LOGIN――千年の孤独が再び巡り逢いを呼ぶ。 北辺の霊峰・御影山の麓、禁域「龍ノ淵」には龍神が封じられている。 花嫁を捧げねば龍は怒り、この地は雪と災厄に沈む――。 蝦夷の血を引く青年・瑞礼は妹の代わりに贄となることを選んだ。 龍ノ淵へ身を投げた瞬間、彼を包んだのは氷より深く、焔より切ない光。 ――彼を待っていたのは、かつて己が愛した龍神・緋宮。 封印された龍と人として転生を重ねた青年。 愛と咎、祈りと断罪をめぐる三度の輪廻が時を越えて再び結ばれようとしていた。 飛鳥、平安、そして鎌倉。 幾千の雪を越え、瑞礼は祈る―― もう一度、あなたに巡り会えますように。 雪と炎の果てに交わる魂の物語。 ――宿命に抗う、龍と人の永遠の恋。
View More沈む陽は血のように滲み、雲の裾を妖しく焼いていた。
冬の空は燃え残る光を孕み、白雪の原をゆるやかに紅へと融かしてゆく。 都の御代も
婚礼衣装は異様なほど重く、
冠の帳の向こう、世界は蒼く滲み、音だけが異様に澄み切って耳を打つ。
遠く、古びた社の鐘が三たび鳴った。低く重く、その余韻は肺の底に沈み、魂を縫い留めた。背後に蠢く人々の影は誰もが視線を逸らし、祈る仕草の裏に青年の死を容認する冷酷な沈黙を隠していた。
祭壇の足元には漆黒の淵が沈黙の口を開けていた。崖下では氷に封じられた湖が光を喰らうように広がっている。月も星も届かぬその水面は白く凍った膜の下でかすかに曇り、何かが呼吸するかのように蠢いている。それは――封ぜられし龍神の眠りの息であった。
風が強まり、瑞礼の裾を宙に攫う。祭壇の石床には古代の文様が刻まれ、朱の液が血のごとく染み込んでいた。
――ざわ、と袖の奥で声が擦れた。
「今年は……官の兵がついてるぞ」 「女なら、いつものように……」 「……あれ、顔立ちは――男に見えはせぬか」 「しっ――口を慎め。御役目の前だ」 しかしその囁きさえ、雪に吸われて消える。長老が杖を雪に突き立てた。囁きは吸い込まれ、白い息だけが宙に残る。甲冑の列がかすかに身じろぎし、瑞礼は裳《も》の端を指でたぐる。
「龍神の怒りを鎮めるため――
長老の声が天を裂く。祝詞であり
――妹の代わりに、この地へ来た。
――たったひとりの家族を守るために。 彼は視線を足元に落とす。布靴。かつて妹である
雪の中、
その声は喉の奥に氷が詰まったようで、掠れて響いた。それでも、呼ばずにはいられなかった――たったひとり残された妹の名を。
呼ぶ声のたびに胸の内側が静かに凍り割れていった。あの子は泣いていた。
「代わりなんて嫌……兄さま、行かないで」と。 だが彼には選べなかった。あの小さな命を世界の歯車に呑ませることなど――できはしなかった。冠を深く引き下ろす。それは瑞白の命を継ぐ証のように重く、額を覆った。布の擦れる微音すら雪の静寂よりも重く胸に響く。
「目を閉じて。……何も見なかったことにしなさい。大丈夫、俺は怖くない」
それはあからさまな嘘だった。――怖い。今、この瞬間が。
瑞礼は悟った。これが人として見る最後の景色なのだと。静かにまぶたを閉じる。
その刹那、誰かの手が彼の背を突き飛ばした。
風が耳を裂き、天地が反転する。すべての音が消え、世界は沈黙の棺に封じられる。死が迫る確信だけが胸の内を這い寄る。
「……これが、死か……」
思考の最奥で冷徹な声が囁いた。
骨が砕け、水に呑まれ、意識が凍りつく――はずだった。
けれど崖下の岩も湖も、彼の身体を裂くことはなかった。風の中にひとすじの揺らぎが舞った。それは遠い夢の岸辺で一度だけ聞いた声に似て、甘く、そして痛いほど懐かしい気配を孕んでいた。その響きに抱かれるように瑞礼の身体はふわりと受け止められる。まるで氷の花弁に包まれるように、深い水に抱かれたかのように。
――次に目を開けたとき。
雪は声を失い、風は
頭上には星なき夜が広がり、けれど星よりも眩い光が散っていた。氷の天蓋は淡く光を透かし、無数の欠片が天の川のように瞬く。息を吸うたび冷気は花の香のように甘く胸を満たし、
その島は現世に属さぬもののように淡く透きとおり、縁の薄氷が
凍った湖面にはひび割れが走り、その下で赤と青の光が絡み合い、脈打つ心臓のように明滅している。それは村で語られた「封じの綻び」を思わせた。――わずかな亀裂から滲む光こそ、龍神の眠りが乱れ始めた兆なのだと。
だが同時に、その光景は世界そのものが、ひとつの巨大な宝石であるかのように妖しく輝き、瑞礼はその美に酔いながらも、恐ろしくて目を逸らしたくなった。 湖そのものが天空に漂う幻の大陸であるかのようだった。古代の
