Chapter: 幕十二 老人の願い 扉が軋む音が、沈黙に満ちた地下室に落ちた。 ルメア大通り、その裏手にある古い鉄扉。 看板も札もなく、錆びたその扉は、ただひとりの訪問を待っていた。 階段を下りる足音が、石壁に吸い込まれていく。 その音も、数歩のうちに静寂に呑まれた。 冷たく、乾いた空気。 この地下では、声すら息と同じ速度で消える。 名を告げる者も、名を呼ぶ者もいない世界。 だが――アラーナ・ノクターンが足を踏み入れたとき、空気がかすかに変わった。 灯りはない。 窓もない。 けれど、その空間の中央、契約の抽斗《ひきだし》の脇に据えられた古椅子に、ひとりの老人が座っていた。 誰の気配もないはずの場所に、確かに“居た”。 背は丸く、着込んだコートは年季を帯びて色を失っている。 両手を膝に置いたまま動かず、ただ呼吸だけが生を示していた。 まるで、永い間そこに座って待っていたように。 アラーナは足を止める。 瞳を動かさず、その存在を確認。 老人はゆっくりと顔を上げた。 その動作に、時間が一瞬、引き延ばされた。「……声を、奪われたんです」 低く、震える声。 だが、その語尾だけが妙に確かだった。「……あの子は、もう声が出せない……」「……だから、代わりに……お願いしたいんです……」「……どうか……あの子を……」 声が途切れるたびに、空気が沈む。 その沈黙の深さに、アラーナは呼吸を一拍遅らせた。 彼女は一歩も動かず、それを受けていた。 言葉を返す理由はない。 老人は足元の鞄を開け、ゆっくりと袋を取り出した。 赤い封蝋が施されていたが、印は滲み、かろうじて輪郭を保っていた。 押されたはずの紋章はもう崩れ、ただの汚れにしか見えない。 袋の内には契約書が一枚――だが、それは白紙だった。 そして、ルメア銀貨が十枚。 それだけが、確かに揃っていた。「……このままで――名前も、書けませんでした……」 アラーナは、静かに歩み寄る。 足音は、空気に吸い込まれるたびに形を失っていく。 銀貨が揃っている――それがすべて。 この世界で契約が成立するのは、印でも署名でもない。 “支払いがある”という事実だけが、それを証明する。 それでも――袋を取ろうとした瞬間、彼女の指がわずかに止まった。 依頼の条件は、確かに満たされている。 だが、この銀貨には“
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Chapter: 幕十一 名も声もない依頼 ルメア旧整備区画。 建物の骨組みだけが残った、半壊の住宅群。 雨はもう降っていない。 けれど、空気はまだ濡れていた。 錆びた配管からは絶え間なく水が滴り、壁は剥がれている。 窓という概念すら、この区画からは消えかけていた。 ここでは、誰が死んでも通報はされない。 腐食と崩壊の速度のほうが、生命よりも早い。 そんな瓦礫の路地のひとつ。 灯りの切れた廊下に、ひとりの男がいた。 片眼に黒布、右腕には火傷痕。 契約書に記されていた特徴と、一致していた。 男は壁にもたれ、しゃがみ込むように座っていた。 背の後ろの影が、泥の床に長く伸びている。 彼の指先は、何かをいじっていた―― だがそれが何であるかは、もう意味を持たなかった。 アラーナは音を立てずに近づく。 靴底のの接地音が、かすかに泥を押しつぶす。 背に届く距離。呼吸の気配はない。 ただ、体温だけがこの場所に“まだ生きている”ことを知らせていた。 腰のベルトにかけた小鎌に、指を添える。 刃は音もなく抜かれた。 黒い金属の弧が、夜の湿気を切り裂き、 空気がひとつだけ震えた。 振り返る動作が完了するより早く、男の首が傾いた。 時間差で身体が沈み、泥に濡れた地面へと崩れ落ちる。 音も、叫びも、何も残らなかった。 処理は完了。 その中で――ひとつだけ、かすかな動きがあった。 切断された口元が、震えていた。「……マ……ナ……」 風にかき消されるような、あるいは、ただの痙攣だったのかもしれない。 アラーナの目が、ほんの一瞬だけ動く。 視線の焦点がわずかにぶれる。 “呼ばれた”という感覚。それが何を意味するのか、彼女には分からない。 