Chapter: 思い出の先を紡いで 5 ――EPILOGUE―― 「ねえ、要《かなめ》はどっちが良いと思う? どうしてもこの二着から、一つを選べなくて」 私達は結婚式に向けてウエディングドレスを選ぶために、式場連携のドレスショップに来ている。要からのプロポーズを受けて、あれよあれよと結婚の話がどんどん進んで今のこの状況。 なによりも驚いたのは、こういうのを苦手そうな彼の方が積極的にブライダルフェスを見て回った事で。選ぶのは私に任せてくれたけれど、意外な一面を見た気がしたの。 並べられた二つのドレスを眺めると、要は迷いもなくこんな事を言い出した。 「迷うのならばどちらも着ればいいんじゃないか? なんならオーダーメイドのウエディングドレスを作っても俺は全く構わないが」 「……そういうことじゃなくてぇ」 要らしい発言にちょっと脱力してしまう、私が聞きたいのはどちらが彼好みで私に似合っているのかという事なのだけれど。全て私の事優先で物事を考える要は、いつもこうなのでちょっと困る。 「ああ、どちらが似合うかという事ならば答えは簡単だ。紗綾《さや》ならばどちらを着ても似合うに決まっている」 「もう! またそんなことを真顔で……」 そんな私達のやりとりに、ドレスを見せるために立っていたスタッフの方もクスクスと笑ってしまって。要はそういう事を全く気にしないから、私一人で恥ずかしがることになるのだ。 試着を済ませてショップを出ると、もう夕方近い時間になっていて。どこかで夕飯を食べていこうという話になったので、最近お気に入りのイタリアンの店に決めた。 「それにしても両親に挨拶をしに行って、すぐに結婚式の準備をすることになるなんてね。反対どころか大賛成なんだもの『こんな娘で良いんですか?』なんて、失礼しちゃうわよ」 「俺はかなり緊張してたんだがな、相手に気にいられようと必死になるのなんて初めてだったかもしれない」 確かにあの時は普段の彼よりずっと笑顔が多くてお喋りだった気もする、家に帰ってからぐったりしてて面白かったけれど。 今思えば、あの時に要が『準備が必要だ』って言っていたのはそういう事だったんだろうけど。私は全く気が付かなくて、この人をヤキモキさせていたに違いない。 「結局ドレスは一つに決めていたが、それで良かったのか?」 「ええ、良いの。一番大事なのは、誰の隣でそのド
Last Updated: 2025-08-31
Chapter: 思い出の先を紡いで 4 私をベッドに座らせたまま、要《かなめ》はゆっくりと歩いて目の前に来ると静かにその場に跪いた。何故そんな事をするのか分からずにいる私の前に、そっと彼が小さな箱を差し出して……「……っ!!」 ここまでされて、今の状況が分からない筈はない。慌てて要を見れば、彼はとても真剣な表情で私をジッと見つめている。まさかの展開に一気に緊張が押し寄せて、なにも言葉が発せなくなって。 これから起こることを期待して、ゴクリとつばを飲み込んだ。「長松《ながまつ》 紗綾《さや》さん。俺と結婚してもらえませんか?」 要らしい、セオリー通りのプロポーズだけど彼が本気なのは十分伝わってくる。きっとさっき言ったように色々考えて、悩んでのこのセリフなのだと。 熱いまなざしでジッと私の返事を待つ彼の目の前に、私はそっと左手を差し出した。その指輪を、貴方の手で指に付けて欲しいという意味を込めて。 その行動に込められた気持ちを理解し、黙ったままの要が私の手を取ると細身の指輪をスッとつけてくれた。「とても素敵、嬉しいわ……」「そうか」 キラリと輝くダイヤのついた、細身のプラチナリング。派手なものをあまり好まない私のために、あえてシンプルなデザインにしてくれているみたい。 要のそんな私を想ってくれる心が嬉しくて、凄くほわほわとした気分になる。「それにしても……いきなりプロポーズされるなんて、想像もしなかったわ」「そう言うな、俺だってこの時のために色々考えてはいたんだ。だが紗綾があまり鈍い発言ばかりするから、つい……」 少し拗ねたような表情でそんな事を言うから、余計に胸の中が熱くなるじゃない。 要が何度も私の薬指を触って、サイズを確認していたのは気付いていたの。でもきっとまだまだ先の事だと勝手に思い込んでて。 この人が中途半端な気持ちで私と付き合い同棲してるとは思っていなかったけれど、二人の将来を真面目に考えていてくれたことがとても嬉しい。 要の過去にも現在にも、そして未来にも私がずっと隣に居れるんだって。「ずっと大切にするって、約束してね?」「ああ、誰より何よりも大事にする。だから俺の傍でそうやって微笑んでいてくれ」 そっと私の頬に触れる大きな手、要の顔が静かに近付いてきて優しく口付けられる。 今も変わらない、唇に触れる貴方の熱は少し冷たいように感じるけれど……本当は
Last Updated: 2025-08-31
