Chapter: エピローグ:十五年後の春 春の陽ざしが射しこむ孤児院の庭では、子どもたちが歌の練習をしていた。 窓辺からその光景を見守っていたエリナはふと昔を思い出す。「懐かしいな」 ぽつりと呟いていたところで、ひっそりと扉を叩く音がした。「ねえ、エリナ先生」「どうしたの?」 手にした書類を机に置いて立ち上がると、少年はもじもじとした様子をしながら言う。「あのね。さっき授業で習ったことがあって……ううん、それはいいや。とにかく僕、大きくなったら人の役に立ちたいなって思ったんだよ。……どうしたらいい?」 あまりに真っ直ぐな問いに、エリナは思わず吹き出してしまった。 少年の顔がみるみる曇ったので慌てて両手を振る。「あ、ごめんなさい、違うのよ。ただ、なんだか昔を思い出しちゃって」「昔?」「そう。――私もね、あなたと同じ十歳のときに、マリッサ様にまったく同じことを聞いたのよ」 少年の目が丸く見開かれた。「マリッサ様って、王妃様だよね?」「ええ。私がマリッサ様にその話をしたときは、まだ王太子妃でいらしたけど……」 遠い国から嫁いできた王太子妃、マリッサ。 彼女を陰で笑う者がいたのだとエリナが知ったのはずっとあと、大人になってからのことだった。 それでも彼女は、自分や自分の仲間たちの前で一度たりとも弱音を吐かなかった。 いつだって穏やかな笑顔を絶やさず、誰に対しても分け隔てなく優しく接し、明るく周囲を照らす人だった。 ――今となっては、あのマリッサを笑う人がいたなんて、誰も想像できないだろう。 そう思って微笑むエリナに向け、少年が興味深そうに首をかしげる。「王妃様は先生に、なんて言ったの?」「ああ、そうね。……王妃様はね、こう仰ったの。『困っている人がいたら助けてあげて、悲しんでいる人がいたら寄り添ってあげて。それが自然にできるようになれたら、人の役に立つ人にきっとなれるわ』って」 そのときエリナは「これからたくさん勉強して、小さい子のお世話もたくさんしてあげる!」とマリッサに答えた。 彼女に宣言した通りに努力を続け、おかげで今のエリナは国の官吏にまでなれている。「マリッサ様はとても優しくて、聡明で……何より、人の可能性を信じておられるわ。あの方のおかげで、この国も孤児院もどれほど救われたことかしら」 エリナがまだ子どもだったころ。 孤児院の財源は寄付が頼りで
Terakhir Diperbarui: 2025-10-29
Chapter: 56.虹の朝に その夜の出来事は、マリッサが後から思い返しても不思議だった。 寝台の中にいる自分の体は、今までとはまるで別物になってしまったようだった。 どこもかしこも燃えるように熱いし、頭は痺れたようにぼうっとする。 かと思うと強く引き戻されたけれど、そういうときには大抵思いもかけない声が漏れるのが、とても恥ずかしかった。 それが愛らしいとハロルドに言われたけれど、きっと優しい嘘だろうとさえ思ったくらいだ。 気がつくと夜は更け行き、朝が近くにすらなっていた。 マリッサとハロルドはそのまま互いのぬくもりに包まれ、満ち足りた気持ちで目を閉じた。 朝の光が届いても目覚めず、気がついたのは寝室に声が響いてからだ。「おはようございます、妃殿下」 慌てて身を起こしたマリッサの横にはハロルドがいる。侍女たちはそんな光景を想像すらしていなかったのだろう、寝室に入った途端、着替えや洗面器、水の入った壺を派手に取り落とした。「し、し、失礼しました!」 寝室から出て行こうとした彼女たちが、水びたしの床で滑って悲鳴をあげ、ほかの侍女が何事かと駆けつけてまた大わらわとなる。 