Chapter: それから(後) ブルーノがドアノブに手をかけたとき、シュテファンの声が背中から追いかけてきた。「私も花の国へ行くぞ!」 「別に行かなくていいよ。お前は花の国が嫌いなんだろ? 無理すんなって」 「いや、それは……あ、そ、そうだ、お前だけ行かせたら、蜂蜜酒を飲んで泥酔して、帝国の恥さらしになるかもしれん! 見張りが必要だから私も行ってやる。分かったな? 絶対に、私も行くからな!」 「見張りなんか必要ないけど、しょうがないなあ。……じゃあさ」 兄の行動を見越していたブルーノは、駄目押しとばかりに部屋の外を自身の親指で示す。「今から父上の部屋に行くんだ。お前も一緒に来てくれよ」 「父上に用でもあるのか?」 「ああ。俺はこれから、今の話を父上にしに行くんだ」 ライナーに対し「我はこれよりそなたを息子と認めたりしない」という絶縁状もどきを送っておきながら、結局はずっとライナーのことを気にし続けた竜帝のことだ。「『花の国の女王陛下がご懐妊』という報告をもらってからこっち、父上はずっとそわそわしてたろ? いざ『ライナーの子が誕生した』って話をしたら、竜の姿で花の国へ飛んでいくかもしれない。だから俺とお前で引き止めたいんだ」 「……私とブルーノで父上を止められるだろうか」 「シュテファンと俺で止められなけりゃ、この世の誰も父上を止められないぜ。とにかく竜の姿を他国に見られるわけにはいかないんだ。父上には何としても正気に戻ってもらわなきゃならん」 「確かにな。分かった」 真面目な表情でうなずくシュテファンとともに歩きながら、ブルーノはくすりと笑う。「四年前に俺たちが花の国へ行ったときは、兄弟三人ともバラバラだったよな」 「あれは……ライナーを止めるために仕方なく出かけたからだ。本来なら花の国になんて行く必要はなかったんだ」 「そう言われたらそうなんだけどさ。だけどわざわざ花の国まで行ったっていうのに、往路は一人で馬車に揺られてたからさ。つまらなかったなあって」 「帰りは私が一緒だったろうが。忘れたのか」 「もちろん覚えてるよ。ライナーがいなくなって暗ーくなるお前の面倒を見てやるのは、ものすごく大変だったからなぁ」 「どの口が言うんだ? お前は花の国から持ちこんだ蜂蜜酒を飲んで、ベロベロになってるだけだったろうが」 「なんだ、ちゃんと覚えてるんだな。へへへ、今
Last Updated: 2025-07-14
Chapter: それから(前)「シュテファン、いるかー?」 ノックと同時に扉を開くと、部屋の中では顰め面のシュテファンがブルーノを見ている。「どうしてお前は返事を待ってから扉を開けないんだ?」「俺とお前のあいだに隠すようなことなんてないからいいじゃないか。それより、見てくれよ。花の国から手紙が届いたぜ!」「……花の国。そんな小国のことなど、わが帝国からすればどうでもよいことだ。いちいち報告しなくていい」「おーおー、無理しちゃって」 ブルーノは手にした紙をひらひらとさせる。やわらかな花の香りが辺りにただよった。「無事に産まれたぞ」 その言葉を聞いた直後にシュテファンは喜色を満面に浮かべた笑みを見せる。しかしすぐに「ふん」と鼻を鳴らし、窓のほうへ顔を向けた。「それがどうした」 素っ気ないそぶりを見せているが、紅潮した頬は隠せていない。ただ、そこを追及すると彼は頑なになって手がつけられなくなるのをブルーノは知っていた。なにしろ産まれる前から、二十二年も一緒にいる兄のことだ。 それでブルーノは手元に視線を落とし、本当はすっかり覚えている文面を読み上げる。「黒い髪と青い瞳を持つ、とっても可愛い女の子だってさ。三人とも元気らしいから良かったよな」「確かに気をもんでただろうが、ライナー自身が何かをするわけじゃない。元気でいるのは当たり前だろうが」「三人ってのはライナーを含めてじゃないぜ。