夫の一番にはなれない

夫の一番にはなれない

last updateDernière mise à jour : 2025-11-21
Par:  葉山心愛En cours
Langue: Japanese
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高校の養護教諭・横井奈那子は、6年付き合った恋人に裏切られ、結婚の夢を失う。失意の中、同じく恋人に裏切られた男性・滝川來が同じ学校に赴任してきた。互いにまだ元恋人を想っていると誤解したまま、逃げ道のように“1年限りの契約結婚”をする二人。ぎこちない共同生活の中、生徒たちの悩みや成長に寄り添ううちに、心の距離が少しずつ縮まっていく。——果たして、期限付きの関係は本物の愛に変わるのか。切なく温かな大人の学園ラブストーリー。

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Chapitre 1

第1話 不穏な予感

お茶碗が手からすべり落ち、甲高い音を立てて床に散らばった。

白い破片を見下ろしながら、わたしの胸の奥で小さな不安がざわめく。

――嫌な予感がした。

***

年明けの一月。

六年付き合っている恋人の望とは、この正月休みでさえ会えなかった。

「実家に帰らないといけなくなったんだ」

そう言われてしまえば仕方がない、と自分に言い聞かせてはみたけれど、会えない寂しさは簡単に消えない。

最近はお互いの仕事の休みが合わず、会えない日が続いていた。

せめて正月くらいは、と期待していたのに――。

そんな望から、久しぶりにラインが届いた。

《次の休みに会えないか?》

胸が一瞬、高鳴る。

もしかして、プロポーズ……?

