっと話してくれたはず。 きっとそうだと信じたい。 それが自分の本心なのだとマリッサは気がついた。「……お辛いでしょう、妃殿下。けれど、あなたが悲しむことはありません。殿下はあなたを軽んじた。その罪は、いつか必ず彼自身に返るはずです」 ディーンは相変わらず優しい言葉をかけてくる。 だが、マリッサの心には少しも響かない。(……どういうこと?) 自問し、マリッサは思い返す。 これまで自分が向けられてきた“優しさ”とはどういうものだったか。 茶会で「見事な銀の髪ですわね。私たちの国ではちょっと浮いてしまうかもしれませんけれど、大丈夫かしら? ああ、とても王太子妃殿下の
Last Updated: 2025-10-20
Chapter: 47.『秘密の慣習』 勉強会の翌日、ディーンは王太子妃マリッサの部屋へ向かっていた。 薄い曇り空の下、王宮の回廊には湿った空気が漂っている。 実はディーンはハロルドの召使いの一人に小金を握らせ、王太子の周辺で何か動きがあったら知らせてくれと頼んであった。 その召使いが昨夜、こっそり連絡を寄こした。曰く、「王太子妃が王太子の執務室へ訪れたあと、何も言わずに走り去った」というものだ。 ディーンはほくそ笑んだ。 おそらくハロルドは庭園で見たディーンとマリッサの姿に衝撃を受け、マリッサに「ラガディへ行け」と言い出したのに違いない。(私の出番だな) マリッサの部屋の前に立つと、扉の向こうから微かに侍女たちの声が聞こえる。 一呼吸おいてから控えめに扉を叩き、顔を見せた侍女に名を名乗り、続いて告げる。「王太子妃殿下に言葉をお伝えしたく参りました」「どのような内容でしょうか?」 客人に慣れているようで、侍女は驚きも戸惑いもなく淡々と尋ねてくる。そこに聞こえたのがマリッサの声だ。「通して差し上げて」「でも、妃殿下」「いいのよ」「……では、どうぞ」 部屋の中は昼の明るい光に満たされている。薄い紫色のドレスをまとったマリッサは、中央の椅子から立ち上がるところだった。「こんにちは、ディーン。私の部屋に来るのは初めてね」「はい。なんだか新鮮な気持ちがいたします」「本当ね」 マリッサの微笑はいつものように穏やかだ。 けれど、ディーンは内心で眉をひそめた。 ――何かが違う。 昨日までと比べてほんの少しではあるが、自分へ向ける感情が薄れているように思えるのだ。まさか行動に違和感を持たれてしまったのだろうか。(……いや、そんなはずはない。きっと彼女が疲れているせいだ) そう自分に言い聞かせ、ディーンは静かに歩み寄る。「妃殿下、突然の訪問をお許しください。少し胸が騒いで……」 そこで区切って独り言のように呟く。「いえ。ただ私が、お顔を拝見したかっただけです。少し、噂を耳にしたものですから」「……噂。どのような?」 彼女の問いには答えず、ディーンはそっと膝をついた。 いつもの笑みを消し、真剣な眼差しでマリッサを見上げる。「王太子妃殿下。人々はあなたの美しさや、聡明さ、そして遠い海の国から嫁いでこられたというお立場といった、表面ばかりを口にして誉めそやします。
Last Updated: 2025-10-19
Chapter: 46.感じるぬくもり 自室に戻ったマリッサを見て、出迎えの侍女たちは驚きの声を上げた。「王太子妃殿下、どうなさったんですか!」 しかしマリッサは彼女たちに構うことなく寝室へ飛び込み、鍵をかける。 侍女たちが口々にマリッサを呼びながら扉を叩くけれど、マリッサは叫ぶように「一人にして!」と返すのが精一杯だった。 そのまま寝台へ走り、身を投げ出し、声を限りに泣き崩れる。 ハロルドから離縁を言われて悲しかったのはある。 ディーンとのことを言われて悔しかったのもある。 自分がやってきたことがすべて無駄であり、何もかも空しくなってしまったというのもあるような気もする。 とにかく「離縁しよう」との言葉が心の中で何度もよみがえり、泣けてしまって仕方がなかった。 ――やがて、涙も枯れるころ。 のろのろと顔を上げると、辺りはもうすっかり暗くなっていた。 侍女たちはマリッサの望み通りそっとしておいてくれたようだ。 