Chapter: 思い出の先を紡いで 3「これからは思い出の私も目の前にいる私も、大事にしてくれるんでしょう?」「そんなの当然だろう、俺にとって一番大切なのはいつだって紗綾《さや》なんだから」 そんな甘い言葉を当たり前のことのように言いながら、要《かなめ》は優しく私の身体を抱きしめ返してくれる。こうしている時間が一番心が満たされる気がするし、なによりも幸せだと思う。 以前の私では考えられなかった事だけど、もうこの人のいない未来なんて想像出来ないくらいなの。「……ところで、紗綾のお母さんから俺宛に伝言があると言っていたが。それはどんな内容なんだ?」「あら、そっちはすっかり忘れてたわ」 そのために彼をこの部屋に呼んだのに、ついついいつものような時間に酔ってしまっていて。そんな私を要は少し呆れたような表情で見ている。彼はしっかり覚えていて、手紙の内容がかなり気になっていたのだろう。 机の上に置いたままになっていた二通の手紙、その片方の封筒を手に取って要に渡した。手紙の内容は私も知らないけれど、そこに悪い事が書いてあるとは思ってはいない。 鋏《はさみ》を渡すと要は丁寧に端を切り、中の便せんを取り出して静かに読み始める。さっきとは違い、今度は読み終えるのを待っている私の方がソワソワしてしまって。「……要、お母さんはなんて?」 やはり手紙に何が書いてあったのかが気になって、黙ったまま便箋を封筒に戻している要に聞いてしまう。反対されるとは思っていないけれど、どんな反応なのかは知りたくなるもの。 そう落ち着かない気持ちで、返事を待っていると……「そうだな、近いうちにきちんとご両親に挨拶へ行く必要があると思う」「ああ、それはそうね。お母さんは要がどんなふうに成長したのかを、凄く気にしていたから」 子供の頃、私は彼の家庭事情を全く知らなかったけれど両親は気付いていたはずだ。口には出さなかったけれど、両親はきっと要の事もずっと気になっていたに違いない。 今のこの人を見れば二人も安心するでしょうし、出来るだけ早く会いに行った方が良いのかも?「それじゃあ来週の休みにでも会いに行きましょうか? 私からお母さんに時間が取れるか聞いて見るから」「……お、おい? ちょっと待て、紗綾」 スマホを取り出して母の番号をタップしようとすると、慌てた表情の要にスマホを取り上げられて。珍しく焦っているみたいだけど
Last Updated: 2025-08-30
Chapter: 思い出の先を紡いで 2 自分用に部屋を用意してもらっているけれど、普段は要《かなめ》と一緒にリビングで過ごすことが多い。ここに来てまだほとんど使ってないベッドに腰かけて、荷物の中から取り出した目的の物をパラパラとめくっていく。 両親が大切に保存してくれていたようで、二十年近く経つのに中の写真はほとんど色褪せてはいなかった。このアルバムを開くのは学生の時以来だったかしら? つい最近まで存在もすっかり忘れていたというのに、こうして見てみると懐かしさに心がジンとしてくる。「ふふ、本当に昔の面影を探す方が大変なんだから……」 幼い頃の要をみると、自然と笑みが零れてしまう。再会した時に、彼が誰だか分からなかったのも仕方ないと思ってしまうもの。 そんな事を考えながら、一枚一枚の思い出に浸っていると部屋の扉がノックされた。「……入るぞ、紗綾《さや》」「ええ、どうぞ」 彼は私が返事をするまで決して扉を開けようとはしない、一緒に暮らしてもちょっとした気を使ってくれるのは有難くもある。 部屋に入ると私が座っている隣に腰かけ、手元に開いているアルバムを覗き込む要。「何を見てるんだ? ずいぶん楽しそうだが……ん、これはまさか俺なのか?」「ふふ、そう貴方よ」 そう答えると途端に要が驚いた表情を見せるから、可笑しくて笑っちゃったの。無言でアルバムを捲っていく彼を眺めているのも結構楽しいかも?「まさか、俺のガキの頃の写真があるなんて……自分の手元には一枚も残ってなかったから、かなり驚いた」「そうね。うちの母は、思い出は宝物だって言うような人だから」 要の育ってきた環境や境遇を考えれば、写真が残さず処分されていてもおかしくない。そう思ったからこそ、私はこのアルバムを母に頼んで送ってもらったのだから。 お互いにうろ覚えの記憶でも、二人の思い出を重ね合わせればその時の光景が浮かぶかもしれないって。「懐かしいな、こうしてみると俺にもこんな子供の頃があったのかと不思議な気分になる」「そう? この頃の要は女の子に間違えられるくらい可愛かったじゃない、そういうのも全部忘れちゃったの?」 ちょっと揶揄《からか》ってみると、要は苦虫を噛み潰したような顔をする。どうやら幼い頃に何度も性別を間違えられたことを、本人は結構気にしていたのかもしれない。 ……でも本当にあの頃の要は可愛くて、私が守ってあげ
Last Updated: 2025-08-30
Chapter: 思い出の先を紡いで 1「ただいま」「おかえり、紗綾《さや》。昼過ぎに実家のお母さんから、何か大きな荷物が届いてたぞ」 要《かなめ》と二人で暮らすマンションに仕事から帰って来れたのは二十時過ぎ。まだまだ不慣れな事もあるが、少しずつ自分が担当する業務も増えて残業する日も少なくない。 今日の要は有給消化で強制的に休みを取らされている、そうでもしないとこの人はちっとも休もうとしないから。「ああ、それは私がお母さんに頼んでおいたの。まだ残してあるって聞いて、久しぶりに見たくなって」「残してあるって、何の話だ?」「……ふふ、まだ内緒」 彼は中身を気にしているようだが、今は秘密にしておきたい。見る前に取り上げられたりしては、せっかく母に頼んだ意味がなくなるものね。 早く開けて確認したいけれど、疲れたしお風呂にも入りたいなと考えていると……「夕飯と風呂の準備は出来ているから、先に湯船に浸かってサッパリしてくるといい」「嬉しいわ、ありがとう」 互いの休みが重ならないときは、こうやって家のことなどをしている事が多い。彼も休みを好きに使えばいいのに『紗綾と一緒でなければ、外に出る意味はない』と。 