龍君の花嫁代わり

龍君の花嫁代わり

last updateLast Updated : 2026-01-28
By:  白蛇Updated just now
Language: Japanese
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――千年の孤独が再び巡り逢いを呼ぶ。 北辺の霊峰・御影山の麓、禁域「龍ノ淵」には龍神が封じられている。 花嫁を捧げねば龍は怒り、この地は雪と災厄に沈む――。 蝦夷の血を引く青年・瑞礼は妹の代わりに贄となることを選んだ。 龍ノ淵へ身を投げた瞬間、彼を包んだのは氷より深く、焔より切ない光。 ――彼を待っていたのは、かつて己が愛した龍神・緋宮。 封印された龍と人として転生を重ねた青年。 愛と咎、祈りと断罪をめぐる三度の輪廻が時を越えて再び結ばれようとしていた。 飛鳥、平安、そして鎌倉。 幾千の雪を越え、瑞礼は祈る―― もう一度、あなたに巡り会えますように。 雪と炎の果てに交わる魂の物語。 ――宿命に抗う、龍と人の永遠の恋。

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Chapter 1

1話 贄の花嫁

 沈む陽は血のように滲み、雲の裾を妖しく焼いていた。

 冬の空は燃え残る光を孕み、白雪の原をゆるやかに紅へと融かしてゆく。

 都の御代もかげりゆく頃、関を越えた北の果て、御影山みかげやまの頂にして、龍ノ淵りゅうのふちを望む断崖に――。

 斎宮いつきみや瑞礼みれは深藍の衣を纏い、ひとり、沈黙の中に佇んでいた。

 婚礼衣装は異様なほど重く、刺繍ししゅうの朱糸は氷を孕んだように冷たい。細い肩にのしかかるその質量はまるで己ではない、誰かの命を背負わされているかのようだった。

 指先は凍えて震え、血潮は膚の奥で静かに凍りつく。肉体そのものが不可逆の儀式へと供されてゆくのを、瑞礼は黙然もくぜんと受け入れた。

 冠の帳の向こう、世界は蒼く滲み、音だけが異様に澄み切って耳を打つ。

 遠く、古びた社の鐘が三たび鳴った。低く重く、その余韻は肺の底に沈み、魂を縫い留めた。

 背後に蠢く人々の影は誰もが視線を逸らし、祈る仕草の裏に青年の死を容認する冷酷な沈黙を隠していた。

 祭壇の足元には漆黒の淵が沈黙の口を開けていた。崖下では氷に封じられた湖が光を喰らうように広がっている。月も星も届かぬその水面は白く凍った膜の下でかすかに曇り、何かが呼吸するかのように蠢いている。それは――封ぜられし龍神の眠りの息であった。

 風が強まり、瑞礼の裾を宙に攫う。祭壇の石床には古代の文様が刻まれ、朱の液が血のごとく染み込んでいた。

 ――ざわ、と袖の奥で声が擦れた。

「今年は……官の兵がついてるぞ」

「女なら、いつものように……」

「……あれ、顔立ちは――男に見えはせぬか」

「しっ――口を慎め。御役目の前だ」

 しかしその囁きさえ、雪に吸われて消える。

 長老が杖を雪に突き立てた。囁きは吸い込まれ、白い息だけが宙に残る。甲冑の列がかすかに身じろぎし、瑞礼は裳《も》の端を指でたぐる。

「龍神の怒りを鎮めるため――俘囚ふしゅうの贄を捧げよ!」

 長老の声が天を裂く。祝詞であり呪詛じゅそであり、祝福であり断罪。その一声が瑞礼の命を此岸から彼岸へ送り出す刃となった。

――妹の代わりに、この地へ来た。

――たったひとりの家族を守るために。

 彼は視線を足元に落とす。布靴。かつて妹である瑞白みしろのために縫ったもの。針の先に込めた祈りも、指先を包むぬくもりも、本来は彼女の未来を祝福するためのものであったはずなのに――。

 今、その靴に足を通しているのは、自分自身。

 雪の中、ひざまずく少女の声が風に融け、かすかな嗚咽となって胸を裂いた。

「瑞白……どうか、幸せに……」

 その声は喉の奥に氷が詰まったようで、掠れて響いた。それでも、呼ばずにはいられなかった――たったひとり残された妹の名を。

 呼ぶ声のたびに胸の内側が静かに凍り割れていった。

 あの子は泣いていた。

「代わりなんて嫌……兄さま、行かないで」と。

 だが彼には選べなかった。あの小さな命を世界の歯車に呑ませることなど――できはしなかった。

 冠を深く引き下ろす。それは瑞白の命を継ぐ証のように重く、額を覆った。布の擦れる微音すら雪の静寂よりも重く胸に響く。

「目を閉じて。……何も見なかったことにしなさい。大丈夫、俺は怖くない」

 それはあからさまな嘘だった。

――怖い。今、この瞬間が。

 瑞礼は悟った。これが人として見る最後の景色なのだと。静かにまぶたを閉じる。

 その刹那、誰かの手が彼の背を突き飛ばした。

 風が耳を裂き、天地が反転する。すべての音が消え、世界は沈黙の棺に封じられる。死が迫る確信だけが胸の内を這い寄る。

「……これが、死か……」

 思考の最奥で冷徹な声が囁いた。

 骨が砕け、水に呑まれ、意識が凍りつく――はずだった。

 けれど崖下の岩も湖も、彼の身体を裂くことはなかった。

 風の中にひとすじの揺らぎが舞った。それは遠い夢の岸辺で一度だけ聞いた声に似て、甘く、そして痛いほど懐かしい気配を孕んでいた。その響きに抱かれるように瑞礼の身体はふわりと受け止められる。まるで氷の花弁に包まれるように、深い水に抱かれたかのように。

 ――次に目を開けたとき。

 雪は声を失い、風は静謐せいひつに縫い止められていた。彼は湖底へ沈むことなく、氷の裂け目に浮かぶ白い島の上に横たわっていた。

 頭上には星なき夜が広がり、けれど星よりも眩い光が散っていた。氷の天蓋は淡く光を透かし、無数の欠片が天の川のように瞬く。息を吸うたび冷気は花の香のように甘く胸を満たし、てる世界を夢のごとく柔らかに彩った。

 その島は現世に属さぬもののように淡く透きとおり、縁の薄氷がかすかな光を孕んできらめいている。

 瑞礼の周囲には同じような白い浮島が幾つも漂っていた。それらは闇の海に散らばる星々のように孤絶し、互いに手を伸ばすこともなく、ただ夢の断片のように浮かんでいる。それでも、息をするたびに胸が痛んだ。

 凍った湖面にはひび割れが走り、その下で赤と青の光が絡み合い、脈打つ心臓のように明滅している。それは村で語られた「封じの綻び」を思わせた。――わずかな亀裂から滲む光こそ、龍神の眠りが乱れ始めた兆なのだと。

 だが同時に、その光景は世界そのものが、ひとつの巨大な宝石であるかのように妖しく輝き、瑞礼はその美に酔いながらも、恐ろしくて目を逸らしたくなった。

 湖そのものが天空に漂う幻の大陸であるかのようだった。古代の幻夢げんむがひととき形を結んだかのように。――美はときに、死より深く人を縛る。

 その光景はこの世の理を逸していた。

 ――あまりに美しく、あまりに恐ろしくて、呼吸さえ夢の続きのようだった。

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