王太子の執務室へ一緒に行ったジュリアが軽く状況の説明はしただろうが、彼女自身も詳細を知っているわけではない。質問を浴びせられながら困った表情を浮かべるジュリアの姿が見えるような気がした。 それでも侍女たちは無理に鍵を開け、寝室へ入ってくるようなことはしなかったのだ。 今になって、自分の身勝手さと我が儘ぶりが申し訳なくなる。 そのまましばらく寝台に座り込み、喉の奥がからからに乾いていることに気づいたのは、どれほど時間が経ってからだろう。 水でも飲もうと思い立ち、マリッサはふらりと寝台を離れ、重い足取りで部屋の扉へ向かった。 扉の向こうは昼の居室だ。 侍女たちはこの部屋の明かりを落とし、もう控室に下がってしまっているだろうと思った。 しかし居室は光に溢れ、侍女たちは静かに控えていた。 誰も声を上げない。ただ、マリッサの姿を見た途端、彼女たちは静かに微笑んだ。部屋に張り詰めた空気がほどけたような気がする。「……ごめんなさい、驚かせてしまったわね」 掠れた声でマリッサが言うと、侍女の一人がそっと近づいてきた。「お座りになりますか、殿下?」「ええ」 マリッサが椅子に掛けると、侍女たちが動き出した。幾らも待たずに机にはカップが置かれる。湯気は少ない。きっとわざとぬるくしてくれたのだ。「ありがとう」 一口含むと、柔らかな甘さが口に広がる。 その味に誘われ
Last Updated: 2025-10-18
Chapter: 45.すれ違う心 勉強会に参加するというディーンと別れたあとも、マリッサは東屋でまた考えに沈んでいた。 慌ただしく侍女のジュリアが慌ただしく駆けてきたのは、池を渡る風がずいぶん涼しくなり、夕の訪れを告げる頃だ、 彼女から告げられた内容にマリッサは息をのむ。 ――ハロルドからの呼び出し。 マリッサは今までハロルドから呼び出されたことなどない。 ジュリアもそれを知っているから、こんなにも顔色を無くしているのだろう。 いったい、何の用なのか。 花見の宴の後に会うのだという事実からも考えると、どうしても内容は一つの方向へ向かってしまう。「シーブルームの王女よ。もしもまだグリージアの王太子と心を通わせておられぬのなら、我が国へ来ないか。幸いなことに私には複数の息子がいる。中の誰かがかならずあなたを幸せにするだろう」 ラガディの王が言ったこの話と、きっと無関係ではない。 そう思うだけで胸が重くなるけれど、いずれは決める必要のあった話だ。(ハロルドの意見は、意見として聞く。その上で私の意見も言えばいいのよ) 自分の意見。 それはこの国をまだ離れたくないということ。 慈善事業の国営化を意思半ばで放り出したくない。 それに何より、寂しく一人で佇むハロルドをそのままにしたくない。 彼がクレアのことを想っているのは知っている。 でもマリッサは『花見の宴』で彼と歌ったあのときに彼と気持ちが通じ合った気がした、あれが幻なのだとはどうしても思えなかった。「どうなさいますか、妃殿下……」 ジュリアからそっと声を掛けられてマリッサは心を決める。「行くわ」 池の水面が陽光を反射してきらめく。その輝きを裾に映しながらマリッサは立ち上がる。 庭園を渡る風の音を、石の廊下を打つ靴音を聞きながら進み、ついにマリッサは重厚な扉の前に立った。 侍女が来訪を告げ、中からの答えが戻る。「あなたは待っていて」「ですが」 不安そうに見つめるジュリアに微笑み、マリッサは一人で扉をくぐった。 夕暮れのせまる庭園はだいぶ明るさも落ちていたと思う。しかし外はまだ明るかったのだと、ハロルドの執務室に入ったマリッサは思い知った。 ようやく慣れた目に映ったのは壁際の書架だ。まるで王妃の部屋のようにたくさんの本がずらりと並んでいる。 次に部屋の奥に机を認めた。書類は整然と積まれている。まるで
Last Updated: 2025-10-17
