Masuk高校の養護教諭・横井奈那子は、6年付き合った恋人に裏切られ、結婚の夢を失う。失意の中、同じく恋人に裏切られた男性・滝川來が同じ学校に赴任してきた。互いにまだ元恋人を想っていると誤解したまま、逃げ道のように“1年限りの契約結婚”をする二人。ぎこちない共同生活の中、生徒たちの悩みや成長に寄り添ううちに、心の距離が少しずつ縮まっていく。——果たして、期限付きの関係は本物の愛に変わるのか。切なく温かな大人の学園ラブストーリー。
Lihat lebih banyakお茶碗が手からすべり落ち、甲高い音を立てて床に散らばった。
白い破片を見下ろしながら、わたしの胸の奥で小さな不安がざわめく。
――嫌な予感がした。
***
年明けの一月。
六年付き合っている恋人の望とは、この正月休みでさえ会えなかった。
「実家に帰らないといけなくなったんだ」
そう言われてしまえば仕方がない、と自分に言い聞かせてはみたけれど、会えない寂しさは簡単に消えない。
最近はお互いの仕事の休みが合わず、会えない日が続いていた。
せめて正月くらいは、と期待していたのに――。
そんな望から、久しぶりにラインが届いた。
《次の休みに会えないか?》
胸が一瞬、高鳴る。
もしかして、プロポーズ……?
六年という年月が、ようやく形になるのかもしれない。
そう思った。
けれど、不思議と心は浮き立たなかった。
嬉しくないはずはないのに。
どうしてだろう、胸の奥が冷えていく感じがする。
画面を見つめた。
いつもならさりげなく添えられる顔文字や絵文字が、そこには一つもない。
たったそれだけのことが、不吉な前触れのように思えてならなかった。
***
そして冬休みが明け、生徒たちが登校する三学期が始まった。
私立桜南高校で養護教諭として働いて六年目になる。
この日も保健室には、朝から生徒たちが顔を見せた。
「先生、ちょっと頭が痛いんですけど……」
体温計を手渡しながら「無理しないでね」と声をかけると、
ベッドにはすでに別の女子生徒が毛布にくるまっていた。
「少し眠れば大丈夫です」
その言葉に奈那子は笑みを返しつつ、心の中で「本当に大丈夫かな」と気にかける。
昼休みには、同期の国語教師・早川美千恵が顔を出した。
「奈那子先生、三学期始まったね。三年生もそろそろ受験の季節ね」
「そうだね。一般受験の子たちはここからが本番だからね」
「でも奈那子先生がいるから、生徒も安心でしょ。保健室は避難所みたいなもんだし。三年生も息抜きに保健室に来たりしてるでしょ」
からかうように言われて、奈那子も肩の力が抜けた。
仕事が終わっても、望からのメッセージを思い出すたびに胸がざわつき、夕飯を作る気分になれなかった。
そのまま足を向けたのは、行きつけの「café&grill LUCE」。
木の温もりに包まれた店内に入ると、少しだけ心が落ち着く。
お気に入りの奥の席で注文を終えたそのとき――
隣のテーブルに、一組のカップルが仲良さげに腰を下ろした。
それが、この夜の運命を大きく変えることになるとは、この時のわたしはまだ知らない。
料理を待ちながらスマホを眺めるふりをしていた奈那子の耳に、隣の席から張りつめた空気が伝わってきた。
声の調子からして、ただの食事ではない。
二人は飲み物だけを注文し、ぎこちなく向かい合っていた。
――穏やかじゃない。
聞いてはいけないと分かっているのに、耳が自然と隣に傾いてしまう。
「……來くん、別れてほしい」
女性の声が震えていた。
わたしは息をのんだ。
耳にしてしまったのは、まさかの別れ話だった。
男性は、黙って相手を見つめているようだった。
元々無口な人なのか、それとも言葉を失っているのか。
ただ、女性の話を最後まで聞こうとしている雰囲気が伝わってくる。
「他に……好きな人ができたの」
女性は搾り出すように言った。
「……そうか」
男性の声は低く、静かだった。
「來くんって、いつもそうだよね。私のこと、何でも優先してくれて……でも、こういうときだって引き留めてくれる人じゃない」
