Chapter: 第五十九話 忘れられない言葉 アルバイト先から一度マンションへ帰り、定食屋でかいた汗をシャワーで流す。 |Estrella《エストレージャ》で働いていた頃から、この時間は嫌いじゃなかった。 昼間の自分から少しだけ離れて、いつもとは違う場所へ向かうための時間。 |理玖《りく》と一緒に暮らすようになってから、いつの間にか忘れていた感覚がぼんやりと蘇ってくる。 シャワーを終え、ドレッサーの前に座った。 髪を整えて口紅を手に取る。 そこでふと、以前なら触れるだけでも緊張していた高級な化粧品が、いつの間にか手に馴染んでいることに気付いた。 理玖に連れられて百貨店でまとめて買ったものも、今ではどれを使うか迷うこともない。 鏡を見ながら、唇に薄く色を乗せる。 化粧を終え、鏡に映る姿を眺める。 シルクのワンピースを着て、高価な化粧品で身支度を整える自分なんて、ほんの少し前までは想像もできなかった。 ふと|紗夜《さよ》の言葉が蘇る。『人は時間とともに変わっていくものでしょう?』――うちも、変わったんやろうか。 鏡の中の自分が、少しだけ知らない人に見えた。 まだ新品の硬さを残すハイヒールに足を通す。 歩くたび、カツ、カツと軽やかな音が響く。 そのまま電車で銀座へ向かった。 待ち合わせ場所として|玲奈《れいな》から送られてきたのは、|Estrella《エストレージャ》から歩いて十分ほどの場所にある小さな洋食店だった。 まだ夕食には少し早い時間だったが、店内にはちらほらと客の姿がある。「凜、こっち!」 奥の席から手を振る玲奈を見つけ、凜は小さく頭を下げた。「ごめんなさい。少し早めに来たつもりだったんですけど。待ちましたか?」「全然。私も今来たとこ」 向かいの席へ座ると、玲奈が早速メニューを差し出してくる。「ここのオムライス美味しいんだって。たまには普通の料理も食べたくて」「相変わらず、同伴ばっかりなんですね」「そう。いい加減胃もたれしちゃってさ。凜も、こうい
Last Updated: 2026-09-14
Chapter: 第五十八話 昔の恋と、今の愛 午後二時前。 定食屋のアルバイトを終え、更衣室でスマートフォンの電源を入れると、玲奈からメッセージが届いていた。『それなら、今日の夕方はどう? 銀座で美味しいお店見付けたんだよね。|Estrella《エストレージャ》に入る前だからあまりゆっくりはできないけど』 突然の申し出だったが、今朝、|理玖《りく》は誰とどこへ行くのかだけ伝えれば、わざわざ許可を取る必要はないと言っていた。『今日の夕方、玲奈と銀座で食事をしてもいいでしょうか。玲奈が|Estrella《エストレージャ》へ出勤する前なので、遅くはならないと思います』 ただ予定を伝えるだけでいい。 そう分かっているのに、指はいつもの言葉を打ち込んでいた。 送信してから、定食屋の制服を脱いで私服へ着替える。 髪を整え終えた頃、ロッカーの上に置いていたスマートフォンが震えた。『分かった。帰る時に連絡しろ』 短い返事だった。 凜は玲奈へ『大丈夫です』と返信し、スマートフォンを鞄へしまった。 バックヤードを出たところで、厨房から顔を出した店主に呼び止められる。「凜ちゃん。知り合いの人が来てるよ」「私の、知り合いですか?」 玲奈が来るには、まだ早すぎる。 首を傾げながら客席へ出た凜は、入口のテーブル席に座る人影を見付けて足を止めた。 アイボリーのワンピースを纏った女性が、窓の外を眺めている。 背後で、板前の店員が「あの人、前も一度来た人じゃない?」と囁く声が聞こえる。 堂島電気主催のパーティーで、帰ろうとしていた理玖と凜に声をかけてきた人。――白川|紗夜《さよ》さんが、どうして……? 凜の足音に気付いた紗夜が振り返り、微笑みを浮かべた。「お久しぶり。黒瀬さんの奥様」 声は柔らかいが、凜を射抜くような視線はどこまでも冷ややかだった。「以前こちらにお邪魔したときは、お話もできなかったものですから」「……あの時も、私を訪ねて来たんですか