肩まで引き上げた毛布の中でその光景をハロルドと二人で見るのは、恥ずかしさも申し訳なさもあったが、なんだか嬉しくもあった。 少し時間をおいて、マリッサたちも侍女も落ち着いてからは、改めて互いの使用人たちを呼び寄せて仕度を済ませた。 朝食をとるのはマリッサの部屋だ。 温かく香ばしい匂いが満ちる中、マリッサとハロルドは向かい合って椅子に座った。 こんな穏やかで満ち足りた時間を過ごせるとは思わなかった、と思いながらマリッサは、何度もハロルドと顔を見あわせて笑った。 朝食のあと、二人はその日の予定をすべて断って、マリッサの部屋で過ごした。 それは半年という空白を取り戻していくような時間だったと思う。 ソファに並んで座って多くのことを語って、手を取り合ってバルコニーへ出て。 青い空を見上げながら風に髪をなびかせていると、どこからか微かに楽の音が届く。 どこかの部屋で貴人が楽器を奏でているのだろう。 「……そういえば孤児院の子どもたちはいつも、“歌を歌って”って言うの」 ハロルドが小さく首を傾げた。 彼に微笑んでから表情を引き締め、マリッサは市街のある方へ顔を向ける。「あの子たちは『楽器を弾いて
Terakhir Diperbarui: 2025-10-28
Chapter: 55.青と灰の誓い 最初に思ったことは「クレアの青と同じ色だ」ということ。 だけど、その奥にあるものはまるで違った。 クレアの瞳に宿っていたのは柔らかな慈しみだったが、マリッサの瞳は違う。もっと強く、確かに輝く光があった。 この光を手放してしまうと思うと胸が焼けるように痛む。 ただ、その光が、少しずつ潤みはじめた。 最初のうち、ハロルドは自分が涙ぐんでいるのかと思った。 しかしよく見ると違う。涙ぐんでいるのはハロルドではなく、マリッサだ。「ハロルド、ちゃんと聞いていた?」「もちろんだ……だから私たちの離縁の旨を皆に伝えて……いや、明らかにすることで、あー……」 ハロルドが言い淀んだのはマリッサの表情が変化したせいだ。彼女は軽く目を伏せて、あきれ半分、慈しみ半分の笑みを見せる。「あのね。私は、“表向きは夫婦”という契約を、解除したいと言ったの。分かる?」「分かっている。私たちは、離縁をするわけだから――」「ちっとも分かってないわ」 マリッサは瞳を上げ、ふう、と息を吐いた。「表向きだけじゃなく“裏でも”、きちんとあなたと夫婦でいたいっていう意味で言ったのよ」 自分は今、とんでもなく間の抜けた顔をしているに違いない。ハロルドはぼんやりとそう思う。「あなたも言ったでしょう? 『君に好きな人が出来たのなら、心のままに動くといい』って」「ああ……」 それは結婚していくらも経たない夜、彼女に向けて放った言葉だ。夜を共にできない、と。 その後も形式だけの結婚を続けようと提案したマリッサに同意しつつ、心のどこかで彼女を縛る資格はないと思っていた。にもかかわらず、彼女がディーンと親しげにしている姿を見て胸の奥が焼かれた。ありえない愚かさだ。「あのとき離縁するとは言ったけど、契約は破棄されてなかったわ。だから私は心のままに動いたのだけど……どうかしら」 上目遣いに尋ねて来る彼女がとても愛らしい。 おろおろとしながらハロルドは言葉を探す。「だが……ラガディは? ディーンのことは? そ、そうだ、それに私は、『夜の教育』にクレアを望むような愚かな人物で……」「あなたがこれからも夫婦でいてくれるなら、私はラガディには行かない。ディーンのことは誤解よ。……クレアのことは……」 少し言葉は途切れ、続く。「あなたたちは、清いままだったんでしょう?」 ハロルドは思わ
Terakhir Diperbarui: 2025-10-27
