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葉山心愛
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Novels by 葉山心愛

騙されてあげる~鬼上司に秘密の恋心~

騙されてあげる~鬼上司に秘密の恋心~

アメリカ本社のアパレル企業の助っ人として日本に送られることに! 新しい勤め先となった場所で再会してしまった人 それは二度と会ってはならない人物だった…… 加藤麻菜-Mana Kato- × 仲森秀平-Syuhei Nakamori- 7年ぶりに再会した二人に過去の面影はどこにもなかった 「会いたかった……」 どうして……? わたしに優しくするの? 「俺は諦めるつもりないから」 忘れなければならない想いが今動き出す 「計画は進行中だ」 いいよ…… あなたがそれで気が済むのなら 喜んで騙されてあげる でも…… もし許されるのなら…… もう一度あなたを愛してもいいですか――?
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Chapter: 第6話 上司と部下②
「加藤、レジの使い方を教えるから付いてこい」「はい」仲森さんは昔と違って口調はきついけど、教え方は丁寧で優しい。昔と180度変わってしまった性格、変わっていない性格。わたしを“加藤”と呼ぶ声。少し寂しい気もしたけど、これでよかったんだよね……?少なくともわたしはこれでよかったと思ってるよ……“仲森さん”と“加藤”これで上司と部下としての関係が成り立った。それから先は干渉しなければ問題ないのだから。「加藤、分かった?」「はい、ばっちりです」特に機械音痴というわけではないので、案外簡単にレジの使い方を覚えられた。仕事に集中しよう……集中すれば、仲森さんのことや過去のこと……全て忘れることが出来すのだから。この思い出しやすい環境にいたとしても……「それから、レジは応対したお客様が会計する時に、各自俺たちがレジをすることになってるから」「はい。分かりました」それから接客において、一通りの注意を受けた後、いよいよ10時になり開店の時間に。お昼辺りになっても未だ数組しか来店していない状態。わたしだけじゃなくて、他の人たちも暇で暇で仕方がないって感じだ。「やっぱり本店とは全然違うでしょう?お客が入らな過ぎて驚かなかった?」ボケーっとしていたところへ、挨拶の時に一際目立っていた美人の人が話しかけてきた。あれ……?この人って、確かジョンに全く興味を示してなかった人だよね……?
Last Updated: 2025-10-31
Chapter: 第5話 上司と部下①
一瞬たりとも視線をそらせることが出来なかった……彼から。無言のまま見つめ合い、まるで時間が止まってしまったように感じた。 どうしてだろう……どうして嫌な予感っていうのは当たってしまうんだろう……もしかしてこの人じゃないかって思ったりもしたけど、本当に再会してしまうなんて。 再会してしまった気まずさや、彼の驚きや切なさの混じった表情を見たら、やっぱり再会なんてしちゃいけなかったんだって。そう思えてならなかった。 「もしかして二人は知り合いなのか?」 見つめ合うわたしたちと沈黙が続き、それを破ったのは店長だった。お互いしばらく返答できなくて、再び沈黙。 「あ……実は俺たち……」「いえ、店長。知り合いではありません」「は……?何言って……」 ダメ……ダメなんだよ、秀ちゃん。わたしとあなたは本当は再会してはいけなかった二人なの。わたしとあなたは赤の他人、何の関係もない……その方があたしもあなたも傷つかないのだから。「初めまして。わたしは本社からやって来た加藤麻菜と言います。これからよろしくお願いします」 わたしが頭を下げて挨拶すると、秀ちゃんは複雑な表情を浮かべた。 「……仲森|秀平《しゅうへい》、です。よろしく」 やっぱり……やっぱりわたしは……わたしはここへ戻ってくるべきではなかったんだ。ここへ戻って来て秀ちゃんに会わない可能性の方が低いことは分かり切っていたのに。 