ジゼル陛下と、子どもたちのことさ」「……子どもたち?」「俺たちの姪は双子なんだってよ」「双子!」「そう。だから俺が準備した品も、お前が準備した品も、どっちも使ってもらえるってわけだ」「なっ……わ、私は別に、何も!」「はいはい、お前は何も用意してないんだよな」 シュテファンの部屋に子ども用品があふれているのを知っているのだが、敢えてそこには触れないままブルーノは手紙を懐にしまう。「それにしても、子どもが産まれて本当に良かった。しかもまだあの二人は結婚して四年だし、これからもまだ家族が増える可能性あるもんな」「ふん。貧乏な国の王族が増えたところで、国庫が圧迫されるだけだ」「だからお前も陰から支援してやってるんだろ? こないだの議会でも花の国の生産品を追加購入させようと――」「あれは別に花の国のためではない! 需要が高まっている品の輸入枠はもう少し拡大したほうが我が帝国のために良い
Last Updated: 2025-07-13
Chapter: 『竜の子』は花の国の王女様に恋してる(後) こんな無遠慮なことをするのは一人しかないし、そもそもライナーは自分に似ている声の聞きわけがちゃんとできる。慌てて引き出しを閉め、自分を呼んだ相手の方を振り返った。「ブルーノ」 続いてもう一人、いつも一緒にいるはずの彼の名を呼ぼうとしたが、ブルーノの後ろには誰もいない。「一人だけですか?」「そ。シュテファンにも声をかけたんだけど、『ライナーは帝国が恋しくなってすぐ戻って来るんだから、見送りの必要なんてない』って言われた」「ああ。父上も昨日、同じことを言ってましたよ」「あの二人の考え方ってそっくりだもんな」「竜帝と、次期竜帝ですからね」 ライナーと顔を見合わせて笑ったブルーノだったが、すぐにその顔を伏せ、ライナーの肩にこつんと額を当てる。「……お前、本当に行くんだな」 いつも陽気なブルーノの声が翳りを帯びている。彼のこんな声を聞いたのは、母のフラヴィが亡くなったとき以来だ。「……俺はさ。今までだって、これからだって、ずっと三人一緒にいられると思ってたんだ。なのにお前は俺とシュテファンを置いて、あんなに愛してくれた父上も置いて……一人で遠いところに行っちゃうんだな」 生まれる前から一緒だった彼にそう言われると、ライナーの心はずきりと痛む。 花の国へ行きたいと訴える反面、本当はライナーだって行っても良いのかをずいぶん迷った。 竜の子である自分が国を離れて良いのかという問題はもちろん、引き止める父や、二人の兄に背いて良いのか、何度も自問自答を繰り返したのだ。今だって本当は、頭の片隅でもう一人のライナーが囁いている。 ――父も、兄二人も、こんなに自分のことを愛してくれてるじゃないか。 今ならまだ引き返せる。一言「花の国へ行くのをやめる」と言えば、昨日までと変わらぬ日々を帝国で続けられるのだ。 その気持ちを読んだかのように、ブルーノが言う。「なあ。『やっぱり帝国に残ることにした』って言えよ。そうしたら俺が、みんなに伝えて来てやる。荷物の運び込みだって手伝うよ。だから、だからさ」 いつも朗らかなブルーノの顔が珍しく歪んでいた。まるでライナー自身が泣きそうになっているかのようだ。 ライナーは自分と同じ服を着た背中にそっと手を回し、自分と同じぬくもりを感じながら言う。「……ごめんなさい」 迷って、迷って。 それでも最後にライナーが出す答
Last Updated: 2025-07-12