Last Updated: 2026-09-13
Chapter: 第五十七話 八年間、忘れられずに 翌朝、目を覚ました|凜《りん》は、真っ先にスマートフォンの通知一覧を開いた。 誰からのメッセージも届いていない。 昨夜、大雅が警察に連れていかれたことが、まだ現実味を帯びてこない。 昨夜の騒ぎが記事になっていないか、ニュースサイトで検索する。 けれど、結局大雅について言及した記事は見付からなかった。 試しに、首元に右手を添える。 痛くない。 指先でそっと押すと、皮膚の奥から鈍い痛みが返ってきた。――やっぱり夢じゃない。 凜はほっと息を吐き、隣の|理玖《りく》を見た。 切れ長の目が今は閉じられ、小さく寝息を立てている。 あんなに、大雅に対して冷静に言葉を返していた人が、今は無防備な姿を晒している。 今更になって、胸の奥が熱を持った。 そっと理玖の顔に近付く。「ほんとに、ありがとう」 理玖が目を覚まさないよう、声を潜めて|囁《ささや》いた。「……ん」 返ってきたのは、寝言のような低い声だった。 いつもの時間なら、理玖ももうすぐ目を覚ます。 先に朝ごはんの準備をしようと、音を立てないようにベッドを抜け出した。 冷蔵庫から卵と豆腐を取り出す。 出汁の香りが広がる頃には、昨夜まで胸に居座っていた重苦しさも、少しだけ薄らいでいた。 だし巻き卵を皿へ移したところで、背後から足音が聞こえる。「朝から随分まともなものを作ってるな」「まともって何よ」「首は大丈夫か?」「うん。もう殆ど痛くないよ」「そうか。なら、いい」 理玖が背後で二人分のマグカップを用意してくれている。 ローテーブルに朝食を並べると、ようやくいつもの日常が戻ってきたような気がした。「大雅のことは、これで終わったんだよね」 思わず零れた言葉に、理玖が「ああ」と返す。「少なくとも、もうお前が一人で対応する必要はない」「…&hell
Last Updated: 2026-09-12
Chapter: 第五十六話 優しさの理由 二人の背後で玄関の扉が閉まり、施錠音が廊下に響く。 |凜《りん》は靴を脱ぎ、そのままキッチンへ向かおうとした。「休まなくて平気なのか」「お茶でも|淹《い》れようかと思って」「いらない。座れ」 |理玖《りく》がソファを指さす。「でも、理玖も疲れてると思って」「お前が心配することじゃない」 有無を言わせない声に、凜は言われるままソファへ腰を下ろした。 キッチンに入っていった理玖は、しばらくして二人分のマグカップと保冷剤を手にリビングへ戻ってきた。 手渡されたマグカップからは細い湯気が立ち、ほのかにレモンの香りが漂っている。「レモンバームだ。少しは落ち着くだろう」 保冷剤をタオルで包みながら理玖がソファに腰を下ろす。「ハーブティーなんて飲むんだ」 生活感のなかったキッチンからハーブティーが出てきたことに、驚きを隠せなかった。「たまにな。それよりも、これを当てとけ」 そう言ってタオルに包まれた保冷剤を差し出してきた。「病院でもただの打撲だって言ってたし、もう痛くないよ」「いいから」 理玖は凜の返事を待たず、タオルに包んだ保冷剤を首元へ当てた。「冷たっ……」「少し我慢しろ」「自分でできるってば」 茶化すように笑いながら、保冷剤を持つ理玖の手首をそっと押し返す。 理玖は尚も心配そうな目をしていたが、やがて眉間の|皺《しわ》を緩めた。「そこまで動けるなら、大丈夫そうだな」「理玖は心配しすぎだよ」「別に普通だろ」 さっきまで大雅と険しい表情で言い合っていた理玖がむっとした表情を見せ、思わず小さく吹き出してしまう。「なんだよ」「あんなに怖い顔して、大雅とやりあってたのに」「誰のためだと思ってるんだ」「うん。お金のことも、今日のことも、本当にありがとうございます」 凜は笑みを収め、理玖へ向き直って頭を下げた。
