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三毛猫丸たま
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Nobela ni 三毛猫丸たま

法廷にはコーヒーとプリンを ― Coffee and Pudding in the Court ―

法廷にはコーヒーとプリンを ― Coffee and Pudding in the Court ―

花霞地方裁判所桜都支部。 ごく普通の裁判所――のはずですが。 そこに勤める判事補、司 法子はちょっと変わった人物。 緑色のショートヘアに赤いカラコン。 出勤も退勤もパンクファッション、まるでライブハウス帰りのよう。 けれど、法服をまとって椅子に座るとき―― 彼女は一転、真剣な眼差しで事件と向き合い、証拠を読み、心を見抜き、誰よりも人に寄り添う判決を下す。   そんな“Funky裁判官”のもとに配属されたのが、国内最高峰・東帝大学を主席で卒業した才女、東條 菊乃。 几帳面で真面目なお嬢様は、法子に振り回されっぱなし。 しかし、その奔放さの裏にある“人を救いたい”真摯な心に触れ、少しずつ彼女自身の価値観も揺らいでいく――。
Basahin
Chapter: 『あとがき風』
法子「――はいっ、ここまで読んでくれてありがとねっ☆ 『法廷にはコーヒーとプリンを』これにて閉廷しまーす!」菊乃「判事っ! あとがきでまで“閉廷”を叫ぶなど、前代未聞でございます! せめて“ありがとうございました”にしてくださいませ!」   法子「じゃあ、“閉廷ありがとうございました〜☆”」菊乃「組み合わせがめちゃくちゃですのよ!」   法子「でもさぁ、ちゃんと最後は“プリン・エトワール”でしめられたでしょ? おキクさんだって、頬ゆるんでたじゃん?」菊乃「ゆ、緩んでなどおりませんっ! あれは……プリンの質を確認するために真剣な表情をしただけで……!」法子「読者のみんな、聞いた? “真剣にプリンを味わう”って、なんかすごくお嬢様らしいでしょ☆」菊乃「判事っ! 勝手に変換しないでくださいまし!」   法子「あ、そういえばさ。おキクさん、“何度でも一緒に”って言ってくれたじゃん? あれ録音してあるから、次の裁判で流してもいい?」菊乃「ななななっ……!? 録音!? そんなものを証拠品のように扱わないでくださいませぇぇ!」 法子「え〜? でも“判事のいじわるぅぅぅ!”って叫んだのも、いい感じに録れてるよ☆」菊乃「も、もはや辱めでございますわ……! どうかお慈悲を……!」   法子「はいはい、冗談冗談。……でもさ、第二部がもしあるなら――またプリン食べながら騒ごうねっ☆」菊乃「はぁ……結局最後まで、食べ物でまとめるのですか……。ですが……皆さま、もし次がございましたら、そのときもどうか温かく見守っていただけますと幸いでございます……(深々と一礼)」   法子「よしっ! それじゃあ最後にみんなで復唱しよっか! “甘味の過剰摂取には    気をつけましょう☆”」菊乃「そんなあとがきの締め、聞いたことがございませんわぁぁぁっ!」
Huling Na-update: 2025-12-16
Chapter: 第15話 商店街再開発と最後のプリン
