触れる指先で私の唇を濡らさないで…… いつだって貴方の指先は、冷めない熱を持っているから。 その熱で私を狂わせようとするのはもう止めて? そう言いたいのに…… 新しい課長として支社にやって来た優男、梨ヶ瀬 優磨。 誰からも好かれる明るい性格と優し気な容姿を持つ梨ヶ瀬を、あからさまに避ける女子社員の横井 麗奈。 ミーハーな性格である彼女だが、彼の事だけは毛嫌いしているようで……? ある日横井は部長に呼び出され、梨ヶ瀬のサポート役を頼まれるのだが? 笑顔の裏で何を考えているのかを決して見せない二面性のある優男と、そんな男の隠した危なさに気付いて逃げ出したい女子社員。 二人の攻防戦の行方は————? 表紙イラスト neko様
View More一目見てその人の事を好きになる、そんな言葉はこれっぽっちも信じてなんかいなかったけれど。でも、それもあり得るんじゃないかって思えるような出来事が私にも起こったの。
もっとも……私の場合はその人に一目惚れしたのではなく、一目嫌いになったわけなんだけれども。 ※※※※ 「ねえねえ、見た? メチャクチャカッコ良くない、新しく課長になった梨ヶ瀬《なしがせ》さん!」 女子トイレできゃあきゃあと騒いでいる女子社員の言葉が耳に入り、さっさと通り過ぎるつもりがつい足を止めてしまった。話題になっていたのは、先程挨拶を終えたばかりの本社から来た若い男性社員。 「そうそう、良いわよね! 前の課長代理だった御堂《みどう》さんとは、また全然違った魅力があるし雰囲気も穏やかで優しそう」 まあ、ミーハーなのは私も同じだったのけど。何故だろう、今回ばかりは彼女達に同意する気にはなれなかった。 「どうかな、私はそうは思わなかったけど? なんだか裏表あるように見えるし、本性はとんでもなさそう」「ええー、そう? 横井《よこい》さん、なんだか梨ヶ瀬さんに厳しくない~?」 私の評価が気に入らなかったのか、彼女達はああでもないこうでもないとまた騒ぎ出した。 ……いいけれどね、別に本気で聞いてくれなくても。 そんな風に思いながらお手洗いを出ると、すぐ傍に噂の人である梨ヶ瀬さんが立っていて……なんてタイミングで遭遇するのだろうと、つい視線を逸らしたのだけど。 「俺って君からはそんな風に見えてるんだねえ、横井さん?」 柔らかく微笑んでいるはずなのに、全く感情の読めない梨ヶ瀬さんの瞳。その温度を感じさせない冷たさに、今まで感じたことのないくらい背筋がゾッとして。 ……この時の発言をしっかりと聞かれてたこと、それがその後の私の運命を大きく変えてしまったのかもしれない。「あの男性が、私を……ですか?」 梨ヶ瀬《なしがせ》さんの言う事が信じられずに、もう一度確認してみる。確かにこっちを見ているように見えなくもないけれど、何故よりによって私なのだろう? だって……少なくとも私には、その男性に見つめられるような心当たりはなかったから。「彼のあの様子だと今日が初めてって、感じではなさそうだけど? 横井《よこい》さんって、結構そういうとこは鈍そうだもんね」 はあ!? 私は今までずっと、周りの人から『鋭いね』言われてきましたけど! そういうとこがどういうとこかは知りませんが、勝手に私の事を理解した気にならないでくれません? そう大きな声で言い返したいのに……彼が「静かに」と言うように、私の唇に人差し指をくっつけたりするから何も言えないでいる。 当たり前のように、私に触れるのはどうしてなんですか? 自分が想像してたよりも、温かな彼の指先に私は戸惑う。梨ヶ瀬さんの指先はもっと冷たいんじゃないかって思ってたのに。「…………じゃないの?」「えっ、あの……今なんて?」 梨ヶ瀬さんの熱に集中してしまって、彼の話をちゃんと聞いていなかった。そんな私を梨ヶ瀬さんはちょっと驚いたような顔で見てたけど、すぐにニッコリと微笑んで……「ねえ、麗奈《れな》。俺の話をちゃんと聞いて?」 どうして私の事を、いきなり名前で呼ぶんです!? 嫌がらせかなにか分からないけれど、普段呼ばれない名前を異性に呼ばれ顔に熱が集まる。「何で梨ヶ瀬さんが、私の名前まで知ってるんですか? まさか、私の事が気に入らないからってわざわざチェックしたとか……」 やはり、あのお手洗いでの会話がまずかったのかもしれない。