Last Updated: 2026-09-11
Chapter: 第五十五話 見せられなかったネックレス 病院を出た頃には、六本木の街はすっかり夜に染まり、通りは多くの人で賑わっていた。 仕事帰りらしい会社員たちが飲食店の呼び込みに足を止め、明るい看板の下へ吸い込まれていく。 いつの間にか、左耳の奥を塞いでいた耳鳴りも消えていた。 夜間外来の医師は気怠さを滲ませながらも、|凜《りん》の首元を丁寧に診察してくれた。 幸い大きな怪我はなく、軽い打撲で済んだ。「この程度で来て、迷惑やったやろうか……」 病院を出てから凜が呟くと、隣を歩いていた|理玖《りく》の眉間に深い|皺《しわ》が刻まれた。「暴行を受けたんだ。診てもらうのは当然だろう」「そんな大袈裟にしなくても……」「男に摑まれたんだ。たとえ家族だとしても立派な暴行だ。それに、弁護士の竹山も診断書を取るように言ってただろ」「うん……」 凜は小さく頷く。 |大雅《たいが》を警察へ連れていかせる以外に、もっと穏便な方法があったのではないか。 今更になって、そんな考えが頭の中を巡り始める。「まさか、後悔してるのか?」 半歩遅れて歩く凜に気付いた理玖が足を止めた。「後悔、というか……」「悩んでるのか」「もう少し、話し合えたんやないかなって。警察にまで突き出さんでも、うちがもっとうまく――」「凜」 低い声に遮られ、凜は上目で理玖の表情を窺う。 病院のときと同じ、険しい表情だった。「あいつは話し合いに応じなかった。金を渡さないとお前が言った途端、襟元を摑み、俺に殴りかかった」「うん」「暴力を選んだのは大雅だ。お前じゃない」 言い切られても、胸にこびりついた重さは消えなかった。「でも、いざ家族が警察に連れていかれたと思うと、やっぱり……」「気持ちは分からなくもない。だが、これまで散々悩まされてきたんだろう」「それはそうやけど&hel
Last Updated: 2026-09-09
Chapter: 第五十四話 決別の証明「|理玖《りく》!」 大雅の拳が理玖の顔へ届く直前、理玖が身体を横へずらした。 空を切った腕の手首を摑み、その勢いを外側へ逸らす。「離せや!」「これが、お前の答えか」「黙れ! 全部お前のせいや!」 大雅が腕を振りほどこうともがく。 理玖が手を離すと、その勢いで大雅は|蹌踉《よろ》めき、テーブルへ手をついた。「大丈夫ですか!」 竹山が背後の席から駆け寄ってきた。「白鳥大雅さん。これ以上の行為はやめてください」「誰や、お前!」「弁護士の竹山です。黒瀬さんから相談を受け、あなた方が店に入ってきたところから全て見ています」 竹山は大雅との距離を保ったまま、静かな声で続けた。「店員の方や、周囲のお客様も目撃しています。今の行為も含め、言い逃れはできません」 大雅が周囲を見回す。 その目は落ち着きなく左右を何度も往復していた。 家族連れの客たちは横目でこちらを窺いつつも、大雅と視線を合わさないよう顔を伏せている。 若い客の中には、スマートフォンをこちらに向けている者もいた。 先ほど大雅に怒鳴られた店員は、レジで受話器を耳に当て、誰かと話している。「こ、こんなん、ただの姉弟喧嘩やろ。なにを|大袈裟《おおげさ》に……」 大雅の声が裏返っていた。「姉弟喧嘩で、金を払わなければ入院中の父親のもとへ行くと告げ、金銭を要求するんですか?」 竹山の問いに、大雅が息を詰まらせた。「金を要求するなんて言うてへん! 見舞いに行く言うただけや!」「それが金銭の支払いを迫るための言葉だったことは、これまでの凜さんとのやり取りから見て取れます」「そんなん、そっちの勝手な思い込みやろが!」「では、警察で説明してください。既にこちらからも連絡しています」 竹山の言葉に、大雅の顔色が変わった。「警察……?」 遠くから、複数の足音が近付いてくる。
