冷酷CEOは没落した初恋相手を逃がさない~8年越しの誤解から始まる、愛憎の契約結婚~

冷酷CEOは没落した初恋相手を逃がさない~8年越しの誤解から始まる、愛憎の契約結婚~

last updateDernière mise à jour : 2026-10-05
Par:  白蛇Mis à jour à l'instant
Langue: Japanese
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「金目当ての最低な女」――八年ぶりに再会した初恋の彼・黒瀬理玖は、冷酷なCEOとなって私を蔑んだ。  家が没落し、父の治療費のため泥水をすする白鳥凜。  理玖は知らない。あの別れが彼を守る嘘だったこと、凜がその後、家族の暴力、失われた命、消えない傷、終わらない搾取に耐えてきたことを。 「お前は俺の所有物だ」  復讐の契約結婚。冷たく支配するはずが、真実を知った瞬間、彼の世界は崩れ落ちる。  激しい後悔と執着溺愛、そして容赦ない復讐劇。誤解から始まる契約結婚ラブストーリー!

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Chapitre 1

第一話 星屑の底の再会

 銀座の夜は、欲望を隠すように暗く、底知れなく眩まばゆい。

 高級会員制クラブ『club Estrellaエストレージャ』。ミッドナイトブルーの絨毯じゅうたんと、滝のようなクリスタルシャンデリアが頭上で煌きらめく。

 キャストの一人が合図を送る。

 それを見た白鳥凜りんは、足音を殺して素早く駆け回った。

 装飾のない地味な黒のパンツスーツに身を包み、ただ床を這い回る影になる。それが、凜の仕事だった。

 美容院に行くお金を惜しんで伸び切った黒髪を後ろで無造作に纏め、客の落とした灰を拾い、汚れたグラスを黙々と下げる。

 頭上で眩まばゆく輝くシャンデリアを見上げる余裕さえない。かつて名家の令嬢であったはずの凜は、今やこの華やかな世界の底辺で、ただ床を這い回る影でしかなかった。

 だが、今夜は事情が違った。

 人気キャストの玲奈れいなが、急な体調不良を理由に欠勤したのだが、なぜか「代役には、裏方の凜を」と店長に名指しで頼んできたらしい。

「なぁ、凜。玲奈の強い希望なんだよ。今夜だけキャストとして入ってくれ」

 店長が凜の前に両手を合わせ、大袈裟おおげさなまでに頭を下げる。

『その顔なら客取れるって』

 凜が『club Estrellaエストレージャ』に入店した頃から、玲奈が幾度いくどとなく冗談めかして言っていた言葉が頭を過よぎる。

――もしかして、本気で言ってたんやろか……。

 断ることはできる。いつも通りホールスタッフをすればいい。

 けれど、今月は足りない。臨時の出費が、まだ埋まっていなかった。

「……やります」

 絞り出した声は、思った以上に掠かすれた。

「……お酒のお相手や、会話はさせていただきます。でも、それ以上のこと……身体を売るような真似は絶対にしません」

 凜が真面目な顔で話した内容に、店長は苦笑しながら大きく頷く。

「分かってるって。お前のそういう真面目なところは信用してるよ。それに、ここは風俗じゃないんだ。身体を売る必要なんてない。

 お得意さんがな、特別なVIPを連れてきてくれるらしいんだ。海外帰りの若手CEOで、とんでもない金持ちだし、とにかく顔がいいらしい。粗相そそうだけはしないように気を付けてくれな」