第一印象の悪い部下として、この人に目を付けられたとしか思えなかった。 だけど梨ヶ瀬さんは私の言葉にキョトンとした表情をした後、何かを堪えるように俯いて肩を震わせていて。「ふはっ、ちょっ……なんでその発想になるの? こういう反応は、流石に予想してなかったかな」 もしかしてこの人、笑ってる? 今の会話のどこに、そんな笑いを堪えなきゃいけないような要素があったっていうのか。こっちは訳が分からないというのに、梨ヶ瀬さんはまだその身体を震わせ笑いを押し殺している。 何だか、すっごく腹が立つんですけど? やっぱり私は、梨ヶ瀬さんに揶揄《からか》われている
酷く疲れる昼休みを終えてデスクに戻れば、机の上には眞杉《ますぎ》さんからと思われるメモが置かれていて。きっと謝罪の言葉が書かれているのだろうなと思うと、鷹尾《たかお》さんに協力すると約束したことが申し訳なくなる。 眞杉さんだってあれだけあからさまに避けるのだから、何か理由があるのだろうに……「あーあ、これからどうしよう」 メモの中身を確認して、これから眞杉さんにこの事をどう話すかに頭を悩まる。 この日の午後は仕事が思うように捗らなくて、結局二時間ほどの残業をして帰る事になってしまった。 それが良くなかったのか……「あれ? 横井《よこい》さんも帰りはこっち方面なの?」「……ええ、そうだったかもしれませんね」 今日はもうこの顔を見なくていい、声も聞かずに済むのだと思ってたのに。どうして帰りの電車でまで、《》この人と同じ時間を過ごさなきゃならないの? せめて車両が違えば気にしなくていいのに、どうして私がいつも乗り込む車両に梨ヶ瀬《なしがせ》さんがいるのか。「凄い適当な返事だね? 俺は一応、君の上司なのに」「勤務時間は終わってますし、今日はもう精神的に限界なんです」 朝から梨ヶ瀬さんの存在に酷く気を使って、クタクタなんですよ。もう放っておいてもらえます? そう言いたいのに、彼は私の隣にぴったりと張り付き離れてくれそうにない。「まあいいんだけどね、横井さんのそういう正直なところは見ていて面白いし?」「はあ、そうですか。別に梨ヶ瀬さんを喜ばせるために、そうしてる訳ではないんですけどね」 むしろ嫌われようと取っている態度を、そんな風に喜ばれても嬉しくもなんともない。やはりこの人はどこかズレた感覚の持ち主なんだろうな、なんて事を疲れた頭の中で思い浮かべていた。 いつの間にか梨ヶ瀬さんは、私の身体を壁とその両腕で囲むようにして立っている。 いったい何のために? そう思っていると……「……横井さんはいつもこの時間に、この車両に乗っているの?」 何度も見たこの作り笑顔と笑わないその瞳、だけど何だか少し雰囲気が違って見える。背筋がひんやりとするような、なんとなく嫌な感じ。「いえ、普段はもう少し早く帰路につくので」「ふうん」と梨ヶ瀬さんは顎に手をやりなにやら考えているような仕草をするが、彼が何を言いたいのかさっぱり分からない。「あの、梨ヶ瀬さ
「あのー、大丈夫ですか? その、眞杉《ますぎ》さんは少し人見知りな所があるので」「……知ってる、これが最初なわけじゃないし」 なるほど。 どうやらこの男性はかなり眞杉さんにご執心らしく、先程眞杉さんから逃げられたショックから立ち直れずにいるらしい。 しかし目の前の男性、スッキリとした短髪にキリッとした顔つきで清潔感がある。人も良さげだし、悪い感じはしなさそうだけど……眞杉さんはなぜ、彼のことを避けているのだろう?「仕方ないんだ。彼女には俺みたいな男は『タイプじゃない』って、一度ハッキリ断られてるし」「えっ、あの眞杉さんがですか!? それっていつの話です?」 あの大人しい眞杉さんが、どうしてこの男性を振ったりしたのだろう? つい最近、彼女が言っていた『彼氏が欲しい』という言葉はいったい何だったの?「三年前の彼女の誕生日。あの日は俺としてはもの凄く気合を入れたんだ、だけどあっさりと振られて……その後はずっと逃げられてる」「三年も前に、ですか……?」 そんなに前からこの人は眞杉さん一筋なんだ……そこまで思われている彼女がちょっとだけ羨ましい気もしないでもない。