わたしは秀ちゃんに辛い顔させることしか出来ない。ほら、現に今だってこんな泣きそうな辛そうな顔してる。こんな秀ちゃんはもう見たくなかったんだよ…… 「あっ、そうだ。仲森を加藤の教育係にしよう」「えっ……」 秀ちゃんがわたしの教育係……?それは……それだけは……これ以上秀ちゃんと関わりたくないのに。 「加藤はアメリカ暮らしが長いし、接客業に就いたことないらしいんだ。だから仲森、よろしく頼むよ」「分かりました」 秀ちゃんは一瞬の躊躇いも見せずに、即答した。どうして……どうしてなの、秀ちゃん。 「じゃあ、加藤。分からないことがあったら仲森に聞くように」「……はい」 店長は何処かへ行ってしまったし、他の社員たちは開店の準備に取り掛かっていた。わたしと秀ちゃんは二人、また気まずい雰囲気に包まれた。 「……よ、よろ
Last Updated: 2025-10-30
Chapter: 第4話 思わぬ再会②
職場に着き、わたしとジョンは真っ先に店長に挨拶を済ませた。「君たちが本社からの腕利き社員か。ここの店長の川端(かわばた)です」「本日からお世話になるジョン・テイラーと申します。こっちが部下の……」「加藤麻菜です。今日からよろしくお願いします」ジョンに引き続き、ペコリと頭を下げ店長を見上げた。店長は30代後半の体格のいい男性だった。「いやぁ、君たちには色々と期待しているよ。ウチの社員たちをビシバシ教育してほしい」店長の驚くほどの、わたしたちへの期待。ジョンへは期待を大いに持っていただいても構わないんだけど、わたしへは……「店長、申し訳ないのですが。この加藤は向こうで製作担当でしたので、接客業では全くと言っていいほどの素人なんです」そう……わたしは実は接客業というものをしたことがなくて。ここの助っ人として選ばれた理由は、わたしの服に対する思いや、仕事への熱心さを買われただけなんだ。「そうか……。じゃあ、こっちで加藤の教育係を一人つけるとしよう」「ありがとうございます。加藤は洋服に対する情熱は人一倍ありますから、役に立てるとは思います」「そうかそうか。それは加藤にも期待大だなぁ」いやいや、店長さん。わたしに期待されてもお役にたてるかどうか……それにジョンもわたしを持ち上げすぎだし。「じゃあ、今から顔合わせということで。社員たちに紹介するとしよう」店長に集められ、開店前の店内にズラリと並んだ社員たち。この人たちがこれから一緒に仕事をしていく仲間なんだ。「アメリカ本社から助っ人としてやって来たジョンと加藤だ」
Last Updated: 2025-10-29
Chapter: 第3話 思わぬ再会①
髪を整え、メイクもばっちり決めて……「よし、出来上がり。今日は初日なんだから、気合い入れていこう」パシパシと頬を叩き、気合いを入れなおした。最寄りの駅から7つ先の駅まで地下鉄で向かう。たぶん始めは、地下鉄って複雑だしジョン一人だと迷うと思ったんだけど、昨日も行ったばかりだから大丈夫だと思ってジョンとは別に家を出てきた。それなんだけど……「麻ー菜ー!」朝から元気すぎるわたしの名を叫ぶ声を聞いたと思ったら、突然思い切り抱きつかれた。もちろん抱きついたのが誰かなんて、顔を見なくても分かる。「ちょっと、ジョン!何するのよ!離れなさい!」「え~?いいじゃん。僕と麻菜の仲なんだし」「どんな仲よ。朝から暑苦しいったらありゃしない」ベットリわたしに抱きつくジョンを冷めた目で見つめながら、ベリッとその絡まる腕を剥がした。全く……朝から面倒くさい人。「麻菜、僕への扱いが年々ひどくなってるよね」「アンタの扱いはこれくらいでちょうどいいのよ」「ひでー。さっきだって、せっかく一緒に出勤しようと思って待ってたのに、先に行っちゃうし」いじけたような表情を浮かべて、じーっとわたしを上目遣いで見つめてくる。きっとこういうところなんだろうな。女の子たちがジョンに堕ちる理由は、こういう母性本能をくすぐるところにあるのかもしれない。わたしより年上なのに、子供っぽくて守ってあげたくなるような……そんなジョンだから、何処に行ってもモテるんだと思う。わたしは全然……何も感じないけど。ジョンには悪いけどね。「なんで一緒に出勤しないといけないのよ。