再会した幼馴染の意外な執着愛に戸惑う事もあったけど、今はそれすら愛おしいと感じれる。それくらい要との日々は喜びに満ちているから。 入浴をすませリビングに戻ると、テーブルには既に食事が並べられていて。その美味しそうな香りに、一気に空腹を感じてお腹がくうっと音を立てた。 そんな私に要は早く座って食べろと目で合図してくるから、先に席について彼が座るのを待って手を合わせた。「んん~、凄く美味しいわ。この秋ナスの肉詰め、ポン酢だとサッパリしてていくらでも食べれそう!」「少し多めに作ってしまったから、好きなだけ食べるといい」 分量を間違えたかのように彼は言うけれど、わざと多めに作っているって私は気付いてる。ここに来た当初はなかなか環境に慣れず、私の体重が少し減ってしまったから。 でもそれもとっくに元に戻って、それどころか……「もう、ここ最近は体重が増えて困ってるって言ってるのに」「紗綾は元々が瘦せすぎているんだ、以前より少し増えたくらいが丁度良い」 何度言っても、こうやって受け流される。彼の料理が美味しすぎて、いつも食べ過ぎてしまう私も悪いのだけれど。 ……にしても、今日の要はいつも
Last Updated: 2025-08-29
Chapter: 上司と部下ではなく 4「今日からお友達、なんですよね? 私と主任、そして御堂《みどう》さんは」 嬉しそうに微笑んでその手を揺らす横井《よこい》さん、そんな彼女を見て少しホッとするの。今の私達ではこうしてあげるのが精一杯だけど、もし何かあった時は本社からでも飛んでくるから。 そう思っていると、どこからかスマホのメロディーが鳴りだした。すぐに動いたのは横井さん、バックの中からスマホを取り出して画面を操作している。「この人もなんだかんだで、相当捻くれた心配性なんですよね。ふふ……」 画面を操作しつつ何か楽しそうな雰囲気の横井さん、そんな彼女が気になり誰の事かを聞いてみると……「ああ、今のメールは伊藤《いとう》さんです。あの人、どうしてか私の番号を知ってたみたいで」「彬斗《りんと》君が? どうして海外にいるはずの彼が、今も横井さんと連絡を取ってるの?」 彬斗君の考えている事は、昔からよく分からないとこがある。けれど、横井さんを巻き込むような事はしないで欲しいのに。「大丈夫ですよ、私だってちゃんと伊藤さんの事は警戒していますから。でも彼は何故か私の愚痴を聞いてくれたりもして……」 予想外の二人が仲良くなっている事に私と要は戸惑いを隠せなかったけれど、当の横井さんは彬斗君を愚痴吐き相手と見ているみたいで。 梨ヶ瀬《なしがせ》さんにはあんなに苦手意識を見せてるのに、彬斗君は平気だなんて横井さんもよく分からないところがあるわ。 「今夜は紗綾《さや》さんを私が独り占めしていいんですよね、御堂さん?」 予約していたホテルの部屋、要《かなめ》と眠るはずのダブルベッドの上で横井さんは私に抱きついている。 彼女は要と正々堂々と勝負をして、私と一緒に眠る権利を手に入れたのだった。 普段はすんなり諦める要だけど今日はよほど諦めがつかないのか、部屋の端のソファーに陣取ったままでもう一つの部屋へと移動する様子はない。「全く、御堂さんも諦めが悪いですよ? 紗綾さんとはいつでも一緒に眠ってイチャイチャベタベタ出来るんですから、今日くらい私に譲ってくれて良くないですか?」 遠回しに要に向かってさっさと部屋を出て行けと伝える横井さん。もちろんそんな彼女に要が黙っているはずもなく……「横井さんは俺たちが空港に着いてからは、紗綾を散々独り占めしてると思うが?」 バチバチと音を立てて睨み合う
Last Updated: 2025-08-29
Chapter: 許さない、あの過ち 7 これは冗談とかではなく、この人は人道りの多い道路で平気でこんな事を言っているのだ。他の通行人がこちらの会話を聞いているとは思わないが、彼の甘い台詞のせいで顔が熱くなり真っ直ぐ前を向けなくて。 そんな様子の私を見て、心底嬉しそうな顔をするのは止めて欲しいんですけど。「うん、そうだね。そんな麗奈《れな》の可愛い顔は、俺だけで独り占めしてたいかな?」「……っつ! 貴方は、またそういう恥ずかしい事を!」 流石にこれ以上、甘い台詞には耐えられそうにない! そう思ってグッと顔を上げ片手で梨ヶ瀬《なしがせ》さんの頭を叩こうとしたが、すぐにその腕を掴まれて。そのままズンズン歩き出した彼に、強引に引っ張られてどこかへ連れて行かれる。「ちょっと、梨ヶ瀬さん!? いきなりどこに連れてくつもりなんですか?」「今すぐに二人きりになれるとこ。場所を選べば口説いて良いって、さっき君が言ってくれたからね」 それは違うでしょ!? そういうセリフは、時と場所を選んで言ってくださいって意味でしょうが! ……んん、いや? 私が言った言葉だと、そういう事になるのかもしれない。ああ、だんだん私の頭が混乱してきた気がする。 私がぐるぐるしている間に彼はホテルのロビーで受付を済ませ、いつの間にやらモダンな部屋のソファーに二人並んで座っていた。「……ええと、どうしてこうなってるんでしたっけ?」「そうだね、今日こそ麗奈から良い返事をもらうためにかな? 今日の運勢は大吉だったし、少しくらい強引にいこうかと」 いやいや、梨ヶ瀬さんの今日の運勢とか私にはどうでもいいですし? まずどうして今日は、良い返事がもらえると確信してらっしゃるんですかね。 なんかもう頭が痛いを通り越して、中身が全部真っ白くなりそうな気がする。本当に私がいろいろ気にしてるのが、馬鹿馬鹿しくなってしまうのに。 どうして私はまだ、あの日のあの過ちに捕らわれたままなのだろう? 今もそれを許すことが出来ないで、心があそこに留まっている。 今の自分には、こんなにも心を揺さぶってくる人が現れたというのに。その想いに応えることもせずにズルズルと引き伸ばしてる、そんな狡い自分がここにはいて。 もし……そのうちに梨ヶ瀬さんが私に興味を無くしたら、後悔するのは間違いない。素直になってみてはどうだと、私の中で葛藤が生まれる。 一歩、