まあ、眞杉さんが逃げてる理由を知らないからそう思えるのかもしれないけれど。 でもちょっとだけ、報われて欲しい気もしないでもない。「……ねえ、横井《よこい》さん。ここまで話を聞いたんだから、コイツに協力してもいいかな? なんて思ったりはしない?」「……はい? 私が、ですか?」 目の前で微笑んだままの梨ヶ瀬《なしがせ》さん、彼は何と言った? 一度梨ヶ瀬さんを見つめて今度は男性に視線を移すと、すでに彼はキラキラと期待の眼差しを私に向けていて……「えっと、協力なら梨ヶ瀬さんがいれば十分じゃないですか? 私は話を聞いただけで、どう考えても無関係ですし」「それがね、赴任してきたばかりの俺に出来る事なんてそれほどないんだ。横井さんは眞杉さんと仲も良いようだし、鷹尾《たかお》を助けると思ってね?」 鷹尾さんという名の男性は梨ヶ瀬さんの隣で大きく頷いている。やめて欲しい、どんどん断りづらい状況を作られてるとしか思えない。「ですが……」「別にいいんだよ、断っても。だけど横井さんが眞杉さんと親しいと分かった以上、これからは遠慮なく君を巻き込ませてもらうから」 はい? それって脅迫じゃないの
「じゃあ、これからは俺達がこの席を使わせてもらおうかな? 別に良いよね、眞杉《ますぎ》さんも横井《よこい》さんも」 良くない。全然良くありませんから、今すぐ別の席に行って貴方の取り巻きと楽しんでてよ! 本当はそう言いたいけれど相手は自分の上司、そんな反抗な態度ばかり取るわけにもいかず……口の端を引きつらせながら「どうぞ、お好きなように」と言うことしか出来なかった。 何のつもりなのか、もしかして私に対する嫌がらせのつもりだったりするの? しかし梨ヶ瀬《なしがせ》さんはさっきからニコニコと微笑んでいて、その本音を知ることは出来ない。 どうしようかと隣を見ると、眞杉さんが慌てた様子で食事を終わらせていて……「私、お先に失礼しますねっ! 皆さんは、どうぞごゆっくり」「え、ええ? ちょっと、眞杉さん?」 そう言って立ち上がり食事のトレーを持つと、急いで返却口へと歩き出して。彼女はそのまま、逃げるように食堂から出て行ってしまった。 ……私をこんな状況で一人だけにしないでよ、眞杉さん。 こうなったら私もさっさと食事を終わらせて、ここから離れるしかない。 そう思って食事を再開しようとすると……「……また逃げられた」 梨ヶ瀬さんの隣に座る男性社員がポツリとそう呟いて、がっくりと項垂れてしまった。えっと、逃げられたってもしかして眞杉さんの事?「おや、残念。さすがにこの反応は、脈無しなんじゃないのかな?」 先程から変わらない笑顔の梨ヶ瀬さんにハッキリとそう言われて、ますますその男性の頭が下がっていく。これってつまり……この人が眞杉さんの事を、って事よね? それにしても、梨ヶ瀬さんとこの男性社員はどういった関係なのだろう? 彼は本社からこの支社に来たばかりのはずなのに、二人はとても打ち解けた関係のようだけど。 そんな疑問が顔に出ていたのか、梨ヶ瀬さんはそんな私を見て少し首を傾げてみせてこう言ったのだ。「ん、俺の事が気になるの? 横井さん」 この人って、絶対性格悪いとしか思えなくない? そんな聞き方をされて「はい」と言ったら、私が梨ヶ瀬さんの事を特別な意味で気にしてるみたいに聞こえるじゃないの。 梨ヶ瀬さんはきっと、可愛くない部下の私の反応を楽しんでいるに違いない。 それならば……「いいえ、全く気にしていません。梨ヶ瀬さんこそ、そんなに私に自分の