 花霞地方裁判所桜都支部・小法廷。 ばさり。黒い法服の裾を翻し、判事・司 法子が入廷した。「令和15年(ワ)第311号、都市再開発差止請求事件――開廷しまーす☆」「判事っ! 開廷の宣言を遊ばないでくださいませっ。不謹慎でございますわ!」 書記官・東條菊乃が思わず声を上げる。 年明け最初の法廷。 満席の傍聴席から笑いが漏れ、空気が少し和らいだ。 原告はスターロード商店街の小規模店舗と住民たち。 代理人は高梨悠一。 被告は桜都市と花霞州、そして外資系デベロッパー、ネクサス・シティ・デベロップメント。 代理人は白川真理子。 冷静沈着な大手事務所の弁護士だ。 第1回口頭弁論。 高梨が熱の入った言葉で訴える。「スターロード商店街は半世紀以上、暮らしを支えてきました。八百屋も書店も喫茶店も――顔を合わせ、支え合う場所です。再開発でそれを奪うのは、取り返しのつかない損失です!」 白川が資料から目を上げる。「歴史は尊い。しかし現実をご覧ください。老朽化、空き店舗、利用者の減少。このままでは“廃墟”です。再開発は未来へ生き抜くための必然です」 高梨は食い下がる。「古いものを壊すだけで未来は生まれません。記憶や心を置き去りにして――それを真の未来と呼べますか!」 白川は淡々と返す。「情緒では都市は守れません。必要なのは合理性と効率。新しい施設、道路、雇用――それが目的です」 法子が短く釘を刺す。「双方、感情に流されず論点を整理してね。裁判は討論会じゃないよ」 主張が出揃た。「――第1回口頭弁論はこれで終結にします。次回、第2回期日に判決を言い渡します」 菊乃はペンを止め、法子の横顔を見る。 飄々とした表情。 だが、その目にはかすかな迷いが揺れていた。 法廷を出ると、庁舎前は記者の波。 フラッシュが瞬く。「今回の行方は? 」「判決の方向性は? 」「あっ、暴走した書記官だ! 」 質問が矢継ぎ早に飛ぶ。 菊乃は固まり、顔が真っ赤になる。「あわわわ……わ、わたくしが……発言する……こと……」 そのとき、法子が割って入り、軽く笑った。「判決はまだでしょ〜。ね、もうちょっと空気わきまえてくれないかなっ☆」 一瞬、記者が静まる。法子は菊乃の腕を取り、人垣を抜けて走った。「は、判事っ!? 走るのですかっ!」「質問攻めだも
Huling Na-update: 2025-12-16
Chapter:  第14話 ロックスターのお出ましだ
 年の瀬。12月30日。 桜都市の商店街は、買い出しの人々でにぎわっていた。 東條菊乃は日傘をたたみ、ためらいなくカフェ・ロッソの扉を押した。 カウンターに着くなり、マスターの西園寺に目当ての品を注文する。「本年最後の……ご褒美ですわ」 目当ては期間限定スイーツ。 艶やかに盛られた苺のミルフィーユ仕立てが、白い皿に映えていた。 一口。 サクサクのパイ生地、甘酸っぱい苺、ふんわりクリーム。 至福の甘みが広がり、菊乃の頬がゆるむ。「……んっ。これは……しあわせ、でございますわ……」 ふっと笑みが漏れる。 普段とは違う柔らかな表情だった。 カラン。 扉のベルが鳴り、店の空気が一変する。「よう、ロックスター! 今日も一段とイカしてるじゃねぇか」 マスター・西園寺慎の声に、客が一斉に振り返る。 革ジャンにフリフリのミニスカ。 カラフルなニーハイ、そして大きめサングラス。 鼻歌まじりに現れたのは――花霞地方裁判所桜都支部、判事、司 法子。 菊乃はフォークを落とし、目を剥いた。「は、判事っ! なんですかその珍妙な格好は! 今は令和の時代ですのよ!」「おばけプリンと、地獄のコーヒーちょうだい☆」 本人は悪びれず、カウンター席に腰を下ろした。「……了解、了解」 西園寺は肩をすくめて注文を受ける。「おや、おキクさん、奇遇だねぇ! 今日は年末特別コスだよっ☆」「コスではございません! 羞恥心という言葉を存じないのですかっ!」 菊乃が顔を真っ赤にして立ち上がる。 その姿に、法子は楽しそうに笑った。「まったく、お前は変わらねえな」 西園寺がカップを磨きながら言う。「昔、バンド組んでた頃も、似たようなこと言ってた奴がいたっけ」「やめろって!」 法子が慌てて制止するが、マスターの口は止まらない。「お嬢様は知ってるか? ノリコは昔、インディーズで絶大な人気だったんだぜ。ライブは満員、雑誌の特集に深夜番組。バンド名は――」「言うなってば!」 法子は顔を真っ赤にして手を伸ばすが、小柄な腕はカウンターの中の西園寺に届かない。 その名はあっさり告げられた。「――爆裂!ぷりん倶楽部……通称、ばくぷり」「ぷ、ぷりんくらぶ……!? 判事が――人気バンド……? ちょっと意味が分からないですわ――ご説明を!」 菊乃はカウンターに手を