Chapter: 54.契約の終わり「マリッサ。話を聞いてほしい」 ハロルドは呼びかけたけれど、彼女は窓の外に顔を向けたきりで返事もなかった。ただし聞こえている証拠に肩がわずかに震えた。それを見て取ってハロルドは話を続ける。「私は昔、クレアに恋をした。いつか彼女を私の妻にしたいと思っていた。しかし現実は私の思う通りにいかなかった。君も知っている通り、彼女は兄の妻になった。嫉妬に狂った私は、彼女を奪おうとしたんだ」 あのときのハロルドはまさしく狂っていたのだと思う。「グリージア王家には『夜の教育』という慣習がある」 ハロルドはかいつまんで『夜の教育』の話をする。 マリッサは静かに聞いていたので、もしかするともう知っているのかもしれない。「私はそれが許される年齢になったとき、相手にクレアを望んだ。『夜の教育』に選ばれた相手は絶対に拒めないと分かっていたからだ。これで私は、確実にクレアを自分のものにできると思った。……だけど私は何も得ることができなかった。ただ、クレアを傷つけ、ロジャーに憎しみを植え、自分の思いを汚しただけだった……」 ハロルドが一度口をつぐむと、窓辺からは静かな声がした。「どうしていま、私にそんな話をするの?」「そうだな……」 深く息を吐き、ハロルドは続ける。 確かにこんな話をされてもマリッサは困るだけだろう。だが、ハロルドはマリッサに伝えるべきことがある。「この話をしなければ、言えないことがあったんだ」「どんなこと?」「私は、君の瞳の色に、クレアを見ていた」 これは『マリッサをクレアの影として見ていた』ことを明かす話だ。 どれほど失礼なことをしていたのかハロルドにも分かっている。 だがもし、黙ったまま別れてしまえば、彼女はいつまでも「ハロルドが自分を見なかった理由」を探し続けてしまう。そして優しい彼女はきっと「自分に問題があった」と思ってしまうだろう。それだけはさせたくない。「クレアは私にとって、罪そのものになってしまった。君の瞳を見るたびに彼女の瞳を思い出し、同時にあの夜の愚かさも思い出した。……卑怯な私は罪から目をそらそうとした。君の顔を見られなかったのはそのせいだ」 マリッサは何も言わない。 果たして彼女は何を思っているのだろう。「私は最初から最後までずっと身勝手だった。けれど君は、最初から最後まで、優しく、誠実だった。君には何の非もな
Terakhir Diperbarui: 2025-10-26
Chapter: 53.もう一度 気持ちに結論を出し、ハロルドは倒れたインク壺を直す。中身はもうわずかしか残っていないが、幸いにも大きく汚れた書類はなさそうだ。あとで床の掃除も頼まなくては。 小さく息を吐いてハロルドが身長に書類を移動させていると、開けた引き出しの中に一枚の栞を見つけた。 これは『花見の宴』に向けて練習しているとき、音楽の教師を派遣した礼としてマリッサがくれたものだ。 ハロルドは引き出しに書類を入れ、代わりに栞を手に取り、そこでふと眉を寄せた。 二羽の鳥の色が気になったのだ。 淡い緑色の布の上で寄り添う一羽の色は、やわらかな灰色。 もう一羽は、深い湖を閉じ込めたような青色をしている。 そして青と灰は互いを思いやるようにして、一つの枝で身を寄せ合っていた。 ――灰と青。 ハロルドの瞳は灰、マリッサの瞳は青だ。 これは偶然の取り合わせなのだろうか。 彼自身の瞳の色と、マリッサの瞳の色。 まるでふたりを象るかのようなその配色を見つめるうち、栞を持つハロルドの指に力が入る。 もしかするとマリッサはずっと自分を見てくれていたのだろうか。(……マリッサ) ハロルドには彼女にしていない話がある。 