Last Updated: 2025-11-30
Chapter: 許さない、あの過ち 6 それはそれは、見た目と中身にギャップが有り過ぎてとても残念です。その時や場合に応じて軽めの恋愛を楽しんでそうな雰囲気なのに、想像以上に梨ヶ瀬《なしがせ》さんはしっかり真剣交際をしたいタイプらしい。 だから、なおさらこの人の相手が自分じゃ駄目な気がして……「私は梨ヶ瀬さんが思ってる程、価値のある女ではないと思いますよ?」「俺の中での麗奈《れな》の価値は、君じゃなく俺が決めるものだよね? 少なくとも自分にとって麗奈は、唯一無二の存在だし」 何を言っても全部こうして返してくるから、興味を無くしてもらう事も出来ない。諦めが悪いと自負しているだけあってか、それはもう手強すぎて。 梨ヶ瀬さんは私には勿体ないくらい素敵な男性だって、自分でも分かってるけれど……どうしてこの人は、もっと自分に合った女性を選ばないんだろう? 仮に付き合ったとしても、きっといつか私にがっかりするに決まってるのに。「ねえ、またうだうだ難しく考えてるでしょ? どうして麗奈は好きか嫌いか、それだけで俺を見てくれないんの。俺は君の何だって、受け止める覚悟はあるんだけど?」「……そんな簡単な問題じゃないでしょう?」 何度もそう言ってくれるけれど、答えがそんな簡単な事だとは思えない。全部の問題をクリアーにして、梨ヶ瀬さんだけを見れたら……その時の、答えは予想出来るけれど。 その感情を認めてしまったら、私はきっと身動きとれなくて余計に苦しくなってしまうから。 なのに……「簡単だよ、難しくしてるのが麗奈なだけで」 そんな風に、何も気にしてないように言うから。「そうなのかもしれないって、自分でも分かってはいるんです。梨ヶ瀬さんの言うように出来れば、きっとずっと生きやすいだろうなと思いますし。でも……私が許せないのは多分、自分自身なので」「その理由は、俺に聞かせてもらえないの?」 その答えも本当は分かってるくせに、そうやって聞いて来るんですよね。少しでも可能性があれば諦めない、その言葉は嘘じゃないって何度も繰り返すように。 素直に言ってしまえば楽になる。そう誰かが囁いても……結局は怖くて言えないの、この人に軽蔑されるかもしれないから。「それを隠したままでは、俺と付き合えない。そう考えてしまうところが、麗奈らしいとは思うけれど。正直な気持ち、好きな女性にいつまでもそんな顔をさせておきた
Last Updated: 2025-11-30
Chapter: 許さない、あの過ち 5 これ以上、眞杉《ますぎ》さんと鷹尾《たかお》さんの前で揶揄われたら堪らない。そう思った私は、適当な理由を付けて二人と別方向へと歩き出す。梨ヶ瀬《なしがせ》さんにはわざと声を掛けなかったが、どうせあの人は勝手について来るだろう。 どうしてこんな私に執着するのか、何度聞いてもよく分からないけれど。少しずつ信頼するようになって、今では一番この心を揺らす存在になった。「もしかして俺の存在を忘れてるの、麗奈《れな》?」「むしろ存在を忘れさせてくれるような人なら、凄く良かったんですけどね」 存在感が有り過ぎなくせによく言うわよ。私は梨ヶ瀬さんが支社に来て以来、一日だってこの人の事を考えずに済んだ日なんてないのに。 こっちは嫌味でそう言ったのに、梨ヶ瀬さんはその言葉に満足そうな顔をしていて。 ああ、本当に面倒な人と距離を縮めてしまってる。後悔しても、もう後戻りが出来ないところにまで来てる気がして……「ちょっとずつだけど、麗奈の心に俺が存在する割合が増えてるみたいで嬉しいかな」「もう充分過ぎるくらいなんですけどね、どれだけ占領すれば気が済むんです?」 仕事でもプライベートでも無理矢理関わってくるくせに、これ以上を望むというの? そんなベタベタした関係を、この人が好むようには見えないんだけれど。「それはもちろん全部だよ、俺は麗奈を独占したい」「……っ!?」 ああ、もう! 本当にこの人といると頭がおかしくなりそう! こんな蜂蜜みたいに甘い言葉を平気で言えちゃうし、重いくらいの束縛宣言までしてくるんだから。 爽やかさなんてどこかに飛んでいくくらいの激重感情を持っている、そんな梨ヶ瀬さんから逃げられる気がしなくて。 素直になれればきっと楽なはず、彼なら私のどんなところだって受け入れてくれると思いはするのに。 それでもまだ、許せないのは自分自身で。 ……今もまだ記憶から消すことも出来ない、あの日の過ち。 梨ヶ瀬さんはもちろん、紗綾《さや》や御堂《みどう》さんにも話せないまま私の中で今も燻り続けてる。 軽口で周りに愛想を振りまくことも、流行の好きなミーハーなキャラでいるのもそう難しくはないのに。誰かに甘えることが簡単に出来ないのは、それが関係しているからだと思う。 そんな私を梨ヶ瀬さんは、本当にいつまでも可愛いと言ってくれるのだろうか?「……正直、
Last Updated: 2025-11-29