Chapter: 44.密やかな企み 歩み去るハロルドの背を見つめ、ディーンはゆっくりと唇に笑みを浮かべる。(種を撒いたぞ) 勉強会の広間を出たハロルドが庭園に行くのを見たディーンは先回りしていつもの東屋へ向かった。もしもマリッサがいれば幸運だと思ったが、本当に彼女がいたとは。 しかも彼女と会っている場面をハロルドに見せることまで出来た。ここまで上手くいくとはなんという幸運だろうと、神に感謝すらしたくなる。 ディーンは昔から人の心の動きを読むのが得意だった。 王宮での宴や集まりで、誰が誰を好み、誰が誰を敵視しているのか。言葉にされない空気を読み、それぞれの感情の動きを記憶しながら生きてきた。 すべてはいずれ王位を望むためだ。 実を言えばディーンにも王位継承権がある。 それは母が王の妹であり、現国王の甥という立場のおかげだった。 現国王には二人の息子がいる。 ロジャーとハロルドという、八歳違いの兄弟。 兄のロジャーは母の出自の関係で王太子にはなれなかった。 王太子になったのは、弟のハロルドの方だ。 冷たいと評されることの多いハロルドは、国内の人気がさほどに高いわけではない。 ならばハロルドに付け入る隙を見つけ、王太子に相応しくないと世間が断じれば、次期王位は自分の元に転がり込んでくるのではないか。 そう考えたディーンは、近くにいるときはもちろん、遠くからでも、ハロルドのことを観察し続けていた。 そのおかげでディーンは、まだ子どもだったハロルドがクレアに向けていた視線に気づくことができた。 華やかな舞踏会で、楽の音の響く宴の席で、鮮やかな花の咲く庭園で。 誰かと話をしていたとしても、ふとしたはずみにハロルドの視線は違うほうへ向けられる。 その先にいたのはいつもクレアだった。 彼女を見つめる際に熱を帯びる視線を、ディーンは最初のうち「子どもの淡い憧れ」かと思っていた。 だが年を重ねても、ハロルドの視線は変わらない。それどころか逆に熱が上がっているかのようにさえ見えた。それで確信を得た。(……なるほど。我が従弟殿は、あの方に心を寄せているのだな) もちろんディーンはクレアが誰と結ばれるのか分かっていた。 クレアがいつも見つめる先にいたのは同じ人物だったからだ。 むしろあれほどクレアばかりを見ているハロルドが、どうしてその事実に気づかないのか。正直に言えばとて
Last Updated: 2025-10-16
Chapter: それから(後) ブルーノがドアノブに手をかけたとき、シュテファンの声が背中から追いかけてきた。「私も花の国へ行くぞ!」 「別に行かなくていいよ。お前は花の国が嫌いなんだろ? 無理すんなって」 「いや、それは……あ、そ、そうだ、お前だけ行かせたら、蜂蜜酒を飲んで泥酔して、帝国の恥さらしになるかもしれん! 見張りが必要だから私も行ってやる。分かったな? 絶対に、私も行くからな!」 「見張りなんか必要ないけど、しょうがないなあ。……じゃあさ」 兄の行動を見越していたブルーノは、駄目押しとばかりに部屋の外を自身の親指で示す。「今から父上の部屋に行くんだ。お前も一緒に来てくれよ」 「父上に用でもあるのか?」 「ああ。俺はこれから、今の話を父上にしに行くんだ」 ライナーに対し「我はこれよりそなたを息子と認めたりしない」という絶縁状もどきを送っておきながら、結局はずっとライナーのことを気にし続けた竜帝のことだ。「『花の国の女王陛下がご懐妊』という報告をもらってからこっち、父上はずっとそわそわしてたろ? いざ『ライナーの子が誕生した』って話をしたら、竜の姿で花の国へ飛んでいくかもしれない。だから俺とお前で引き止めたいんだ」 「……私とブルーノで父上を止められるだろうか」 「シュテファンと俺で止められなけりゃ、この世の誰も父上を止められないぜ。とにかく竜の姿を他国に見られるわけにはいかないんだ。父上には何としても正気に戻ってもらわなきゃならん」 「確かにな。分かった」 真面目な表情でうなずくシュテファンとともに歩きながら、ブルーノはくすりと笑う。「四年前に俺たちが花の国へ行ったときは、兄弟三人ともバラバラだったよな」 「あれは……ライナーを止めるために仕方なく出かけたからだ。本来なら花の国になんて行く必要はなかったんだ」 「そう言われたらそうなんだけどさ。だけどわざわざ花の国まで行ったっていうのに、往路は一人で馬車に揺られてたからさ。つまらなかったなあって」 「帰りは私が一緒だったろうが。忘れたのか」 「もちろん覚えてるよ。ライナーがいなくなって暗ーくなるお前の面倒を見てやるのは、ものすごく大変だったからなぁ」 「どの口が言うんだ? お前は花の国から持ちこんだ蜂蜜酒を飲んで、ベロベロになってるだけだったろうが」 「なんだ、ちゃんと覚えてるんだな。へへへ、今
