Chapter: 第二十一話 理玖side 毒を食らう夜 |理玖《りく》のスポーツEVが地下駐車場を出たとき、陽はまだ傾き始めたばかりだった。 マンションの曲がり角を曲がったところで目の前の信号が赤に変わる。 ブレーキを力任せに踏み込んだ。車が甲高い音を上げて止まる。 理玖はカーナビを操作しようとして、伸ばしかけた腕を引っ込める。 行く|宛《あて》などなかった。――会社に顔を出したところで、仕事なんかできるか。 信号待ちがやけに長く感じられる。ハンドルを指先で叩く。 理玖は舌を打った。視線は道路を見ているはずなのに、|網膜《もうまく》に張り付いた|凜《りん》の表情が離れない。 自分を見る潤んだ瞳と、震える肩。「なんで、お前が泣くんだよ……」 理玖はハンドルを拳で強く殴り付け、唇を噛み締めた。胸の奥が、痛いほどに|軋《きし》む。 信号が青に変わった瞬間、アクセルを踏み込んだ。モーターが低い唸りを響かせ、車が滑るように加速する。 気付けば、車は首都高に乗っていた。 行き先を決めたわけではない。ただ、マンションから遠ざかりたかった。 東京タワーを横目に、レインボーブリッジを渡る。 夕方の湾岸線は鈍く光り、薄く開けた窓から潮風が流れ込んできた。 お台場海浜公園の駐車場で車を停める。 理玖はすぐに車を降りず、車内で音楽をかけた。高校時代から好きなバンドグループ。 懐かしい曲が車内を満たす。 シートを倒して目を閉じる。車内に入り込んだ潮風が、鼻先を|擽《くすぐ》った。 次に|瞼《まぶた》を開いたとき、フロントガラスの向こうの空はオレンジ色に染まっていた。 カーナビに表示された時計へ目を落とすと、間もなく午後五時半を回ろうとしている。 ほんのわずかに仮眠を取るつもりだったが、思っていたよりも寝ていたらしい。 喉の渇きを覚え、車を降りて自動販売機で缶コーヒーを買った。 太陽はまさに沈む直前だった。東京湾が夕陽を反射し、|煌《きら》めいている。――今度は、二人で来るのもいいな。
最後更新: 2026-07-29
Chapter: 第二十話 逃げ場のない部屋 町屋駅から六本木へ向かう電車の中、|凜《りん》は生きた心地がしなかった。 スマートフォンの暗い画面に表示されていた、|理玖《りく》からの『逃げるのか?』というメッセージが、網膜にこびりついて離れない。 電車を待つ間も何度も電話をかけたが、無機質な呼び出し音が響くだけだった。メッセージを送っても返信はない。 理玖を怒らせてしまったのではないかと|焦燥《しょうそう》が這い上がり、指先が氷のように冷たくなっていく。 乗り換えの駅の雑踏を、慣れないパンプスで必死に走った。|踵《かかと》には|靴擦《くつず》れができ、ずきずきと痛んだ。 ようやく辿り着いた、六本木のタワーマンションの最上階。 エレベーターを降りた凜は、毛足の長い内廊下のカーペットを蹴るようにして走り、理玖の部屋のドアの前に辿り着いた。 息が上がり、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく打ち付けている。額に滲んだ汗が冷たく頬を伝った。 震える指で|鞄《かばん》から鍵を取り出し、センサーにかざす。乾いた電子音が、内廊下のカーペットに吸い込まれていく。 重いドアを肩で押し開けた。 荒い呼吸音が、白黒の大理石で統一された玄関に|木霊《こだま》する。 急いで靴を脱ぎ捨ててリビングへと向かうと、部屋の中は異様なほど暗かった。 巨大なガラス窓の向こうに広がる青空が、ひどく無機質に切り取られて浮いている。 照明の点いていない広大な空間に、氷のように張り詰めた空気が漂っていた。「――何をしていた」 薄闇の中から、地を這うような低い声が落ちた。 凜の肩がびくりと跳ねる。 窓から射し込む陽の光を背に受けて、黒い本革のソファに深く沈み込んでいる影があった。|理玖《りく》だ。「だって、アルバイトは続けてもいいって……」 言い訳は、理玖の舌打ちに|掻《か》き消された。 凜は反射的に身を|竦《すく》めた。 理玖がゆっくりと立ち上がる。凜の足元に彼の影が伸びてきた。 逆光で表情は読めないが、その全身から放たれる