Chapter: 許さない、あの過ち 4「ええっ? 今からですか、でも……」 この状況ならば、眞杉《ますぎ》さんが迷うのは分かっていた。でもここでは、女友達と言う立場を最大限利用させてもらうことにして。コテンと首を傾げ、彼女に甘えるようにその細い腕を掴んで見せる。 そうやって眞杉さんを鷹尾《たかお》さんから引き離して、私の方へと引き寄せる。そして……「ちょっと聞いてみたんですけど、どうやら今しか空きが無いらしいんです。私、どうしてもその店で眞杉さんと《《二人きりで》》話をしたくて」「まあ、そうなんですか? 鷹尾さん、梨ヶ瀬《なしがせ》さん! すみません、ブックカフェはまた今度にしてもらっていいですか?」 ほら、見なさい。眞杉さんの優先順位が、鷹尾さんから私に変わっちゃいましたよ? このままでは男二人がこの場に残されることになるが、さて鷹尾さんと梨ヶ瀬さんはどうするかしらね。 そうやって余計な事ばかりを話している男たちを、ちょっとだけ懲らしめてやる。 それくらいのつもり、だったのだけれど……「ああそうだ、横井《よこい》さん。昨夜の事は《《まだ》》眞杉さんには話さないでね?」「――っ!!」 まさか不意打ちで、そんな事を言われるとは思ってなかった。一瞬で昨日の夜の事が頭に浮かんで、あっという間に顔が熱くなるのが分かる。 ……こ、この人は本当にとんでもないわ!「ん、昨夜の事って? え、なになに? もしかして二人、何かあったりしたとか……」「鷹尾さんはそうやって、余計な事ばかり気にしなくていいですから!」 こう言う時だけ、嬉々として話を聞き出そうとしないで! 鷹尾さんがいま気にするべきなのは、隣にいる眞杉さんの事だけですよ。 少しくらい焦ればいいと思って言いだした事なのに、まさか梨ヶ瀬さんにこんな風に返されるなんて。「……あの、大丈夫ですか? 横井さん、顔が真っ赤になってますよ」「平気ですよ、頭に血が上ってるだけですから。主に誰かさんへに対する怒りでね」 そう言って睨んでも梨ヶ瀬さんは相変わらずの余裕の表情、本当にむかつく。オロオロと私達を交互に見てる眞杉さんが可哀想になって、仕方なく鷹尾さんに後は任せる事にした。「眞杉さん! 今度は絶対、私と二人きりでお茶しましょうね。邪魔者がいないときに!」「邪魔者って誰だろうね、鷹尾は知ってる?」 私はいま、眞杉さんに話しかけてるん
Last Updated: 2025-11-29
Chapter: 許さない、あの過ち 3「へえ、鷹尾《たかお》もやるじゃないか。俺たちも負けていられないね」「そうですね、私も鷹尾さんには頑張って欲しいと思います。ただ彼と勝負がしたいのならば、梨ヶ瀬《なしがせ》さんお一人でどうぞご勝手に」 そう言ってニコニコと微笑む彼に、氷水のように冷たい言葉を頭から遠慮なくぶっかけてあげておく。 そのはずなのに……「結局、私たちも一緒に行くことになるんですね。せっかくのチャンスだったのに、鷹尾さんって本当に……」「いざとなると意気地がないよね、まあそれが鷹尾らしいんだけど」 目の前を鷹尾さんと眞杉《ますぎ》さんが並んで歩いている、私たちがついてくる必要はどこにあったのだろうか? 新しいブックカフェには興味あるが、鷹尾さんにもそろそろ本気を出して欲しいのだけど。 眞杉さんだって彼の事を嫌ってなどいない、もう少し押せば良い返事がもらえると思うのだけれど。 分かっていることだけど、この二人は見ていて本当にじれったい。「さっさと告白して付き合ってしまえばいいのに、とは思ってます。両思いなのは分かりきってるんですから、見ていてもどかしい」「……それと全く同じことを、あの二人も考えてると思うよ」 そうなんだ、じゃあ尚更さっさと恋人同士になればいいのに。では何故そうしないのか、私にはよく分からないな。 なんて思っていると……「なんですか、ジッとこっちを見て。いまのは鷹尾さんと眞杉さんの話ですよね?」「そうなんだけど、麗奈《れな》には通じてないんだなって。じれったいからさっさと付き合えって、鷹尾に言われたのは俺の方だしね」 ……はい? じれったいのは鷹尾さんたちの方じゃないの? 鷹尾さんたちから見ると私と梨ヶ瀬さんがそういう風に見えるんだって気付かされて、ものすごく頭が痛くなってしまった。「そんな周りに口出す余裕が鷹尾さんにあるのならば、私達ももう少し彼らの為にお世話を焼いてあげてもいいかもしれませんね。眞杉さーん、ちょっといいですか!」「……え、ちょっと!? 横井《よこい》さん、いったい何をするつもり?」 驚いている梨ヶ瀬さんを無視して、私は眞杉さんの隣へと移動した。そのまま彼女に『ある事』をこっそり囁いてから、ゆっくりと鷹尾さんに視線を移す。 思った通り鷹尾さんは私の行動に驚いているので、わざと彼を見て綺麗に微笑んで見せてやった。 いいで
Last Updated: 2025-11-28