「それなら、私なんかじゃなく、他の方のほうが……」

「今日は金曜だ。皆接客中だし、そういう目が肥えた金持ちは、初心うぶな方がウケるんだよ。それに、凜なら任せられると思ってな」

 店長はそれだけを告げて、ドレスを押し付けて立ち去ってしまった。

 控え室に入り、手渡された華やかなドレスを広げる。ざらついた化学繊維が指先のささくれにひっかかる。

「初心うぶ、か……」

 店長の言葉を反芻はんすうし、自嘲じちょう気味に口角を上げた。

――あの時、全て投げ捨てて逃げなければ、今の自分はどうなっていたんやろう……。

 そんな思いが頭を駆け巡る。

 ドレスに足を通し、背中のファスナーを上げる。

 姿見に映る自分を見つめた。目の下には色濃い隈くまが浮いている。

 凜は安物のファンデーションを手に取り、隈くまを隠そうと執拗しつように肌へ叩き込む。

 塗り固めた肌は指先にざらりと馴染まない。

 緩くうねる豊かな髪を、これでもかと左側の頬へと撫で下ろす。

鏡の中にいるのは、かつて最高級の絹を纏っていた令嬢の残骸ざんがい。ただの、死んだ目をした女だった。

 八年前のあの日から、凜の時間は止まったままだった。

* * *

『山下様、お待ちしておりました』

 レセプションで、店長が山下と呼ばれた、深いグレーのスーツに身を包んだ男性に深々と頭を下げる。

 凜も見覚えがあった。よく玲奈が接客している男だ。

 そして、その背後にいた黒スーツの男へ目配せしたとき、凜は目を見開いた。

 口が意思に反して、酸素を求めるように小さく開閉を繰り返す。

 黒瀬理玖りく――八年前、私の前から姿を消した、初恋の人がそこにいた。

 だが、凜の記憶にある優しい少年ではなかった。

 体に寸分の隙もなくフィットした艷つややかなダークネイビーのスーツ。隙なく締められたネクタイと、冷徹に研ぎ澄まされた端正な美貌びぼう。

 理玖の切れ長の目が凜を認めて、一瞬だけ大きく揺れた。

 だが、次の瞬間には何事もなかったかのように、感情の読めない表情に戻る。

 凜は左手で髪の跳ねを引っ張り、俯うつむきながら、VIPルームへと案内される山下たちの背後に続く。

「本日、玲奈は休みをいただいておりまして――」

 歩きながら、店長が山下に向かって話し続けている。

 だがその言葉は、凜自身の鼓動の高鳴りに掻かき消されていく。

――なんで……なんで、ここにおるん……?