どっちみち会社で一緒なんだから、いいじゃない」「え~?僕は出勤時だってずっと一緒にいたい」「わたしはいたくない」「まあまあ、そう言わずに、ね?ということで、これからは一緒に行こう」何が「ということで」よ!!誰も一緒に行くなんて言ってないじゃない。全く、ジョンったら……いつもいつも自分勝手で何でもかんでもわたしの意見は無視なんだから。こういう時は、放っておくのが一番。ジョンとの長い付き合いで、これが学んだ教訓だ。「あっ、それからジョン?」「なに?」「職場ではわたしのこと“麻菜”じゃなくて、“加藤”って呼びなさいね」「え~!?なんでよ?いいじゃん、“麻菜”でも」子供のように駄々をこねるジョンに、わたし
Last Updated: 2025-10-24
Chapter: 第2話 新しい職場
日本に着いてからこんなことに気付いてしまうなんて……STAR☆の日本店は東京ではなくて、名古屋にあることをすっかり忘れていた。名古屋は、わたしの故郷。忘れたい思い出が一番詰まっている場所だ。「……はぁ」わたしは、隣のジョンに気付かれないように溜息を吐いた。久しぶりに帰ってきた名古屋に懐かしさを感じつつも、嫌な予感が。こういう予感って必ずと言っていいほど当たってしまうのだから、不思議だ。「……はぁ」これから住む場所に到着し、わたしの本日二度目となる溜息が炸裂した。「おいおい、これから隣同士で住めるのに何だよ、その溜息は」「……隣同士だからでしょ」ジョンが用意してくれたマンションは、駅からも近くなかなかの立地条件のところだった。しかもまだ綺麗で、マンションにしては広い方だ。マンション自体は気に入って、これから住むには文句ないんだけど。隣の住人が問題だ。「麻菜、早速明日デートするか」「はぁ?何度も言ってるけど、プライベートは関わらないでって言ったじゃない」本当に懲りないんだから、ジョンったら。これまでにもデートに誘われてことあるけど、いつも断ってきたのに。「デートはデートだけど、事前調査も兼ねたデートなんだよねぇ」「事前調査?」「そう、これから僕たちが働くところがどんなところなのか調査も兼ねたデートってわけ」「事前調査ね、それなら行く」ジョンに言われて気付いたけど、事前調査は大切だよね。これから働く場所がどんなところか知っておいた方がいいと思うし。売り上げが伸びないって嘆いているくらいだから、人が入りやすい休日に行けばよりベストよね。「だからね、麻菜。これは調査を兼ねたデートであって、メインはデートの方……」「ちょうど明日は日曜日で人も入ることだし、早速調査開始ね」「麻菜……調査も大切だけどね、デートも……」「お昼頃がいいかな。じゃあ、明日の13時に調査開始ってことで」「いや、だから……デート……」「じゃあ、そういうことでよろしく」まだ何か言いたそうなジョンを残し、新しい自分の家に足を踏み入れた。「ふぅ……」なんだかこの7年で随分この町は変わってしまった気がする。このマンションに来るまでの間、高校時代の友人の家の前を通ったんだけれど、建て直されていて他人の家になっていた。よく知っている町に来たはず
Last Updated: 2025-10-24
Chapter: 第1話 帰国
『麻菜、キミに決めたよ』この一言で全てが変わってしまった。わたしが選ばれたことによって大きく運命が動き出したと言っても過言ではない。17歳からここ、アメリカに住み始めて早7年。わたし、|加藤麻菜《かとうまな》は24歳になったばかりだ。父はアメリカ人で、高校生の時ここ、アメリカに渡った。7年もいるのに、英語が苦手で話すことすら出来ない。そんなわたしの支えとなってくれたのが今の上司で、わたしを指名した人……。大学を卒業し、この上司の紹介でこの企業に就職を決めた。わたしが勤めるのはアパレル業界でも有名な「STAR☆」という会社。レディースが主だが、最近はメンズやキッズにも焦点を当て全米で注目を浴びている企業の一つ。昔から洋服が大好きだったわたしは、この企業への就職が決まった時、跳びあがる程嬉しかった。ずっとこの会社で働いていこう。このアメリカ本社で……わたしには他に行くあてもないし、一生アメリカで生きていこうと思っていた。