Chapter: 『竜の子』は花の国の王女様に恋してる(前) 今日の時計はどうしてこんなにゆっくり進むのだろう。もしかしたら壊れているのではないか。 疑いながらライナーは時計をじっと見つめ、普段通り動く針を眺めて息を吐く。 この動作を今朝から何度も繰り返している。 自分でも可笑しいとは思っているけれど、どうにも緊張で落ち着かない。 だって今日はライナーが帝国を発つ日だ。五年前から憧れていたときがもうすぐそこまでやってきているのだから、冷静でいろと言われても無理からぬ話だった。 ここへ至るまでには本当にいろいろなことがあった。 花の国で会った美しい従姉に「待っているから、必ず来て」と言われたライナーは、帝国に戻ってすぐ父に「花の国で暮らしたい」と訴えた。 しかし父である|竜帝《りゅうてい》は渋い顔で首を横に振るばかり、どうあっても許可を出そうとはしてくれなかった。 ライナーは首の下にある鱗をそっと押さえる。 竜帝が花の国行きを反対する理由の一つは、ライナーが『竜の子』なせいだ。 帝国の支配者が竜だというのは他国に絶対知られてはならない秘密。体の鱗から芋蔓式に父竜の秘密まで知られてしまう可能性を考えると、おいそれと竜の子を他国に出せないのは道理だ。 だが、今は亡き母のフラヴィは生前、「花の国のあの父娘――私の兄と姪なら絶対に大丈夫よ。秘密は必ず守ってくれるわ」と何度も竜帝に請け合っていた。だからきっと大丈夫だと、ライナーも信じている。 そして反対のもう一つの理由は、竜帝が家族を愛しすぎていること。 実を言えば花の国へ行けなかったのは、竜の子にまつわる問題よりも竜帝のワガママの方がずっと大きい。「こんな愛らしい子が三人もいると知ったら花の国は全員を欲しがるに違いない! 一人でもお断りだというのに、三人など冗談ではないわ! 駄目だ駄目だ! 花の国になど行かせるものか!」 そう叫ぶ竜帝はただの駄々っ子で、息子のライナーの方こそが丁寧に、根気強く、父を説得する必要が生じるほどだった。 竜帝が渋々ながらも頷いてくれたのは、ライナーの努力と、母の遺言のおかげだ。 自身が遠方へ嫁ぎ、三人の子を産み、そのうちの一人が生国へ戻ると夢で見ていた母のフラヴィは、自身が世を去ってからもライナーの味方をしてくれていたのだ。 花の国から来た母を思いながら、ライナーは机の引き出しをそっと開ける。ここには一枚の絵が入れたま
Last Updated: 2025-07-11
Chapter: 47.花の国の女王様と『竜の子』 城の人々も、もしかしたらジゼルとライナーの変化には気づいているかもしれない。だけどまだ何も言わない。ジゼルもライナーも言っていない。二人にはまず、最初に報告すべき人がいるからだ。 どちらからともなく歩き出し、ジゼルとライナーは二人だけで庭園に向かった。 いつも女王ジゼルのそばにいて、一番近くで女王を護るのは騎士ライナー。それがライナーの夢だったのだとは先日聞いたばかり。 傍らを歩く花の国随一の腕を持つ騎士を見上げ、微笑み、ふとジゼルは気が付いた。「ライナー、胸元のボタンが取れかかっているわ。ほら、ここ」「あ、本当ですね。このままだと落ちて失くしてしまうかもしれません」 ボタン一つとはいえ無駄には出来ない。ライナーは小刀で器用にボタンを外し、腰に下げた物入れへ仕舞う。 そのときジゼルはライナーの服の間に黒いものを見た。両の鎖骨の間から少し下あたり。初めは汚れかと思ったのだが何か違うような気がした。不思議に思って顔を近寄せ、ジゼルは息をのむ。 ライナーの胸には親指の先ほどの大きさをした黒い鱗が上下に四枚ずつ、合計で八枚並んでいたのだ。「ライナー……それ、どうしたの……?」「ああ……」 問われたライナーはジゼルの視線の先を追って理解したらしい。少し恥ずかしそうに笑う。「ご覧になるのは初めてでしたね。これは生まれたときからあるんです」「ど、ど、どうして?」「どうしてって、父が竜だからです。僕は半分が人間で、半分が竜なんですよ」「……竜……!?」 あんぐりと口を開けるジゼルを、ライナーは盛んに瞬きしながら見つめる。「他国には絶対に内密の話ではあるのですが、帝国の皇帝は黒い竜なんです。