Last Updated: 2025-07-14
Chapter: それから(前)「シュテファン、いるかー?」 ノックと同時に扉を開くと、部屋の中では顰め面のシュテファンがブルーノを見ている。「どうしてお前は返事を待ってから扉を開けないんだ?」「俺とお前のあいだに隠すようなことなんてないからいいじゃないか。それより、見てくれよ。花の国から手紙が届いたぜ!」「……花の国。そんな小国のことなど、わが帝国からすればどうでもよいことだ。いちいち報告しなくていい」「おーおー、無理しちゃって」 ブルーノは手にした紙をひらひらとさせる。やわらかな花の香りが辺りにただよった。「無事に産まれたぞ」 その言葉を聞いた直後にシュテファンは喜色を満面に浮かべた笑みを見せる。しかしすぐに「ふん」と鼻を鳴らし、窓のほうへ顔を向けた。「それがどうした」 素っ気ないそぶりを見せているが、紅潮した頬は隠せていない。ただ、そこを追及すると彼は頑なになって手がつけられなくなるのをブルーノは知っていた。なにしろ産まれる前から、二十二年も一緒にいる兄のことだ。 それでブルーノは手元に視線を落とし、本当はすっかり覚えている文面を読み上げる。「黒い髪と青い瞳を持つ、とっても可愛い女の子だってさ。三人とも元気らしいから良かったよな」「確かに気をもんでただろうが、ライナー自身が何かをするわけじゃない。元気でいるのは当たり前だろうが」「三人ってのはライナーを含めてじゃないぜ。ジゼル陛下と、子どもたちのことさ」「……子どもたち?」「俺たちの姪は双子なんだってよ」「双子!」「そう。だから俺が準備した品も、お前が準備した品も、どっちも使ってもらえるってわけだ」「なっ……わ、私は別に、何も!」「はいはい、お前は何も用意してないんだよな」 シュテファンの部屋に子ども用品があふれているのを知っているのだが、敢えてそこには触れないままブルーノは手紙を懐にしまう。「それにしても、子どもが産まれて本当に良かった。しかもまだあの二人は結婚して四年だし、これからもまだ家族が増える可能性あるもんな」「ふん。貧乏な国の王族が増えたところで、国庫が圧迫されるだけだ」「だからお前も陰から支援してやってるんだろ? こないだの議会でも花の国の生産品を追加購入させようと――」「あれは別に花の国のためではない! 需要が高まっている品の輸入枠はもう少し拡大したほうが我が帝国のために良い
Last Updated: 2025-07-13
Chapter: 『竜の子』は花の国の王女様に恋してる(後) こんな無遠慮なことをするのは一人しかないし、そもそもライナーは自分に似ている声の聞きわけがちゃんとできる。慌てて引き出しを閉め、自分を呼んだ相手の方を振り返った。「ブルーノ」 続いてもう一人、いつも一緒にいるはずの彼の名を呼ぼうとしたが、ブルーノの後ろには誰もいない。「一人だけですか?」「そ。シュテファンにも声をかけたんだけど、『ライナーは帝国が恋しくなってすぐ戻って来るんだから、見送りの必要なんてない』って言われた」「ああ。父上も昨日、同じことを言ってましたよ」「あの二人の考え方ってそっくりだもんな」「竜帝と、次期竜帝ですからね」 ライナーと顔を見合わせて笑ったブルーノだったが、すぐにその顔を伏せ、ライナーの肩にこつんと額を当てる。「……お前、本当に行くんだな」 いつも陽気なブルーノの声が翳りを帯びている。彼のこんな声を聞いたのは、母のフラヴィが亡くなったとき以来だ。「……俺はさ。今までだって、これからだって、ずっと三人一緒にいられると思ってたんだ。なのにお前は俺とシュテファンを置いて、あんなに愛してくれた父上も置いて……一人で遠いところに行っちゃうんだな」 生まれる前から一緒だった彼にそう言われると、ライナーの心はずきりと痛む。 花の国へ行きたいと訴える反面、本当はライナーだって行っても良いのかをずいぶん迷った。 