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猫宮乾
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Novels by 猫宮乾

白雪王の結婚

白雪王の結婚

「鏡よ、鏡。この国で一番美しいのは誰?」『それは、ハロルド陛下でございます』――自分より年上の現国王は、幼少時はとても己に優しくヒーローだったのだが、今は二面性のあるただの意地悪な仕事を押しつけてくる存在だ。継母であるマリアローズは、いつも白雪王と評されるぐらい麗しいハロルドと仕事をしつつ、目を据わらせている。※白雪姫を下敷きにした異世界恋愛ファンタジーです。ツンデレ二重人格ヒーローと、頑張り屋の純粋ヒロインのお話です。国王(白雪)×継母(皇太后)。
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Chapter: 第8話 ドレスと夜会
 その日から、ハロルド陛下はずっと不機嫌だった。マリアローズは時々首を傾げたが、何故機嫌が悪いのかさっぱり分からない。 クラウドの案内をはじめて五日が経過してある日、マリアローズはハロルド陛下から呼び出された。本日も不機嫌そうなハロルド陛下は、マリアローズに開封済みの封筒を差し出す。「エグネス侯爵家が夜会を催すそうだ。お忍びだから王宮ではおおっぴらには開けなくてな。代わりに奥方が帝国出身のエグネス侯爵家に身分を明かして歓迎の夜会を開いてもらうことになった。同伴してもらう」「クラウドにですの?」「クラウドがいいのか? 残念ながら、俺だ。悪かったな」「いいえ? 私はハロルド陛下の同伴をするのだとばかり思っていたので、違うのかと驚いたのです」 マリアローズがそう述べると、憮然とした様子で小さく二度ハロルド陛下が頷いた。「それで夜会はいつですの?」 尋ねながら、マリアローズは招待状を取り出した。そして目を剥いた。「きょ、今日!?」 ぎょっとしたマリアローズに対し、なんでもないことのようにハロルド陛下が頷く。「十六時には出る」「待っ、お、お待ち下さい! ドレスの用意も何もしておりません!」「――ドレスはこちらで用意した。既に後宮に届いている頃だ」「えっ」「なんだ? 嫌なのか?」「いいえ。貴方にそんな気遣いが出来たことに驚愕して……」 信じられないものを見るように、小首を傾げてマリアローズが瞬きをする。長い睫毛が揺れている。彼女の緑色の瞳が零れ落ちそうになっているのを、青色の目でハロルド陛下が呆れたような顔で見ていた。「では、準備して参ります」 気を取り直してそう告げ、マリアローズは後宮へと戻った。 すると、深いサファイアのような色彩の、ロングドレスが届いていた。薄らと輝く布地で、本物の宝石のような色合いだ。首の後ろに伸びた紐で留める形で、腰元が細い。思わずうっとりと魅入っていたら、時計が十五時を告げた。時間が無いとハッとする。「みんな、お願いね!」 侍女達に声をかけると、彼女達は皆、勢いよく頷いた。こうして懸命な努力の結果、十六時には王宮の前でハロルド陛下の差し出した手に、マリアローズは無事に指先を載せることが出来た。本日のハロルドは、緑を基調にした夜礼服だ。 走り出した馬車の中で、ハロルド陛下がポットから紅茶を注ぐ。「あら、
Последнее обновление: 2025-11-07
Chapter: 第7話 案内と懐古
 さすがに後宮には立ち入らせる事が出来ないため、マリアローズは王宮の南側の庭園の案内をしていた。紫色の桔梗が咲き乱れている。 「いかがですか?」 「うん。綺麗だね」 「よかったわ。クラウドの瞳の色に似ているわね、この花は」 「僕はマリアローズになら、この色のドレスを贈っても構わないぞ」 「紫色のドレスですか? パラセレネ王国の後宮は、困窮しているわけではないので、お気遣いなく」 「そ、そう」  そんなやりとりをしながら、二人で庭園のベンチへと向かった。そして並んで座る。 「そういえばマリアローズは、エルバ王国の出自なのか?」 「ええ」 「ふぅん。三年前に僕も出かけた。良い国だった。海に面した国だろう? 潮風と白い鳥が印象的だった」  それを聞いて、マリアローズは目を丸くした。白い鳥が、脳裏に浮かんでくる。潮風の香りも、ここにはあるはずがないのだが、薫ってくる気がする。  すると快活さを感じさせる表情で、クラウドが続ける。 「特に海産物は絶品だったし、街の者達も良くしてくれた。民に活気のある国だったな」 「そうですか」 「国王陛下夫妻も、とてもよくして下さった。僕の国にも、エルバ王家から侯爵家にミーナ夫人が嫁いでいて、夜会でお会いしたこともある」 「まぁ! ミーナお姉様をご存じなのですか?」 「うん。優しい方だったよ」  思わぬ場所で母国と家族の話を聞いたら、懐古の念が浮かんできて、涙腺が緩んだマリアローズは、涙が見えないようにしようと空を見上げた。白い雲を見上げて涙を乾かしていると、今度は無性に嬉しさで胸が満ちた。結果、自然と笑顔が浮かんできたから、その表情のままでクラウドを見やる。 「ありがとうございます」  クラウドはその表情に対し目を丸くしてから、心なしか照れたように顔を背けた。 「……これは、ハロルドも心配するのが分かるな」 「え?」 「いいや、なんでもないよ」  濁したクラウドは、それからチラリと王宮を見上げた。そしてニヤリと笑ったので、不思議に思ってマリアローズもそちらを見上げる。そこには執務室の窓から、こちらを見ているハロルド陛下があった。 「あ……仕事をさぼってる」  思わずマリアローズが呟くと、クラウドが吹き出した。肩を揺らして笑っている。 「僕はそういう事じゃないと思うけどな」 「では、
Последнее обновление: 2025-11-07
Chapter: 第6話 隣国からの貴賓?