六年という年月が、ようやく形になるのかもしれない。

そう思った。

けれど、不思議と心は浮き立たなかった。

嬉しくないはずはないのに。

どうしてだろう、胸の奥が冷えていく感じがする。

画面を見つめた。

いつもならさりげなく添えられる顔文字や絵文字が、そこには一つもない。

たったそれだけのことが、不吉な前触れのように思えてならなかった。

***

そして冬休みが明け、生徒たちが登校する三学期が始まった。

私立桜南高校で養護教諭として働いて六年目になる。

この日も保健室には、朝から生徒たちが顔を見せた。

「先生、ちょっと頭が痛いんですけど……」

体温計を手渡しながら「無理しないでね」と声をかけると、

ベッドにはすでに別の女子生徒が毛布にくるまっていた。

「少し眠れば大丈夫です」

その言葉に奈那子は笑みを返しつつ、心の中で「本当に大丈夫かな」と気にかける。

昼休みには、同期の国語教師・早川美千恵が顔を出した。

「奈那子先生、三学期始まったね。三年生もそろそろ受験の季節ね」

「そうだね。一般受験の子たちはここからが本番だからね」

「でも奈那子先生がいるから、生徒も安心でしょ。保健室は避難所みたいなもんだし。三年生も息抜きに保健室に来たりしてるでしょ」

からかうように言われて、奈那子も肩の力が抜けた。

仕事が終わっても、望からのメッセージを思い出すたびに胸がざわつき、夕飯を作る気分になれなかった。

そのまま足を向けたのは、行きつけの「café&grill LUCE」。

木の温もりに包まれた店内に入ると、少しだけ心が落ち着く。

お気に入りの奥の席で注文を終えたそのとき――

隣のテーブルに、一組のカップルが仲良さげに腰を下ろした。

それが、この夜の運命を大きく変えることになるとは、この時のわたしはまだ知らない。

料理を待ちながらスマホを眺めるふりをしていた奈那子の耳に、隣の席から張りつめた空気が伝わってきた。

声の調子からして、ただの食事ではない。

二人は飲み物だけを注文し、ぎこちなく向かい合っていた。

――穏やかじゃない。

聞いてはいけないと分かっているのに、耳が自然と隣に傾いてしまう。

「……來くん、別れてほしい」

女性の声が震えていた。

わたしは息をのんだ。

耳にしてしまったのは、まさかの別れ話だった。

男性は、黙って相手を見つめているようだった。

元々無口な人なのか、それとも言葉を失っているのか。

ただ、女性の話を最後まで聞こうとしている雰囲気が伝わってくる。

「他に……好きな人ができたの」

女性は搾り出すように言った。

「……そうか」

男性の声は低く、静かだった。

「來くんって、いつもそうだよね。私のこと、何でも優先してくれて……でも、こういうときだって引き留めてくれる人じゃない」

女性の声音には、苛立ちとも寂しさともつかない色が混じっていた。

少しの沈黙のあと、男性はぽつりと尋ねた。

「……相手とは、もう付き合ってるんだな」

その聞き方には、どこか確信めいたものがあった。

女性はためらいなく頷いた。

「うん。そうなの」

「……美緒が幸せになれるなら、それでいい」

男性の穏やかな声に、女性の表情が一瞬揺れた。

まるで、その優しさに逆に傷ついたように。

「今までありがとう」

そう告げると、男性は静かに席を立ち、店を出ていった。

残された女性はしばし俯いていたが、やがて顔を上げると、立ち上がった。

そして、わざと見せつけるように店の奥の席へと歩いていく。

わたしの視線とその先を追った。

――そこに座っていたのは、見覚えのある男性だった。

――望だ。

わたしの恋人、六年間の時間を共にしてきたはずの人だ。

頭の中が真っ白になる。

胸が、ぎゅっと締めつけられた。

望は、彼女の浮気相手としてそこにいた。

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第1話 不穏な予感
お茶碗が手からすべり落ち、甲高い音を立てて床に散らばった。白い破片を見下ろしながら、わたしの胸の奥で小さな不安がざわめく。――嫌な予感がした。***年明けの一月。六年付き合っている恋人の望とは、この正月休みでさえ会えなかった。「実家に帰らないといけなくなったんだ」そう言われてしまえば仕方がない、と自分に言い聞かせてはみたけれど、会えない寂しさは簡単に消えない。最近はお互いの仕事の休みが合わず、会えない日が続いていた。せめて正月くらいは、と期待していたのに――。そんな望から、久しぶりにラインが届いた。《次の休みに会えないか?》胸が一瞬、高鳴る。もしかして、プロポーズ……?六年という年月が、ようやく形になるのかもしれない。そう思った。けれど、不思議と心は浮き立たなかった。嬉しくないはずはないのに。