Last Updated: 2026-09-08
Chapter: 117話 千年の桜(最終話)|龍泉《りゅうせん》神社の境内は、しん、と静まり返っていた。 雪解けの水音だけが響く中、突如として上空から光の風が舞い降りた。 風圧に煽られ、積もっていた雪が桜の花びらのように舞い上がる。その中心に、二つの影が音もなく降り立った。「……あ……」 拝殿の掃除をしていた|瑞白《みしろ》が、手にした桶を取り落とした。 カラン、と乾いた音が響く。彼女は目を見開き、腰を抜かしたようにその場へ座り込む。 視線の先には、兄である瑞礼と、その腰を抱いて支える、人ならざる美貌の男――緋宮がいた。「兄、さま……?」 瑞白の声が震える。兄が無事だったことへの安堵よりも先に、その隣に立つ圧倒的な存在への畏怖が勝っていた。白衣をまとい、金紅の瞳を持つその男は、美しくも恐ろしく、人の世の者とは思えなかったのだろう。「瑞白、怖がらないで」 瑞礼が緋宮の腕から離れ、妹の元へ駆け寄った。「俺だ、瑞礼だ。……約束通り、戻ってきたよ」「兄さまっ!」 瑞白は兄の胸に飛び込み、その温かさを確かめるようにしがみついた。「よかった……本当によかった……! でも、あの方は……?」 瑞白が恐る恐る視線を向けると、緋宮はふっと表情を緩め、穏やかに言った。「……驚かせてすまぬ。俺は緋宮。お前の兄の……連れ合いだ」「つ、れあい……?」 瑞白が目を丸くする。 その時、社務所の奥から出てきた老神職が緋宮の姿を見るなり、はっと息を吞み、その場に深く平伏した。「……まさか、伝説の龍神様ご自身であらせられますか」 震える声に、緋宮は穏やかに頷いた。 その言葉に、瑞白は息を呑んだ。「りゅう、じん…&helli
Last Updated: 2026-02-28
Chapter: 116話 雪解けの春 水の音がする。 ぽちゃん、ぽちゃんと、岩肌を伝う雫の音。 それはかつて、石室の|御井《みい》を想わせる絶望の響きだった。けれど今は、母の胎内にいるような安らぎを帯びて聞こえる。 気がつくと瑞礼は寝台の上に横たわっていた。 胸の傷口に、温かい手のひらが当てられている。そこから流れ込む熱流が、砕けた骨を繋ぎ、裂けた肉を塞ぎ、失われた血を補っていく。「……眠れ、瑞礼」 耳元で、愛しい声が囁いた。「傷など、俺が塞いでやる。目が覚めた時、痛みはすべて過去の雪解け水となって消えているだろう」 その声の主を確認しようとまぶたを持ち上げようとしたが、心地よい睡魔がそれを許さない。――ああ、暖かい。 芯まで凍りついていた身体が、春の日差しに晒された氷柱のように、溶かされていく。 瑞礼は抵抗をやめ、深く、長い眠りの底へと落ちていった。それは、この世に生を受けてから初めて味わう、本当の意味での安眠だった。* * * ふと、ひんやりとした感触で目が覚めた。 額に乗せられた濡れ布巾が、熱を持った頭を心地よく冷やしてくれている。 鼻をくすぐるのは、カビや湿気の臭いではなく、干したばかりの布団のような日向の匂い。 瑞礼はゆっくりと目を開けた。 見慣れた天井。緋宮と夜を過ごした、|龍ノ淵《りゅうのふち》の寝殿だ。 だが、かつてのような陰鬱な空気はない。部屋の隅々まで清浄な気が満ち、|几帳《きちょう》の向こうからは柔らかな水晶の光が差し込んでいる。「……お目覚めですか」 鈴のような声と共に、額の布巾が交換された。瑞礼が視線を向けると、そこには一人の侍女が控えていた。 この地に花嫁として訪れた日、寝殿を案内してくれた女。 だが、その姿は以前とは違っていた。 秀衡の屋敷で見た、あの泥にまみれた|悍《おぞ》ましい|傀儡《くぐつ》の面影はない。その身体は淡い光を帯び、どこか誇らしげで、そして嬉しそうに微笑んでいる。
Last Updated: 2026-02-27