 三日後の夕方――。  本日もマリアローズは、書類と戦っていた。涙ぐみそうになるのを堪え、キレ散らかしそうになるのを我慢し、ハロルド陛下の嫌味に耐えながら、頑張っていた。 「はぁ、終わったわ。やっと、やっと帰れる……!」  マリアローズが思わず泣きそうな笑顔で右手の拳を大きく握った時の事だった。  また一番上の抽斗を見ていたハロルド陛下が、それを閉めると不意に告げた。 「マリアローズ様、この後ソニャンド帝国から大切な客人が来るんだ。俺に同伴してくれ」 「えっ」  虚を突かれてマリアローズは、目を見開いた。 「そ、そんなお話、聞いていませんわ……! 私は、帰るのです……帰る……帰りたい」 「帝国からの客人を蔑ろにするわけにはいかないだろう、皇太后陛下」 「どうして朝言って下さらなかったの?」 「今思い出したからだ」 「はあぁぁ!?」  マリアローズは思わず巻き舌になり、強ばった笑みを浮かべながら怒った。  隣国からの客人となれば、正装して出迎えなければならない。思わずマリアローズは壁の時計を見る。 「何時にいらっしゃるの!?」 「もう来ている。宰相閣下が接待中のはずだ。俺とマリアローズ様は、公務の都合で夜に会うと伝えてある」 「夜……夜、ね? まだ夕方だわ! 急いで着替えて参ります」  慌ててマリアローズは窓の外を見た。そこには綺麗な橙色の空が広がっている。 「? 別にそのドレスで構わないだろう」 「構うのです! ドレスは女性の武器なのです!」 「何を着ても似たり寄ったりに見える。顔が同じだからな」 「見る目が無いのですね! それにどうせ私は、陛下から見たらその辺のカボチャと似たり寄ったりの顔に違わないでしょうけれど! 陛下はいいですわね! 麗しいお顔で!」 「――まぁ俺は鏡を見慣れてはいるが」 「とにかく! 着替えて参ります!」  こうして慌ててマリアローズは、後宮へと戻った。そして侍女長に状況を伝えて、皆に準備を手伝ってもらうこととなった。首元が深く大胆に開いたアンティークグリーンのドレスと同色の長い手袋を身につける。白い首から肩、背中が見えるノースリーブのドレスはとても上品で美しい。マリアローズは、前正妃様から受け継いだ大きなエメラルドのついた首飾りを身につける。それと同時進行で侍女には、髪をまとめてもらった
Последнее обновление: 2025-11-07
Chapter: 第5話 お茶会
「ありがとうございます、みんな……!」  ドレスを着替えて後宮の庭園へと向かうと、侍女達が総出でお茶会の用意をしてくれていた。彼女達は、マリアローズが本当は優しい性格の頑張り屋だと知っている。気心の知れた侍女達の完璧な用意に、マリアローズは泣きそうなほど感動した。彼女達の手助けがなかったならば、あの激務と並行してのお茶会など不可能である。  シンプルな銀色のケーキスタンドは、快晴の空から降り注ぐ日の光で輝いて見える。焼きたてのスコーンとクロテッドクリーム、なによりそのそばにある苺のジャムは匂いもよく、ルビーのような色彩は見ているだけで甘美さを想像させる。その他も完璧だ。  ティーポットやカップを見渡し、肩から力を抜いたマリアローズは、侍女の一人が引いてくれた椅子に座って、開始時刻を待った。  少しすると日傘をさした淑女達が集まりはじめる。残暑が落ち着いてきた秋の庭園の薔薇のアーチをくぐってきたご令嬢や貴婦人達を、立ち上がってマリアローズが出迎えた。白を基調とした薔薇やユーパトリウムに彩られた緑の庭園にある、白いテーブルクロスの掛けられた長方形のテーブルに、一人、また一人と座っていく。  マリアローズは時折振り返り、それを確認していた。その時だった。 「マリアローズ皇太后陛下」  儚さが滲み出ているような、か細い声がした。そのソプラノの声の持ち主が、ナザリア伯爵令嬢のサテリッテだとすぐに思い当たったマリアローズは、顔を入口側へと戻す。すると声と同じように儚さを体現したかのようなご令嬢がそこには立っていた。現在十八歳の彼女は、この国の貴族としては結婚適齢期だが、まだ許婚がいるといった話は、マリアローズの耳には入っていない。国内の貴族女性の婚姻関係を、マリアローズは大体把握している。それもまた必要な仕事だからだ。 「ごきげんよう、サテリッテ」 「私のことを覚えていてくださって光栄です」  するとサテリッテが、花が舞うようなと言う表現が相応しいとしか言いようがない表情をした。きっとその花は薄紅色をしているだろう。赤い肉厚の唇をしていて、少し垂れ目だ。体躯はとにかく細い。長い黒檀のような髪をしていて、深窓のご令嬢というに相応しい印象を与える。肌は雪のように白い。彼女はたおやかに左手を持ち上げて頬に当てる。彼女は左利きだ。確か趣味は絵画だったはずだ。 「ど