そう思っていたわたしの願いが一瞬にして打ち砕かれてしまった。「ジョン!どうしてわたしを指名したのよ!!」わたしが怒りをぶつけるのは、わたしを指名した張本人。わたしの上司のジョン・テイラー。どうしてわたしがアメリカ人の彼に日本語で話しているのかというと、彼は日本語が得意だから。アメリカへ来たばかりに友人となった彼は、英語が話せないわたしの通訳となってくれた。そして、その彼が今は上司。「STAT☆日本店」の売り上げが伸び悩んでいて、本社から売り上げを上げるべく助っ人として白羽の矢が立ったのがこのジョンだった。「仕方ないだろう?一人が困難だと思ったら、誰か一人だけなら連れて行ってもいいって許可もらったんだから」「だからって、どうしてわたしなのよ!!下っ端のわたしなんかより、有能な人を連れていけばよかったじゃない!」どうしてもアメリカ本社にいなければならないという理由はない。ただ……送られる先が日本というのが問題なのだ。もう二度と戻ることはないと誓った日本に行かなければならないということが……。「君も十分有能だ。それに……」ジョンはわたしの肩をそっと引き寄せ、わたしの髪をすくった。「君と離れるのは辛いんだ。僕は君がいないと生きていけない」耳元でこう囁く彼は、どんな女性も虜にしてきたプレイボーイだ。
Last Updated: 2025-10-24
夫の一番にはなれない

夫の一番にはなれない

高校の養護教諭・横井奈那子は、6年付き合った恋人に裏切られ、結婚の夢を失う。失意の中、同じく恋人に裏切られた男性・滝川來が同じ学校に赴任してきた。互いにまだ元恋人を想っていると誤解したまま、逃げ道のように“1年限りの契約結婚”をする二人。ぎこちない共同生活の中、生徒たちの悩みや成長に寄り添ううちに、心の距離が少しずつ縮まっていく。——果たして、期限付きの関係は本物の愛に変わるのか。切なく温かな大人の学園ラブストーリー。
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Chapter: 第11話 新学期
四月の朝、少し肌寒さが残る空気を吸い込みながら、わたしは來の車の助手席に座っていた。これまで通勤は電車かバスばかりだったけれど、今日からは來が車で送ってくれるという。「免許は持ってるんだよね?」運転席の來がちらりとわたしを見た。「……持ってるけど、ペーパードライバーだから。もう何年もハンドル握ってないの」「練習してみる?俺の車で」「無理よ。怖いもの」即答すると、來は小さく笑った。その笑顔があまりに自然で、むしろわたしの方が恥ずかしくなってしまった。今日は來の初出勤の日。いつもより少し早めに出たいと彼が言うので、わたしもそれに合わせて家を出た。思ったよりも早く学校に着き、わたしはいつもより静かな廊下を歩きながら保健室の鍵を開けた。朝礼では、新しく赴任してきた三人の先生の自己紹介があった。もちろん、その中には來もいる。彼が壇上に立って話す姿を、わたしは同僚として、そして“妻”として見つめているという事実が、なんだか不思議に感じられた。まだ春休み中のため、生徒は部活動に参加している子たちだけ。今日は午前のみの活動らしく、校舎はいつもより静かだった。來はバレー部の副顧問になったと聞き、少し意外に思う。体育館で生徒たちと顔を合わせる來を想像すると、なんだか新鮮だった。午前の間、保健室にやって来たのは二人の生徒だけだった。頭痛と軽い捻挫。どちらも大事には至らず、わたしはいつもの仕事をこなしながら、時折廊下から聞こえてくる部活の声や、新しい同僚たちの会話を耳にしていた。「今日からここで一緒に働くんだ」そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。午後になると、生徒たちは部活を切り上げて全員下校させられた。理由は職員会議があるから。新年度を目前に控え、最終の確認と準備を行うためだった。会議室に集まると、まずはクラス分けの名簿が配られた。すでに決定している名簿にそれぞれの担任名も記されている。ざっと目を通すと、そこには「二年二組 担任 滝川來」とあった。二組の子たちは、わたしの印象では明るく元気な生徒が多い。でも根は素直で、先生に心を開きやすい子が多いから、來にとっては初めてのこの学校でも、担任としてやりやすいはず……そんな風に思った。会議は教頭先生の主導で淡々と進んでいく。途中、例年通り健康診断の実施方法についてわたしか