竜の子である自分が国を離れて良いのかという問題はもちろん、引き止める父や、二人の兄に背いて良いのか、何度も自問自答を繰り返したのだ。今だって本当は、頭の片隅でもう一人のライナーが囁いている。 ――父も、兄二人も、こんなに自分のことを愛してくれてるじゃないか。 今ならまだ引き返せる。一言「花の国へ行くのをやめる」と言えば、昨日までと変わらぬ日々を帝国で続けられるのだ。 その気持ちを読んだかのように、ブルーノが言う。「なあ。『やっぱり帝国に残ることにした』って言えよ。そうしたら俺が、みんなに伝えて来てやる。荷物の運び込みだって手伝うよ。だから、だからさ」 いつも朗らかなブルーノの顔が珍しく歪んでいた。まるでライナー自身が泣きそうになっているかのようだ。 ライナーは自分と同じ服を着た背中にそっと手を回し、自分と同じぬくもりを感じながら言う。「……ごめんなさい」 迷って、迷って。 それでも最後にライナーが出す答
Last Updated: 2025-07-12
Chapter: 『竜の子』は花の国の王女様に恋してる(前) 今日の時計はどうしてこんなにゆっくり進むのだろう。もしかしたら壊れているのではないか。 疑いながらライナーは時計をじっと見つめ、普段通り動く針を眺めて息を吐く。 この動作を今朝から何度も繰り返している。 自分でも可笑しいとは思っているけれど、どうにも緊張で落ち着かない。 だって今日はライナーが帝国を発つ日だ。五年前から憧れていたときがもうすぐそこまでやってきているのだから、冷静でいろと言われても無理からぬ話だった。 ここへ至るまでには本当にいろいろなことがあった。 花の国で会った美しい従姉に「待っているから、必ず来て」と言われたライナーは、帝国に戻ってすぐ父に「花の国で暮らしたい」と訴えた。 しかし父である|竜帝《りゅうてい》は渋い顔で首を横に振るばかり、どうあっても許可を出そうとはしてくれなかった。 ライナーは首の下にある鱗をそっと押さえる。 竜帝が花の国行きを反対する理由の一つは、ライナーが『竜の子』なせいだ。 帝国の支配者が竜だというのは他国に絶対知られてはならない秘密。体の鱗から芋蔓式に父竜の秘密まで知られてしまう可能性を考えると、おいそれと竜の子を他国に出せないのは道理だ。 だが、今は亡き母のフラヴィは生前、「花の国のあの父娘――私の兄と姪なら絶対に大丈夫よ。秘密は必ず守ってくれるわ」と何度も竜帝に請け合っていた。だからきっと大丈夫だと、ライナーも信じている。 そして反対のもう一つの理由は、竜帝が家族を愛しすぎていること。 実を言えば花の国へ行けなかったのは、竜の子にまつわる問題よりも竜帝のワガママの方がずっと大きい。「こんな愛らしい子が三人もいると知ったら花の国は全員を欲しがるに違いない! 一人でもお断りだというのに、三人など冗談ではないわ! 駄目だ駄目だ! 花の国になど行かせるものか!」 そう叫ぶ竜帝はただの駄々っ子で、息子のライナーの方こそが丁寧に、根気強く、父を説得する必要が生じるほどだった。 竜帝が渋々ながらも頷いてくれたのは、ライナーの努力と、母の遺言のおかげだ。 自身が遠方へ嫁ぎ、三人の子を産み、そのうちの一人が生国へ戻ると夢で見ていた母のフラヴィは、自身が世を去ってからもライナーの味方をしてくれていたのだ。 花の国から来た母を思いながら、ライナーは机の引き出しをそっと開ける。ここには一枚の絵が入れたま
Last Updated: 2025-07-11
Chapter: 47.花の国の女王様と『竜の子』 城の人々も、もしかしたらジゼルとライナーの変化には気づいているかもしれない。だけどまだ何も言わない。ジゼルもライナーも言っていない。二人にはまず、最初に報告すべき人がいるからだ。 どちらからともなく歩き出し、ジゼルとライナーは二人だけで庭園に向かった。 いつも女王ジゼルのそばにいて、一番近くで女王を護るのは騎士ライナー。それがライナーの夢だったのだとは先日聞いたばかり。 傍らを歩く花の国随一の腕を持つ騎士を見上げ、微笑み、ふとジゼルは気が付いた。「ライナー、胸元のボタンが取れかかっているわ。ほら、ここ」「あ、本当ですね。