Huling Na-update: 2025-12-16
Chapter: 第13話 お嬢様が見た判事の背中
 花霞地方裁判所桜都支部・執務室。 机の上には訴訟記録の山。 横には空になったプリンカップと缶コーヒーが転がっている。 法子は朝から独り言をこぼし、書類をめくっては閉じ、ペンを落としてはため息をつく。「……どっちに寄っても、誰かが泣く」 ぼそりと漏れた声に、菊乃は息を呑む。 いつも軽口ばかりの法子が、珍しく背中を丸めていた。「判事……お加減が悪いのであれば、少しお休みを」「いや、大丈夫。おキクさん。ただ……条文と違って、人の最期はその行間からこぼれ落ちるんだよね」 菊乃は迷った末、机上の空き缶をそっと片付ける。「契約の拘束力は重んじるべき。ですが……本人の“もう十分”という意思を無視するのは、わたくしも違うと感じます」 法子はまだ開けてないプリンカップを指先で弾いた。「プリンだって揺れても芯は残る。判決も、そうあるべきなんだ」 菊乃は返す言葉を失い、ただ横顔を見つめる。(この方は……立ち止まって崩れるのではない。迷いながらも進んでおられるのですわ) ――朝の光が差し込む廊下。 法子は黒法服を腕にかけ、窓ガラスに映る自分をじっと見ていた。 張りのない隈の浮いた顔で、口角を上げてつぶやく。「おキクさん、どう? 今日の顔、五割増しくらいで“冷徹裁判官”に見えるでしょ?」「……とても、そうは見えませんわ」「だよねぇ〜。疲れてるのバレバレか」 無理に明るく振る舞う姿に、菊乃は小さく眉を寄せた。「判事……少し、屋上へ参りましょう。風に当たって、一服されては?」 法子は目を瞬かせ、笑いを含んだ吐息をもらした。「ふふっ。おキクさんが誘うなんて、珍しいね」 ――朝の風が冷たい屋上。 法子は黒法服を脇に置き、ポケットからハイライトを取り出す。「屋上で吸う一本は格別なんだよ」 火をつけ、一口。白い煙が流れていく。 菊乃もマルボロ・メンソール・ライトに火をつける。「誘ったわたくしが言うのも妙ですが、連日連夜の徹夜、多量の喫煙、不規則な食事……お体を壊されては困りますわ――けれど、本日は特別に見逃して差し上げます」 菊乃の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。「ありがと。じゃあ、この一本で気持ちを切り替えるよ」 煙を吐き、目を細める法子の横顔には、人の尊厳に踏み込む覚悟が滲んでいた。(この方は……どんな迷いを抱えても、前を
Huling Na-update: 2025-12-16
Chapter: 第12話 介護と尊厳、心の重さ
 花霞地方裁判所桜都支部・小法廷。 照明の白さが冷たく、時計の秒針がひとつ、またひとつ音を刻む。  書記官の東條菊乃は姿勢を正し、息を潜めていた。 「令和15年(ワ)第290号、介護費用負担請求事件。開廷します」  判事、司 法子が開廷を宣言する。  いつもなら軽口を挟む彼女だが、今日は硬い響きしか残らない。 菊乃は背中越しに普段と違う雰囲気を感じ取った。(……本日は、法服のパフォーマンスも軽口も出ませんのね)  原告は社会福祉法人桜寿会・花霞ケアホーム。代表は柳田昭夫。  穏やかな人柄だが、人手不足と経営難に疲弊していた。 被告は山岸美佐子。45歳。  母・八重を施設に預けた娘である。 原告代理人は神谷亮介。40代前半。  条文と判例を武器に、冷静沈着に論を組み立てる弁護士だ。 被告代理人は川嶋真理。30代後半の気鋭の女性弁護士。  