 溢あふれそうになる京都弁を、奥歯を噛んで飲み込む。

「――凜!」

 急に名前を呼ばれ、凜の肩が小さく跳ねる。

「すいませんね。今日が初めてなもので」

 店長に背中を押され、凜は慌てて頭を下げた。

「は、初めまして。玲奈の代理の凜といいます。今日はよろしくお願いします」

 緊張と混乱から、声が上擦る。

「ははは。凜ちゃんね、そんなに堅くならなくていいよ」

「今夜は私とこの子で、おもてなしさせていただきますね」

 先輩キャストである彩あやが、手慣れた動作で山下の左手側に滑り込む。

「お、彩ちゃんか。今日も綺麗きれいだね」

 山下は上機嫌で応じ、凜の方を見て右手でソファを軽く叩いた。

「ほら、凜ちゃん。早く座って」

 彩の声に促うながされ、そっと腰を下ろす。左手に山下、そして右手に理玖。

 すぐ傍から、高価な香水の香りが漂う。それは、記憶に残る彼の匂いよりもずっと鋭利で、冷ややかだった。

「……なんでこんなとこにいんだよ」

 理玖がほんの小さくぼやき、指先がグラスの縁で一瞬止まる。――だが次の瞬間、その手は何事もなかったかのように動き出す。

 凜の喉のどの奥で、息が詰まった。咄嗟とっさに理玖の顔を見たが、彼は視線を逸そらした。

「……あれ? もしかして、お二人はお知り合いですか?」

 一瞬、二人の間に流れた空気の異変に気付いた彩が訊たずねる。

 凜はヒュッと喉の奥で息を呑のむ。答えようとしても、極度の緊張で唇がうまく動かない。

――元彼氏だなんて、言えるはずもない。そんな資格、私にはない……。

 どう答えればいいのか分からなかった。

 凜が言葉を見つけ出すよりも先に――。

「……知らない。赤の他人だ」

 口を開いたのは、理玖だった。

 冷たく、淡々と。まるで初対面の他人に――いや、路傍ろぼうの石にすら向けないような、絶対零度の声で。

「……金で人を選ぶ女なんてな」

 小声で付け足された言葉に、凜の呼吸が止まった。

 理玖が手にしたグラスの氷が、凜には聞こえないほど小さく、悲鳴のように鳴った。

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第二話 届かない指先
 『club Estrella』のVIPルーム内、凜と理玖の間に、緊迫した空気が漂っていた。 幸い、山下はほどよく酔いが回っているようだった。彩との会話に夢中で、途切れることなく話し続けている。 左側で上がる笑い声が、耳の中でくぐもったノイズになって反響し、凜は身体をぴくりと震わせた。 だが、彩はときおり、睨むような眼差しを送ってくる。 凜は慌てて話題を振る。「黒瀬様はお仕事、何やってらっしゃるんですか?」「IT」「……凄いですね!」 引き攣った表情を無理矢理に崩して、大げさに手を叩いてみたが、返事はない。「そ、そう言えば、この前ニュースでハッキング被害について話してました。やっぱり、ああいうのって大変なんでしょうね」 理玖は一瞬眉を顰めたが、何も答えない。――どうしよう……。玲奈も店長も、私に任せてくれたのに……。 必死に話題を探そうとする凜を見ることもなく、ただ一人でグラスを傾けている。 やがて凜の話題の引き出しが尽き、二人の間に沈黙が漂った。 凜は理玖の服装を盗み見る。漆黒を思わせるスーツは、室内のわずかな光を吸い込むような、しっとりと深い艶を纏っている。 身体の動きに寸分違わず追従するそのシルエットは、一目で特注品だと分かる。 丁寧にアイロンが当てられたシャツの襟元、隙のないネクタイの結び目。 隣に座る自分の借り物のドレスの生地が、まるで汚れ物のように思えて指先を丸めた。 その様子を見かねた彩が、凜に合図を送った。場所を変われということだ。「私、お手洗い失礼します」 そう言って凜は席を立つ。 VIPルームの引き戸を閉め、廊下の壁にもたれかかるようにして大きく息を吐く。 息が詰まりそうだった。 理玖が言い放った『赤の他人
last updateDernière mise à jour : 2026-07-04
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第三話 冷たい手と、重なった唇
 銀座の冷たい夜風が、熱を持った目元を容赦なく撫でていく。  大通りに出ると、煌びやかなネオンが、滲んだ視界を痛いほど刺した。 凜は路肩で立ち止まり、震える指でバッグからスマートフォンを取り出す。  青白い光が、暗い手元を照らす。  第二週目の金曜日。画面に表示された時刻は午後十一時半。終電はぎりぎりだった。 待受画面には、誰からの通知もない。  無機質なデジタル時計の数字を見つめていると、理玖の声が鮮明に蘇る。  喉元まで出かけた言葉を遮った、あのエレベーターの駆動音までもが、耳の奥で低く反響した。――帰らなきゃ。  分かっている。終電に乗れば、余計なお金を使わずに済む。 それなのに、足は駅へ向かなかった。  冷え切った部屋に一人で戻ることを思うと、胸の奥が押し潰されそうだった。  どうしても、父の顔が見たかった。 胸の奥を鋭い刃で抉られるような痛みに耐えきれず、凜は逃げるように手を挙げ、タクシーを拾う。 