どうしてだろう、胸の奥が冷えていく感じがする。画面を見つめた。いつもならさりげなく添えられる顔文字や絵文字が、そこには一つもない。たったそれだけのことが、不吉な前触れのように思えてならなかった。***そして冬休みが明け、生徒たちが登校する三学期が始まった。私立桜南高校で養護教諭として働いて六年目になる。この日も保健室には、朝から生徒たちが顔を見せた。「先生、ちょっと頭が痛いんですけど……」体温計を手渡しながら「無理しないでね」と声をかけると、ベッドにはすでに別の女子生徒が毛布にくるまっていた。「少し眠れば大丈夫です」その言葉に奈那子は笑みを返しつつ、心の中で「本当に大丈夫かな」と気にかける。昼休みには、同期の国語教師・早川美千恵が顔を出した。「奈那子先生、三学期始まったね。三年生もそろそろ受験の季節ね」「そうだね。一般受験の子たちはここからが本番だからね」「でも奈那子先生がいるから、生徒も安心でしょ。保健室は避難所みたいなもんだし。三年生も息抜きに保健室に来たりしてるでしょ」からかうように言われて、奈那子も肩の力が抜けた。仕事が終わっても、望からのメッセージを思い出すたびに胸がざわつき、夕飯を作る気分になれなかった。そのまま足を向けたのは、行きつけの「café&grill LUCE」。木の温もりに包まれた店内に入ると、少しだけ心が落ち着く。お気に入りの奥の席で注文を終えたそのとき――隣のテーブルに、
last updateDernière mise à jour : 2025-09-12
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第2話 彼女の浮気相手
その瞬間、わたしの体は勝手に反応していた。目の前にいるはずのない望の姿を見つけ、思わず立ち上がってしまったのだ。ガタン──。椅子が大きな音を立てる。その音に気づいた望と、視線が合った。望の顔がみるみるうちに青ざめていく。わたしは何もできなかった。声を出すことも、問いただすこともできず、ただその場に立ち尽くしたまま固まってしまう。その様子を、隣に座っていた男性が静かに見つめていた。けれど、望はすぐにわたしから視線をそらし、隣の女性と共に足早に店を出ていった。わたしの胸の中で、時間が止まったようだった。──信じられない。隣のカップルが別れ話をしていた。女性は「他に好きな人ができた」と言い、その相手はすでに交際中だと告げた。その浮気相手こそ、今の今まで自分の隣にいるはずだった人――望ってこと……?すべてを見てしまったのに、まだ現実だと受け止められない。奈那子は魂が抜けたように、力なく椅子にぱたんと座り込んだ。堪えていたものがあふれ出す。頬を伝う涙は止めどなく流れ続けた。だって──つまり望は、わたしを裏切っていたってこと。六年の想いを、平然と踏みにじっていたということだから。気がつけば、涙がとめどなく頬を伝っていた。こんな場所で泣くなんて、絶対に嫌だった。でも、止めようと思えば思うほど、涙はあふれてきてしまう。店員が心配そうにこちらをちらちらと見ている。けれど、声をかけてよいものか迷っているのか、あたふたしていた。わたしは恥ずかしさで胸がいっぱいになりながらも、涙は止まらなかった。そのとき──。隣から、すっと一枚のハンカチが差し出された。「……」顔を上げると、そこにいたのは先ほど女性に別れを告げられていた男性だった。どこか気まずそうに、それでも差し出す手は迷いがなかった。わたしは戸惑い、ただ見上げる。すると男性は、短く言葉を添えた。「……よかったら、どうぞ」わたしは恥ずかしさに頬を赤らめ、俯きながらそのハンカチを受け取った。「……ありがとうございます」声はかすれていた。男性はすぐに席を立つことはなかった。少し間を置いてから、低い声で尋ねてきた。「……もしかして、先ほどの……男性と、お知り合いですか?」奈那子の胸が、ぎゅっと痛んだ。声にならないまま、小さく頷く。その返事に、男性の瞳がかすかに
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第3話 終わりと新たな出会い