なぜ彼女の顔を見ることができなかったのかを、ずっと明かしてこなかったのだ。 この話をするのならば、過去の自分の過ちを告げなくてはいけない。 まだ罪の意識が重い今は、彼女に冷静に話ができるかどうかは分からない。 だが、彼女はラガディへ旅立ってしまう。その前に、今まで働いてしまった失礼を詫びる必要がある。 自分が愚かだったせいで、何の否もない彼女を傷つけてしまったことを、謝らなくてはいけないのだ。 思いながら椅子から立ち上がる。 彼女に失礼を働いてきた話はするべきだ。 それ以上の“伝えたい言葉”はただの自分の勝手だ。 今の状況で口に出せるわけがない。(私はもう、離縁すると言ってしまったのだからな) 自嘲しながら足を踏み出すのと、扉が叩かれたのは同時だった。 応じる間もないまま執事が慌ただしく入ってくる。 その背後に思いもよらぬ姿があって、ハロルドは目を見開いて立ち尽くした。 そこにいたのは、クレアだった。 愚かな自分が想い求めたせいで、影を背負わせてしまった女性。 もう二度と会うことはないと思っていた彼女が、やわらかな微笑みを浮かべて立っている
Terakhir Diperbarui: 2025-10-25
Chapter: 52.思考は抜け出せない「王太子殿下、どうなされたのですか」 執事に声を掛けられて顔を上げると、書類の山が崩れ、中には床で散らばっているものもある。 今までこのように積み上げたことはもちろん、床に落としたことだってないから、執事が戸惑うのも無理はない。「あ、ああ、すまない」 言いながら書類を拾おうとしたハロルドを制し、執事は床に膝をついて紙を拾い上げた。「御気分でも悪くていらっしゃいますか? お休みになられてはいかがでしょう」「いや、いい」「ですが……」「もう少し進めてしまいたいんだ」「……そうですか」 気づかわしげに言って、執事は手の中の書類をハロルドに渡す。「あまりご無理をなさらないでくださいまし」 そう言って頭を下げ、執事は部屋を出て行った。 再び静まり返る部屋の中でハロルドは書類を取るが、いくらも経たずにまた机の上に戻し、両手で顔を覆った。 今日は――いや、昨日からずっと、頭の中にマリッサの声が響いて離れないのだ。『あなたの望み通り、離縁します』 もちろんこれは自分が望んだこと、自分が言い出したことだ。 離縁しよう、との言葉に彼女は同意してくれたのだから、喜ぶべきではないだろうか。 それなのにこうして無為に時間を過ごしているのはどういうことだろう。 いくら書類の文字を追っても、まったく頭の中に入ってこなかったのはなぜだろう。「私は……」 ハロルドはクレアが好きだった。 七歳で初めてクレアを見たときの気持ちは今でも覚えている。 十五歳になって『夜の教育』の話を聞かされ、相手役として彼女の名を告げたときの思いも。 そして夜闇の中、淡い明かりに照らされた彼女が薄衣一枚で現れたとき、自分を突き動かしたあの衝動だって。 それなのにいつからか、ハロルドが考えるのはマリッサのことばかりだ。 彼女の顔を間近で見られなかった。あの青い瞳がクレアの瞳と重なって、自分の罪を否応なしに思い出す。愚かだった自分の行動を思い出してしまう。(本当にそうなのだろうか) 確かにマリッサを見るのは怖かった。 だけど一番怖かったのは、彼女に惹かれたとき、自分の執着心で彼女を壊してしまうことではなかったか。 ハロルドは愚かだ。 あの優しいマリッサだって、クレアのようにしてしまうかもしれない。 こんな自分に誰かを望むことなど許されるはずがない――。 そこま
Terakhir Diperbarui: 2025-10-24