依頼人に寄り添い、熱を込めて戦うことで評判を得ていた。 無機質な照明の下、四人の視線が交錯する。  論理と感情、契約と尊厳。  そのどちらも、これから天秤に乗せられようとしていた。 法子が争点を整理する。 「本件の争いは、延命措置に伴う追加費用についてです。原告は契約に基づく請求を主張し、被告は“本人の意思に反する延命は無効”と訴えています」  傍聴席には高梨悠一。法子の司法修習時代の同期。  ノートを開き、真剣な目で法廷を見つめていた。(……めずらしいな。いつもの法子じゃない) 原告代理人、神谷亮介が口を開く。  眼鏡越しの視線は冷静沈着だ。 「延命措置は、被告・山岸美佐子様の要望に基づき、医師の判断で実施されました。民法第415条は債務不履行を定めていますが、本件は契約に基づく給付義務の履行です。被告が家族として同意された以上、医療行為は適法であり、追加費用は契約上の債務として支払うべきです」  神谷は判例を重ねる。 「東京高裁平成22年判決でも、『家族の同意を得て行った延命措置の費用は契約に基づき支払義務がある』とされています。介護契約は準委任契約の性質を持ちます。家族が同意した以上、その行為は有効です」  淡々とした声は、冷たい論理の刃となった。  柳田昭夫は疲れきった表情のまま俯いている。 「被告代理人、意見はありますか」  法子が目を向けると、川嶋が立ち上が
Huling Na-update: 2025-12-16
Chapter: 第11話 契約と血筋と揺れる正義 ― 判決
 大荒れとなった第2回口頭弁論期日から一週間が過ぎた。  桜都支部の執務室には重苦しい沈黙が広がっていた。 裁判内での規律違反について、菊乃は所長の訓告にとどまった。  桐生所長自身は本局からの口頭注意で済んだ。  裁判翌日に桐生が本局へ走り、深々と頭を下げて最低限の処分に抑えた結果だった。 桐生は机の引き出しから新しい胃薬を取り出す。 「頭を下げるのが私の仕事だ……これからもよろしく頼む――イタタタ」  みぞおちを押さえながら苦笑する。 その一言に、張りつめていた空気がほんの少しゆるむ。  事務官たちの間にかすかな安堵が走った。 窓の外は冬の曇天。  薄い光が書類の山を冷たく照らしていた。  東條菊乃は、一週間前の自分の叫びを耳の奥で反芻し、肩を落としていた。  ペンを取ろうとする手は、まだ震えている。 そこへ法子が椅子にもたれ、片手をひらひら。 「――『契約自由の原則なんて、くそくらえでございますわっ!』」  菊乃の声色を真似る。  空気が一瞬止まり……事務官の一人が吹き出した。 「は、判事っ……! そのような真似をなさらないでくださいましっ!」  菊乃の頬が真っ赤になる。  だが法子はけろりと笑った。 「まあまあ、判決考えてくるから、おキクさんは気楽に待っててよ☆」  桐生は眉をひそめたが、ため息とともに合議室へ。 ――裁判官三名による評議。 円卓を挟み、裁判長の桐生重信、左陪席の法子、右陪席の真壁京太が着席する。  記録と判例のコピーが重なり、紙の匂いが漂った。 桐生が口火を切る。 「契約自由(民法521条)は私的自治の柱だ。全面無効には慎重であるべきだろう」  法子が即座に返す。 「“自由”を掲げて不均衡を固定化するなら、それはもう自由じゃない。公益の名で弱者に呪いを刻む契約は、法が否定しないと☆」  真壁が資料を繰り、冷静に言葉を置いた。 「落としどころが必要です。違法部分を切除し、残部は生かす。部分無効と一部救済。判例の流れにも沿います」  議論は数時間に及んだ。 “正義とは手続か、実質か”。  言葉はやがて結論へ収束する。 ――一部条項無効。原告の請求は一部認容。契約全体は維持。 三人は静かに頷き合った。 令和15年(ワ)第234号  桜都市水族館建設請負契約 無効確認請求事