その光景はこの世の理を逸していた。
――あまりに美しく、あまりに恐ろしくて、呼吸さえ夢の続きのようだった。国子は深く頭を垂れ、それからこちらを見下ろした。「皇女は、まだあなた様のお力をお待ちです。今のまま、そう長くはもたせられません。 風と水を静めていただければ、北の里々を巻き込まずに、この騒ぎを抑えられるでしょう」 一呼吸おいて、穏やかな口調のまま言葉を重ねる。「ですが、もしお力をお借りできないとなれば……手立ては、他にもございます。人の世の理とは、時に神の慈悲よりも無残に、泥を啜るような真似も厭わぬものですから」 瑞礼の背筋を、見えない氷柱が撫で上げた。穏やかな声音の裏に、「里を楯に取る」という冷酷な刃が、鞘走る音もなく突きつけられている。 緋宮はゆっくりと息を吸った。その肩から雪がぱらぱらと落ちる。「……わかった」 その一言に、瑞礼の心臓が強く跳ねる。「ひと月だ。それを限りに、俺はお前たちの掲げる理に、力を貸してやろう」 国子の背後で、兵たちの間にほのかなざわめきが走る。国子自身はその気配を背に受けながらも、表情を崩さなかった。「ご決断、感謝いたします」「だが条件がある」 緋宮の声が、それを遮った。国子の瞳がわずかに細まる。「条件……ですか」 緋宮は、横に立つ瑞礼の肩へと視線を落とした。 瑞礼は息を呑む。凍えた空気が喉を刺した。「この男の身の安全を、必ず守れ」 その言葉は、雪よりも鋭く空を切った。「里にも、ここにも、二度と手を出すな。こやつを害せば、その時は人の理もろとも、この国を噛み砕く」 国子はしばし黙した。崖の上で風が翻り、彼の衣の裾を揺らす。「……なるほど」 やがて、小さく笑みを含んだ声が落ちてきた。「龍神が人の身を案じられるとは、思いもしませんでした」「返答になっていないぞ」 緋宮が低く言う。金紅の瞳が、遠い崖上の男を射抜いた。 国子はひとつ息を吐いた。「わかり
国子が告げた、月の満ちるころ。 洞の天蓋から覗く白光が淡く滲み、夜のうちに何度も途切れながら続いた太鼓の音は、いまは山肌を這うように低く鳴っていた。 白み始めた空の下で、瑞礼はほとんど眠れぬまま火床の灰をいじっていた。炭はすでに熾きも残さず、冷えた灰だけが指先にまとわりつく。 灰をつまんでは落とし、またすくう。そのたびに、幼いころの囲炉裏の赤が脳裏をかすめた。瑞白が火箸を握り、笑いながら炭を整えていた手つき。あの赤い火は、ここにはない。 外では風が早くなっている。崖の向こうから、金属の軋みと、馬の鼻息を含んだざわめきが、雪に吸われながら近づいてきた。 その音に顔を上げると、緋宮が先に立ち上がり、湖の方へと歩き出していた。その背を慌てて追いかける。銀の髪には細い雪が降り積もり、その肩は薄く白く縁取られている。それでも背筋はまっすぐに空へ向かっていた。 歩みのたびに、氷の下の水がかすかに鳴る。足元から立ちのぼる冷気が、脛を伝って胸へと這い上がってくるようだった。
翌日の空は重く、雪は細かな針のように降っていた。 緋宮は洞の外に立ち、湖の方角ではなく、遠い北の山脈を見つめていた。 瑞礼は火床のそばで薪を割りながら、何度も緋宮の背へ視線を送った。 太鼓の余韻がまだ耳の奥にこびりついている。中臣国子が去ってからも、瑞礼の胸はずっと冷えたままだった。「……緋宮様」 雪に吸われそうな声で呼びかける。「どうなさるおつもりなのですか」 緋宮は答えなかった。金紅の睫に積もった雪がかすかに揺れ、溶けては落ちる。 風が一度強く吹き、遠い谷底から、鈴のような音がまた響いた。瑞礼の胸に嫌なざわめきが走る。――罠だ。
数日ののちの朝、風は言葉を運んできた。雪は薄く、雲は低い。湖の遙か上方から、太鼓のようなかすかな音が降りてくる。 瑞礼が顔を上げると、崖縁に人影が並んでいた。黒と緋の衣、金の紐。馬の鼻息が白く散り、革の具足が雪を噛む音がする。 先頭の男が一歩進み出る。年は若い。けれど、足取りに迷いはない。「――御影山の主に申し上げる」 澄んだ声が、雪明りの下に伸びた。「中臣国子。御影に眠る龍神よ! 皇女の勅を奉じ、ここにまかり来た」 瑞礼の背後に緋宮の気配を感じ、振り返る。 緋宮はそのまま湖の縁に歩んだ。銀の髪に雪が降り積もっても、冷えを煩う気配はない。ただ、金紅の瞳が淡く光を宿し、上の人影を静かに見ていた。「……俺に何の用だ」