最後更新: 2026-07-27
Chapter: 第十九話 温かいトンカツ 通勤ラッシュの時間帯は過ぎたとはいえ、地下鉄の車内はまだ会社員たちの熱気に満ちていた。 この時間帯の電車に乗るのは、久しぶりだった。 他人の吐息が髪にかかる。 何より、見知らぬ他人の|鞄《かばん》や肩がぶつかるたび、昨日理玖に買われたばかりの高級シルクのワンピースが傷つかないかと、気が気ではなかった。 汚してしまえば、またどんな冷たい言葉を投げつけられるか分からない。 |凜《りん》は革の|鞄《かばん》を抱き締めるようにして縮こまる。 慣れないパンプスの爪先が痛む。 汗ばんだ額を撫でる荒川区の風は、どこか懐かしい気がした。 一度、元の自宅へ戻ろうかとも思ったが、そのまま駅前の定食屋へ向かうことにした。 アルバイトまではまだ時間があったが、昼食の仕込みをしているはずだ。 |暖簾《のれん》のかかっていない引き戸を開く。 カウンター席の裏で小気味よい包丁の音を鳴らしていた店長がこちらを見た。「おう、凜ちゃん。どうした、やけに早いじゃねえか」「ちょっと|理由《わけ》があって……。あの、昨日は急にお休みをいただいて、すみませんでした」 凜が頭を下げると、店長の視線が凜の服に止まり、にやりと口角を上げた。「いいってことよ。昨日、低い声の男から電話がかかってきた時は|驚《おどろ》いたけどな。『白鳥凜は休ませる』なんて、えらく|威圧感《いあつかん》のある彼氏さんじゃないか」「えっ、違っ……あの、あれはそういうのじゃなくて」「隠さなくていいって! |随分《ずいぶん》とめかし込んじゃって。彼氏さんに、大事にされてんだな」 店長は|恰幅《かっぷく》の良い肩を揺らして、|豪快《ごうかい》に笑う。「違うんです、本当に……」「いいじゃねえか。いつも同じパーカー着てがむしゃらに働いてたんだから、たまには彼氏に甘えて、お|洒落《しゃれ》もしねえとな!」 悪気のない、心からの言葉だった。 しかし、それがかえって凜の胸
最後更新: 2026-07-26
Chapter: 第十八話 遠い体温 |凜《りん》は昼間購入したブランド物の整理を終え、再びリビングのソファに座り込んでいた。 また一つの番組が終わって、気付けば時刻は二十三時を回っている。 |理玖《りく》からの連絡はない。広い部屋には、自分以外の気配は完全に消え失せていた。――お風呂入ろう……。 ローテーブルにリモコンを置き、重い腰を上げて洗面所に向かう。 脱ぎ捨てたアイスブルーのシルクのワンピースには、深い|皺《しわ》が走っていた。 指先でそっとなぞると、|滑《なめ》らかな生地に荒れた肌が引っかかる。 広大で無機質なバスルームで熱いシャワーを浴びても、身体の芯に巣食った冷えは取れなかった。 洗面所に戻り、|籠《かご》の中に入れたままだった薄いピンク色のサテンパジャマに袖を通す。 胸元のネックレスが小さく鳴った。 濡れた髪を乾かし、再び薄暗いリビングへと戻る。 ふと、キッチンの扉横に置かれた、ビニール袋と、その横に置かれた紙袋が目に入った。食器用洗剤とコーヒー豆だ。「そうだ……洗い物、しないと」 誰にともなく呟いて、ローテーブルに置かれたままのマグカップを持って、シンクへと向かう。「あ、スポンジ……」 仕方なく、指先に洗剤を垂らして|擦《こす》る。けれど、マグカップの底に蓄積していたコーヒー渋は取れなかった。 諦めて、軽く水を切って食洗機で乾かす。 数分もかからずに洗い終わってしまった。 紙袋からコーヒー豆を取り出す。 最高級のコーヒー豆だと百貨店の外商が言っていたもの。 それはスーパーでよく見かける袋ではなく、あの夜のシャンパンを思わせるような、深く黒いガラスボトルに密閉されていた。 冷たいガラスの感触に、喉の奥に黄金色の苦みが蘇って、指先がかすかに震える。――折角やし、淹れてみようか。 そう思い、ボトルのコルクに手をかけて、ふと動きを止めた。『毎朝二人で温かいコーヒー淹れて、くだらない話し