Chapter: 115話 泥土の晩餐 猛吹雪の中、|秀衡《ひでひら》は後退った。顔からは血の気が失せ、唇は恐怖で青ざめている。だが、その眼光だけはまだ死んでいなかった。 長年、権謀術数渦巻く乱世を生き抜いてきた男の執念が、恐怖をねじ伏せている気配。「侮るなよ……! 儂はこの地の主ぞ! 畜生ごときに屈してたまるか!」 秀衡は両手を地面に突き立てた。 指先からどす黒い気が大地へと注入される。「起きろ! この地の底に眠る無念どもよ! 貴様らの怨みを形にせよ!」 地面が音を立てて隆起し、汚泥が噴き出した。 それはただの土砂ではない。腐った肉と脂が混じり合い、無数の人の手、人の顔が浮かび上がった冒涜的な濁流だった。地脈を穢して行使する外法。この土地そのものを人質にとった、秀衡の切り札。 泥の波が、鎌首をもたげた大蛇のように緋宮へ襲いかかる。鼻が曲がるような死臭が、雪の冷気を汚染していく。 だが、緋宮は動かなかった。 避けることもしない。ただ、冷徹な金紅の瞳で、迫りくる泥を見下ろしている。「……汚らわしい」 緋宮が指先を軽く振るう。 |鎌鼬《かまいたち》のような風が走り、泥の大蛇を真っ二つに切り裂く――いや、違う。 泥が、空中で停止した。 襲いかかろうとした形のまま、瞬時に凍結したのだ。無数の怨念の手も、叫び声を上げる顔も、すべてが氷の彫像へと変わり果てる。「なっ……!?」「次はお前の首だ」 緋宮の瞳孔が縦に裂け、人の形を保ったまま、その影が巨大な龍の形へと歪む。 圧倒的な捕食者の気配。 緋宮の手のひらに、蒼白い冷気の槍が形成される。それを放てば、秀衡の体は魂ごと氷砕され、永遠に輪廻の輪から外されるだろう。「ひっ、ま、待て……!」 秀衡は腰を抜かし、這いずって逃げようとした。 その背が、屋敷の板塀にぶつかる。「やめろ……! 儂はこの奥州を治めて
Last Updated: 2026-02-26
Chapter: 114話 龍の逆鱗「瑞礼……っ!」 緋宮の腕が、崩れ落ちる瑞礼の身体を抱き止めた。 その感触は夢ではない。確かな質量と、凍えるような冷気の中に混じる、焦げるような体温がそこにあった。「……ひぐう、さま……」 瑞礼は名を呼ぼうとしたが、喉の奥からごぼりと熱いものが溢れ、言葉を塞いだ。 視界が赤い霧に覆われていく。 自ら引き抜いた刃の傷口から、命がどくどくと流れ出しているのがわかる。左肩の刻印が放つ熱だけで、かろうじて魂を肉体に繋ぎ止めている状態だ。 指先ひとつ動かせない。 瑞礼は緋宮の胸に力なく頭を預けた。 耳元で、緋宮の心臓が早鐘を打っているのが聞こえる。それは恐怖の動悸ではない。千年の封印を内側から食い破り、噴出点を探して暴れ狂う、破壊神の脈動だった。「……しっかりしろ、瑞礼! お前はいつもっ……」 緋宮の声が震えている。 彼は瑞礼の胸の空洞を認めると、一瞬息を呑み、次いでその顔が能面のように凍りついた。 哀しみではない。それは、世界そのものを呪うような、絶対零度の憤怒。 緋宮がゆっくりと顔を上げる。 その金紅の瞳の先には、腰を抜かして後退る兵たちと、青ざめた顔で立ち尽くす|秀衡《ひでひら》の姿があった。「お、お前ら! あの二人を取り押さえよ! 龍神は手負いだ!」 秀衡が焦りを滲ませた声で叫ぶ。 だが、兵たちは誰一人として動けなかった。彼らの生存本能が警鐘を鳴らしているのだ。目の前にいるのは、手負いの獣などではない。決して触れてはならぬ天災そのものであると。「……貴様ら、もう許さん」 緋宮の声は低く、地獄の底から響く地鳴りのようだった。 ふっ、と周囲の音が消えた。風の音も、兵士の呼吸音も、すべてが凍りついたかのような完全なる静寂。 屋敷の庭の温度が一気に下がる。吐く息が白く凍り、瑞礼の流した血だまりが瞬時に赤黒い
Last Updated: 2026-02-25