Last Updated: 2025-09-27
Chapter: 第10話 はじまり
三月も中旬を過ぎたころ。引っ越し業者に頼むにはもう時間が足りず、荷物は自分たちで運ぶことになった。來が荷物の量を確認したいと、初めてわたしの家にやってきた。ドアを開けて中に入った來は、部屋をぐるりと見回すと、少し驚いた顔をした。「思ったより少ないですね」確かに、必要最低限のもの以外はすでに段ボールに詰めていたし、家具も小さな本棚やタンス、軽いテーブルばかりだった。「これなら俺一人で運べるかな。何回か往復すれば大丈夫そうだ」來が頼もしそうに言う。わたしは心の中で、やっぱりしっかりしている人だなと思った。その日は、簡単な夕食を出すことにしていた。でも、冷蔵庫にはほとんど何も残っていなくて、作れたのはチャーハンくらい。「ごめんなさい、こんなものしか出せなくて……」思わず頭を下げていた。気づけばまた敬語に戻っている自分に、内心で苦笑する。來はスプーンを口に運ぶと、少し目を細めて言った。「これから、こんな美味しいご飯が食べられるんだな」その言葉に、胸がドキリと跳ねた。簡単なチャーハンを褒められただけなのに、どうしてこんなに心が揺れるんだろう。わたしは視線を落としながら、頬の熱を隠すように小さく笑った。***3月30日、土曜日。今日と明日の2日間で引っ越しと婚姻届の提出を済ませることになっていた。朝から荷物を運び出しながら、來が「ベッドがなくて助かったな。布団で寝ててくれてありがとう」と冗談めかして言う。確かにベッドがあったら、もっと大変だっただろう。重い家具や家電はすべて來が率先して持ってくれて、わたしが運んだのは段ボールだけ。何度も往復して、昼から夕方にはすべてを運び終えることができた。來のマンションは、外観からして高級そうで立派だった。エントランスに足を踏み入れると、シンプルだけれど洗練された雰囲気が漂っていて、わたしは思わず背筋を伸ばしてしまう。エレベーターで6階へ上がると、そこに來の部屋があった。中に入ると、広々としていて整った空間が広がっていた。無駄のないシンプルな家具が並んでいて、それでいて温かみもある。「ここが奈那子の部屋だ」そう案内されて、驚いた。わたし専用の部屋がちゃんと用意されていたのだ。そこに自分の荷物をすべて運び込むと、ようやく「引っ越したんだ」と実感が湧いてきた。夕方、すっかり疲れ切
Last Updated: 2025-09-26
Chapter: 第9話 新たな生活に向けて
少しずつ、部屋の荷物を整理し始めた。わたしの部屋は、社会人になってから住み続けている小さなアパート。決して広くはないけれど、一人で暮らすには十分だったし、不自由を感じたこともなかった。改めて見渡してみると、置いてあるものは本当に最小限だった。生活に必要なものしか置かないようにしていたから、引っ越しもそこまで大変ではなさそうだ。けれど、段ボールを組み立てて荷物を詰めていく手はなぜか落ち着かない。《手伝えることがあったら言ってね》涼ちゃんからのメッセージが来たと思ったら、《アタシもいつでも行くから》ヒロちゃんからのスタンプ付きの連絡が来た。二人の存在がありがたくて胸が温かくなる。でも、結局は自分の気持ちを整理するのが一番難しい作業だった。來が言っていた。「僕のマンションは、二人で暮らすには十分な広さがありますよ」と。わたしは同棲なんてしたことがなかった。誰かと一緒に暮らす――それ自体が、初めての経験。しかもそれが、契約結婚という形だなんて。段ボールに本を詰めながら、ふと手が止まった。狭いけれど落ち着くこの部屋。ここで過ごした日々を思い出すと、胸の奥がきゅっと締めつけられる。新しい生活が楽しみじゃないわけじゃない。けれど、緊張の方がずっと大きかった。***二月の終わり。