最後更新: 2026-07-25
Chapter: 第十七話 色褪せた夜「今日はもう疲れただろ。休んでろ」 |理玖《りく》のマンションに帰ってきて早々、彼はそれだけを告げて書斎に入っていく。「……はい」 |凜《りん》はブランド品の山をウォーキングクローゼットの前に運びながら、力なく返した。 運び終えるや|否《いな》や、ワンピース姿のままベッドに倒れ込む。 何も考えたくなかった。 書斎からは、理玖の話し声がかすかに聞こえる。電話でもしているのだろうか。 やがて、廊下を歩く足音が遠ざかり、玄関ドアの開く音がして、閉じた。 部屋に静寂だけが漂う。 凜は|瞼《まぶた》を閉じた。 たった一日のはずが、もう何日も経ってしまった気がする。 暗闇の中で、ふと、生温かい風の匂いがした。* * *「ねぇ、理玖くん。将来、もし一緒に住むことができたらさ……」 いつかの放課後。夕焼けに染まる屋上で、隣に座る理玖の顔を見上げながら口にした夢。「安物でもいいから、お揃いのマグカップ買ってさ。毎朝二人で温かいコーヒー淹れて、くだらない話して笑いたいな」「なんだよそれ。今はまだ無理やけど、絶対、世界で一番いいマグカップ買ったる。だから、もうちょっとだけ待っててくれ」「ううん、なんでもええの。理玖くんと一緒なら、なんでも」 理玖が少し赤くなった顔で、照れくさそうに笑う。「俺さ、高校卒業したら……働こうと思うんだ」 理玖が一瞬言葉を詰まらせたが、凜はただ静かに聞いていた。 グラウンドから響く運動部の掛け声が、どこか遠く聞こえる。「あーもう、こんなとこおった。三人で一緒に帰ろって言ってたのにー」 背後から、|菜央《なお》の声がした。振り返ると、菜央が|大袈裟《おおげさ》に頬を膨らませていた。「なんの話してたの?」「将来、どうしようかって」 凜がおどけて答えると、理玖は頭を|掻《か》きながら、そっぽを向いた。「そう言えば、二人とも進路
最後更新: 2026-07-22
Chapter: 第十六話 交わらない体温 傾きかけた午後の陽光が、流れる車窓を白く飛ばしていく。 後部座席に山のように積まれたブランド品の紙袋が、車の揺れに合わせてかすかに擦れる音を立てていた。 助手席に座っていた|凜《りん》は、長時間の試着と極度の緊張によって、精神的にも肉体的にも疲労の限界を迎えていた。 アイスブルーのシルクのワンピースは肌触りがいいはずなのに、今は見えない鎖のように身体を重く締め付けている。 新品のパンプスの中で、熱を持って|浮腫《むく》んだ足を揉みほぐす。――早く、帰りたい。 無機質で冷たい、あのタワーマンション。それでも、今はあのキングサイズのベッドに身を投げ出したかった。 シートに深く身体を沈め、半ば放心しながら窓の外の景色を眺める。 しかし、流れていく街並みに、凜はふと違和感を覚えた。 六本木へ向かうはずの車は、まったく違う方角を走っている。「あの……」 思わず声が漏れた。「なんだ」 前を向いたまま、|理玖《りく》が短く応じる。「道、違いますよね。マンションは……」「まだやらないといけない事があるだろうが」 理玖の冷ややかな声が、車内の静寂を切り裂いた。「……え?」 凜の鼓動が、嫌な音を立てて早まった。「これから、『明京大学医学部附属病院』に向かう」 その言葉に、凜は弾かれたように顔を上げた。「病院って……まさか、お父さんに会うんですか……?」「当然だろ。これから毎月|莫大《ばくだい》な治療費を出してやるスポンサーとして、一言挨拶しておく義務があるからな」 淡々と告げられた理由に、凜の血の気がすっと引いていく。「でも、父は寝たきりで、それに……」「なんだ。親に俺を紹介するのは不満か?」 理玖がハンドルを握ったまま、ちらりと凜を|睨《にら》んだ。その|漆黒《しっこく》の瞳に