Chapter: 113話 雪上の覚醒 - 第三世 ――しゃらん。 胸元の小鈴が、外界の音ではなく、魂の深淵で鳴り響いた。 その清冽な音色は波紋となり、死へと沈みかけていた意識を強引に引き上げる。 刹那、雷に打たれたような衝撃が、止まったはずの心臓を内側から殴りつけた。 鼻孔を満たしていた泥と鉄の腐臭が吹き飛び、肺腑に流れ込んできたのは、針のように冷たく澄んだ雪の匂い。 戦場の熱狂も、叫びも、燃える森の記憶も、遠い夢のように霧散した。 代わりに戻ってきたのは、胸を焼く灼熱の激痛と、血管を駆け巡る奔流のような生命の熱さだ。 瑞礼は、ゆっくりと目を開いた。 視界にあるのは、どこまでも白い雪空。 そして、数歩先で鎖に繋がれたまま呆然と立ち尽くし、頬を濡らしている緋宮の顔。 己の胸には、未だ白刃が深々と突き刺さっている。 心臓を貫いた刃は、確実に生命の糸を断ち切ったはずだった。肉体という器は壊れ、本来ならば、今は冷たい骸となっているはずだった。 ――だが。 瑞礼の意識は、かつてないほどに研ぎ澄まされ、冴え渡っていた。 どくん、どくんっ。 心臓が、破壊された肉の檻を叩き直すかのように、力強く脈打ち始める。 かつての蝦夷の里。泥にまみれた戦い。 不器用な龍神との口づけ。そして、冷たい淵の底で交わした、魂を焦がすような最期の約束。『龍ノ淵で……待っていて』 瑞礼の瞳に、誓いの光が戻った。 それは死に行く者の虚ろな光ではない。悠久の時を彷徨い、泥と血の底から這い上がり、ついに己が半身を見出した、揺るぎない覚悟の|赫灼《かくしゃく》たる輝きだった。「……ぐ、ぅ……」 瑞礼の口から、血の泡と共に呻きが漏れた。――死んでなるものか。 こんなにも長い間、緋宮を待たせたのだ。あんなにも暗く冷たい水底で、狂うほどの孤独に耐えさせたのだ。 ここで死んでしまえば、あの約定はどうなる。緋宮の千年の献身が、すべて無駄になってしまう。「……ほう」
Last Updated: 2026-02-24
Chapter: 112話 千年の契約 - 第二世 完 世界が、凍りついていく。 緋宮の口から吐き出される冷気そのものが、|龍ノ淵《りゅうのふち》の闇を切り裂いた。 それは慈悲なき断罪を思わせる白い光を放っていた。彼を中心に発生した冷気が物理法則を無視して爆発的に膨張し、崖上の朝廷軍までをも飲み込む。「ひっ、あ、あ……っ!?」「に、逃げろ! 退却だっ!」 逃げようと背を向けた兵士たちが、次々と氷像に変わる。悲鳴さえも凍結し、砕け散る。 崖の上で呪文を唱えていた陰陽師たちも、自らが展開した結界ごと凍りつき、玻璃細工のように崩れ落ちていった。 ――圧倒的な蹂躙。戦いですらない。神が、不敬な人間という種を間引きしているだけの、一方的な災害だった。「|虫螻《むしけら》どもが……滅びよ」 緋宮が冷徹に告げる。 その身体はすでに半ば龍へと変じていた。赤金の鱗が陽光を弾き、金紅の瞳がこの世のすべてを見下ろしている。 彼の腕の中には、事切れた瑞礼が抱かれている。その亡骸だけが、この凍てつく地獄で唯一、優しく守られていた。「我が半身を奪った報いだ。……この国ごと、氷の底に沈めてやる」 緋宮が片手を掲げる。 大気が悲鳴を上げた。上空に渦巻く猛吹雪が凝縮され、巨大な氷の塊――都市ひとつを粉砕できるほどの質量を持った隕石となって顕現する。 これを落とせば、胆沢の地は消滅する。いや、その余波は日ノ本全土を冬の時代へと閉ざすだろう。「待ってくれ……! 鎮まりたまえ、龍神よ!」 氷の嵐の中、ただ一人立っている男がいた。 |坂上田村麻呂《さかのうえのたむらまろ》だ。 彼は全身に氷柱をぶら下げ、弓を杖にして辛うじて立っていた。その顔には、初めて恐怖と後悔の色が浮かんでいた。「これ以上の殺戮は……瑞礼殿とて望んではおらぬはずだ!」 田村麻呂の必死の叫びが、暴風にかき消されかけながらも、緋宮の耳に届く。 緋宮は侮蔑
Last Updated: 2026-02-23