LOGIN前夫と離婚して一年、橘冬真がグループチャットで私をメンションしてきた。「冷戦は十分だ。帰ってこい、再婚しよう」 私は返事した。「頭がおかしいんじゃないの?」 みんなはそれを見て、次々と和解を勧めた。 橘冬真はまた聞いた。「僕がいなかったこの期間、君は何をしていた?」 私は振り返り、子供を寝かしつけている男を見て、手でスマホを操作し、数文字打った。「産後の静養をしてた」 元々賑やかだったグループは、瞬時に凍りついた。 橘冬真は怒り狂って108回も電話をかけてきたが、私は全て無視した。 彼は狂ったように叫び続けたが、命を懸けて彼を愛していたあの少女は、もう彼のものではなかった。
View More監視カメラの画面の中で、夕月がふと顔を上げた。何かを察知したように、レンズの奥を見つめている。暗視映像特有の不鮮明さの中でも、その双眸は夜空の星のように鋭い輝きを放っていた。言葉はない。ただ静かに、冷たいレンズの向こう側にいる誰かと――あるいは過ぎ去った長い歳月と対峙するかのように、じっと視線を注いでいる。涼の心臓が早鐘を打った。唇を一文字に引き結ぶ。彼女に見えているはずがない。そこに自分が隠しカメラを仕掛けたことなど、知るよしもないのだ。だが、見透かされているような錯覚に囚われた。慎重に距離を縮めてきた己の臆病さも、平然を装いながら腹の底で肥大させてきた狂気じみた執着も、すべて彼女にはお見通しなのではないか――涼は強く目を閉じた。再び開いた時には、そこに宿っていたのは迷いではなく、冷徹な覚悟だった。タブレットを懐にしまい、勢いよく車のドアを開け放つ。夜風が襟元から入り込むが、身に纏う殺気と焦燥を冷ますには至らない。六年間、ずっと闇の中から彼女を見つめ続け、惨めな距離を守り続けてきた。だが今夜、その境界線を越える。もう待つことはない。彼は大股で、橘家の本邸へと歩み出した。……本邸の小広間は、空気が澱むほど重苦しかった。ソファの前に立ち、見下ろす雲珠の表情は、怒りそのものだった。使用人が嬉々として「瑛優お嬢様がお戻りです」と報告に来た時、彼女は少しも喜ばなかった。戻ってきた、だと?橘家を裏切り、母方の姓を名乗るようになった小娘にとって、ここはもはや家ではない。「一人で何しに来たのよ」雲珠の声が甲高く響く。長年にわたり夕月へ向けてきた憎悪が、何の罪もない孫娘へと向けられていた。「母親があんなことをしでかしておいて、よくものこのこと顔を出せたわね。やっぱりあの女の子だわ。お前も何か企みがあるんでしょう?なんとか言いなさいよ!」雲珠が一歩踏み出すと、瑛優の小さな背筋がびくりと震えた。幼い頃からこの祖母が苦手だった。高圧的で、いつも何かを責めるような目つき。それでも今の瑛優は逃げなかった。泣きもしない。唇を真一文字に結び、白黒のはっきりした大きな瞳に涙を溜めながらも、頑ななまでの強さで見つめ返している。「黙ってないで答えなさいってば。やっぱり母親譲りね。かわいそうなフリをして同情を
モニターの中の夕月が身じろぎした。手首の痛みを逃がそうとしたのだろうか。小さく息を吸い込み、眉を苦悶に歪める。それでも彼女は唇を噛み締め、呻き声ひとつ漏らさなかった。涼の視線は彼女に釘付けになったまま、指先だけが無意識に画面をなぞっていた。冷たいガラスの向こうにいる彼女に、決して届かぬと知りながら触れようとするかのように。その光景が引き金となり、封印していた記憶が堰を切って溢れ出した。涼の意識は、五年前のあの夜へと引き戻されていく。五年前のあの日、涼は橘家の晩餐会に参列していた。華やかな歓談とグラスの触れ合う音に辟易し、息抜きのため裏庭へと忍び出る。シガレットを一本くわえ、火を点けようとした矢先、そのシルエットが目に飛び込んできた。庭の隅、月明かりの下に夕月がぽつんと佇んでいる。湖の波紋を思わせる、淡い水色のドレス。ほっそりとした肩にかかる銀色の光が、無防備なほどの寂しさを際立たせていた。その光景に、涼は不意に胸を射抜かれる。踏み出すべきだった。「結婚を選んだお前は、サーキットで風を切って走っていた頃より幸せか?」そう問いただしたかった。だが、その一歩を踏み出す前に、冬真が現れた。涼は反射的に闇の中へと身を隠し、以来六年間、そのまま影に潜み続けることになった。人妻への思慕という、決して許されぬ感情。それを心の奥底へ押し込めようとすればするほど、逆に燻る妄執が膨れ上がり、もはや飼い慣らすことなどできなくなっていた。結果、狂気じみた行動に出た。橘家との共同事業に乗じ、「セキュリティシステムのアップグレード」という名目で邸宅内に入り込んだ際、いくつかの重要ポイントに極小の隠しカメラを仕掛けたのだ。その中には、地下貯蔵室も含まれていた。そこは監視の死角になりやすい場所だったため、念のためカバーしておくに越したことはない――というのが表向きの理由だ。まさか、本当に役立つ日が来るとは思いもしなかった。彼は自分に言い聞かせてきた。「万が一のためだ」と。しかし、本心ではわかっていた。そこには、言葉にするのも憚られるほど卑小で、切実な欲望が潜んでいることを。ただ、知りたかったのだ。夕月が、この鳥籠の中で幸せに暮らしているかどうかを。たとえ後ろ姿だけでも、ほんの一瞬の面影だけでもいい。彼女の姿を盗み見ることで、胸に刺さ