通常通りに仕事をし、家に帰るとまた涙がこぼれる。そんな日々が何日か続いた。泣いても泣いても、胸の痛みは消えなかった。──そして、金曜日。スマホに表示された望からのメッセージに、わたしの心臓が跳ねた。《この前のこと、ちゃんと説明させて》ようやく、か。けれど、わたしの気持ちはもう揺れなかった。心の奥底で、すでに答えは出ていたから。わたしは短く返信を打ち込む。《明日、土曜日の14時。駅前のファミレスで》送信ボタンを押した瞬間、六年間の終わりを静かに受け入れた気がした。その夜、わたしは望の私物を整理しはじめた。机の引き出しから出てきたのは、二人で撮った写真。初めて旅行に行ったとき、観光地の前で無邪気に笑う自分と望。ライブに一緒に行ったときに買ったおそろいのTシャツ。映画の半券、テーマパークのキーホルダー、小さなプレゼント……。一つひとつに、六年分の思い出が詰まっていた。触れるたびに、当時の光景が鮮やかによみがえる。――ずっと、あなたと結婚すると思っていた。切なさが胸を締めつけた。けれど、涙はもう出なかった。ただ静かに、思い出に区切りをつけていく。それが、望との最後の夜になるのだと分かっていた。***翌日の午前、わたしは行きつけの美容室のドアを押した。ここは、高校時代からの友人であるヒロコが営む店。突然訪れたため、予約もしていない自分を迷惑に思われるのではと不安だった。けれど中に入ると、すぐにヒロちゃんが気づいて歩み寄ってきた。わたしの表情を見て、彼女はにっこりと笑う。「……決めた顔してるわね」わたしは少しだけ照れくさく笑い、口を開いた。「このあと……望と会うの。だから、きれいにしてもらえる?」「ふふ、そう来なくちゃ。任せときなさい」ヒロちゃんの声は頼もしかった。「今、他のスタッフは予約のお客様で手一杯なの。アタシでいいかしら?」「もちろん」わたしは迷わず頷いた。ヒロちゃんは昔からセンスも腕もよく、わたしの一番の理解者でもあった。長い付き合いだからこそ分かるわたしの魅力を、余すことなく引き出してくれる。鏡の中に映る自分が、少しずつ変わっていく。丁寧にブローされ、スタイリングされるたびに、心の奥でしぼんでいた自信が少しずつ取り戻されていくようだった。仕上がりを見て、ヒロちゃんが満足げに言う。「
last updateDernière mise à jour : 2025-09-12
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第4話 新たな出会い
望と別れてから、もうすぐ一か月。あれから一度もルーチェには行けていなかった。──あの日のことを思い出してしまう。あんなふうに泣いてしまった場所に、平気な顔をして座れるわけがない。職場から自宅までの帰り道にあって便利だったのに……残念。そう思いながらも、わたしは新しく行けるお店を探そうとしていた。気になっていたのは、二年前にオープンしたカフェ。ケーキが美味しいと評判で、当時は行列が絶えなかったところだ。食事のメニューも豊富で、ずっと行きたいと思っていたけれど……あの行列に並ぶ勇気がなくて、結局一度も行けなかったのだ。でも二年経った今なら、少しは落ち着いているかもしれない。そう思い切って行ってみることにした。店内はやっぱり混んでいたけれど、少し待っただけで席に通してもらえた。「よかった……」と胸をなでおろしながら席につき、お冷やを受け取ってメニューを開く。ページをめくりながら、どれにしようかと迷っていると――「あの……大変申し訳ございません!」突然、店員さんが慌てた様子で駆け寄ってきた。「こちらのお席、実はご予約のお客様の席でして……間違ってご案内してしまいました」「えっ……」わたしは思わず声を漏らす。「ですが、予約のお客様から相席のご了承をいただいております。もしよろしければ、こちらに座っていただけないでしょうか」どうやら手違いらしい。断ろうかとも一瞬思ったけれど、あまりに申し訳なさそうな顔をされると、どうしても首を横には振れなかった。「……はい、大丈夫です」そう答えると、店員さんが安堵したように頭を下げ、奥のテーブルを指差した。その視線の先を追った瞬間――わたしは目を見開いた。そこにいたのは、見覚えのある男性だった。視線がぶつかった瞬間、わたしは思わず固まってしまった。相手の男性も、同じように驚いた顔をしている。──あのときの人だ。ルーチェで女性にふられていた、あの男性。そして、泣きじゃくるわたしにハンカチを差し出してくれた人。きっと彼も気づいたのだろう。そんな気がした。気まずそうに、それでも礼儀正しく男性は目の前に座った。「相席を許していただいて……ありがとうございます」「い、いえ! あなたのせいではないですから」わたしは慌てて手を振るように答えた。一瞬の沈黙のあと、わたしは意を決してカバ
last updateDernière mise à jour : 2025-09-20
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第5話 母の圧力