Последнее обновление: 2025-11-07
Chapter: 第4話 倒しても倒しても終わらないもの
 ――倒しても、倒しても終わらない。  マリアローズは、泣きたくなる気分を通り越し、最早無心で万年筆を走らせている。右の山がマリアローズが終えた仕事の山。左の山がマリアローズに与えられた仕事の山だ。 「おい、まだ終わらないのか? そろそろ打ち合わせに入るぞ!」 「どうして私が!」 「筆記係が欲しいんだ!」 「文官に頼んでくださいませ!」 「王家の機密事項を一般の文官に聞かせるわけには行かないだろうが!」 「だったらご自分でメモをなさってはいかが!?」 「そうする暇がないから言っているに決まっているだろう。そんな事も理解出来ないのか?」 「はぁ!? それが人にものを頼む態度なの!?」 「――これは失礼した。麗しき皇太后陛下。その白魚のような手で書きとめて下さいませんか?」  嫌みったらしく言い直されて、マリアローズは尖らせた唇に限界まで力を込めた。苛立ちから右の頬がピクピクと動く。眉間に皺を寄せたマリアローズは、万年筆で今しがた文字を綴っていた書類を終えると立ち上がった。 「わかりましたわ。私のこの美しい手を酷使致しますわ!」 「ペンだこが目立つから、もう少し労りつつ、持ち方に気をつけたらどうだ?」 「うるさいわね! 貴方がやらせているんじゃなくて?」 「行くぞ」  こうして二人は、ハロルド陛下の執務室を、二人で並んで後にした。  向かった先は、王宮の上部にある塔の一つで、ここには王族と限られた政務官しか入る事は許されない。その筆頭は、宰相閣下だ。本日の会談相手もまた、シュテルネン宰相閣下である。宰相にしては非常に若く、まだ四十代半ばだ。ハロルド陛下ほどではないが美丈夫なので、マリアローズは眺めている分には好感を持つ。だが、何故なのかマリアローズの周囲の男性陣は、顔は良いのに中身が最悪だ。 「遅くなったな、宰相閣下」  扉を開けるなり、ハロルド陛下がそう告げた。王宮における政敵の一掃と混乱の制圧以来、二人は盟友のようで、ハロルド陛下はマリアローズの前と同じように、宰相閣下には本音で話をする。確かに、こんな姿は、一般の文官には見せられないだろう。評判ががた落ちするのは明らかだ。人格者という上辺、性格が良いという噂が、全部法螺話だと露見してしまうのだから。国民の前で手を振るときに、笑顔の信憑性が下落する事は間違いない。 「ああ、非常
Последнее обновление: 2025-11-07
Chapter: 第3話 白雪王
 瞼を開けたマリアローズは、久方ぶりに思い出した懐かしい記憶に浸りながら《魔法の鏡》を改めて見る。あの頃は、《魔法の鏡》がいう『絶望』の意味を取り違えていたらしい。二十一歳になった現在、マリアローズは、孤独や寂しさから絶望してなどいない。別のことに深く絶望している。 「もう一度聞いていいかしら? 鏡よ、鏡。この国で一番美しいのは誰?」 『それは、ハロルド陛下でございます』 「あの書類を私に押しつける腹黒の、一体どのあたりが美しいというのかしら? 真っ黒よ? 歪みきっていると思うのだけれど」 『だからハロルド陛下だって繰り返し言ってるじゃないか。現実は認めるしかないんだよ。僕は嘘は嫌いだからね。それよりそろそろ、公務の時間なんじゃないの?』 「……そうね」  《魔法の鏡》の言う通りなので、両手で頬を軽く叩いてから、マリアローズは鏡を見て一度笑顔を浮かべ、気合いを入れ直す。 「行ってくるわ」 『頑張って』  《魔法の鏡》の応援を背に、マリアローズは正妃の間を出た。己の夫であった先代国王、父代わりの前国王陛下は、一昨年前に崩御した。そのため現在後宮には、皇太后となったマリアローズ以外の妃はいない。皆、降嫁した。だがマリアローズは、正妃であったことを表向きの理由に――実際には受け継いだ《魔法の鏡》を現国王ハロルド陛下の正妃となる相手に引き継ぐまでは、後宮に残ることとなった。その結果、これまでは側妃とも分担して行っていた公務が一挙にのしかかってきた。  それだけではない。前国王陛下の急な崩御により、王宮は一気に多忙になった。幸い近隣の強国であるソニャンド帝国との関係や、多くの属国とは良好な関係を築いているが、世が世ならば攻め入られていてもおかしくない。国境沿いの警備は勿論厚くすることとなった。  同時に、王宮内の反乱分子にも、目を光らせる必要があった。だがこちらは、シュテルネン宰相閣下がこれを機とばかりに、一掃した。彼にとっての政敵だったため、ハロルド陛下とがっちりと手を結び、王宮の政敵は駆逐できた次第だ。けれど、その結果、大臣や文官が減ったのは間違いない。王宮における仕事量は、確実に以前よりも増えた。それをマリアローズも理解していたので、皇太后としての仕事のほかに、手伝いをしていた――ら、結果はどうだ。善意で手を貸していた結果が、現在の状態……本来自分