最後更新: 2026-07-20
Chapter: 117話 千年の桜(最終話)|龍泉《りゅうせん》神社の境内は、しん、と静まり返っていた。 雪解けの水音だけが響く中、突如として上空から光の風が舞い降りた。 風圧に煽られ、積もっていた雪が桜の花びらのように舞い上がる。その中心に、二つの影が音もなく降り立った。「……あ……」 拝殿の掃除をしていた|瑞白《みしろ》が、手にした桶を取り落とした。 カラン、と乾いた音が響く。彼女は目を見開き、腰を抜かしたようにその場へ座り込む。 視線の先には、兄である瑞礼と、その腰を抱いて支える、人ならざる美貌の男――緋宮がいた。「兄、さま……?」 瑞白の声が震える。兄が無事だったことへの安堵よりも先に、その隣に立つ圧倒的な存在への畏怖が勝っていた。白衣をまとい、金紅の瞳を持つその男は、美しくも恐ろしく、人の世の者とは思えなかったのだろう。「瑞白、怖がらないで」 瑞礼が緋宮の腕から離れ、妹の元へ駆け寄った。「俺だ、瑞礼だ。……約束通り、戻ってきたよ」「兄さまっ!」 瑞白は兄の胸に飛び込み、その温かさを確かめるようにしがみついた。「よかった……本当によかった……! でも、あの方は……?」 瑞白が恐る恐る視線を向けると、緋宮はふっと表情を緩め、穏やかに言った。「……驚かせてすまぬ。俺は緋宮。お前の兄の……連れ合いだ」「つ、れあい……?」 瑞白が目を丸くする。 その時、社務所の奥から出てきた老神職が緋宮の姿を見るなり、はっと息を吞み、その場に深く平伏した。「……まさか、伝説の龍神様ご自身であらせられますか」 震える声に、緋宮は穏やかに頷いた。 その言葉に、瑞白は息を呑んだ。「りゅう、じん…&helli
最後更新: 2026-02-28
Chapter: 116話 雪解けの春 水の音がする。 ぽちゃん、ぽちゃんと、岩肌を伝う雫の音。 それはかつて、石室の|御井《みい》を想わせる絶望の響きだった。けれど今は、母の胎内にいるような安らぎを帯びて聞こえる。 気がつくと瑞礼は寝台の上に横たわっていた。 胸の傷口に、温かい手のひらが当てられている。そこから流れ込む熱流が、砕けた骨を繋ぎ、裂けた肉を塞ぎ、失われた血を補っていく。「……眠れ、瑞礼」 耳元で、愛しい声が囁いた。「傷など、俺が塞いでやる。目が覚めた時、痛みはすべて過去の雪解け水となって消えているだろう」 その声の主を確認しようとまぶたを持ち上げようとしたが、心地よい睡魔がそれを許さない。――ああ、暖かい。 芯まで凍りついていた身体が、春の日差しに晒された氷柱のように、溶かされていく。 瑞礼は抵抗をやめ、深く、長い眠りの底へと落ちていった。それは、この世に生を受けてから初めて味わう、本当の意味での安眠だった。* * * ふと、ひんやりとした感触で目が覚めた。 額に乗せられた濡れ布巾が、熱を持った頭を心地よく冷やしてくれている。 鼻をくすぐるのは、カビや湿気の臭いではなく、干したばかりの布団のような日向の匂い。 瑞礼はゆっくりと目を開けた。 見慣れた天井。緋宮と夜を過ごした、|龍ノ淵《りゅうのふち》の寝殿だ。 だが、かつてのような陰鬱な空気はない。部屋の隅々まで清浄な気が満ち、|几帳《きちょう》の向こうからは柔らかな水晶の光が差し込んでいる。「……お目覚めですか」 鈴のような声と共に、額の布巾が交換された。瑞礼が視線を向けると、そこには一人の侍女が控えていた。 この地に花嫁として訪れた日、寝殿を案内してくれた女。 だが、その姿は以前とは違っていた。 秀衡の屋敷で見た、あの泥にまみれた|悍《おぞ》ましい|傀儡《くぐつ》の面影はない。その身体は淡い光を帯び、どこか誇らしげで、そして嬉しそうに微笑んでいる。