帰宅してバッグを置いたあと、なんとなくスマホを手に取った。画面を開くと、新しく追加された名前が目に飛び込んでくる。――滝川來。見慣れない名前が、自分のスマホに並んでいることが不思議で仕方なかった。ほんの数週間前までは赤の他人だったのに。それなのに、こうして連絡先を交換している。その事実が、どこか現実味を帯びないまま胸の奥に残っていた。そんなとき、不意に着信音が鳴った。画面には「母」の文字がうつる。「……もしもし」出ると、いつものように母が明るい声で近況を尋ねてきた。度々こうして連絡が来るのだ。主に――わたしの恋人のことについて。けれどわたしは、母に望のことを詳しく話したことがない。職業も、名前でさえも。ただ「六年間付き合っている人がいる」ということだけを伝えていた。だから母はいつも詮索してくる。「どんな人なの?」「ちゃんとした職についてるの?」「六年も付き合ってるんだから、結婚を考えてるんでしょう?」しまいには、「一度連れてきなさい」そう言われた。わたしは喉の奥に言葉を詰まらせながら、「また連絡するね」とだけ答えて電話を切った。本当は――もう別れてしまったなんて、とても言えない。きっと根掘り葉掘り聞かれて、余計に面倒になるだけだから。通話終了の画面を見つめ、わたしは深いため息をついた。重たいものが胸に沈んでいくのを感じながら。***それから数日後のことだった。仕事を終えて一息ついていると、スマホに通知が届いた。画面を見て思わず背筋が伸びる。差出人は──滝川來の文字。《先日お世話になった滝川です。お聞きしたいことがあるのですが……》初めてのメッセージ。思わず胸が少しざわつく。わたしはすぐに返信を打った。《横井です。なんでしょうか?》カフェで話したときにも、誠実そうな人だという印象を持った。その印象は、この短い文面からも伝わってくる。几帳面で、真面目で、どこか堅苦しいくらいに丁寧。思わず口元が緩んでしまった。ちょうどこの日は、涼ちゃんとヒロちゃんと三人で久しぶりにランチをする約束が入っていた。スマホを鞄にしまい、わたしは支度を整えて家を出た。***ランチの場所は、ヒロちゃんが前から目をつけていたというイタリアンだった。店の前で待ち合わせをすると、もうそのときから会話が止まらない。
last updateDernière mise à jour : 2025-09-21
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第6話 結婚の提案
あれから、滝川さんとはラインでやり取りを続けていた。一日一通だけ。ほんの短いやり取りだけだった。でも、その一通を待つのが、いつの間にかわたしの日課になっていた。《お疲れさまです。今日も寒いですね》《お疲れさまです。生徒たちは元気でしたか?》そんな他愛のない文章なのに、読み返すたび、心が少しだけ温かくなる。……不思議だな。こんな気持ちになるなんて。ふとスマホの画面を閉じると、母からの不在着信が目に入った。「……また?」きっと結婚のことを言われるに決まっている。あえて折り返す気にはなれず、わたしはスマホを裏返した。学校でも、生徒たちがやたらとわたしのことを観察している。「先生、最近なんか変わったよね?」「絶対、彼氏できたんだって!」「どんな人?どんな人?」保健室の中で勝手に盛り上がる声。否定するタイミングもなく、わたしは「まあ、いいか」と心の中で呟いて、備品の確認に集中することにした。放課後。生徒がいなくなった静かな保健室に、早川先生がふらりと顔を出した。「お疲れさま。ちょっと休ませて」椅子に腰かけた先生と、自然と雑談になる。「最近、二年生の子たち、少し落ち着いてきましたよね」「うん、確かに。保健室に来る子の顔も、前より明るい気がする」他愛ない会話のはずなのに、どこか心地よかった。だけど──。「そういえば奈那子先生、最近ルーチェに行ったって聞かないけど……行ってる?」一瞬、心臓が跳ねた。……ルーチェ。その名前を聞いただけで、胸の奥がざわつく。わたしは慌てて笑顔を作り、「そういえば、最近は行ってないかな」とだけ答えた。嘘ではないけれど、本当の理由を言えるわけがない。「そっか」早川先生は深く詮索することなく、それ以上は聞いてこなかった。わたしは手元の資料を片付けながら、まだ胸の奥がチクリと痛むのを感じていた。***滝川さんと、あのパスタ専門店で会う日が決まった。ラインのやり取りを続けるうちに、次の日曜日にランチを一緒にする約束をしたのだ。その瞬間から、胸がそわそわし始めて落ち着かない。気づけばわたしはスマホを手にして、ヒロちゃんにラインを送っていた。《何の服を着て行ったらいいと思う?》送信してから、自分で赤面する。まるで学生みたいな悩み。すると、すぐに既読がつき、返事が届いた。《あら、学生
last updateDernière mise à jour : 2025-09-22
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第7話 契約結婚