女性の声音には、苛立ちとも寂しさともつかない色が混じっていた。
少しの沈黙のあと、男性はぽつりと尋ねた。
「……相手とは、もう付き合ってるんだな」
その聞き方には、どこか確信めいたものがあった。
女性はためらいなく頷いた。
「うん。そうなの」
「……美緒が幸せになれるなら、それでいい」
男性の穏やかな声に、女性の表情が一瞬揺れた。
まるで、その優しさに逆に傷ついたように。
「今までありがとう」
そう告げると、男性は静かに席を立ち、店を出ていった。
残された女性はしばし俯いていたが、やがて顔を上げると、立ち上がった。
そして、わざと見せつけるように店の奥の席へと歩いていく。
わたしの視線とその先を追った。
――そこに座っていたのは、見覚えのある男性だった。
――望だ。
わたしの恋人、六年間の時間を共にしてきたはずの人だ。
頭の中が真っ白になる。
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
望は、彼女の浮気相手としてそこにいた。
翌日になると、昨日ひねった足はすっかり良くなっていた。昨日は少し痛かったけれど、たいしたこともなく、湿布を貼って寝たらもう痛みも感じないくらいだった。少し安心しながら出勤したこの日、保健室は朝からいつもよりもにぎやかだった。放課後テストが近いせいか、部活が休みの生徒が多く、その分、保健室に顔を出す子が増えていた。お決まりのメンバー――早苗が最初にやって来て、少し遅れて長野と常盤も姿を見せた。3人とも、どうやら話すために来たという感じがする。「先生〜、やっほ〜!来ちゃった!今誰もいない?」「ええ、いないけど……もうすぐテストでしょ?テスト勉強はしなくていいの?」わたしが笑いながらそう言うと、長野がすぐさま大げさに肩を落とした。「え〜、奈那子ちゃんまでテストの話しないでよ〜!」「もしあれなら、ここで勉強してもいいわよ。 今は保健室使ってる子いないし。体調不良の子が来るまでだったらね」そう言っても、3人の顔には「勉強する気ゼロです」と書いてあった。代わりになぜか質問攻めにあってしまう。「奈那子ちゃんって、何の教科得意だった?」とか、「数学教えてよ〜!」とか。「数学なら、滝川先生に聞けばいいじゃない」そう言うと、常盤がすかさず答える。「滝川っち、きびしーもん!」思わず吹き出してしまう。來のことを「滝川っち」と呼ぶあたり、あっという間に來がクラスの子と打ち解けたのが分かる。彼らの中では、先生と生徒というより、ちょっと年上の兄貴分みたいな存在なのかもしれない。そんな中、早苗が少し真剣な表情で口を開いた。「そういえば昨日、奈那子先生、階段から落ちたって聞いたけど……大丈夫だったの?」「ああ、あれね。数段だけだったから大丈夫よ。心配してくれてありがとう」「そのとき、滝川っちが助けに来てくれたって聞いたけど、ホント?」その言葉に一瞬、息が止まった。どうやら昨日の出来
ここ数日、どうにも落ち着かない。頭の中に、あの望の投稿が何度も浮かんでしまう。『元カノ、別れて半年も経ってないのに別の男と結婚したって。あんな男好きと別れられてほんとよかった』――あの言葉を見るたびに、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。もう関係ないはずなのに。忘れたと思っていたのに。そのせいか、最近よくものを落とすし、人に話しかけられても気づかないことが増えた。來にも気づかれているのが分かる。何かやらかしたあと、ふと顔を上げると、必ず彼と目が合ってしまう。でも、來は何も言わなかった。ただ、静かに見守るように視線をくれるだけ。それが逆に、今はありがたかった。***その日も、授業中で保健室に来た生徒がいなかったため、わたしは巡回しつつ環境を確認していった。いつものように、トイレの除菌や廊下の換気をしていく。授業が終わるチャイムが鳴って、「そろそろ戻らなきゃ」と思って階段を下りた、その瞬間だった。ツルッ。「あっ――」体がふわっと浮いて、すぐにドンと落ちた。下から数段だったから大事にはならなかったけど、足首に鈍い痛みが走る。