このままだと落ちて失くしてしまうかもしれません」 ボタン一つとはいえ無駄には出来ない。ライナーは小刀で器用にボタンを外し、腰に下げた物入れへ仕舞う。 そのときジゼルはライナーの服の間に黒いものを見た。両の鎖骨の間から少し下あたり。初めは汚れかと思ったのだが何か違うような気がした。不思議に思って顔を近寄せ、ジゼルは息をのむ。 ライナーの胸には親指の先ほどの大きさをした黒い鱗が上下に四枚ずつ、合計で八枚並んでいたのだ。「ライナー……それ、どうしたの……?」「ああ……」 問われたライナーはジゼルの視線の先を追って理解したらしい。少し恥ずかしそうに笑う。「ご覧になるのは初めてでしたね。これは生まれたときからあるんです」「ど、ど、どうして?」「どうしてって、父が竜だからです。僕は半分が人間で、半分が竜なんですよ」「……竜……!?」 あんぐりと口を開けるジゼルを、ライナーは盛んに瞬きしながら見つめる。「他国には絶対に内密の話ではあるのですが、帝国の皇帝は黒い竜なんです。だから竜帝と呼ばれていますし、僕たちも『竜の子』と呼ばれるんです、け、ど……」 ライナーの声は徐々に小さくなって途切れ、いっとき辺りは静かな時間が支配する。 やがてライナーはもう一度、今度は恐る恐るといった具合に口を開いた。「……フラヴィは、義姉様に、話さなかったのですか……?」「……話してくださったわ。……でも、まさか……」 竜帝と呼ばれる存在が、本当に竜だとまでは信じていなかった。 黙ってしまったジゼルをライナーはしばらく見つめていた。やがて、はだけた騎士服の間をそっと寄せてうつむき、小さな声で言う。「僕、帝国へ戻りましょうか」「駄目よ」
Last Updated: 2025-07-10
Chapter: 46.残った一人 ライナーたちが花の国に到着した翌日は、当の三人の誕生日でもあった。 普段ならばこの日の花の国は、王宮で王弟の生誕を祝う宮廷舞踏会が開かれる。しかし今回は来客があるということで舞踏会は後日開催にし、当日は王城の一角で内々の宴が催された。 シュテファンは、「十八の誕生日は成人となる重要な日だ。それをまさか他国で迎えることになるとは……」 と渋い顔をしていたが、ライナーに、「でしたら僕の邪魔をせず、帝国で大人しくしていれば良かったんです」 と言われて黙る。 そこへ割り込んだのが、蜂蜜酒のグラスを片手に持つブルーノだ。「まあまあ、ライナー。お前も“大好きなジゼル様”のことばっかり見てないで、少しはシュテファンや父上の気持ちも考えてやれって。もっと視野を広く持たないと、このあとジゼル様のご迷惑になるぞぉ!」「ちょっ、ブルーノ!」「あははははは! ほらほら、シュテファンも。そんな不機嫌そうな顔してないで、今は花の国の滞在を楽しもうぜ! 何せ今回が兄弟三人で過ごす最後の誕生日になるんだろうしさ!」「……おい」 余計なことを言ってライナーとシュテファンに睨まれるブルーノだが、彼に気にした様子は見られない。 鼻歌を歌いながら手にしたグラスの中身を口にして「お」と声を上げる。「さっきのも美味かったけど、俺はこっちの方が好きだな。すっきり苦くて、後からくる甘さが絶妙だ」 途端にライナーの目がきらりと光る。まるで獲物を見つけた獣のようだとジゼルは思った。「いい舌をしていますね、ブルーノ。それはまだ試作品なのですが、試飲をした人たちからも評価が高い品です」「なるほどなあ。……うん、うまい。こりゃ人気が出そうだ」「さすがは帝国の高貴な方。良いものはちゃんと分かっていますね」 |追従《ついしょう》する調子で言ったライナーが、続いて声をぐっと潜める。「ただ、少々問題があるんです。これを量産するには新たな施設が必要となりそうで」「うん? 施設なんかさっさと作りゃいいじゃないか」「そう簡単にはいきませんよ。建設費だって馬鹿にならないんです。ああ、せめて大口購入の当てでもあれば、先行投資ということで予算がおりるかもしれないのに」「……お前、俺に買わせようとしてるな?」「ばれましたか」「ばれるに決まってるだろうが。――で、どのくらいの予約数が必要なんだ
Last Updated: 2025-07-09