だから竜帝と呼ばれていますし、僕たちも『竜の子』と呼ばれるんです、け、ど……」 ライナーの声は徐々に小さくなって途切れ、いっとき辺りは静かな時間が支配する。 やがてライナーはもう一度、今度は恐る恐るといった具合に口を開いた。「……フラヴィは、義姉様に、話さなかったのですか……?」「……話してくださったわ。……でも、まさか……」 竜帝と呼ばれる存在が、本当に竜だとまでは信じていなかった。 黙ってしまったジゼルをライナーはしばらく見つめていた。やがて、はだけた騎士服の間をそっと寄せてうつむき、小さな声で言う。「僕、帝国へ戻りましょうか」「駄目よ」
Last Updated: 2025-07-10
Chapter: 46.残った一人 ライナーたちが花の国に到着した翌日は、当の三人の誕生日でもあった。 普段ならばこの日の花の国は、王宮で王弟の生誕を祝う宮廷舞踏会が開かれる。しかし今回は来客があるということで舞踏会は後日開催にし、当日は王城の一角で内々の宴が催された。 シュテファンは、「十八の誕生日は成人となる重要な日だ。それをまさか他国で迎えることになるとは……」 と渋い顔をしていたが、ライナーに、「でしたら僕の邪魔をせず、帝国で大人しくしていれば良かったんです」 と言われて黙る。 そこへ割り込んだのが、蜂蜜酒のグラスを片手に持つブルーノだ。「まあまあ、ライナー。お前も“大好きなジゼル様”のことばっかり見てないで、少しはシュテファンや父上の気持ちも考えてやれって。もっと視野を広く持たないと、このあとジゼル様のご迷惑になるぞぉ!」「ちょっ、ブルーノ!」「あははははは! ほらほら、シュテファンも。そんな不機嫌そうな顔してないで、今は花の国の滞在を楽しもうぜ! 何せ今回が兄弟三人で過ごす最後の誕生日になるんだろうしさ!」「……おい」 余計なことを言ってライナーとシュテファンに睨まれるブルーノだが、彼に気にした様子は見られない。 鼻歌を歌いながら手にしたグラスの中身を口にして「お」と声を上げる。「さっきのも美味かったけど、俺はこっちの方が好きだな。すっきり苦くて、後からくる甘さが絶妙だ」 途端にライナーの目がきらりと光る。まるで獲物を見つけた獣のようだとジゼルは思った。「いい舌をしていますね、ブルーノ。それはまだ試作品なのですが、試飲をした人たちからも評価が高い品です」「なるほどなあ。……うん、うまい。こりゃ人気が出そうだ」「さすがは帝国の高貴な方。良いものはちゃんと分かっていますね」 |追従《ついしょう》する調子で言ったライナーが、続いて声をぐっと潜める。「ただ、少々問題があるんです。これを量産するには新たな施設が必要となりそうで」「うん? 施設なんかさっさと作りゃいいじゃないか」「そう簡単にはいきませんよ。建設費だって馬鹿にならないんです。ああ、せめて大口購入の当てでもあれば、先行投資ということで予算がおりるかもしれないのに」「……お前、俺に買わせようとしてるな?」「ばれましたか」「ばれるに決まってるだろうが。――で、どのくらいの予約数が必要なんだ
Last Updated: 2025-07-09
Chapter: 5.ひとりきりの夜 婚礼の儀式は粛々と終わった。 次にマリッサとハロルドが向かったのは王宮の広間だ。 ここで始まる宴で二人は、改めて人々の祝福を受けることになっていた。 天井で輝く壮麗なシャンデリア、色とりどりの衣をまとった貴族たち、響き渡る楽団の音色。 華やかさに包まれる空間の中で、ハロルドの表情は終始変わらなかった。 微笑むことも、優しく声を掛けてくれることもなく、ただ形式通りに振る舞うばかり。隣に立つマリッサは笑顔を絶やさないよう努めながらも、胸の奥が少しずつ不安で染められていくのを止められなかった。(どうして……? 