家に帰ってからも、心はざわついたままだった。ベッドに腰を下ろしても、シャワーを浴びても、あのときの言葉が耳から離れない。――「そういうことでしたら、俺と結婚しませんか?」あのとき、わたしは固まってしまった。冗談のようにも聞こえたけれど、滝川さんの表情は真剣だった。「この提案は、お互いにとって悪いことではないはずです」そう言われたときの声が、頭の中で繰り返される。結局、わたしは何も答えられなかった。「返事はまたでいいです」そう言って別れた滝川さんの姿が、妙に穏やかで、それがかえって胸に引っかかった。……どうしよう。滝川さんの提案を受け入れれば、確かに母への説明は丸く収まる。「結婚を考えている相手がいる」と紹介すれば、しつこい連絡もなくなるだろう。でも──。付き合ってもいない男性と、しかも好きだと胸を張って言えるわけでもない相手と結婚してしまって、本当にいいのだろうか。冷静になればなるほど、頭の中で「ありえない」という声が響く。それでも、どうしても引っかかる。──「お互いにとって悪いことではない」あれはどういう意味だったのだろう。わたしにとっては確かに都合がいい。けれど、滝川さんにとっては?……もしかして、滝川さんはまだ元カノのことを忘れられないのだろうか。もしそうなら、この結婚はわたしのためだけじゃなく、滝川さん自身のためでもあるのかもしれない。そう考えると、胸の奥に重たいものが広がった。わたしは、どうすればいいのか分からなかった。答えを出せないまま、ただ布団に身を沈め、天井を見つめ続けた。***《涼ちゃん、相談したいことがあるんだけど》そうラインを送ったら、すぐに「いいよ、仕事終わりに寄るね」と返事が来た。夜、チャイムが鳴り、玄関を開けると涼ちゃんが立っていた。「相談があるって言ったのに、わざわざ来てもらってごめんね」そう言うと、涼ちゃんはにこっと笑って肩をすくめた。「いいのよ。それに奈那子の家だと、美味しいご飯が出てくるし」その言葉に、少し心が和らいだ。テーブルに用意しておいた夕飯を並べながら、わたしはまた謝る。「ごめんね、簡単なものしか作れなくて」すると涼ちゃんは箸を手に取りながら、嬉しそうに目を細めた。「これ、私の好物じゃない。……ありがと」そう言ってくれるのが嬉しくて、少し照れながら
last updateDernière mise à jour : 2025-09-23
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第8話 結婚の挨拶
そこからは驚くほどトントン拍子に話が進んでいった。母に「結婚したい人がいる」と伝えると、食い気味に「じゃあすぐに実家に連れてきなさい」と言われた。あまりに早い展開に、胸の奥でひやりとしたものを感じたけれど、もう止めることはできない。滝川さんとも予定を調整して、全員の都合が合う土曜日に挨拶へ行くことになった。その間も滝川さんからは「ご両親が好きなお菓子やスイーツなどありますか?」と気遣うような連絡が入ってきて、真面目さと誠実さを感じて胸が温かくなった。仕事帰り、わたしはヒロちゃんの美容院が閉まる時間を見計らって立ち寄った。事前に「顔を出すね」と連絡をしていたので、ヒロちゃんは驚いた顔をしながらも「中で待ってて」と言ってくれた。最後のお客さんが帰り、スタッフも帰っていったあと。美容院の空間には、わたしとヒロちゃんの二人だけが残った。ヒロちゃんは椅子に腰かけて、わたしの隣に座る。「……実はね」わたしは深呼吸をして、滝川さんとのことを話し始めた。カフェでの偶然の出会いから、契約結婚の提案、そして自分が決意に至るまで――。全てを話すのは少し勇気がいったけれど、ヒロちゃんなら受け止めてくれると思えた。話し終えると、ヒロちゃんはじっとわたしを見つめて、それから小さく笑った。「ふーん……奈那子が決めたことなら、アタシは応援するわ。奈那子が幸せになれるなら、それでいい」その言葉に胸がじんと熱くなる。ヒロちゃんが昔のように細かく口を出してこなかったのも、少し意外だった。「なんだか……ヒロちゃん、大人になったね」冗談めかして言うと、ヒロちゃんは大げさに目を見開いて、すぐに笑った。「当たり前でしょ。アタシたち、もういくつになったと思ってるの?」二人で顔を見合わせて、思わず声をあげて笑った。その笑い声に、不安ばかりだった気持ちがほんの少し軽くなった気がした。***両親への挨拶の日が、とうとうやって来た。実家はそれほど遠くないけれど、電車だと乗り換えが多いから、車で迎えに来てくれると言ってくれた滝川さんの厚意に甘えることにした。マンションの前に停まっていた黒い車を見たとき、胸が高鳴った。窓がすっと開いて、運転席から滝川さんが顔を出す。「どうぞ、横井さん」助手席のドアを開けられて、一瞬ためらってしまう。付き合ってもいない人の隣に、まるで
last updateDernière mise à jour : 2025-09-24
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第9話 新たな生活に向けて