最後更新: 2026-02-27
Chapter: 115話 泥土の晩餐 猛吹雪の中、|秀衡《ひでひら》は後退った。顔からは血の気が失せ、唇は恐怖で青ざめている。だが、その眼光だけはまだ死んでいなかった。 長年、権謀術数渦巻く乱世を生き抜いてきた男の執念が、恐怖をねじ伏せている気配。「侮るなよ……! 儂はこの地の主ぞ! 畜生ごときに屈してたまるか!」 秀衡は両手を地面に突き立てた。 指先からどす黒い気が大地へと注入される。「起きろ! この地の底に眠る無念どもよ! 貴様らの怨みを形にせよ!」 地面が音を立てて隆起し、汚泥が噴き出した。 それはただの土砂ではない。腐った肉と脂が混じり合い、無数の人の手、人の顔が浮かび上がった冒涜的な濁流だった。地脈を穢して行使する外法。この土地そのものを人質にとった、秀衡の切り札。 泥の波が、鎌首をもたげた大蛇のように緋宮へ襲いかかる。鼻が曲がるような死臭が、雪の冷気を汚染していく。 だが、緋宮は動かなかった。 避けることもしない。ただ、冷徹な金紅の瞳で、迫りくる泥を見下ろしている。「……汚らわしい」 緋宮が指先を軽く振るう。 |鎌鼬《かまいたち》のような風が走り、泥の大蛇を真っ二つに切り裂く――いや、違う。 泥が、空中で停止した。 襲いかかろうとした形のまま、瞬時に凍結したのだ。無数の怨念の手も、叫び声を上げる顔も、すべてが氷の彫像へと変わり果てる。「なっ……!?」「次はお前の首だ」 緋宮の瞳孔が縦に裂け、人の形を保ったまま、その影が巨大な龍の形へと歪む。 圧倒的な捕食者の気配。 緋宮の手のひらに、蒼白い冷気の槍が形成される。それを放てば、秀衡の体は魂ごと氷砕され、永遠に輪廻の輪から外されるだろう。「ひっ、ま、待て……!」 秀衡は腰を抜かし、這いずって逃げようとした。 その背が、屋敷の板塀にぶつかる。「やめろ……! 儂はこの奥州を治めて
最後更新: 2026-02-26
Chapter: 114話 龍の逆鱗「瑞礼……っ!」 緋宮の腕が、崩れ落ちる瑞礼の身体を抱き止めた。 その感触は夢ではない。確かな質量と、凍えるような冷気の中に混じる、焦げるような体温がそこにあった。「……ひぐう、さま……」 瑞礼は名を呼ぼうとしたが、喉の奥からごぼりと熱いものが溢れ、言葉を塞いだ。 視界が赤い霧に覆われていく。 自ら引き抜いた刃の傷口から、命がどくどくと流れ出しているのがわかる。左肩の刻印が放つ熱だけで、かろうじて魂を肉体に繋ぎ止めている状態だ。 指先ひとつ動かせない。 瑞礼は緋宮の胸に力なく頭を預けた。 耳元で、緋宮の心臓が早鐘を打っているのが聞こえる。それは恐怖の動悸ではない。千年の封印を内側から食い破り、噴出点を探して暴れ狂う、破壊神の脈動だった。「……しっかりしろ、瑞礼! お前はいつもっ……」 緋宮の声が震えている。 彼は瑞礼の胸の空洞を認めると、一瞬息を呑み、次いでその顔が能面のように凍りついた。 哀しみではない。それは、世界そのものを呪うような、絶対零度の憤怒。 緋宮がゆっくりと顔を上げる。 その金紅の瞳の先には、腰を抜かして後退る兵たちと、青ざめた顔で立ち尽くす|秀衡《ひでひら》の姿があった。「お、お前ら! あの二人を取り押さえよ! 龍神は手負いだ!」 秀衡が焦りを滲ませた声で叫ぶ。 だが、兵たちは誰一人として動けなかった。彼らの生存本能が警鐘を鳴らしているのだ。目の前にいるのは、手負いの獣などではない。決して触れてはならぬ天災そのものであると。「……貴様ら、もう許さん」 緋宮の声は低く、地獄の底から響く地鳴りのようだった。 ふっ、と周囲の音が消えた。風の音も、兵士の呼吸音も、すべてが凍りついたかのような完全なる静寂。 屋敷の庭の温度が一気に下がる。吐く息が白く凍り、瑞礼の流した血だまりが瞬時に赤黒い
最後更新: 2026-02-25