式でも宴でも駄目なら、いつハロルドは笑顔を見せてくれるの……?) 宴が進むにつれ、彼女の心は重さを増していく。 けれど、心のどこかで「夜になれば、二人きりになれば」と希望を結びつけていた。 やがて祝宴も終わり、侍女たちに導かれてマリッサは浴室へと向かう。 隅々まで磨かれ、香油で髪を梳かれ、行く先は寝室だ。 寝台の布は滑らかで、綿も弾力があってふかふか。 絨毯も、カーテンも、新しい生活の始まりにふさわしく、すべてが真新しい。 こくりと唾を飲んだのに気づいたのか、侍女がそっと囁く。「妃殿下、どうぞご安心を。殿下はきっと、優しくしてくださいます」 侍女はきっと、マリッサが今後の行為に不安で緊張していると考えたのだろう。「ありがとう」と返し、マリッサはなんとか微笑んでみせる。(ええ、そうね。ハロルドはきっと……私を見てくれるはず……) 期待と不安を胸いっぱいに抱えて待っていると、小さな音を立てて扉が開いた。 姿を現したのはハロルドだ。彼の顔に浮かんでいるのは昼間と同じ形式的な表情で、花嫁に向ける優しい笑顔はいつまで待っても見られない。 しかもハロルドは昼と同じ服装で、夜のための服は着ていない。戸惑うマリッサに、下を向くハロルドは静かに言う。「すまないが、夜を共にするわけにはいかない」「……え?」 どういうことなのだろう。自分たちは夫婦になったのに、なぜ。 疑問だけが頭を巡る。ハロルドはマリッサを見ないままで続ける。「遠国から来たばかりなのにこのようなことを言うのは申し訳なく思っている。だが……私は……」 その苦渋に満ちた表情で、マリッサはなんとなく察してしまった。「……もしかしてあなたには、好きな人がいるの……?」
Last Updated: 2025-09-05
Chapter: 4.初めて会えたあなた 希望に胸を膨らませながらグリージアの言葉や歴史などを学び続けた日々にも終わりが来た。 結婚式の日が近づいて、いよいよマリッサは旅立つのだ。 両親が用意してくれた数多くの贈り物と共に、ハロルドに会える喜びを携えて。 乗り込んだ船の帆は風をはらみ、滑るように海を走る。 振りかえると、まだ丘に白く輝く王宮が見えている。 父や母や兄たちはバルコニーでこの船を見送っているだろうか。遠くへ嫁ぐマリッサのことを案じているだろうか。(でも、心配しないで) 寂しさが胸にないわけではない。けれど、ようやくハロルドに会える。そう思うだけで、マリッサの心は静かな幸福で満ちていくのだった。 海を渡り、陸で馬車に乗り換え、さらに長い長い道のりを進む。 グリージアに入ると各地で人々が街道沿いに押し寄せた そして誰もが口々に言う。「今までたくさんの国から多くの貴族たちが来たけれど、あんなに美しくて壮麗な一団は見たことが無い」 と。 王都の王城でも感嘆は同じだった。 大きな車輪を備えた白い馬車は黄金の飾りに彩られ、内には上質の布で仕立てた緋のカーテン。無垢の花嫁にふさわしい、まことに見事な拵えだ。 周囲を固めるシーブルームの騎士たちは一糸乱れず進み、蜜色の肌の侍女たちは優雅に歩をそろえて、花びらを舞わせていた。 そして、王女が現れた。 もし彼女の容貌がさほどでもなかったのなら、グリージアの人々も肩の力を抜けただろう。だが現れた王女は、息を呑むほどの美貌だった。 蜜を溶かしたように温かな肌は、月光を編んだかのような銀の髪をいっそう引き立てる。銀のきらめきを宿した青の瞳は、澄んだ宝石のよう。 神話から抜け出た精霊めいた姿に、人々はただ見惚れた。美貌で名高いグリージア人でさえ霞んで見えるほどに、シーブルームの王女マリッサはまばゆかった。 場は水を打ったように静まり返る。青いドレスの裾を引き、マリッサが地に降り立つ。 次の瞬間、シーブルームの騎士が高らかにラッパを鳴らした。 その音でようやくグリージアの人々は我に返る。世界に名だたる楽隊が歓迎の曲を奏で始めたのは、王女がすでに絨毯を歩み出してから。――ずいぶん遅れてのことだったが、マリッサは少しも気に留めなかった。 出迎えの人々の中心に、ハロルドが立っていたから。マリッサの瞳にはただ、ハロルドしか映っていなか