「先生、大丈夫ですか!?」近くを通りかかった生徒が駆け寄ってきた。わたしは慌てて笑顔を作った。「だ、大丈夫。ごめんね、驚かせちゃったね」本当は少し痛かった。でも、生徒の前で情けない顔はしたくなかった。でも、そのとき、聞き慣れた声がした。「横井先生、大丈夫ですか?」顔を上げると、來が立っていた。心配そうな顔でわたしを見下ろしている。「足、ひねりました?肩、貸しましょうか?」「だ、大丈夫です。平気ですから」そう答えると、周りの生徒たちがわっと笑いだした。「滝川っち、フラれたー!」「先生、男前に助けに来たのに~!」その無邪気な
洗い物を終えたころ、テーブルの上に置いていたスマホが震えた。画面を見ると、そこには「母」の文字。久しぶりの母からの着信だった。「……もしもし?お母さん?」『あら、奈那子。久しぶりね。元気にしてる?』2か月ぶりの声に、少し胸が温かくなる。でも次の瞬間には、この優しい声がどこか探るようなものに変わった。『結婚生活はどう?ちゃんとやれてるの?』これは、予想していた質問だった。「うん、大丈夫だよ。ちゃんとやってる」そう答えると、母のため息が小さく聞こえてくる。『……ほんとに?奈那子、來くんに迷惑かけてない?』迷惑なんて、かけてない……たぶん。「迷惑かけてない」と答えるとき、少し戸惑ってしまった。『それにね、ずっと気になってたんだけど……。來くんのご両親には、もう挨拶に行ったの?』以前に実家に行ったときには、「來くんのご両親に挨拶に行くときはきちんとしなさいね」と言われた程度だった。だから、こんな質問が突然来るとは思わず、わたしは言葉に詰まり、少し間を置いてから答えた。「……來のご両親、ちょっと忙しくて。なかなか予定が合わないの」『そう……。でもね、奈那子たち結婚式まだ挙げてないでしょう?向こうのご両親にお母さんたちもお会いしていないから、お父さんも心配してるのよ』母の声は責めているわけではなかった。ただ、娘を心配している親の声だった。だからこそ、胸が痛む。「……うん、わかってる。ちゃんと話してみるね」『そう。できれば來くんを連れてまた帰ってきなさい。お父さんも、奈那子の顔を見たがってるから』その言葉に、思わず小さくうなずいた。「來、部活の顧問もしてるから土日も忙しいことが多いの……一
ゴールデンウィークに入ると、学校は一週間近くお休みになった。けれど、部活動は別。來も数日、部活の顧問として出勤しなければいけなかった。「久しぶりに、涼子とヒロコ……高校のときの友達と会いたいねって話になったんだけど」そう言うと、來はすぐに笑ってくれた。「いいじゃん。行っておいで。楽しんで」あっさりと背中を押してくれるその気楽さが、やさしくてくすぐったい。その日の朝、わたしは休みだったけれど、いつもと変わらずキッチンに立っていた。來のお弁当を準備する手つきも、だいぶ自然になった気がする。「……お弁当、できたよ」來に手渡すと、彼は少し驚いたように目を見開いて、すぐに柔らかな笑顔を浮かべた。「休みなのに、ありがとう」そしていつものように、わたしの頭に手が伸びる。ポン、と優しく触れるその感触に、胸がふわっと温かくなる。このしぐさ、これで何度目だろう。気づけば、当たり前のように撫でてくる。まるで、本当の恋人みたい……いや、もう夫婦なのだけれど。それでも、くすぐったい。「いってきます」「いってらっしゃい」笑顔で手を振る來を見ながら、思わず頬が緩む。ドアが閉まったあとも、しばらく胸の奥に残るぬくもりが、静かに響いていた。しばらくして、わたしは出かける支度を始めた。お気に入りのワンピースを着て、少しだけ髪も丁寧に巻いた。涼子とヒロコに久しぶりに会うこの日を、この数日ずっと待っていた。胸が弾むような、少し緊張するような、不思議な気持ちで家を出た。***約束のお店は、ヒロコが予約してくれた韓国料理屋だった。「前から行きたかったんだよね!」とメッセージをくれたときの勢いのまま、店選びはあっという間に決まった。結婚してから三人で会うのは、今日が初めて。久しぶりの再会