Chapter: 許さない、あの過ち 2「ねえねえ! 横井《よこい》さん、やっと優磨《ゆうま》と付き合うことにしたの?」「……すみません、鷹尾《たかお》さん。私の耳の調子が凄く悪いようです、もう一度言ってもらえませんか?」 私が笑顔で鷹尾さんにそう答えると、彼は一瞬引き攣った顔をして『……いえ、何でもないです』と目を逸らした。梨ヶ瀬《なしがせ》さんから何を聞いたか知らないが、少なくとも今は上司と部下の関係のはずだから。 それにしても、鷹尾さんも周りに人がいることをよく考えて喋って欲しいものだ。もしこんな話を梨ヶ瀬さんの取り巻きが知ったら、今度はどんな言いがかりをつけられるか分かったものじゃない。 ハッキリとした関係になるまでは、絶対に誰にも知られないようにしておきたいくらいなのに。「でもさ……優磨が昨日からずごく機嫌が良くて。今朝も並ばないと買えない、人気のパン屋のサンドウィッチを差し入れてくれて」「へえ、そうなんですか。なにか良い事でもあったんでしょうね」 鷹尾さんはまだしつこくこの話を続けようとするので、私は何も存じませんという顔で会話をぶった切ってやる。 すると隣に座っていた眞杉《ますぎ》さんの方がこれ以上は聞かない方が良いと気付いたらしく、鷹尾さんに違う話題を振って話を変えてくれた。 随分とご機嫌なのは良いが、これで私の返事が思っていたのと違ったらどうするつもりなのか。まあ……その可能性はないと分かってるから、そんなに浮かれてるんだろうけれど。 ……はあ、それにしても面倒くさい。「なに? 何の話しているの、俺もまぜてよ」 遅れてきた梨ヶ瀬さんが、トレーを持って当たり前のように私の隣に座る。以前は私の隣に眞杉さんが座っていたはずなのに、いつの間にか席替えが行われていたらしい。 『いただきます』と手を合わせる梨ヶ瀬さんは、鷹尾さんが話していた通り確かにご機嫌だ。それに関して私から、その理由を尋ねる気は全くないけれど。「そ、そういえば駅前に素敵なブックカフェが出来たんですよ! 今日の仕事終わりに、ちょっと寄ってみようかと思ってて」「え、じゃあ俺も一緒に行こうかな! ちょうど、新しく読む本を探そうかなって思ってたところなんだよね」 眞杉さんがそう話すと、鷹尾さんがすぐに話題に食いついた。そうそう。貴方は梨ヶ瀬さんのことより、まず自分の事を頑張ってください。 眞杉さんはそ
Last Updated: 2025-11-28
Chapter: 祝福される幸せに 8 しっかりしたように見えて兄もそこそこ天然な所があるから、ポロっと言わなくていい事を口に出してしまうのだ。悪い意味ではない事は分かるけど、そんな理由で変に距離は取って欲しくない。「こういう余計な事を言うのがお兄ちゃんの役目みたいなものなので、朝陽《あさひ》さんは気にしないでください」 こうやって笑い話にしてしまえば、兄と朝陽さんだってもっと話しやすくなるかもしれない。そして、それは正解だったようで……「は、それは鈴凪《すずな》も同じだろう? いっつも考えなしの言動で周りを振り回す、朝陽もそう思わないか?」「確かに、僕たちの出会いからしてもそうだった気がしますね」 私の考えていた事を朝陽さんは分かっていてくれていたのだろう。すぐに始まった兄の言い訳に、面白そうな話題を出して合わせてくれる。 ただ、その件については家族には黙っててほしかったんですけどね!「えっ、それは気になるわ。ぜひ二人の馴れ初めも聞かせてちょうだいよ!」「……ちょっ、朝陽さん!? これ以上、余計なことを家族に言うのはやめてくださいね!」 二人の出会いの話になった途端、母が身を乗り出し続きを聞きたがる。それはもう、少女のようにキラキラと目を輝かせながら。 すると朝陽さんはチラリとこちらを見て、私にだけ分かるように口角を上げてみせる。 ……ああ、これは嫌な予感しかしない。何とか誤魔化せないかと考えていると、父が助け舟を出してくれて。「ああ……そういえば、昼ごはんがまだだろう? 馴染みのお店があるんだ、神楽君と鈴凪も一緒に食事に行かないか?」 それは嬉しい。ちょうどお腹も空いてきたし、あのお店に行くのも久しぶりだから。すぐに「もちろん」と返事をしようとすると、朝陽さんが少し焦った様子で……「――あ、すみません。ちょっとだけ失礼します」 もしかして、何かあったのかな? 大したことでなければ、こんな大事な話の最中に席を立つような人じゃない。今朝の事も気になっていたので、無理をしてないか心配になる。 朝陽さんが離席したことで戸惑っている両親に、彼の立場上こういうことは仕方ないのだと説明した。「ごめんね、多分……仕事の電話だと思う、本当は無理をしてここに来る時間を作ったのだと思うし」「……ああ、そうだったのか」 納得したように父はそう言って、母や兄も同じように小さく頷いて理解
Last Updated: 2026-01-04
Chapter: 祝福される幸せに 7 そんな|朝陽《あさひ》さんの言葉に感動していると、その様子を見ていた母がそれはもう楽しそうな笑みを浮かべている事に気がついたが手遅れだった。この人は子供の恋愛話や、惚気が大好物な事をすっかり忘れてしまっていたから。 それで私や兄は、恋人が出来るとどれだけ揶揄われたか……「……まあ、お父さん聞きました!? 若い恋人同士って、本当に素敵ねえ」「そ、そうだな」 こうなった母が止められない事を知っている父はつい彼女に同意してしまうが、この状況に焦っていることは顔を見れば分かる。真面目な話からの急な変化に朝陽さんがついていけるか心配ではあるが、まあ彼なら大丈夫だと思う事にする。 けれども、こうなる事を予測していたかのように兄が話に割って入ってきて。「あのさぁ、母さん。今は真面目な話の最中なんだから……」 そんな兄からの注意にも、母はケロッとした表情のままでこう話した。「そうやって堅苦しいことばかり言ってたら、余計に二人が緊張しちゃうでしょう? 私達だって上辺ではなく素顔の朝陽さんが知りたいのだから、こっちも普段の姿を見せるべきじゃないかしら」 母の言う事はもっともで、逆に緊張で畏まっていた自分達の方が自分らしくいれてなかった事に気付かされる。