「あの、どうかしたんですか? 横井《よこい》さん、眉間のしわが凄いことに……」 そう眞杉《ますぎ》さんから言われて慌てて顔を上げる、すると彼女はギョッとした表情で私を見る。眞杉さんは大きな眼鏡をしているが、その表情は豊かでとても分かりやすい。 それにしても、凄い眉間のしわっていったいどういう……?「ご、ごめんなさい! 私何か横井さんを怒らせるような事言っちゃいましたか?」 慌てる眞杉さんに、私はますます訳が分からなくなる。どうして? そう訊ねようとした時、カウンターの方からこちらに向かってくる梨ヶ瀬《なしがせ》さんを囲んだ女性社員達が目に入った。 どうしてこっちに向かって来るのよ!? どう見たってそんな人数の席は空いてないでしょ! そう、私の周りは見てわかる通りもうほとんど席が空いていない。空いているのは私の隣の席と……眞杉さんの横だけだ。 絶対こっちには来るなと祈っているのに、彼らは真っ直ぐにこのテーブルの横まで来て……「うーん。席、空いてないねえ?」 そんなのちょっと見れば分かるでしょう? いちいちここまで来て確認しないと分かんない程、近眼なんですかね。そんな梨ヶ瀬さんの、のんびりした口調にイライラしながら箸でから揚げを刺す。「ねえ、梨ヶ瀬さん。あっちに行きましょう、ここじゃあ私達が一緒に座れません」 ええ、是非そうしてください。さっさとその女性社員を引き連れてどこへでも! 目の前の眞杉さんの顔色がどんどん悪くなっている気がするが、こっちが気になりそれどころじゃない。「横井さん、顔がどんどん酷い事になってますっ! いったい、どうしたっていうんですか……?」 眞杉さんの顔色が悪くなったのはどうやら私の所為だったらしく、彼女は慌てた様子で鏡を出して見せてくれた。 その小さな鏡に映された私の顔は眉間に深いしわが寄り、嫌だと感じる気持ちが露骨に表情に出ているようだった。 そう、つまりは…… 「なんていうか、見ないで済ませたいものほど目に入って来るのはなぜかと思ってね……」 そう言って大きなため息をついたのと同時だった。私の隣と眞杉さんの横の席に、食事のトレーが置かれたのは。「ここ、空いてるよね?」 ニッコリと微笑んで眞杉さんに尋ねるのは、確か別の部署の男性社員だった気がする。そして私の隣でその様子をニコニコと見ているのは、取り巻き
「あ、の……」 こんな風に上司に聞かれて、素直に「はい、そうです」なんて言える部下がいると思うの? 割とハッキリ言う性格の私だって、いくら何でもそれは無理な話で。 何と返事をするか迷っているうちに、梨ヶ瀬《なしがせ》さんが私のデスクに両手をついて上半身を近づけてきた。彼の両腕に挟まれて身動きを取ることが出来ない、この人はいったい何を……?「だからね、この資料はここのデータを上手く使っていけば……ほら、これで出来るでしょ。ねえ横井《よこい》さん、俺の話ちゃんと聞いてる?」「……っ、ちゃんと聞いています!」 何をする気なのかと思えば梨ヶ瀬さんは私のパソコンを操作して、私に頼んだ資料の作り方を教えてくれただけだった。それでも背中のすぐ傍に梨ヶ瀬さんの存在を感じ、なんだか落ち着かない。 こうして教えてくれたのは有り難いと思う、だけどその部下に対する優しさもわざとらしく感じるのはなぜなのか?「ああ、緊張してるんだ? 心配しなくていいよ、あれくらいの事でいちいち嫌がらせするほど俺は暇じゃないからね」「別に、そんな事はっ!」 図星を刺された気がして少し焦った声が出る。だけど梨ヶ瀬さんは涼しい顔で私のデスクから両手を離すと、すぐに他の社員に呼ばれて行ってしまった。 ……結局、彼はお手洗いでのことは気にするなと私に言いたかっただけ? 結局悶々としたまま午前中の仕事を終えると、鞄から財布を取り出し社員証を持って食堂へと向かう。お弁当の日もたまにあるけれど、主任たちがいなくなってからは食堂を使う事が多くなった。 人が多くならないうちに選んで社員カードで会計を済ませると、いつもの決まった席へと座る。いつもこのテーブルにつくのは、私とあと一人……「今日も早いですね、横井さん」「おかげさまでね、昔から並ぶのは苦手なの」 真っ黒なストレートのおかっぱ頭、そして顔には大きな瓶底眼鏡。地味なタイプの代表みたいな容姿をしたこの女子社員は、最近仲良くなった眞杉《ますぎ》さん。一度なんとなく話しかけてから、彼女も毎日のようにこの席に座るようになった。「そうですね、そういうの横井さんらしいですけど。あら、なにかしら……?」 眞杉さんが視線を向ける先、食堂の入り口に何人もの女子社員がきゃあきゃあと騒いでいるようで。私もその騒がしい女子の群れを眺めていると、その真ん中にニコニ
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