Последнее обновление: 2025-11-07
本当にあった怖い話。

本当にあった怖い話。

「左鳥、今日もつかれてるな」大学時代、そんな風に言われ、肩を叩かれていた日常があった。平成(2000年代初頭)の何気ない大学時代の日常を振り返る主人公の左鳥の物語。ごく普通の何気ない大学生活を送っていた左鳥は、視える人として有名な、大学の同級生である時島とルームシェアをする事になる。ライターのバイトをしていた為、怖い話のネタを集める事になり、友人の紫野から怖い話を聞いたり、時島と共に、実際に怪異に巻き込まれたりしていく。――現在では、それらも良い思い出だと考えながら、地元の友人である寺の泰雅と酒を飲む。過去の大学生活の、ほのぼのホラーと、現在の軸が時に交錯するお話です。
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Chapter: 【71】刻限を言祝ぐ鐘の音の終焉
 以降、二週間ほど時島は俺の実家のそばにいた。俺は近くの温泉に時島を連れて行ったり、椚原に時島を連れて行ったり――正確には、時島に車で連れて行ってもらったのだが、とにかく出かけ回った。出かける度に、酷く息切れがして、俺は相当体力が落ちているのだと気づいた。何だろう、歳だろうか? ――ちなみに椚原では、祖父が家に入れてくれなかった。しかし、庵に立ち寄れたので良かったという事にしておく。 そんな時島が、二週間目に言った。「左鳥、戻ろうかと思うんだ」「実家に? 東京に?」「……取り敢えず、東京に」「良いんじゃないか?」「一緒に来て欲しい」「え、それは……そのほら、俺は家も引き払っちゃったし……」「嫌なら、はっきりと言ってくれ」「そういうわけじゃないんだけど……」「その場合は、こちらに新しく家を借りないとならないからな」「え?」「なんだ?」「帰らなくて良いのか?」「――俺の帰る場所は、左鳥の隣だ。左鳥の帰る場所も、俺の隣であって欲しい」「時島、何言ってるんだよ。お酒も入ってないのに」「本気だからな」「本気って……」「嫌か?」「……」 俺は、嫌じゃない。嫌だと思わない自分に、少しだけ悲しくなった。 そして、時島がそばにいてくれるだけで満たされる自分に気がついていた。「もう目の届かない所に左鳥を置きたくない」「それって蛇の執着?」「蛇なんて関係ない。俺の嫉妬だ」「嫉妬……っ……」「寂しい思いをさせたんなら――もし俺の不在を寂しいと思ってくれたのであれば、謝る」「あたりまえだろ。寂しいに決まって……そんなの。連絡も無いし、会いにも来ないし
Последнее обновление: 2025-08-28
Chapter: 【70】愛の告白
 なおこの時の事は、後になってもまとめる事は決して出来無い。何故ならもう俺は、何も書く必要が無くなったからでもあったし――三人が決して俺に話してくれないという理由もある。不思議なものだ。書く事が存在証明だとあれほど思っていたはずなのに、憑き物が落ちたかのように俺は書かなくなった。 時島達が来てから、もう三日が経過していたらしかった。 俺はその間、眠っていたのだと繰り返された。 寺の誰に聞いてもそれしか話してはくれなかった。けれど俺は、鎌の生々しい感触を覚えている。 五日目――時島と紫野が帰る日になった。 そこには、右京の姿があった。「帰ろう、左鳥」「ああ……」「紫野さん、それで良いですよね?」「まぁ、俺としては良いってわけでもないけどな。東京にはいつ戻ってくるんだ?」「未定です」 どうして右京は、紫野に確認を求めているんだろうか。そう考えていると、右京が続いて泰雅を見た。「泰雅さん、お世話になりました」「俺は良いとは言ってないぞ?」「それじゃあお寺に監禁されているって噂立てちゃいますよ。警察沙汰だ」「やめろ」 三人が冗談めかしたそんなやり取りをしている所から、少し離れた場所に、俺は立っていた。 俺の隣には時島がいる。 その時、人目があるにも関わらず、時島が俺の手を静かに握った。 狼狽えて、手と、時島の顔を交互に見る。「これからは、ずっと俺が左鳥を守る」「ずっとって……」 俺はそんな曖昧な言葉は、もう信じたくはない。それに縋って生きる事は辛すぎた。「そばに居させて欲しいんだ」「いられないだろ。実家、大変なんだろ?」「――出てきた」「え?」「しばらくは姉さんに頼んである。確かにいつかは戻らなければならないのかもしれない。ただな、俺は、俺だから。左鳥に会いたくて、触れていたくて――ああ、遅いな、どうして今まで言えなかったんだろう。頼む左鳥