両親や兄の性格はちゃんと分かっていたはずなのに、朝陽さんをどう思われるかばかりを気にしてしまっていた。 恥ずかしい気持ちになり反省していると、父の方から気を使って話を進めてくれる。「ああ、お母さんの言うとおりだな。すまないね、以前のこともあり私も少し気を張りすぎてしまっていたようだ」「いえ。僕たちに真剣に向き合ってもらえてるのだと分かりますし、それだけ|鈴凪《すずな》さんが大事にされてるんだと感じるので」 元カレのことは本当に自分に見る目がなかったのだと後悔したけど、そのおかげでこうして朝陽さんと出会えた。|流《ながれ》や|鵜野宮《うのみや》さんからの嫌がらせからも何度も助けてくれて、それも話してなかったから父には余計に心配かけてしまったのかもしれない。 けれどもそれも私を思ってくれている両親の優しさだと、そう言ってくれる朝陽さん。「……そうか、ありがとう」「余計な心配だったのかもね、鈴凪も朝陽さんもちゃんとお互いを理解し合えてるみたいだし」 少しだけ部屋の雰囲気が柔らかくなるのを感じた、何となくだけ
Last Updated: 2026-01-03
Chapter: 祝福される幸せに 6 客間には奥の席に父が座っていて、私たちが部屋に入ると複雑な表情を浮かべたまま立ち上がった。それが少し気になったけれど、なるべく笑顔でいつものような挨拶をする。「ただいま、お父さん。急な話で迷惑かけちゃって、ごめんね」「おかえり鈴凪《すずな》、めでたい話なんだから別に謝る必要はないだろう? それよりも早く紹介しなさい、お前の未来の旦那さんを」 緊張してるのは父も同じなようで、それ以外はいつも通りの優しい笑顔を向けてくれる。それにしても……未来の旦那さんて言い方は、何だか妙に照れるのだけど。朝陽《あさひ》さんもそれは同じなのか、私から顔を背けて視線を合わせようとはしない。 だからといって、ずっと父に紹介しないわけにはいかないので……「あ……この男性が、結婚したいと思ってる人で」「初めまして。鈴凪さんとお付き合いをさせて頂いています、神楽《かぐら》 朝陽です。今日は彼女との結婚の許可を頂きたく、ご挨拶に伺いました」 本当に何をやってもスマートに出来ちゃう人よね、朝陽さんだって結婚の挨拶は初めてでしょうに。仕事柄プレッシャーに強いのは分かるけれど、ガチガチになった彼も見てみたいなんて思っちゃったりもする。 そんな事を口にすればタダでは済まないから、もちろん心の中で留めておくけれど。「……まあ、二人とも座りなさい。お母さんがお茶を用意してくれてるから、ゆっくり話そうか」「はい、ありがとうございます」 父の隣にはお茶を持ってきた母が座り、二人に向かい合うように私と朝陽さんがソファーに腰を下ろす。兄は一人がけの椅子に座ったまま、黙って私たちを様子を見ていた。「しかし、ずいぶん急な話で。私もまだ戸惑っているんだ、二人ともすまないね」 父の言うことも当然だと思う、それくらい私たちの結婚話は突然だったし。もともと(仮)の結婚式の予定だったから、家族には黙って何も話してはいなかったのだもの。 だけど、今は違う。「……ねえ、お父さん。流《ながれ》との婚約破棄のすぐ後で驚かせちゃったと思うけれど、私たちはちゃんと考えてて」「いや、話には聞いていたんだが……仕事も責任ある立場だそうだし、神楽君は女性が放っておかない容姿をしているだろう? その、本当にうちの娘と結婚したいと信じていいのか不安もあったんだ」 話したい事は理解出来る、それくらい朝陽さんが魅力的な
Last Updated: 2026-01-02
Chapter: 祝福される幸せに 5「俺は先に家の中に入って父さん達に伝えてくる、お前たち二人は心の準備が出来てから上がって来ればいい」 「えっ……ありがとう、お兄ちゃん!」 自宅に着くとすぐ両親に挨拶するのかと思っていたが、兄が気を利かせてくれたので少しだけ気持ちを落ち着ける時間が取れた。朝陽《あさひ》さんも兄が迎えに来たことで緊張していたのか、今はホッとしている様にも見えて。 ……とは言っても、これからが本番なのでなおさら気を引き締めなくてはいけないのだけど。両親をあまり待たせるわけにもいかないので、私たちはもう一度だけ大きく深呼吸をすると気合いを入れて玄関のドアを開けた。 「おかえりなさい、鈴凪《すずな》。あなた達があんまり遅いから何度こっちからドアを開けようと思ったか、ふふふ」 どうやら待ちきれなくて扉の前でソワソワと待っていたらしい、母らしいと言えばそうなのだけど。かと思えば父の姿は全く見えないので、きっと奥の部屋で兄と待機しているのだろう。 そう考えると余計に緊張してくるが、まずはどう見てもワクワクしている母に朝陽さんを紹介しなくては。 「もう、そういうとこ変わらないんだから。でね……この人が電話でも話した私の恋人の神楽《かぐら》 朝陽さんよ、ちょっと信じられないかも知れないけれど」 「神楽 朝陽です。この度は突然の結婚報告とご挨拶になりましたが、どうぞよろしくお願いします」 少し背の低い母に目線を合わせてから丁寧な礼をして、もう一度しっかり顔を合わせて柔らかく微笑んでみせる。緊張なんて欠片も感じさせない挨拶をする彼は、やっぱりこういう場面にこそ強いのだろう。 母も最初は驚いたようだったが、彼の言葉に嬉しそうに頬を染めて…… 「まあ、本当にイケメンなのね! 鈴凪から聞いてはいたけど正直なところ半信半疑だったのよ、しかも仕事も出来て優しいスパダリなんだって……いくらなんでも冗談だと思うでしょう!?」 えっと、あの時の電話でそこまで言ったかな? と思ったが、ここでその発言を否定すれば後々面倒な事になりかねないので黙っている事にしようと思ったのだけど。真横からジトっとした目で朝陽さんに見られて、流石にちょっと恥ずかしくなった。 「お前さぁ、こういう時にハードルをバカ高くしてどうするんだよ?」 「……嘘はついてませんよ、朝陽さんはイケメンで有能なんですから