後部座席の滑らかなシートに深く沈み込み、きつく目を閉じる。  行き先を告げた声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。 車は静かに走り出す。  窓の外では、華やかだった銀座の街並みが後方へ流れていき、やがてその輝きも少しずつ色を失っていった。 深夜の文京区。  銀座の喧騒から遠く離れたこの街は、同じ東京とは思えないほど重く、冷ややかな静寂に沈んでいた。 タクシーを降りた凜は、夜の冷気に身を竦ませ、白く濁った息を細く吐き出す。  見上げる先にあるのは、『明京大学医学部附属病院』の巨大で無機質な白い病棟だ。 どうしようもなく、誰かに縋り付きたかった。  あんなにも冷酷に突き放されて尚、彼への想いを捨てきれない自分の惨めさを、ただ吐き出したかった。  張り詰めた糸が今にも切れそうで、凜は鉛のように重い足を引きずり、唯一の血縁である父が眠る病棟の裏口へと歩き出した
last updateDernière mise à jour : 2026-07-04
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第四話 黄金色の苦み
 理玖と再会した、翌日の夜。 わずかな仮眠と昼のアルバイトを経て、凜は再び華やかな銀座の街に身を投じていた。 重い足を引き摺って『club Estrella』の控室に入る。 中には、一際目を引く鮮やかな赤のドレスを着こなした玲奈が、鏡の前でいつもより執拗にファンデーションを叩いていた。「おはよう。昨日は代役ありがとうね。店長から聞いたわよ。山下さんの連れの方、あんまりいい顔してくれなかったんだって?」 玲奈はパフを置き、振り返って足を組む。彼女の目は細められ、口角はわずかに歪んでいた。「まあ、気にしない方がいいわよ。大企業の社長さんなんて目が肥えてるんだから、あなたじゃ荷が重すぎたかも。でも安心しなさい? またいらっしゃったら、今度は私が直接――」 玲奈がそこまで言いかけたとき、血相を変えた店長が、ノックもなしに転がり込むようにして控室に入ってきた。「ちょっと、まだ準備中だって」 玲奈が冷たい声で言い放つ。 だが、店長は彼女を気にも留めずに、凜に向き直って話し始めた。「凜、昨日はよくやった! 昨日の黒瀬様から、本指名だぞ」 店長は満面の笑みを浮かべ、凜の肩を叩く。 視界の端で、玲奈の表情が引き攣ったのを見て、凜は息を呑んだ。「……な、何かの間違いじゃないの? 凜じゃ、キャストとしてのマナーなんて、まだまだ分からないはずだもの。私もその席に――」 そう言って席を立とうとした玲奈を、店長は一瞥もくれず、払いのけるような片手だけで制した。「いや、その必要はない。お客様が『凜を一人で』ってご指名なんだ。それに、玲奈にはあの佐藤さんから指名来てるぞ。最近、売上良くないんだから、気合入れろよ」 店長の言葉に玲奈は唇を噛み、乱暴にパフを肌へ押し付ける。 鏡の中の彼女の横顔が、ひどく険しく見えた。「それよりも凜、余程気に入ってもらったんだな! VIPルームで待ってもらってるか
last updateDernière mise à jour : 2026-07-05
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第五話 凍てつく声
 あの夜から週に一、二度、理玖は宣言通りにクラブへ姿を現し、必ず凜を本指名するようになった。 そのたびに凜は、張り詰めた糸の上を歩かされているようだった。 冷たい視線。短い返事。口内に残るアルコールの匂い。接客が終わる頃には、笑顔を作るための力さえ残っていない。 鉛のように重い足を引きずって控え室に戻るたび、鏡に映る自分の顔から少しずつ色が失われていく気がした。 そんな凜の暗い顔を見て、鏡の前で熱心にメイクを直していた玲奈が、鏡越しに冷ややかな視線を投げかけた。「いくら太客捕まえたからって、そんな死にそうな顔して接客されたら店全体の迷惑なんだけど」 玲奈は口紅を引いていた手を止めながら話す。手にしたルージュが控室の照明を反射して、鈍い光を返していた。「太客なんて言ったって、どうせすぐ他の女に目移りして、そっちに貢ぎ始めるんだから。店長は喜んでるみたいだけど、その人だっていつまで通ってくれるか分からないわよ……」 その声には疲れが滲んで、わずかに間延びしている。「……しんどいなら、さっさと店長に言って、NG出しちゃえば? そしたら、私が代わってあげる」 玲奈の言葉は、どこか以前の暖かさが戻ってきている気がした。――良かった、いつもの玲奈だ。「……ううん、大丈夫。ありがとう」 凜は力なく頭を振った。――きっとこれは、八年前の罰なんだ。だから、どんなことがあっても、受け入れないと……。 自分にそう言い聞かせ、爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握り締め、控室のドアを開ける。「……八つ当たりして、ごめん」 部屋を出る直前、ほんの小さく、玲奈の声が落ちた。 凜が振り返っても、玲奈は素知らぬ振りをしてスマートフォンを弄っている。 けれど、その指先はわずかに震えているように見えた。 凜はほんの小さく、「うん」とだけ返して部屋