もうすぐ卒業式を迎えるこの時期、校内には独特の緊張感と慌ただしさが漂っていた。わたしはその日、教頭先生と校長先生のところへ結婚の報告に行った。「それはおめでとうございます」二人にそう言われ、笑顔で頭を下げながらも、胸の奥は少しだけざわついていた。名字が滝川に変わることも伝えた。けれど、仕事では旧姓の横井を名乗り続けたいとお願いした。一瞬、不思議そうな表情をされてから「もちろん構いませんよ」と了承を得られた。心の中では小さく安堵の息をついた。――もし本当に1年後に離婚したら。そのたびに名字が変わって、生徒たちの好奇心の的になるのは避けたかった。余計な注目を浴びるのは、もうこりごりだ。この日は卒業式の練習で3年生も登校していた。結婚の報告を済ませた以外は、特別変わったことのない一日だった。放課後、保健室に戻って片付けをしていると、早川先生が顔を出した。「お疲れさま」その何気ない声に、わたしはふと決心がついた。「実は……」わたしは早
Last Updated: 2025-09-25
Chapter: 第8話 結婚の挨拶
そこからは驚くほどトントン拍子に話が進んでいった。母に「結婚したい人がいる」と伝えると、食い気味に「じゃあすぐに実家に連れてきなさい」と言われた。あまりに早い展開に、胸の奥でひやりとしたものを感じたけれど、もう止めることはできない。滝川さんとも予定を調整して、全員の都合が合う土曜日に挨拶へ行くことになった。その間も滝川さんからは「ご両親が好きなお菓子やスイーツなどありますか?」と気遣うような連絡が入ってきて、真面目さと誠実さを感じて胸が温かくなった。仕事帰り、わたしはヒロちゃんの美容院が閉まる時間を見計らって立ち寄った。事前に「顔を出すね」と連絡をしていたので、ヒロちゃんは驚いた顔をしながらも「中で待ってて」と言ってくれた。最後のお客さんが帰り、スタッフも帰っていったあと。美容院の空間には、わたしとヒロちゃんの二人だけが残った。ヒロちゃんは椅子に腰かけて、わたしの隣に座る。「……実はね」わたしは深呼吸をして、滝川さんとのことを話し始めた。カフェでの偶然の出会いから、契約結婚の提案、そして自分が決意に至るまで――。全てを話すのは少し勇気がいったけれど、ヒロちゃんなら受け止めてくれると思えた。話し終えると、ヒロちゃんはじっとわたしを見つめて、それから小さく笑った。「ふーん……奈那子が決めたことなら、アタシは応援するわ。奈那子が幸せになれるなら、それでいい」その言葉に胸がじんと熱くなる。ヒロちゃんが昔のように細かく口を出してこなかったのも、少し意外だった。「なんだか……ヒロちゃん、大人になったね」冗談めかして言うと、ヒロちゃんは大げさに目を見開いて、すぐに笑った。「当たり前でしょ。アタシたち、もういくつになったと思ってるの?」二人で顔を見合わせて、思わず声をあげて笑った。その笑い声に、不安ばかりだった気持ちがほんの少し軽くなった気がした。***両親への挨拶の日が、とうとうやって来た。実家はそれほど遠くないけれど、電車だと乗り換えが多いから、車で迎えに来てくれると言ってくれた滝川さんの厚意に甘えることにした。マンションの前に停まっていた黒い車を見たとき、胸が高鳴った。窓がすっと開いて、運転席から滝川さんが顔を出す。「どうぞ、横井さん」助手席のドアを開けられて、一瞬ためらってしまう。付き合ってもいない人の隣に、まるで
Last Updated: 2025-09-24
Chapter: 第7話 契約結婚
家に帰ってからも、心はざわついたままだった。ベッドに腰を下ろしても、シャワーを浴びても、あのときの言葉が耳から離れない。――「そういうことでしたら、俺と結婚しませんか?」あのとき、わたしは固まってしまった。冗談のようにも聞こえたけれど、滝川さんの表情は真剣だった。「この提案は、お互いにとって悪いことではないはずです」そう言われたときの声が、頭の中で繰り返される。結局、わたしは何も答えられなかった。「返事はまたでいいです」そう言って別れた滝川さんの姿が、妙に穏やかで、それがかえって胸に引っかかった。……どうしよう。滝川さんの提案を受け入れれば、確かに母への説明は丸く収まる。