Chapter: それから(後) ブルーノがドアノブに手をかけたとき、シュテファンの声が背中から追いかけてきた。「私も花の国へ行くぞ!」 「別に行かなくていいよ。お前は花の国が嫌いなんだろ? 無理すんなって」 「いや、それは……あ、そ、そうだ、お前だけ行かせたら、蜂蜜酒を飲んで泥酔して、帝国の恥さらしになるかもしれん! 見張りが必要だから私も行ってやる。分かったな? 絶対に、私も行くからな!」 「見張りなんか必要ないけど、しょうがないなあ。……じゃあさ」 兄の行動を見越していたブルーノは、駄目押しとばかりに部屋の外を自身の親指で示す。「今から父上の部屋に行くんだ。お前も一緒に来てくれよ」 「父上に用でもあるのか?」 「ああ。俺はこれから、今の話を父上にしに行くんだ」 ライナーに対し「我はこれよりそなたを息子と認めたりしない」という絶縁状もどきを送っておきながら、結局はずっとライナーのことを気にし続けた竜帝のことだ。「『花の国の女王陛下がご懐妊』という報告をもらってからこっち、父上はずっとそわそわしてたろ? いざ『ライナーの子が誕生した』って話をしたら、竜の姿で花の国へ飛んでいくかもしれない。だから俺とお前で引き止めたいんだ」 「……私とブルーノで父上を止められるだろうか」 「シュテファンと俺で止められなけりゃ、この世の誰も父上を止められないぜ。とにかく竜の姿を他国に見られるわけにはいかないんだ。父上には何としても正気に戻ってもらわなきゃならん」 「確かにな。分かった」 真面目な表情でうなずくシュテファンとともに歩きながら、ブルーノはくすりと笑う。「四年前に俺たちが花の国へ行ったときは、兄弟三人ともバラバラだったよな」 「あれは……ライナーを止めるために仕方なく出かけたからだ。本来なら花の国になんて行く必要はなかったんだ」 「そう言われたらそうなんだけどさ。だけどわざわざ花の国まで行ったっていうのに、往路は一人で馬車に揺られてたからさ。つまらなかったなあって」 「帰りは私が一緒だったろうが。忘れたのか」 「もちろん覚えてるよ。ライナーがいなくなって暗ーくなるお前の面倒を見てやるのは、ものすごく大変だったからなぁ」 「どの口が言うんだ? お前は花の国から持ちこんだ蜂蜜酒を飲んで、ベロベロになってるだけだったろうが」 「なんだ、ちゃんと覚えてるんだな。へへへ、今
Terakhir Diperbarui: 2025-07-14
Chapter: それから(前)「シュテファン、いるかー?」 ノックと同時に扉を開くと、部屋の中では顰め面のシュテファンがブルーノを見ている。「どうしてお前は返事を待ってから扉を開けないんだ?」「俺とお前のあいだに隠すようなことなんてないからいいじゃないか。それより、見てくれよ。花の国から手紙が届いたぜ!」「……花の国。そんな小国のことなど、わが帝国からすればどうでもよいことだ。いちいち報告しなくていい」「おーおー、無理しちゃって」 ブルーノは手にした紙をひらひらとさせる。やわらかな花の香りが辺りにただよった。「無事に産まれたぞ」 その言葉を聞いた直後にシュテファンは喜色を満面に浮かべた笑みを見せる。しかしすぐに「ふん」と鼻を鳴らし、窓のほうへ顔を向けた。「それがどうした」 素っ気ないそぶりを見せているが、紅潮した頬は隠せていない。ただ、そこを追及すると彼は頑なになって手がつけられなくなるのをブルーノは知っていた。なにしろ産まれる前から、二十二年も一緒にいる兄のことだ。 それでブルーノは手元に視線を落とし、本当はすっかり覚えている文面を読み上げる。「黒い髪と青い瞳を持つ、とっても可愛い女の子だってさ。三人とも元気らしいから良かったよな」「確かに気をもんでただろうが、ライナー自身が何かをするわけじゃない。