Last Updated: 2025-09-04
Chapter: 3.『海の瞳』を持つ王女、マリッサ もちろんマリッサは、遠いグリージアの嘲りなど露ほども知らない。 彼女の胸を占めていたのは、ただひたすら王太子ハロルドへの思いだけだった。 空と海とが溶け合う場所。広がる青に抱かれた国・シーブルーム。その王女として生まれたマリッサは、幼いころから父に言われ続けてきた。「いいかい、マリッサ。お前は『海の瞳』を持つ者、海に選ばれし者だ。いずれこの国を離れることになる」 蜜を溶かしたように温かな肌、月光を織り込んだ銀の髪。 そして澄んだ青い瞳には、銀の輝きが瞬いている。これはシーブルームで稀に見られる『海の瞳』と呼ばれるもので、「他国に恵みをもたらすしるし」とされてきた。 ゆえに『海の瞳』の持ち主は国を出て、遠い地で新たな縁を結ぶのが習わし。もちろん王女マリッサも例外ではない。「嫁いだ先こそ真の故郷とし、新たな自国の幸せを願いなさい」 父王の言葉どおり、十五歳になった年にマリッサの縁談が定まった。 海を越えた大陸の奥、山間の小国グリージア。そこがマリッサの新たな故郷となる場所であり、伴侶はグリージアの王太子だと告げられたのだ。「ご覧、マリッサ。この方がお前の夫となる方、グリージアの王太子ハロルド殿下だ」 差し出された絵は、見事な彫刻の施された額に収められていた。中から見つめてくるのは、長いマントを引き、上品なえんじ色の上下をまとい、腰には剣を佩いた凛々しい少年――だろうとマリッサは想像したのだが、こちらを見つめる彼は驚くほど愛らしく、どこか少女の面影さえ帯びていた。「まあ! とっても可愛い子ね!」 思わずそう声を上げてしまい、父や母からと苦笑されたのを覚えている。 以降は二国間で手紙や、贈り物や、絵のやり取りが繰り返された。 愛らしい少女のようだったハロルドは年を追うごとに体つきがしっかりとして、立派な青年へと変わっていく。 いつしかマリッサは「ハロルドの姿絵が届いた」と連絡が来るたびにまず、鏡を覗くようになった。「ねえ、髪は乱れていないかしら? このドレスはおかしくない? 口紅はもう少し薄い色のほうがいいと思う?」 そんなマリッサを見て兄たちは「届いた絵を見るだけなのに、変な妹だ」と笑った。 彼らをいさめてくれるのは母だった。 母はきっと気付いていた。マリッサがハロルドに恋してることに。例え絵であろうとも、ハロルドの前に立つとき
Last Updated: 2025-09-03
Chapter: 2.人々の噂話 その、およそ六年前。 グリージア王国は、王太子の婚約に沸き立っていた。 各方面からかけられる「おめでとうございます」との声を、十五歳の王太子ハロルドは小さくうなずいて受け取る。 その陰で人々は集まり、密やかに声をかわしていた。「ハロルド殿下の御婚約者は遠くから来るのですって?」「海を渡った向こうの大陸にある、シーブルームという国の王女らしい」「海だと? あの塩辛い水があるという場所か。なんでも独特の匂いもあるらしいな。そんな国から来る王女は、独特の匂いがするかもしれん」 誰かがそう言って小馬鹿にした調子で笑い、周囲からも忍び笑いがもれた。中のひとりが「そういえば」と口を開く。「確かに婚約者の王女様は、私たちと違う肌の色をしていたわね」「知ってるのか?」「ええ」 うなずく彼女は、王太子の母である王妃と親しい。「殿下の元に送られてきた肖像画を見たの。シーブルームの王女は、蜜色の肌をしていたわ」 周りからは一斉に驚きの声があがった。 