Последнее обновление: 2025-08-28
Chapter: 【69】浄霊
「……あれ?」 次に気づいた時、俺は一人寺の蔵に立っていた。 まだ夜だった。 左手も右手もぬめる感触がしたから、持ち上げてみる。壁の明かりが灯っていた。 見れば、俺の手は鮮血に濡れていた。 瞬きをして、何度も確認して、そして臭気から血だと再認識する。 俺は右手に、鎌を持っていた。 何故こんな物を俺は持っているのだろう――? 嫌な予感がした。それは、被害者になる恐怖では無かった。俺はこの感覚を知っている。加害者になる恐怖だ。 強姦被害に遭った時、自分は被害者なのだからと、そう……過去にもずっと『被害者』だったではないかと、記憶に鍵をかけて忘れた感覚だ。違う、本当は違う、俺は加害者なのかもしれなかった。冬だというのに裸足の俺は、足の裏にも、土でも木でもなく血の感触を覚えていた。恐る恐る視線を下げれば、その血溜まりには、数珠の玉がいくつも転がり、白い紙人形が沢山落ちていた。そして、寺で飼育されていた鶏が死んでいた。何羽も、そう何羽も。冬の寒さとは異なる、恐怖から、俺の背筋は寒くなったのに、なのに体は熱に浮かされたように熱い。ああ、ああ、嗚呼嗚呼嗚呼、あああああああああああ。俺は、俺は何をした? 時島は? 紫野は? 泰雅は? すべてを殺してしまったイメージに襲われる。残虐な光景が、脳裏を過ぎっては消えていく。 その時、何かを踏む音がした。 しかし俺の体は、俺の自由にはならず、俺は鎌を握ったまま、振り返りざまに横に払った。 肉を裂く嫌な感触がした。「左鳥、ずっと会いたかったんだ。こんな事を今更言うのは、遅いかもしれないけどな。でもな、言いたいんだ。何度でも言う。俺はお前に会いたかった。ずっと会いたかったんだ。顔を見られて、それだけで良いなんてもう言えない」 俺は時島の肩を抉っていた。背中には鎌の刃が突き立てられている。誰でもなく、俺の手によって。 肉や骨の感触よりも、溢れ出てくる赤に、一歩乖離した理性が何かを叫んだ。 多分俺は、泣き叫んでいたのだと思う。 しかし耳に入
Последнее обновление: 2025-08-27
Chapter: 【68】俺の友人
「あがったのか。思ったより長かったな」「いつもよりは早い」 座敷に戻ると、日本酒の猪口を持った時島が振り返り、その正面では一升瓶を持った泰雅が笑っていた。「――いつも?」「いつも一緒だったからな。それが何か?」「緋堂さん、左鳥は――」「左鳥の事を、今一番よく知っているのは俺だ」 どこか喧嘩腰の時島と泰雅の姿に首を傾げながら、俺は二人の間に座った。 紫野はといえば、時島の隣、俺と時島の中間に座った。 長方形の机の上には、様々な来客用の料理が並んでいる。 食欲をそそる。思わず手を合わせてから箸を取ると、紫野に苦笑された。「食欲はあるのか」「何言ってんだよ紫野。まるで人をさっきから病人みたいに」 ――忘れていた鐘の音が響いてきたのは、その時の事だった。「!」 直後に停電した。 ああ、やめてくれ、もうやめてくれ、東京の友人達には――時島と紫野には……頼むから……時島にだけは知られたくない。知られたくなかった。 俺は両手で耳を覆いながら、この場から逃げ出したくなった。その思いに素直に立ち上がり、部屋の襖に手をかける。 俺はここにいてはいけない。 時島を巻き込んではいけない。 勿論紫野なら良いわけでは無かった。そもそも本来であれば、泰雅の優しさに甘える事もいけなかった事なのだ。そう考える間も高い鐘の音が響き続ける。俺の頭を侵食し、何も考えられなくさせていく。だから無我夢中で戸を開け、外へと出ようとした。その時だった。「左鳥」 誰か――だなんて、分かりきっていた、俺はその温度を知っていた。時島が、俺を抱きしめた。なだめるように、あやすように、耳元で名を呼ばれた。その声は決して大きいものでは無かったが、俺にはそれ以外の音の何もかもが消えて無くなったように感じた。勿論錯覚だ。ああ、ああ、鐘の音がする。鐘の音だ。鐘だ。鐘が追いか
Последнее обновление: 2025-08-26
Chapter: 【67】現在と過去の交差