冬真は、辛うじて父親らしく振る舞おうと、娘に手を差し伸べた。この細い絆を必死に手繰り寄せ、繋ぎ止めようとしていた。そうすれば、まだやり直せるはずだと信じたかったのかもしれない。しかし、瑛優は伸ばされたその手を見つめると、小さく一歩、後ずさりした。それは恐怖からの逃避ではない。明確な境界線を引く、拒絶の意志だった。娘に拒まれたという事実が、冬真の胸に虚しい敗北感を広げていく。瑛優は首を横に振り、静かだが凛とした声で言った。「お腹は空いてない。おもちゃもいらない」冬真を見つめるその瞳は、夕月の生き写しだった。そこにはもう、先ほどまでの熱心さはない。あるのはただ、冷徹なまでの他者行儀な眼差しだけだ。冬真は呆然と立ち尽くした。夕月は、これほどまでに子供を立派に育て上げたのか……?目の前にいるのは、五歳の幼児ではない。一人の自立した人間だ。そして皮肉にも、その姿こそが橘家が長年求め続けてきた、理想的な後継者の姿そのものだった。「私が欲しいのは、ママが無事に帰ることだけ。おじさん、ママを解放して」瑛優は一歩も引かず、言葉を重ねた。「もしダメだと言うなら、私はここから動かない。あなたが許してくれるまで、ずっと待ってる」そのひと言が、冬真がかろうじて保っていた欺瞞に満ちた温情を、木っ端微塵に打ち砕いた。宙に浮いたままの手は行き場を失い、かといって下ろすこともできず、ただ滑稽に震えている。拒絶を浮かべた娘の小さな顔を見つめるうち、冬真の中に残酷な現実が突き刺さった。この子の心の中で、自分はもう父親ではない。それどころか、信頼できる「おじさん」ですらないのだ。今の自分は、彼女にとって大切な人を傷つけた「悪党」であり、冷静に交渉し、対峙すべき「敵」でしかなかった。その認識がもたらした痛みは、どんな怒りよりも鋭く深く、冬真の喉を締め上げ、言葉を奪い去った。言いたいことだけを告げると、瑛優は黙って部屋の隅にある一人掛けのソファの傍らへと移動した。座りもしない。ただ、小さな背筋をピンと伸ばしてそこに立ち尽くす。まるで嵐の中で根を張る若木のように、頑なに、無言の抗議を続けていた。……夜の闇は、墨を流したように昏かった。橘家本邸の近く、街灯の届かない暗がりに一台の車が息を潜めている。車内で、涼はタブレット端末の画面
「誰と来た?」冬真が眉を寄せて問う。「涼おじさんが、門の前まで送ってくれた」瑛優はあっさりと答えた。冬真が聞きたかったのは、誰が送迎したかではない。なぜここへ来たのか、その動機だ。しかし、返ってきた言葉の中に最も忌み嫌う名前が含まれていたことに、冬真は微かな嘲笑を禁じ得なかった。瑛優が二歩、三歩と歩みを進める。その視線は冬真を射抜くように捉えて離さない。「おじさん。私、ママを迎えに来たの。ママと一緒に帰りたい。いいでしょう?」あまりに直球で、駆け引きの欠片もない。五歳児の口から発せられた要求は、極限までシンプルでありながら、同時に鋭利な刃物のように冬真の心に突き刺さった。冬真の膝の上で、拳が小さく震えた。娘の瞳は、底なしの湖のように澄んでいる。そこにあるのは子供特有の無邪気なわがままなどではなく、汚れを知らぬ純粋な意思の強さだ。その真っ直ぐな眼差しは、まるで鏡のように、冬真自身の滑稽で醜悪な姿を映し出していた。まるで自分が、何か取り返しのつかない過ちを犯しているかのような――そう、まるで犯罪者であるかのように。「……今は、帰すわけにはいかない」冬真は目を逸らし、低い声で告げた。「パパはまだ、ママに訊かなきゃならないことがあるんだ。悠斗がいなくなった。これはただ事じゃない」「だから、ママを閉じ込めたの?」瑛優は即座に眉を吊り上げて問い返した。そのあまりに的確な論理に、冬真の心臓が早鐘を打つ。反射的に「それがどうした、悪いか」と言い返そうとした。夕月を監禁することに、何の問題があるというのか。なぜ五歳の子供ごときに詰問されなければならないのか。だが、瑛優の言葉は続いた。「悠斗がいなくなって、みんな悲しんでる。ママだってそう。でも、ママを閉じ込めておけば悠斗は帰ってくるの?おじさん、あなたが悠斗を見つけられない限り、ずっとママを閉じ込めておくつもり?」子どもの言葉ほど本質を突くものはない。痛いところを衝かれ、冬真は口を閉ざした。焦りと無力感が煮詰まり、胸の内で暴れていた暴力的な感情が、娘の清冽な眼差しの前では行き場を失っていく。彼は深く息を吸い込み、論点をずらすように、より柔らかい口調を試みた。「瑛優、お前はまだ小さい。わからないこともあるだろう。難しい話なんだ。とにかく、しばらくここにいなさい。
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