元気でいるのは当たり前だろうが」「三人ってのはライナーを含めてじゃないぜ。ジゼル陛下と、子どもたちのことさ」「……子どもたち?」「俺たちの姪は双子なんだってよ」「双子!」「そう。だから俺が準備した品も、お前が準備した品も、どっちも使ってもらえるってわけだ」「なっ……わ、私は別に、何も!」「はいはい、お前は何も用意してないんだよな」 シュテファンの部屋に子ども用品があふれているのを知っているのだが、敢えてそこには触れないままブルーノは手紙を懐にしまう。「それにしても、子どもが産まれて本当に良かった。しかもまだあの二人は結婚して四年だし、これからもまだ家族が増える可能性あるもんな」「ふん。貧乏な国の王族が増えたところで、国庫が圧迫されるだけだ」「だからお前も陰から支援してやってるんだろ? こないだの議会でも花の国の生産品を追加購入させようと――」「あれは別に花の国のためではない! 需要が高まっている品の輸入枠はもう少し拡大したほうが我が帝国のために良い
Terakhir Diperbarui: 2025-07-13
Chapter: 『竜の子』は花の国の王女様に恋してる(後) こんな無遠慮なことをするのは一人しかないし、そもそもライナーは自分に似ている声の聞きわけがちゃんとできる。慌てて引き出しを閉め、自分を呼んだ相手の方を振り返った。「ブルーノ」 続いてもう一人、いつも一緒にいるはずの彼の名を呼ぼうとしたが、ブルーノの後ろには誰もいない。「一人だけですか?」「そ。シュテファンにも声をかけたんだけど、『ライナーは帝国が恋しくなってすぐ戻って来るんだから、見送りの必要なんてない』って言われた」「ああ。父上も昨日、同じことを言ってましたよ」「あの二人の考え方ってそっくりだもんな」「竜帝と、次期竜帝ですからね」 ライナーと顔を見合わせて笑ったブルーノだったが、すぐにその顔を伏せ、ライナーの肩にこつんと額を当てる。「……お前、本当に行くんだな」 いつも陽気なブルーノの声が翳りを帯びている。彼のこんな声を聞いたのは、母のフラヴィが亡くなったとき以来だ。「……俺はさ。今までだって、これからだって、ずっと三人一緒にいられると思ってたんだ。なのにお前は俺とシュテファンを置いて、あんなに愛してくれた父上も置いて……一人で遠いところに行っちゃうんだな」 生まれる前から一緒だった彼にそう言われると、ライナーの心はずきりと痛む。 花の国へ行きたいと訴える反面、本当はライナーだって行っても良いのかをずいぶん迷った。 竜の子である自分が国を離れて良いのかという問題はもちろん、引き止める父や、二人の兄に背いて良いのか、何度も自問自答を繰り返したのだ。今だって本当は、頭の片隅でもう一人のライナーが囁いている。 ――父も、兄二人も、こんなに自分のことを愛してくれてるじゃないか。 今ならまだ引き返せる。一言「花の国へ行くのをやめる」と言えば、昨日までと変わらぬ日々を帝国で続けられるのだ。 その気持ちを読んだかのように、ブルーノが言う。「なあ。『やっぱり帝国に残ることにした』って言えよ。そうしたら俺が、みんなに伝えて来てやる。荷物の運び込みだって手伝うよ。だから、だからさ」 いつも朗らかなブルーノの顔が珍しく歪んでいた。まるでライナー自身が泣きそうになっているかのようだ。 ライナーは自分と同じ服を着た背中にそっと手を回し、自分と同じぬくもりを感じながら言う。「……ごめんなさい」 迷って、迷って。 それでも最後にライナーが出す答
Terakhir Diperbarui: 2025-07-12