Huling Na-update: 2025-12-16
その刃は、声なきままに首を断つ

その刃は、声なきままに首を断つ

 過去の事件により、記憶を封じられた殺し屋。  アラーナ・ノクターン。  王国の闇を歩き、命じられた首を、ためらいなく狩る。  その動きは祈りのように静かで、その刃は、夜気よりも冷たい。  語ることも、嘆くこともなく、彼女の存在は風のように通り過ぎる。  光は届かず、血も熱を持たない。  世界の底で、ただひとり、彼女は「沈黙」という名の孤独を抱いていた。  けれど、刃が触れるたびに、ほんの一瞬だけ、生と死のハザマに“音”が生まれる。  誰にも届かぬその音こそ、彼女がこの世に残せる唯一の“声”。  ――その刃は、声なきままに首を断つ。  アラーナの声は、ひとつの詩となる。
Basahin
Chapter: 幕五十一 記憶の名と、かつてのふたり
 夜の帳が降りた。  月のない空に、風が小さく葉を揺らしている。  焚き火の音だけが、小屋の前に広がっていた。  アラーナは膝を抱き、火の前に静かに座っていた。  表情は読めず、目線は火に落とされたまま。  風が吹くたびに髪が揺れ、火の粉が夜気に溶けていく。  物音ひとつ立てずに、リュカが小屋の中から現れた。  言葉もなく、アラーナの正面――向かいに腰を下ろす。  しばし、焚き火の音がふたりのあいだを埋めていた。 「……影衛《シャド・ガルド》ってのはさ」 リュカが口を開いた。炎に照らされた顔には、かすかな疲れと、ためらいがあった。 影衛《シャド・ガルド》。  それは王家直属の暗号兵団であり、記録にも残らない任務を請け負う処刑部隊。  表向きは“存在しない戦力”だ。  個人名は剥奪され、コードネームだけが許される。人格は解体され、再構築される。  訓練は二年におよび、限界を超える拷問に等しい過酷な実地と心理圧迫が繰り返された。  それが完了した者だけが、“兵器”としての実戦に投入される。  アラーナもまた、そうして“ゼロフォー”として造られた。  リュカの声は低く、しかしよく通った。  「睡眠時間は三時間以下。与えられる食事も最低限で、仲間という概念は存在しない。   誰よりも早く動け。命令に従えないものは処分される。……“使える兵器”になるまで、何度でも壊される」  アラーナの視線がかすかに揺れた。  「私たちは、ただの兵器だった」  ふたりの言葉が、焚き火の音に吸い込まれていく。  「……お前、あの頃はまるで、機械みたいだったよ」  リュカが口元をゆがめた。  「それでも……こっちは何度も助けられた。お前の冷静さに、命を繋いでもらったこともあった」  アラーナは口元をわずかに動かした。  「そうするように、教えられた」  炎がゆらぎ、影が大きく伸びる。  「“ゼロフォー”と呼ばれるのは、嫌じゃなかった。ただ――」  言葉を置くように、アラーナが呟く。  「少しずつ、自分が空っぽになっていく感覚があった」  「……あの名前は、人を人でなくする呪いのようなもんだよ」  しばしの静寂のあと、リュカが小さく笑った。  「そういえば……最初
Huling Na-update: 2026-08-11
Chapter: 幕五十 覚悟の名を、継いで歩く