少しずつ、部屋の荷物を整理し始めた。わたしの部屋は、社会人になってから住み続けている小さなアパート。決して広くはないけれど、一人で暮らすには十分だったし、不自由を感じたこともなかった。改めて見渡してみると、置いてあるものは本当に最小限だった。生活に必要なものしか置かないようにしていたから、引っ越しもそこまで大変ではなさそうだ。けれど、段ボールを組み立てて荷物を詰めていく手はなぜか落ち着かない。《手伝えることがあったら言ってね》涼ちゃんからのメッセージが来たと思ったら、《アタシもいつでも行くから》ヒロちゃんからのスタンプ付きの連絡が来た。二人の存在がありがたくて胸が温かくなる。でも、結局は自分の気持ちを整理するのが一番難しい作業だった。來が言っていた。「僕のマンションは、二人で暮らすには十分な広さがありますよ」と。わたしは同棲なんてしたことがなかった。誰かと一緒に暮らす――それ自体が、初めての経験。しかもそれが、契約結婚という形だなんて。段ボールに本を詰めながら、ふと手が止まった。狭いけれど落ち着くこの部屋。ここで過ごした日々を思い出すと、胸の奥がきゅっと締めつけられる。新しい生活が楽しみじゃないわけじゃない。けれど、緊張の方がずっと大きかった。***二月の終わり。もうすぐ卒業式を迎えるこの時期、校内には独特の緊張感と慌ただしさが漂っていた。わたしはその日、教頭先生と校長先生のところへ結婚の報告に行った。「それはおめでとうございます」二人にそう言われ、笑顔で頭を下げながらも、胸の奥は少しだけざわついていた。名字が滝川に変わることも伝えた。けれど、仕事では旧姓の横井を名乗り続けたいとお願いした。一瞬、不思議そうな表情をされてから「もちろん構いませんよ」と了承を得られた。心の中では小さく安堵の息をついた。――もし本当に1年後に離婚したら。そのたびに名字が変わって、生徒たちの好奇心の的になるのは避けたかった。余計な注目を浴びるのは、もうこりごりだ。この日は卒業式の練習で3年生も登校していた。結婚の報告を済ませた以外は、特別変わったことのない一日だった。放課後、保健室に戻って片付けをしていると、早川先生が顔を出した。「お疲れさま」その何気ない声に、わたしはふと決心がついた。「実は……」わたしは早
last updateDernière mise à jour : 2025-09-25
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第10話 はじまり
三月も中旬を過ぎたころ。引っ越し業者に頼むにはもう時間が足りず、荷物は自分たちで運ぶことになった。來が荷物の量を確認したいと、初めてわたしの家にやってきた。ドアを開けて中に入った來は、部屋をぐるりと見回すと、少し驚いた顔をした。「思ったより少ないですね」確かに、必要最低限のもの以外はすでに段ボールに詰めていたし、家具も小さな本棚やタンス、軽いテーブルばかりだった。「これなら俺一人で運べるかな。何回か往復すれば大丈夫そうだ」來が頼もしそうに言う。わたしは心の中で、やっぱりしっかりしている人だなと思った。その日は、簡単な夕食を出すことにしていた。でも、冷蔵庫にはほとんど何も残っていなくて、作れたのはチャーハンくらい。「ごめんなさい、こんなものしか出せなくて……」思わず頭を下げていた。気づけばまた敬語に戻っている自分に、内心で苦笑する。來はスプーンを口に運ぶと、少し目を細めて言った。「これから、こんな美味しいご飯が食べられるんだな」その言葉に、胸がドキリと跳ねた。簡単なチャーハンを褒められただけなのに、どうしてこんなに心が揺れるんだろう。わたしは視線を落としながら、頬の熱を隠すように小さく笑った。***3月30日、土曜日。今日と明日の2日間で引っ越しと婚姻届の提出を済ませることになっていた。朝から荷物を運び出しながら、來が「ベッドがなくて助かったな。布団で寝ててくれてありがとう」と冗談めかして言う。確かにベッドがあったら、もっと大変だっただろう。重い家具や家電はすべて來が率先して持ってくれて、わたしが運んだのは段ボールだけ。何度も往復して、昼から夕方にはすべてを運び終えることができた。來のマンションは、外観からして高級そうで立派だった。エントランスに足を踏み入れると、シンプルだけれど洗練された雰囲気が漂っていて、わたしは思わず背筋を伸ばしてしまう。エレベーターで6階へ上がると、そこに來の部屋があった。中に入ると、広々としていて整った空間が広がっていた。無駄のないシンプルな家具が並んでいて、それでいて温かみもある。「ここが奈那子の部屋だ」そう案内されて、驚いた。わたし専用の部屋がちゃんと用意されていたのだ。そこに自分の荷物をすべて運び込むと、ようやく「引っ越したんだ」と実感が湧いてきた。夕方、すっかり疲れ切
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