Chapter: 『竜の子』は花の国の王女様に恋してる(前) 今日の時計はどうしてこんなにゆっくり進むのだろう。もしかしたら壊れているのではないか。 疑いながらライナーは時計をじっと見つめ、普段通り動く針を眺めて息を吐く。 この動作を今朝から何度も繰り返している。 自分でも可笑しいとは思っているけれど、どうにも緊張で落ち着かない。 だって今日はライナーが帝国を発つ日だ。五年前から憧れていたときがもうすぐそこまでやってきているのだから、冷静でいろと言われても無理からぬ話だった。 ここへ至るまでには本当にいろいろなことがあった。 花の国で会った美しい従姉に「待っているから、必ず来て」と言われたライナーは、帝国に戻ってすぐ父に「花の国で暮らしたい」と訴えた。 しかし父である|竜帝《りゅうてい》は渋い顔で首を横に振るばかり、どうあっても許可を出そうとはしてくれなかった。 ライナーは首の下にある鱗をそっと押さえる。 竜帝が花の国行きを反対する理由の一つは、ライナーが『竜の子』なせいだ。 帝国の支配者が竜だというのは他国に絶対知られてはならない秘密。体の鱗から芋蔓式に父竜の秘密まで知られてしまう可能性を考えると、おいそれと竜の子を他国に出せないのは道理だ。 だが、今は亡き母のフラヴィは生前、「花の国のあの父娘――私の兄と姪なら絶対に大丈夫よ。秘密は必ず守ってくれるわ」と何度も竜帝に請け合っていた。だからきっと大丈夫だと、ライナーも信じている。 そして反対のもう一つの理由は、竜帝が家族を愛しすぎていること。 実を言えば花の国へ行けなかったのは、竜の子にまつわる問題よりも竜帝のワガママの方がずっと大きい。「こんな愛らしい子が三人もいると知ったら花の国は全員を欲しがるに違いない! 一人でもお断りだというのに、三人など冗談ではないわ! 駄目だ駄目だ! 花の国になど行かせるものか!」 そう叫ぶ竜帝はただの駄々っ子で、息子のライナーの方こそが丁寧に、根気強く、父を説得する必要が生じるほどだった。 竜帝が渋々ながらも頷いてくれたのは、ライナーの努力と、母の遺言のおかげだ。 自身が遠方へ嫁ぎ、三人の子を産み、そのうちの一人が生国へ戻ると夢で見ていた母のフラヴィは、自身が世を去ってからもライナーの味方をしてくれていたのだ。 花の国から来た母を思いながら、ライナーは机の引き出しをそっと開ける。ここには一枚の絵が入れたま
Terakhir Diperbarui: 2025-07-11
Chapter: 47.花の国の女王様と『竜の子』 城の人々も、もしかしたらジゼルとライナーの変化には気づいているかもしれない。だけどまだ何も言わない。ジゼルもライナーも言っていない。二人にはまず、最初に報告すべき人がいるからだ。 どちらからともなく歩き出し、ジゼルとライナーは二人だけで庭園に向かった。 いつも女王ジゼルのそばにいて、一番近くで女王を護るのは騎士ライナー。それがライナーの夢だったのだとは先日聞いたばかり。 傍らを歩く花の国随一の腕を持つ騎士を見上げ、微笑み、ふとジゼルは気が付いた。「ライナー、胸元のボタンが取れかかっているわ。ほら、ここ」「あ、本当ですね。このままだと落ちて失くしてしまうかもしれません」 ボタン一つとはいえ無駄には出来ない。ライナーは小刀で器用にボタンを外し、腰に下げた物入れへ仕舞う。 そのときジゼルはライナーの服の間に黒いものを見た。両の鎖骨の間から少し下あたり。初めは汚れかと思ったのだが何か違うような気がした。不思議に思って顔を近寄せ、ジゼルは息をのむ。 ライナーの胸には親指の先ほどの大きさをした黒い鱗が上下に四枚ずつ、合計で八枚並んでいたのだ。「ライナー……それ、どうしたの……?」