 ぬるくなった水音が、床下の桶に滴る。 廃屋の小さな一室。ひとつのランプが、ぼんやりと天井を照らしていた。 灯りは安定せず、風の音に揺れるたび、壁の影も形を変えて揺れていた。 空気は乾いて、静かだった。聞こえるのは、滴る音と、風のかすれた擦過音だけ。 この空間は――生きていた。 アラーナは、簡素な寝台に横たわって寝息を立てている。 包帯の下、皮膚は赤く腫れ、火傷の痕がいくつも残っている。破けた服の代わりに、古びたシャツを身につけていた。 息は浅く、無意識に腕に力を入れようとすれば、痛みに跳ね返された。 体が重い。けれど、その重さは単なる疲労だけではなかった。 ――胸の奥が、焼けている。 傷の疼きとは違う、もっと奥深くにこびりついた熱。 目を開ける前から、それが確かに存在していると、彼女はわかっていた。 その暗がりに滲んでいたのは――痛みではなく、記憶だった。 砕けた石畳。焼けた空気。閃く刃と、あの、白銀の騎士――。 誰かが語ったものではない。 その姿は、アラーナの中に深く刻まれていた。 感情を殺し、命令だけに従う存在。 王国屈指の構文制御能力と展開速度。 戦場を理解し、すべてを読み切った上で最短で術式を放つ。 ――何より、強かった。 見る者が畏れを抱くに足る、“本物”の戦士――いや、騎士だった。 だが、ただの“強さ”ではない。 その最後の瞬間、アラーナは確かに“何か”を見た。 刃がその体をとらえ、命が尽きる直前―― その“目”に宿っていたのは、絶望ではなかった。 ――覚悟。 最後に、差し出された彼女の手を……握った……。 冷たくて、細くて、軽かった。 返された力はなかった。ただ、それだけが――残っていた。 椅子の上には、黙したままの男がいる。 リュカは無言で、もう何度目か分からない包帯の取り換えをしていた。 その手つきには、慣れがあった。けれど、そこには迷いがなかったわけではない。 指が、傷の輪郭に触れるたび、少しだけ止まる。 無言のまま、ほんの一瞬だけ、その表情に影が差した。 その傍らに、ひと振りの武器が置かれていた。 《ルジェ=ノワール》。 戦闘で受けた衝撃が刃の根元に歪みを残し、柄の構文線にも焦げ跡が見えていた。 リュカは巻いていた布を緩め、代わりに新しい包帯を取り出す。 その指先が
Huling Na-update: 2026-08-11
Chapter: 幕四十九 ルメアの静寂
 薄明の空が、街の輪郭を静かに染めはじめていた。 ルメア、沈黙街。 夜の気配がまだ色濃く残る通りに、ひとつの足音だけが響いていた。 硬質な乾いた靴音が、無人の道に一定の間隔で刻まれていく。 黒いロングコートの裾が風に揺れ、肩口から腕にかけては、乾ききらぬ血と煤がこびりついている。 アラーナの歩みには、急ぎもためらいもない。 足元は重い。筋肉の節々に火照りが残り、裂傷のいくつかはまだ湿っている。 けれど痛みは、もう彼女の歩みに影響を与えない。 戦いの熱がまだ身体の内側に残っているような、そんな鈍い余熱だけを携えて、アラーナは歩いていた。 何を探すでもなく、ただ確かめるように、ひとつひとつの足音を街に残していく。 通りの中央まで来て、足を止めた。 ゆっくりと顔を上げ、周囲を見渡す。 通りには、戦いの痕跡がそのまま残っていた。 裂けた石畳。焼け焦げた壁。崩れかけた階段の端。 構文術式の爆裂痕や障壁の衝突跡が、そこかしこに黒く刻まれている。 ここで、何かが暴れ、壊された。 誰かを狙い、誰かがそれを止めようとした。 その爪痕だけが、通りに取り残されている。 金属の焦げた匂いが鼻を掠める。 封印符の残り香。割れた魔術石が放つ、わずかな熱。 すでに戦いは終わっているはずなのに、空気の中にはまだ“動”の余韻がわだかまっていた。 扉は歪み、軒下には割れた構文符の破片が散っている。 掲示板の紙は焼け焦げ、半分以上が剥がれ落ちていた。 それでも、かろうじて残された伝言が、風にさらされながら揺れていた。 「誰かが戻ったときのために、入口は開けておきます」 「灯りは落としてあります。必要ならそのまま使って」 道は乱れていた。 もともと整えられていた場所が、何者かに蹂躙され、そのまま放置されていた。 沈黙ではなく、“荒れたままの静寂”が沈みこんでいる。 アラーナはその静けさを、言葉もなく見渡していた。 この街になじんでいたわけではない。思い出があるわけでもない。 けれど、誰もいないこの光景に、胸の奥がわずかに重くなる。 石畳の隙間に、小さな白い花が咲いているのが目に入った。 誰が置いたかはわからない。 風に揺れながらも、それは今もそこにあった。 アラーナは歩を再開した。 しばらく進んだ先――路地の陰にある、住居の廃屋とも