last updateDernière mise à jour : 2026-07-05
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第六話 見せつけられた代用品
「――へえ。ずいぶん楽しそうだな」  接客中の凜の背後から振ってきた理玖の絶対零度の声が、凜の全身の血を凍らせた。 店長が理玖を案内する声すら聞こえなかった。心臓が跳ね上がり、全身の毛が逆立つ。  ゆっくりと振り返ると、メイン通路に立つ理玖と目が合った。  その瞳は、これまでに見たどんな時よりも暗く、どす黒い怒りと軽蔑に塗れていた。――違う。そんなんじゃない。  出かかった言葉は、喉で詰まって出てこなかった。 理玖は足早にVIPルームへ向かう。  咄嗟に追いかけようとして腰を浮かせた凜を、隣に座る玲奈がテーブルの下で腕を強く引いて制した。――そうだ。まだ指名されたわけじゃない。勝手に席を立つことは許されない。 「いきなり、ごめんなさい」  凜は目の前の客に向けて咄嗟に取り繕う。  だが、まさに心ここに在らずだった。会話の相槌を打ちながらも、ちらちらとVIPルームの引き戸へ視線を送ってしまう。 暫くして、黒服の一人が凜の元へ歩み寄ってきた。 「黒瀬様がご指名です」  気にしていたはずなのに、いざ告げられると、指先が震えた。 玲奈が「ここは任せて、早く行ってきな」と囁く。 「申し訳ございません。あちらにお呼ばれしてしまいまして……少しだけ、失礼いたしますね」  客に上品に微笑みかけ、頭を下げて席を立つ。 だが、客に背を向けた瞬間、貼り付けていたはずの笑顔は剥がれ落ちた。  嫌な音を立てる心臓を押さえつけながら、凜は処刑台へ向かうような重い足取りで、VIPルームへと歩みを進めた。 背筋が汗ばんでいる。  これまでにも、幾度となく心ない言葉を投げつけられたが、あんな理玖を見るのは初めてだった。  震える手で指を掛けた持ち手が、やけに冷たい。 意を決して開いた先に、理玖は足を組んで座っていた。地に着いた右足が、毛足の長い絨毯を繰り返し叩いている。
last updateDernière mise à jour : 2026-07-06
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第七話 喉を焼くアルコール
 それからも理玖と女は、肩が触れ合うほど近い距離で話し続けた。  どこかで開かれるパーティーの話。理玖の仕事の話。女の仕事の愚痴。 女が笑うたび、細い指先が理玖の袖に触れる。  理玖はそれを拒まなかった。 ただ、それだけのことだった。  それだけのことなのに、凜の胸の奥は小さく軋んだ。 凜はぎこちなく唇を持ち上げる。  ほんの一瞬だけ、理玖の視線がこちらを向いた。その目が細められる。  その視線の冷たさに、凜は慌てて頭を下げた。 誤魔化すように二人のグラスへ酒を注ぐ。  理玖のブランデーボトルが空になりそうだった。 「あの、黒瀬様……」 「あぁ? ボトルか? 新しいの下ろしといてくれ」  いつもと違い、グラスを空けるペースが異常に早い。まるで呷るように吞み進めている。  こんな理玖を見るのは、初めてだった。 黒服に新しいボトルを頼むと、すぐに持ってきた。新しいボトル用のタグに、理玖の名前を書く。一画ずつ、丁寧に。 その様子を理玖は横目で見ながら、女と会話を続ける。 「こういう場所にいれば、嫌でも男に媚びることを覚えるんだな」  凜の脳裏に、彩と玲奈の顔が浮かんだ。  傷つく言葉も笑顔で受け流しながら、それでも毎晩この場所で働いている人たち。――違う。  そう思った瞬間、凜の唇から言葉が溢れ出ていた。 「……私のことは、何と言っていただいても構いません。けれど、このお店で働いている方たちは……そんな人たちではありません」  か細く、けれど芯のある声音で。 だが、理玖は冷たく返した。 「お前に、そんなことを言う資格があるのか?」  凜の肩がびくりと震える。「現に、男に媚びていただろうが。令嬢の看板を外せば、結局は金のある男なら誰でもいいのか」  心臓が嫌な音を立てた。 ――違う。そんなこと、一度もしていない。  言い返したかった。けれど、声は出なかった。
last updateDernière mise à jour : 2026-07-08
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第八話 理玖side 逃げ場のない影