 ――泰雅の家のお風呂は、温泉だ。といってもごくごく小さなものだから、せいぜい二人、基本的には一人で入る代物だ。 俺は今、そこに紫野と入っている。 時島は泰雅と先に飲んでいると言っていた。「それにしても紫野、久しぶりだなぁ」「それ俺が言っても良いか? みずくさいってやつだろ、いきなり帰るなんて」「悪い。なんだか、ちょっとな――それより、どうして二人はここに?」「来ちゃダメだったか?」「そういうわけじゃないし、そういう意味じゃなくて――なんで泰雅の家に?」 純粋に疑問に思って俺が問うと、紫野が微笑した。「お前、寺生まれのTさんって知ってる?」「は?」「や。緋堂さんもイニシャルTだよな」「何の話だ?」「怖い話」「ああ、右京が好きな、寺生まれの話か」「右京君に聞いたんだよ。ここにいるって」「右京に?」「そ。それで左鳥の顔でも見に行くかっていう話になったんだ」 そういうものなのかと俺は考えた。その時、まじまじと紫野が俺を見た。正確には俺の体だ。「痩せたな」「そう?」「ああ。あー、キスマーク」「嘘だろ?」「うん、嘘」 自覚が無かったから、俺は自分の胸の下に触れ、そして驚いた。 肋骨が浮いていた。 元々そう太っていたわけでは無かったが、ここまで痩せていた記憶も無い。「そろそろ出るぞ、左鳥」「え、もう?」「のぼせたら困る。お前、最後に一人で入った時も、のぼせて倒れたんだろ?」「は?」「目が離せないって緋堂さんが嘆いてたぞ」「嘘だよな?」 果たしてそうだっただろうか。確かに記憶を掘り返してみると、最近は泰雅と一緒に風呂に入った記憶しか無かった。その記憶も、昨日や一昨日の事であるはずなのに、何故なのか霞がかかっている。言われてみれば、頬が火照っているような気もした。こんな時には、風呂上がりの麦酒が飲みたい。 上がろうとした時、俺は立ちくら
Последнее обновление: 2025-08-26
Chapter: 【66】SIDE:時島
 ――左鳥は、綺麗だ。 時島は、待ち合わせをしている東京駅のホームに降りた時、改めて思った。 物憂げな表情を俯きがちにしていた左鳥は、それから我に返ったように視線を彷徨わせている。それが、己の到着を待っていたから、自分の姿を探していたからのものである事を実感し、時島は喜ばずにはいられなかった。 大学時代は、左鳥の顔を見ると、ホッとしている自身が確かにいたのに。 距離が遠くなると、安堵とは異なる――会う度に胸が高鳴る現実を、時島は自覚させられていった。 視線が合うと、左鳥が微笑した。その笑みに心が疼いたけれど、それを押し殺すように時島もまた小さく笑った。 実家に戻り、数ヶ月が過ぎようとしていた。ここの所は、あまり東京に足を運んでいない。 理由が無いわけでは無かった。いくらでも作り出せる。けれど、不思議と左鳥に言い訳をする気持ちは起きなかった。ただ、足が自然と遠のいただけだったからだ。理由は分からない。ただ、左鳥に嫌われる事が怖かった。左鳥に会って、二度と手放せなくなる自分も怖かったのかもしれない。「左鳥」 名を呼ぶだけで生まれる透明感。氷のような左鳥の気配が、硝子のように変わるひと時。 それだけで、時島の胸には満足感が満ちる。ああ、左鳥は自分の声で、表情を明るく変えてくれる――今は、まだ。左鳥の事を考えると、自分が自分ではなくなりそうで、時島は怖かった。「時島、元気にしてたか?」「左鳥、すぐにホテルに行きたいんだ」「あ、ああ」 そして、『抱きしめたいんだ』と続けようとして……それが出来無かった。 ただ左鳥は時島の言葉に、微笑しただけだった。けれどその表情が、どうしようもなく寂しそうで、悲しそうで。時島にはそう見えた。「ン、ぁあっ、あ……や、あ」「左鳥」「時島っ、時島、ああ、もう、俺」 左鳥の中を暴きながら、ホテルの一室で時島は痛む胸を押さえた。瞬きをする度に、蛇の瞳が映っている気がする。けれど蛇にすら、神にすら、
Последнее обновление: 2025-08-25
困窮フィーバー

困窮フィーバー

 藍円寺は、新南津市街地からは少し離れた集落の、住宅街の坂道を登った先にある、ほぼ廃寺だ。住職である俺は……なお、霊は視えない。しかし、祓えるので除霊のバイトで生計を立てている。常々肩こりで死にそうなマッサージ店ジプシーだ。そんな俺はある日、絢樫Cafe&マッサージと出会った。※現代(オカルト)ものですが、ホラー要素がほぼありません。
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Chapter: chapter:表 ……藍円寺の日常……【4】天使は、やはり天使だったのだ。