「ああ……」 問われたライナーはジゼルの視線の先を追って理解したらしい。少し恥ずかしそうに笑う。「ご覧になるのは初めてでしたね。これは生まれたときからあるんです」「ど、ど、どうして?」「どうしてって、父が竜だからです。僕は半分が人間で、半分が竜なんですよ」「……竜……!?」 あんぐりと口を開けるジゼルを、ライナーは盛んに瞬きしながら見つめる。「他国には絶対に内密の話ではあるのですが、帝国の皇帝は黒い竜なんです。だから竜帝と呼ばれていますし、僕たちも『竜の子』と呼ばれるんです、け、ど……」 ライナーの声は徐々に小さくなって途切れ、いっとき辺りは静かな時間が支配する。 やがてライナーはもう一度、今度は恐る恐るといった具合に口を開いた。「……フラヴィは、義姉様に、話さなかったのですか……?」「……話してくださったわ。……でも、まさか……」 竜帝と呼ばれる存在が、本当に竜だとまでは信じていなかった。 黙ってしまったジゼルをライナーはしばらく見つめていた。やがて、はだけた騎士服の間をそっと寄せてうつむき、小さな声で言う。「僕、帝国へ戻りましょうか」「駄目よ」
Terakhir Diperbarui: 2025-07-10
Chapter: 46.残った一人 ライナーたちが花の国に到着した翌日は、当の三人の誕生日でもあった。 普段ならばこの日の花の国は、王宮で王弟の生誕を祝う宮廷舞踏会が開かれる。しかし今回は来客があるということで舞踏会は後日開催にし、当日は王城の一角で内々の宴が催された。 シュテファンは、「十八の誕生日は成人となる重要な日だ。それをまさか他国で迎えることになるとは……」 と渋い顔をしていたが、ライナーに、「でしたら僕の邪魔をせず、帝国で大人しくしていれば良かったんです」 と言われて黙る。 そこへ割り込んだのが、蜂蜜酒のグラスを片手に持つブルーノだ。「まあまあ、ライナー。お前も“大好きなジゼル様”のことばっかり見てないで、少しはシュテファンや父上の気持ちも考えてやれって。もっと視野を広く持たないと、このあとジゼル様のご迷惑になるぞぉ!」「ちょっ、ブルーノ!」「あははははは! ほらほら、シュテファンも。そんな不機嫌そうな顔してないで、今は花の国の滞在を楽しもうぜ! 何せ今回が兄弟三人で過ごす最後の誕生日になるんだろうしさ!」「……おい」 余計なことを言ってライナーとシュテファンに睨まれるブルーノだが、彼に気にした様子は見られない。 鼻歌を歌いながら手にしたグラスの中身を口にして「お」と声を上げる。「さっきのも美味かったけど、俺はこっちの方が好きだな。すっきり苦くて、後からくる甘さが絶妙だ」 途端にライナーの目がきらりと光る。まるで獲物を見つけた獣のようだとジゼルは思った。「いい舌をしていますね、ブルーノ。それはまだ試作品なのですが、試飲をした人たちからも評価が高い品です」「なるほどなあ。……うん、うまい。こりゃ人気が出そうだ」「さすがは帝国の高貴な方。良いものはちゃんと分かっていますね」 |追従《ついしょう》する調子で言ったライナーが、続いて声をぐっと潜める。「ただ、少々問題があるんです。これを量産するには新たな施設が必要となりそうで」「うん? 施設なんかさっさと作りゃいいじゃないか」「そう簡単にはいきませんよ。建設費だって馬鹿にならないんです。ああ、せめて大口購入の当てでもあれば、先行投資ということで予算がおりるかもしれないのに」「……お前、俺に買わせようとしてるな?」「ばれましたか」「ばれるに決まってるだろうが。――で、どのくらいの予約数が必要なんだ
Terakhir Diperbarui: 2025-07-09