Huling Na-update: 2026-08-11
Chapter: 幕四十八 名前の意味を、まだ知らない
――それは、名乗っただけでは終われなかった。 礼拝堂にはまだ、血の匂いが漂っていた。  けれど、場に満ちていた殺気はすでに消えていた。  術式の残光は跡形もなく消え、礼拝堂は“沈黙”という名の圧に包まれていた。  天井の高い空間が音を吸い、呼吸の反響すら他人のもののように感じられる。  空気は動かず、音は一切なかった。  ただ、耳の奥を押しつぶすような“静けさ”だけが、そこにあった。 アラーナは《ルジェ=ノワール》を腰へと戻しながら、目の前の女を見下ろした。  倒れたフィリシアの胸は、まだゆっくりと上下している。  だがその目からは、もう戦う光は見えなかった。 アラーナが歩み寄ると、フィリシアは片方の手をゆっくりと差し出してきた。  震えるその手は、戦いを望むものではなかった。  それは、かつての誰かを求めるように、そっと開かれていた。 アラーナは無言でその手を取った。  細く、冷えた指先。  その冷たさが、すでに“別れ”を物語っていることに、アラーナは気づいていた。  握り返した手には、もう力は残っていなかった。  それでもフィリシアは、ぎこちなく――それでも、どこかあどけない笑みを浮かべた。「……あの頃と、同じ……」 その声が空気に溶けるよりも先に、アラーナの中で何かが揺れた。  “姉さま”――そう呼ばれた名が、記憶の底からまた響く。  だが今度は、さっきのような不快な雑音ではなかった。 フィリシアが、何かを伝えようと口を開いたが、それはもう言葉として聞き取れなかった。  アラーナは、フィリシアの口元にそっと耳を寄せる。「アリーシャ姉さまの本当の名は――……リシェル=アリシア=ノクターン……」 その瞬間、アラーナの頭の中に、奔流のように映像が駆け巡る。 家族に囲まれた温かい食卓。  年に数度、屋敷に訪れる甘えん坊の従妹。  泣きじゃくるフィリシアの手を握って、夜の中庭を歩いたあの晩。  背後から聞こえる「アリーシャ姉さま」と甘える声。  振り返れば、いつも彼女は少し泣き顔で、でも嬉しそうにそこにいた。 その声に、“名前”としての重みが宿るのを、今、ようやく理解した。 すべてが、よみがえる。 アラーナは、すべての記憶を取り戻した。 視界が戻ったとき、フィリシ
Huling Na-update: 2026-08-11
Chapter: 幕四十七 それでも、名は呼ばれる
 礼拝堂に走るのは、術式の光と、音なき圧力。 フィリシアの両掌に、赤と青の構文が重なった。 術式名は、《双構式:ヴァルター・ゼロ》。 左右に展開される二重構文が、それぞれ異なる作用で空間を制御する。 一方は追尾制御、もう一方は爆裂干渉――その場で発動することで“逃げ場”を奪う仕様。 王国軍術式の中でも最高位に分類される、絶対制圧型の決戦術。 展開された術式の刃が礼拝堂の床をなぞるように走り、空気が鈍く震えた。 この術式の危険度を察知したアラーナは、二歩、三歩後退した。 そして、大鎌《ルジェ=ノワール》の構文を静かに解除する。 黒い霧が鎌を包み、その形は腰に収まる小鎌へと戻った。 彼女は両手を解放し、回避と機動に全振りする構えを選んだ。 フィリシアの術式の刃が、放たれる。 その軌道は弧を描きながら、正確にアラーナの動線を先読みしていた。 アラーナは回避する。 足音を消し、衣擦れすら抑え、滑るように宙を舞う。 それでも、完全には避けきれなかった。 左肩の後ろ、服を裂いて肉に届いた鋭い痛み。 