Last Updated: 2025-12-22
Chapter: 祝福される幸せに 4「……結構緊張するもんだな、結婚の挨拶ってのは。仕事柄、プレッシャーには強い方だと思っていたんだが」「仕事と両親との顔合わせは全然違うと思いますけど、まあそれも朝陽《あさひ》さんらしい考え方ですよね」 冗談じゃなく朝陽さんはかなり緊張しているようで、私の揶揄いにもいつものような反撃する余裕がないらしい。私の父は彼のお父さんのような厳格な人ではないし、母もかなりマイペースなのでいつも通りの朝陽さんで大丈夫だと思うのだけど。 でもそうやって緊張するほど真剣に、私の両親と向き合おうとしてくれてるのは嬉しい。 最寄りの駅まで着いて実家までは徒歩数分の距離だから、このまま二人で家まで歩いて行こうとすると何処からか私の名前を呼ぶ声がする。しかもその声には、とっても聞き覚えがあって……「鈴凪《すずな》! 鈴凪、俺だよ! ……ああ、良かった。迎えに来たのに、すれ違ったらどうしようかと」「え、お兄ちゃん? わざわざ迎えに来たの、家はすぐそこだっていうのに」 まさかこの人が駅に迎えに来るなんて思っていなくて、急な兄の登場に朝陽さんも戸惑っているかもしれない。そう思って隣に立つ彼を見上げると……「鈴凪さんのお兄さんですか? 初めまして、私は彼女と真剣にお付き合いをさせて頂いている神楽《かぐら》 朝陽といいます」「……ああ、初めまして。俺は鈴凪の兄、雨宮《あまみや》 響《ひびき》だ。親父たちも待ってる、家まで案内するからついて来てくれ」 さっきまで緊張しているとか言ってたはずなのに、爽やかな笑みを浮かべて挨拶をする朝陽さんはさすがだと思う。きっと女性ならイチコロの極上の笑みに胡散臭そうな視線を向けた兄は、名前だけの自己紹介をしてさっさと歩き出してしまった。 昔から兄は私には甘くて過保護だったから、すぐに歓迎してくれるとは思ってなかったけれど。思い出してみれば流との婚約が決まった時も、兄だけは最後まで納得してない顔をしてたっけ?「大丈夫ですよ、兄は私が男性を連れてくるといつも不機嫌になりますから」「……そうなのか?」 それが恋人ならともかく学生時代の友人でさえ、家につれて来ればあからさまに警戒していた暮らしなのだから。今日は結婚したい相手を連れてくると話していたから、朝陽さんには申し訳ないけれど兄のこの反応も仕方ないと思えた。 すぐに実家の玄関が見え、朝陽さん
Last Updated: 2025-12-21
Chapter: 祝福される幸せに 3「……あれ、おかしいな? 朝陽《あさひ》さん、さっきまでそこにいたはずなのに」 私の実家に挨拶に行く準備も出来たし、そろそろ駅に向かうためにマンションを出なくてはと思ったが肝心の朝陽さんの姿が見えなくなっている。確かに数分前までは、そこのソファーに座って書類の束と睨めっこしていたのだけど。 新幹線の出発時間ギリギリになるのは困るので、朝陽さんを探しにうろうろしていると彼の部屋から話し声が聞こえてきて。「ああ……そうだ、今日の……全部、お前たちに任せるから……いいか、しっかり頼んだぞ」「……あの、朝陽さん? そろそろ家を出ないと、予約した新幹線に間に合わなくなっちゃいますよ?」 盗み聞きするのも申し訳ないと思い、扉をノックしてそのまま声をかける。最近は部屋の中まで入ることが増えたけれど、今回は通話の邪魔にならないようドアは開けなかった。「ああ、そうだな。すぐに行くからタクシーを呼んで玄関で待っててくれるか?」「分かりました、そうしますね」 何かあったのだろうか、多分さっきの雰囲気から大事な話だった気がして。でも朝陽さんは私には聞かれたくなさそうだったから、すぐに部屋から離れたのだけど。 休日とはいえ朝陽さんに仕事のことなどで着信がある事は珍しくない、彼の立場上それは仕方のない事だから。でも今日に限って……という気持ちもあって何も言えなかったけど、彼は無理をしてないかと心配になる。 こういう時、自分が朝陽さんの力になったり手助け出来る事があまり無いので凄くもどかしいの。「すまない、少し待たせたな! とりあえず、急いで駅に向かおう」 数分してから朝陽さんがちょっと慌てたように玄関へとやって来たけど、何となく浮かない表情をしてる様に感じて。だから余計なお世話だと分かっているのに、つい聞いてしまったのだ。「あの、さっきの電話はもう大丈夫なんですか?」「ああ、それはもう全部部下に任せてる。今日は俺たちにとって大事な日だから、鈴凪《すずな》はそのことだけ考えていてくれればいい」 朝陽さんの仕事に私が口出しをする事は出来ないから、そう言われてしまうとこれ以上は何も聞けなくて。もちろん彼が信用している人達なのだから、きっと大丈夫なのでしょうけど。 その後の新幹線での移動中は朝陽さんはいつもと変わらない様子で、どうやら私の杞憂だったのかもしれない。それ
Last Updated: 2025-12-20