Chapter: 113話 雪上の覚醒 - 第三世 ――しゃらん。 胸元の小鈴が、外界の音ではなく、魂の深淵で鳴り響いた。 その清冽な音色は波紋となり、死へと沈みかけていた意識を強引に引き上げる。 刹那、雷に打たれたような衝撃が、止まったはずの心臓を内側から殴りつけた。 鼻孔を満たしていた泥と鉄の腐臭が吹き飛び、肺腑に流れ込んできたのは、針のように冷たく澄んだ雪の匂い。 戦場の熱狂も、叫びも、燃える森の記憶も、遠い夢のように霧散した。 代わりに戻ってきたのは、胸を焼く灼熱の激痛と、血管を駆け巡る奔流のような生命の熱さだ。 瑞礼は、ゆっくりと目を開いた。 視界にあるのは、どこまでも白い雪空。 そして、数歩先で鎖に繋がれたまま呆然と立ち尽くし、頬を濡らしている緋宮の顔。 己の胸には、未だ白刃が深々と突き刺さっている。 心臓を貫いた刃は、確実に生命の糸を断ち切ったはずだった。肉体という器は壊れ、本来ならば、今は冷たい骸となっているはずだった。 ――だが。 瑞礼の意識は、かつてないほどに研ぎ澄まされ、冴え渡っていた。 どくん、どくんっ。 心臓が、破壊された肉の檻を叩き直すかのように、力強く脈打ち始める。 かつての蝦夷の里。泥にまみれた戦い。 不器用な龍神との口づけ。そして、冷たい淵の底で交わした、魂を焦がすような最期の約束。『龍ノ淵で……待っていて』 瑞礼の瞳に、誓いの光が戻った。 それは死に行く者の虚ろな光ではない。悠久の時を彷徨い、泥と血の底から這い上がり、ついに己が半身を見出した、揺るぎない覚悟の|赫灼《かくしゃく》たる輝きだった。「……ぐ、ぅ……」 瑞礼の口から、血の泡と共に呻きが漏れた。――死んでなるものか。 こんなにも長い間、緋宮を待たせたのだ。あんなにも暗く冷たい水底で、狂うほどの孤独に耐えさせたのだ。 ここで死んでしまえば、あの約定はどうなる。緋宮の千年の献身が、すべて無駄になってしまう。「……ほう」
最後更新: 2026-02-24
Chapter: 112話 千年の契約 - 第二世 完 世界が、凍りついていく。 緋宮の口から吐き出される冷気そのものが、|龍ノ淵《りゅうのふち》の闇を切り裂いた。 それは慈悲なき断罪を思わせる白い光を放っていた。彼を中心に発生した冷気が物理法則を無視して爆発的に膨張し、崖上の朝廷軍までをも飲み込む。「ひっ、あ、あ……っ!?」「に、逃げろ! 退却だっ!」 逃げようと背を向けた兵士たちが、次々と氷像に変わる。悲鳴さえも凍結し、砕け散る。 崖の上で呪文を唱えていた陰陽師たちも、自らが展開した結界ごと凍りつき、玻璃細工のように崩れ落ちていった。 ――圧倒的な蹂躙。戦いですらない。神が、不敬な人間という種を間引きしているだけの、一方的な災害だった。「|虫螻《むしけら》どもが……滅びよ」 緋宮が冷徹に告げる。 その身体はすでに半ば龍へと変じていた。赤金の鱗が陽光を弾き、金紅の瞳がこの世のすべてを見下ろしている。 彼の腕の中には、事切れた瑞礼が抱かれている。その亡骸だけが、この凍てつく地獄で唯一、優しく守られていた。「我が半身を奪った報いだ。……この国ごと、氷の底に沈めてやる」 緋宮が片手を掲げる。 大気が悲鳴を上げた。上空に渦巻く猛吹雪が凝縮され、巨大な氷の塊――都市ひとつを粉砕できるほどの質量を持った隕石となって顕現する。 これを落とせば、胆沢の地は消滅する。いや、その余波は日ノ本全土を冬の時代へと閉ざすだろう。「待ってくれ……! 鎮まりたまえ、龍神よ!」 氷の嵐の中、ただ一人立っている男がいた。 |坂上田村麻呂《さかのうえのたむらまろ》だ。 彼は全身に氷柱をぶら下げ、弓を杖にして辛うじて立っていた。その顔には、初めて恐怖と後悔の色が浮かんでいた。「これ以上の殺戮は……瑞礼殿とて望んではおらぬはずだ!」 田村麻呂の必死の叫びが、暴風にかき消されかけながらも、緋宮の耳に届く。 緋宮は侮蔑
最後更新: 2026-02-23