 だが、不思議な事に、謎の腰の不快感が残ったあの日の翌日、俺は人生で初めて、一度も肩こりをせずに過ごす事が出来た。肩がこらなかったのだ! 感動しすぎて大変だった。きっと、あれは、揉み返しとやらだったのだろう。天使は、やはり天使だったのだ。 しかし、翌々日――つまり、今日は、どっと肩が重くなった。 本家から電話がかかってきて聞いたのだが、例のお化け屋敷(民家)に、昨日どこぞの馬鹿な学生が侵入して、結界を構築していた御札を剥がしたらしい。普通、そもそも罰当たりな行為だから、概念として、そういう事はしないべきだと、躾けろよ親……! 教師! と、まず思った。同時に、もう良い年の大学生集団だったらしいのだから、自分で常識的か判断しろとも怒りが沸いた。とはいえ、俺が怒ってもどうにもならない。けれど頭にくるのは、民家から俺の寺まで漂ってくる嫌な気配のせいで、肩がこる事だ……。 さて、本家からの電話である。「何でも、うちの絆のぶっちゃけライバルのタレント霊媒師が、除霊に来るらしいから、今回は頼まれてもノータッチで」 そんな内容だった。 玲瓏院絆というのは、俺の本家の長男だ。双子の兄であり、弟は紬と言う。 絆は、KIZUNAという名前で、芸能活動をしている、事務所所属のタレントで、ウリが霊感だそうだ。オカルト番組に引っ張りだこだが、そこ以外でも活動している。時々、ドラマの脇役として見かけたりすると、親戚だからテンションが上がる。 ただ、親戚だからこそ分かるが、絆は、多分俺以下である。 本当にすごいのは、紬だ。何せ、大天才(霊能力者的な意味で)と評判だ。 紬は、歩くだけで、近隣の霊を全て吹き飛ばせるなんて聞いた事もある。 ――実際、紬と一緒にいた時に、嫌な気配を感じた事は、一度も無い。 俺から見ても、やつはすごい。それに比べると、絆は、「視える」「視える」と言うが、「だから?」と、聞き返したくなる事が多い。視えたって、なぁ。特に何も、視えない俺にとっては、影響が無いのが実情だ。 それよりも、問題は肩こりだ……。 俺は今日も今日とて、絢樫Cafe&マッサージへと向かう事にした。「挿れて欲しいか?」「あ……」 朦朧とする意識が、僅かに鮮明になった時、俺は菊門に陰茎の先端をあてがわれていた。ヒクつく俺の孔も、既に存分に解されているグチャグチャな孔の中も、一
Последнее обновление: 2025-11-07
Chapter: chapter:表 ……藍円寺の日常…… 【3】「またのご来店をお待ち致しております」()
「お疲れ様でした。またのご来店をお待ち致しております」  笑顔の青年――ローラというイケメンと、砂鳥という少年に見送られ、俺は今日も絢樫Cafe&マッサージを後にした。  初日以来――俺の中で、店への恐怖は、何故なのか……実を言えば、別に減ってはいない。本能的な恐怖とでも言うのか、遠くから近づく時と、遠ざかって家に向かう時は、未だに背筋がゾッとする。  だが、不思議とその感覚は、店に近づくにつれて減少していくし、店の前に来た時なんて、やっと本日の肩こりから解放されるとテンションが上がる。今までの人生で、こういう経験は無い。初めての事だから……単純に考えすぎなのかなと、最近では考えている。  考えすぎて、俺にとっての楽園と解放を逃すわけにはいかないだろう。  ただ……最近、気になる事がひとつある。  必ず気持ち良すぎて、途中でウトウトしてしまう事だ。  いつ微睡み始めたのかすら記憶にない。だが、パンと最後に肩を叩かれて、俺は目を覚ましている。うーん。相当疲れが溜まっているんだろうか……。それともローラ青年が、上手すぎるんだろうか。  俺、最初は、ローラというのは、店の名前なのかと、勘違いをしていた。  しかし、違った。  一度だけ、俺は勇気を出して、雑談を吹っかけたのだ。基本的にコミュ障の俺的には、多大なる努力を要したが。 「ローラというのは、店名か?」 「――いや。和名で戸籍を取得した時に、露嬉と当てていて、俺の名前ですよ」  彼は笑顔だったから、俺はホッとしたものである。  俺は、小心者だが、ぶっきらぼうな口調だ。しかしこれは、俺に限った事では無い。  この地方都市の方言のようなものなのだ。みんな、こんな感じだ。  その中でも、俺はちょっと癖が強いだけである。例えるなら、強い訛りと言える。  ローラ達は、都会――どころか、海外から来た様子だ。  あんまり悪い印象を持たれたくないのもあって、俺は、必要最低限しか話さない。  さて、そんな今日も、俺は癒されに向かった。  バスローブに着替え、寝台に上がる。  ……ああ、そして……また、”いつもの”……夢が始まる。  目を覚ますと、どんな夢なのかは忘れてしまうのに、始まると”いつも”だと分かる。 「そろそろ、良いか」  何が、なんだろう?  俺は、ぼんやりとしたまま、首を
Последнее обновление: 2025-07-28
Chapter: chapter:表 ……藍円寺の日常……【2】――なんだこのマッサージは!()