 『club Estrella』を後にした理玖は、険しい顔付きで銀座の街を進み始めた。「ねぇー、待ってよ」 クラブに呼び出した女が、背後から追い縋るように甘い声を出す。「もういい。帰れ」「はぁ? 呼ばれたから来たのに!」「車は手配する。これ以上俺についてくるな」 理玖はスマートフォンを取り出し、女のためにタクシーを呼んだ。 女はなおも何かを言っていたが、もう耳に入らなかった。 車が到着するのを待たず、理玖は大通りに出て別のタクシーを捕まえる。 後部座席に乗り込み、自宅の住所を告げた。 深夜の六本木。タワーマンションの最上階。 玄関の扉を開けても、出迎える者は誰もいない。白と黒の大理石で統一された広大なリビングには、冷たい静寂だけが横たわっていた。 巨大なガラス窓の向こうには、東京の夜景が無機質な星屑めいて瞬いている。 理玖は照明も点けずにネクタイを乱暴に引き抜き、ソファに身を沈めた。 クラブで相当な量のブランデーを呷ったはずなのに、酔うどころか、胸の奥のざわつきは激しさを増すばかりだった。『私のことを、何と言っても構いません。けれど、他の方の悪口は……』 脳裏に、凜の真っ青な顔と、かすかに震えていた芯のある声が蘇る。――あの時、自分は何を言った。何を飲ませた。「……くそっ」 そこまで考えかけて、理玖は苛立ちごと振り払うように、テーブルの上のグラスを弾き飛ばした。 床に落ちたグラスが重い音を立てて砕け散る。――あんな傷ついた顔をする権利が、お前にあるのか。金を選んで俺を捨てたくせに……。 その震える肩の体温を、なぜ自分の指先が記憶しているのか。 それが堪らなく、反吐が出るほど憎かった。 理玖は二重窓を開け、バルコニーに出た。手摺りに肘をつき、空
last updateDernière mise à jour : 2026-07-10
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第九話 突きつけられた数字
 凜がブランデーを大量に飲まされ、洗面所で胃液を吐き出したあの夜から数日間、理玖は一度も『club Estrella』に姿を見せなかった。――あんな啖呵を切っておいて、惨めな姿を晒したんや。恐らく、もう二度と、会うことはないやろう……。 そう自分に言い聞かせ、ほっと胸を撫で下ろす反面、胸の奥にはぽっかりと冷たい穴が空いたような、説明のつかない痛みが澱んでいた。 凜は、店長の計らいで『客に勧められても絶対に酒を無理して飲まないこと』を条件に、キャストとしての接客を続けた。「凜。今日の卓はもういいから、早めに上がって休みな」「でも、私……もう少し働かないと」 凜が食い下がると、店長は困ったように眉を下げて優しく肩を叩く。「だめだ。お前はすぐに無理するからな。昼のバイトも大変なんだろ? お前が倒れたら、店も困るんだ。ほら、早く着替えてきな」「……ありがとうございます」 あの夜から、店長の凜に対する扱いは、どこか過保護なまでの優しさを帯びていた。その気遣いに、凜はただ深く頭を下げることしかできない。 控え室に戻り、ドレスから私服のパーカーに着替える。 ロッカーからスマートフォンを取り出すと、暗い画面にいくつかの通知が光っていた。『明京大学医学部附属病院:お支払い期限の確認』『東都ファイナンス:ご入金のお願い』『麗華:仕送り、忘れてないわよね?』 それらの冷たい文字を見るたび、胃の奥がぎりっと軋んだ。 店長は優しくしてくれる。玲奈も助けてくれる。 けれど、この毎月攻め立ててくる金額の前では、他人の優しさなど焼け石に水でしかない。 あと数日で月末が来る。父親の個室代と治療費、そして義母への仕送りの期日が迫っていた。――どうしよう。このままじゃ、全然足りない。 凜は画面を握り締め、ふらつく足取りでクラ
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第十話 悪魔のプロポーズ
「――俺と結婚しろ」 理玖の言葉が、逃げ場のない空間へ鋭い楔のように打ち込まれた。「……は?」 思わず、凜の唇から乾いた声が漏れた。 室内に漂う静寂が、耳鳴りを伴って頭の奥で膨らんでいく。 何を言われたのか、理解できない。いや、したくないだけかもしれない。 視界の端で、背後の玄関へ続くドアを塞ぐように、理玖の長い影が立ちはだかった。「なにを……言ってるんですか」「何度も言わせるな。俺と結婚しろと言ってるんだ」 理玖の足が短く、苛立つように床を打つ。「……無理、です」 ようやく押し出した声は、自分でも驚くほど細かった。言い切ったはずなのに、足元が揺らぐ。 理玖は一瞬、何も言わずに目頭を右手で押さえる。 その仕草と沈黙が、逆に凜へ重くのしかかった。「……最後まで聞け」 退路を断つような低い声。 凜の肩が、びくりと跳ねた。視線を上げられず、ただ足元のラグを見つめることしかできない。「断れる立場か?」 短い一言。 心臓が強く打つ。凜の指先が、無意識にパーカーの裾を握り締めていた。「……っ、でも……」 何を言おうとしたのか、自分でも分からない。言葉が形にならず、思考が喉の奥で崩れる。 理玖が一歩、距離を詰めた。 反射的に、凜は一歩後退る。「父親の治療費、いくらかかってる?」 冷徹な問い。 凜の脳裏に、無機質な病室の白と、積み上がった請求書が過ぎる。 細くなった腕。酸素の音。機械に繋がれたままの、父の姿。――やめて。 思考を振り払おうとするのに、消えない。――支払えなければどうなるかなんて、分かってる。 分かっているのに、答
last updateDernière mise à jour : 2026-07-12
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