術式の刃の断面が神経をかすめ、骨の奥をこすられるような疼きが全身に走る。 その疼きの奥から、声が響いた。 “姉さま”――誰かに呼ばれた記憶が、脳髄の奥で震えた。 そして、その声は消えなかった。 まるで脳の奥に染みついたまま、“姉さま”という言葉だけを繰り返し響かせている。 音でも記憶でもない――侵入してくる構文のように、意識の内側をかき回される。 頭蓋の内側が熱を持ち、平衡感覚が崩れ、音が遠のき、呼吸のリズムすら壊れていく。 自分の体が、自分のものではない。 脳のどこかが悲鳴を上げているのに、それがどこかもわからない。 視界は滲み、像が結ばれない。目の前にいるはずのフィリシアの姿すら、捉えられなかった。 アラーナの動きが鈍った。 左腕が震え、痺れが指先まで伝わっていく。 次の瞬間、第二の術式の刃が放たれた。 横から迫る鋭い刃。 アラーナは跳躍の反動で身体をひねり、辛うじてかわした……つもりだった。 だが、反応は限界だった。 視界がかすみ、足元が一瞬ふらつく。 フィリシアの刃が脇腹をかすめ、布を裂き、肉をえぐった。 致命傷は免れたが、防御とは言い難い。 それでもアラーナは倒れなかった。 ただ、呼吸を殺し、立って
Huling Na-update: 2026-08-11
Chapter: 幕四十六 その名を、刃で否定するために
 構えは崩れない。 フィリシアの右掌に、再び術式の光が灯る。 さきほどとは違う。今度は、防御ではなく――攻撃のための術式。 術式回路が一瞬で展開され、空気がわずかに振動する。 構成術・近距離型。制御領域を最小限に圧縮し、即応で発射できる構造。 相手の動きを“読む”のではなく、“来る場所に撃ち込む”設計だった。 アラーナは動かない。 ただ、呼吸の速さがほんのわずかに変わっただけ。 それは、焦りでも警戒でもない。 余計な感情をすべて削ぎ落とし、最短で刃を振るうためだけの呼吸。 フィリシアもまた、距離と時間、出力と反応の比率を冷静に再計算していた。 この空間で、“次の一手”を外すことは、命を落とすのと同義だった。 沈黙が、再びふたりを包む。 礼拝堂の空気は冷たいのに、微かに熱が滲むような静けさがあった。 音も術もない。 ただ、構えだけが語る意志の交錯。「あなたが“アリーシャ姉さま”であることに疑いはありません」「けれど、それでも私は任務を遂行します。あなたは、コード:N=0――排除対象です」 フィリシアの声音は冷たい。 だが、その宣告に揺れはなかった。 アラーナは、わずかに足を踏み出す。 その動きに合わせ、黒い大鎌《ルジェ=ノワール》がかすかに揺れる。「……好きにしろ」 短い返答。 それだけで、すべてを断ち切るには十分だった。 フィリシアが、動いた。 手のひらから射出されるのは、編成された魔力粒子による「術式の刃」―― 空中で形を変え、追尾制御の波動がアラーナを狙う。 アラーナは、それを待っていた。 刃で受けるのではない。身体をひねり、足元を払うように回避する。 黒いコートの裾が翻り、衝撃波の軌道を逸らす。 反撃は、迷いなく。 《ルジェ=ノワール》が、静かに弧を描いた。 構文の力は乗っていない。 ただの刃。 けれどその一閃には、“死神”と呼ばれた者の“精度”だけが宿っている。 その軌道はあまりに鋭く、空間が一拍遅れて裂けたように見えた。 フィリシアは斬撃の到達点を予測し、身体の向きを数ミリだけずらす。 切っ先は布の先をかすめ、かすかな熱だけを残して通り過ぎた。 フィリシアは、斬撃を受けず、いなす。 構成術による応力変換――術式を展開することなく、最小限の動作で殺気を受け流す。(力ではない。
Huling Na-update: 2026-08-11
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