 それから――バスローブに着替えて、うつ伏せになった所までは、覚えている。 が、気づいた今、俺は動揺していた。「え」「――安心しろ、お前は、今人生で最高に気持ち良いマッサージを受けてるだけだ」「……ああ」 俺は、頷くと同時に、非常に安心していた。 けれど……先程とは異なり、思考がはっきりしてきた。 なんと現在俺は……全裸だった。え? 寝台の上にいる。これは、マッサージ用のものだ。なのに、なんか無駄に豪華なセミダブルベッドに見える。まぁ、それは良い(?) 良くないのは、その壁際で、俺は、何故なのか背中を壁に押し付けながら、涙をこぼしているという現実だ。真っ裸だ。え? え? 今時、健康診断ですら、こんな事は、無い。更にマッサージジプシーの俺が断言できる事として、普通のマッサージにおいて、全裸も無い。性感マッサージだったとしたら、風俗という表示を出していないのだから、ここは違法だ。けど、そう言う事じゃない。だって、俺、男だ。そして俺をマッサージしている、胸のバッチに『ローラ』と書いてあるイケメンの青年も、男だ。どこからどう見ても男だ。 その男に、俺は左の乳首を吸われている。全身が熱い。気づいた俺は、射精したくて仕方がない衝動に気づいて、ブルリと震えた。「ぁ、ぁ、ぁ……ぁ、嘘、あ」 俺のものとは思えないような高い声が、勝手に俺の口から出た。太ももが勝手に震えるのも止まらない。俺は、射精したいのに、何故なのかそれはしてはならないと理解していた。必死でつま先を丸めて、吐息を何度もして、体の熱を逃がそうと試みるが、酷くなる一方だ。「ああっ!」 その時、強めに右の乳首を指で弾かれた。だらりと、露出している俺の性器から、先走りの液が垂れる。「ひぁっ」 今度は、左右の乳首へ同時に、指と口の刺激が来た。 俺は思わず目を伏せた。すると、眦から涙が溢れていく。「ぁ、はぁっ、ン」 ダメだ、なんだこれ。気持ち良すぎる。 俺は、冷静に考えて、男にセクハラ――では済まない事をされているのだと思う。最早、痴漢と称して良いだろう。通報案件だ。だけれども、まずい、頭がおかしくなりそうなほどに気持ちが良い。「――安心しろ、全部夢だ」「あ、あ」 ――だよね! 俺は、全部夢だと、内心で理解した。なにせ、イケメンもそう言った。 うん、間違いない。「だから、安心
Последнее обновление: 2025-07-21
Chapter: chapter:表 ……藍円寺の日常…… 【1】マッサージ店ジプシー
 会員証を差し出し、お名前欄:藍円寺享夜(フリガナ:アイエンジキョウヤ)――と、繰り返し本日まで、俺は各地で書いてきた。 場所は、マッサージ関連のお店において。 時にはタッチパネルで入力する事もあれば、カードを出すだけだったり、口頭で聞かれたりという事もある。種類は問わない。指圧からタイ古式マッサージまで、何でも来いだ。 俺は、マッサージ店ジプシーである。 常にお気に入りの店を探している(が、これは即ち、俺にとって良い店が無いという意味だ)。 どうして俺がマッサージに今日も雨の中わざわざ通って、無駄な三十分に六千円を支払った事を後悔しながら歩いているかと問われたならば、そりゃあ、俺の体がこっているからだとしか言えない。 真面目に、辛い。 頭痛・腰痛・肩こり……そういうの全部が、本当、辛い。 物心ついた時には、既に悩まされていた。どんな子供だよ……。 俺には、子供の頃から、柔らかな肉体は無かったのだろうか……。 そのまま成長し、三十代が見え始めた二十七歳現在、一向に肩こり(他略)の改善は見られない。肩こりに良いと言われる事は、一通り試したが効果はゼロだ。マッサージで、人に直接触られていると、どことなく気休めになるので、今の所、対策としてはこれが一番マシであるとは言える。 黒い傘をさしながら歩いている俺は、水溜りを踏んだ時、嫌な感覚がして、目を細めた。傘の上を見る。勿論布があるから、その先の夜空は見えないが、あからさまに雨足が強まってきているのは分かった。音が激しくなったからだ。水溜りでも無いというのに、靴も水で濡れてしまっている。 元々、天気予報は雨だった。だから、覚悟はしていた。それでも肩の重さに耐えかねた。しかし、行ってきた今、既にもう、また別の店に行きたい。だって、痛いし重いし辛い。俺から肩こりを除去してくれる人がいると聞いたら、俺は何でもするかもしれないってくらい、きつい……。「はぁ……」 思わず溜息が出た。「――ん?」 灯りに気づいたのは、その時の事だった。 そこには――……実は、ちょっと前から存在だけチェックを入れておいたマッサージ店があった。Cafe&マッサージという看板が出ている。街から俺宅(寺をしている)までの一本路の入り口付近にあるため、最初は、「こんな店あったっけ?」と、そう言う認識をしたのだったと思う。 一
Последнее обновление: 2025-07-21
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