グリージアの人々の肌は白い。たまに遠方から蜜色の肌の人が来ることはあったが、一年で五人見かけるかどうかといった程度でしかない。ほとんどの人が蜜色の肌の人など見たことがなかった。「そんな遠方からどうしてこのグリージアへ来るのだろう?」「きっと私たちに憧れているのよ。でなければこのグリージア自体に憧れているんだわ」 一人がつんと澄まして言う。「だって私たちも、私たちの国も、特別に美しいでしょう?」 その意見を聞いて、皆が一斉にうなずいた。 グリージアは緑の山と青い湖に囲まれた国で、風光明媚な景色を多く擁することで名高い。各国の富裕な人々や貴族がこぞって観光や保養に訪れては、「こんなに美しい国は他にはない!」 と、その美しさを称える。 形の良い山々が青い湖に映る景色も、清々しい森も、咲き乱れる多くの花も、ほかの国よりもずっと鮮やかで瑞々しく見えるそうだ。 しかもグリージアの人は見目もよく、音楽の才能も秀でている。 美しい人々が住み、常に美しい曲が流れている、この大陸でもっとも美しい国。 グリージアはそう称えられていた。 その評判は海を越えて大陸の向こうまで伝わったのだろう。そうして未開の地に住む粗野な国――シーブルームの王はなんとしても娘を“美しいグリージア”に嫁がせたいと考え、熱心に申し出
Last Updated: 2025-09-02
Chapter: 1.星の瞬く寝室で 寝室の窓には夕闇がすっかり降りている。 それは試練の合図のように思える。今日は特に。 カーテンをそっと開き、向こうに星々を眺めながらマリッサはきゅっと唇を噛む。 時間がもう少し進めば夜空の星々が冴え冴えとした輝きを増す。 その頃に、この扉は密やかに叩かれるだろう。 現れるのはグリージア王国の王太子、マリッサの夫、ハロルド。 彼がこの寝室に来るときはたいてい、昼間と変わらぬ服装だった。 夜着姿でないのは、彼が最初からマリッサと「夜を共にしない」と決めていたからだ。 それでもマリッサは「もしかしたら」という気持ちが捨てきれなかった。 考えてみれば滑稽な話だ。 マリッサはグリージアに嫁いできてすぐ、ハロルドと一つの契約を交わしたのに。 それはこの結婚を続けるのは、あくまで国と国のつながりを考えるためだけのものだということ。 王太子ハロルドには好きな人がいた。 だから彼はマリッサに指一本触れることなく、「君に好きな人が出来たのなら、心のままに動くといい、離縁を申し出ても構わない」とまで言ったのだ。 その通りにして半年以上が過ぎた。 だが、もう無理だった。 どこまで行ってもマリッサはこの国にとって、もちろんハロルドにとっても、「あの女性の影」でしかなかった。それを思い知ってしまったから。 だから今宵はいつもの習慣をやめた。 浴室で身を清めはしたが、いつもと違って香油は使わなかった。 夜着を整えることもせず、今も身につけているのは昼と同じドレス。 それはまるで、ハロルドが毎夜現れる時の姿をそのままなぞるかのようだった。「あなたが昼の姿のままなら、わたしも昼の姿のままでいい」 冷ややかに輝く星を見ながらマリッサはそう呟く。 やがて、約束の時刻が訪れる。 静寂を破る密やかなノックが響き、小さな音がして扉が開かれる。 姿を見せたのは予想通りの人物、ハロルド。その顔は、依然として彼女の方へ向けられぬままではある。 ただ、下げられた視線は、はっきりとドレスの裾をとらえているのだろう。 わずかに間を置いて、低い声が響いた。「……マリッサ? どうかしたのか? その姿は……?」 いつもの無表情はかすかに揺らぎ、戸惑いの色を帯びていた。 声にも狼狽がにじんでいる。 マリッサは静かに顔を上げた。 銀の髪が揺れ、青い瞳が炎に照らされ
Last Updated: 2025-09-01