「結婚を考えている相手がいる」と紹介すれば、しつこい連絡もなくなるだろう。でも──。付き合ってもいない男性と、しかも好きだと胸を張って言えるわけでもない相手と結婚してしまって、本当にいいのだろうか。冷静になればなるほど、頭の中で「ありえない」という声が響く。それでも、どうしても引っかかる。──「お互いにとって悪いことではない」あれはどういう意味だったのだろう。わたしにとっては確かに都合がいい。けれど、滝川さんにとっては?……もしかして、滝川さんはまだ元カノのことを忘れられないのだろうか。もしそうなら、この結婚はわたしのためだけじゃなく、滝川さん自身のためでもあるのかもしれない。そう考えると、胸の奥に重たいものが広がった。わたしは、どうすればいいのか分からなかった。答えを出せないまま、ただ布団に身を沈め、天井を見つめ続けた。***《涼ちゃん、相談したいことがあるんだけど》そうラインを送ったら、すぐに「いいよ、仕事終わりに寄るね」と返事が来た。夜、チャイムが鳴り、玄関を開けると涼ちゃんが立っていた。「相談があるって言ったのに、わざわざ来てもらってごめんね」そう言うと、涼ちゃんはにこっと笑って肩をすくめた。「いいのよ。それに奈那子の家だと、美味しいご飯が出てくるし」その言葉に、少し心が和らいだ。テーブルに用意しておいた夕飯を並べながら、わたしはまた謝る。「ごめんね、簡単なものしか作れなくて」すると涼ちゃんは箸を手に取りながら、嬉しそうに目を細めた。「これ、私の好物じゃない。……ありがと」そう言ってくれるのが嬉しくて、少し照れながら
Last Updated: 2025-09-23
Chapter: 第6話 結婚の提案
あれから、滝川さんとはラインでやり取りを続けていた。一日一通だけ。ほんの短いやり取りだけだった。でも、その一通を待つのが、いつの間にかわたしの日課になっていた。《お疲れさまです。今日も寒いですね》《お疲れさまです。生徒たちは元気でしたか?》そんな他愛のない文章なのに、読み返すたび、心が少しだけ温かくなる。……不思議だな。こんな気持ちになるなんて。ふとスマホの画面を閉じると、母からの不在着信が目に入った。「……また?」きっと結婚のことを言われるに決まっている。あえて折り返す気にはなれず、わたしはスマホを裏返した。学校でも、生徒たちがやたらとわたしのことを観察している。「先生、最近なんか変わったよね?」「絶対、彼氏できたんだって!」「どんな人?どんな人?」保健室の中で勝手に盛り上がる声。否定するタイミングもなく、わたしは「まあ、いいか」と心の中で呟いて、備品の確認に集中することにした。放課後。生徒がいなくなった静かな保健室に、早川先生がふらりと顔を出した。「お疲れさま。ちょっと休ませて」椅子に腰かけた先生と、自然と雑談になる。「最近、二年生の子たち、少し落ち着いてきましたよね」「うん、確かに。保健室に来る子の顔も、前より明るい気がする」他愛ない会話のはずなのに、どこか心地よかった。だけど──。「そういえば奈那子先生、最近ルーチェに行ったって聞かないけど……行ってる?」一瞬、心臓が跳ねた。……ルーチェ。その名前を聞いただけで、胸の奥がざわつく。わたしは慌てて笑顔を作り、「そういえば、最近は行ってないかな」とだけ答えた。嘘ではないけれど、本当の理由を言えるわけがない。「そっか」早川先生は深く詮索することなく、それ以上は聞いてこなかった。わたしは手元の資料を片付けながら、まだ胸の奥がチクリと痛むのを感じていた。***滝川さんと、あのパスタ専門店で会う日が決まった。ラインのやり取りを続けるうちに、次の日曜日にランチを一緒にする約束をしたのだ。その瞬間から、胸がそわそわし始めて落ち着かない。気づけばわたしはスマホを手にして、ヒロちゃんにラインを送っていた。《何の服を着て行ったらいいと思う?》送信してから、自分で赤面する。まるで学生みたいな悩み。すると、すぐに既読がつき、返事が届いた。《あら、学生
Last Updated: 2025-09-22
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