アラーナは、視線を戻した。 何も聞かず、何も拾わず、踵を返す。 背後では、倒れた身体が泥に沈み、黒布が水を吸って重く垂れていた。 この街の空気は、すべての死を“沈黙”の形に変える。 通りには灯りもなく、風もなかった。 ただ、遠くで鉄管の水が滴る音がした。 アラーナの足音が、それと交互に響く。 生者と死者の区別が曖昧な街。 歩けば歩くほど、境界が薄れていく。 だがアラーナにとって、それは恐怖でも痛みでもなかった。 “仕事”という言葉のほうが、現実に近い。 彼女は、何も持ち帰らなかった。 必要がない。 結果は常
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Chapter: 幕十 ギルドの扉は軋む ルメア中央ギルド《コモン・リスト》。 白い石造りの本館には、連盟登録の冒険者と市民が日夜出入りしている。 その建物の裏手。 看板も、扉札も、鍵穴すらない古い鉄扉がある。 誰も気に留めないその扉は、ただの壁のように沈黙していた。 ……だが、女が近づくと、鉄が軋む音を立ててゆっくりと開いた。 押しても叩いても開かないそれが、音を立てたのは―― アラーナ・ノクターンただ一人を迎え入れる合図だった。 石段を下りる。 硬質音が、静寂の空気にひとつずつ刻まれていく。 冷たい空気が、声帯の存在すら忘れさせる。 灯りはない。けれど、彼女は迷わない。 歩幅も、手の位置も変えずに――まるで日課のように、ただ降りる。 数日前の夜。 仕事を終えた裏路地で、黒衣の男が近づいてきた。 言葉はない。 薄い封書を差し出すと、音もなく去っていった。 アラーナはそれを受け取り、封を切る。 中には、ひとことだけが記されていた。 首を預ける場所。《オーケストラ》。 それだけ。 地下の扉が開くと、石造りの小部屋が現れた。 窓もなく、声もない。 金属製の|抽斗《ひきだし》が整然と並ぶ。 契約を飲み込むための無数の口。 ひとつの抽斗が開いていた。 中には、小ぶりの封蝋袋が納められている。 赤い蝋で封じられた袋は、開封すれば即座に痕跡が残る仕立てだった。 蝋面には、五線譜を模した歪な刻印。 それだけで、ここが何を“演奏”する場所かが分かる。 アラーナは袋を取り出し、封を切る。 ルメア銀貨が規定通り十枚。 契約書には「年齢不詳・片眼・右手に火傷痕」とだけ記されていた。 名前はない。 依頼人の記録もない。 だが報酬だけは、確かに先に置かれていた。 先払い。それが条件。 結果より先に、金が動く。 それを理解できる者だけが、アラーナ・ノクターンに依頼できる。 封を閉じ、アラーナは袋を抽斗の脇に戻す。 ベルトの背に差した小鎌を抜く。 黒く光る刃先は、まだ沈黙を保ったまま空気すら切らない。 柄の端で金属台を一突き。 甲高い音が室内に跳ね、すぐに消える。 声の代わりに――それが了承の合図。 抽斗の奥で帳票が一枚抜かれ、赤い印が押される。 誰が依頼したかも、なぜかも、記されることはない。 ただ、“死神が動いた”という記録だけが残る。
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Chapter: 幕九 沈黙の果て 朝が来ても、沈黙街の空気は変わらなかった。 湿った石畳に陽が射し、かすかにぬめりのある跡が光る。 昨夜、この場所で何が起きたのか―― 誰も問わず、誰も答えない。 アラーナは、いつものように依頼を終えていた。 名を持たない依頼。 報酬は前払い。 細い通りの奥、崩れかけた壁のそばで、ひとつの首が音もなく落ちた。 返り血はない。金属音もない。 通りの向こうで誰かがカーテンを閉める。 まるで“完了”の合図のようだった。 封の開いた封筒が足元に残る。 “ルメア銀貨十枚分”―― 名は記されず、構文印だけが確かだった。 けれど、アラーナの胸には、わずかな違和感が残っていた。 それが“声”なのか、“祈り”なのか。 答えはない。 ただ、確かに何かを聞き届けてしまった気がしていた。 報酬もなく、契約もなく。 それでも、刃は動いた。 誰の指示もないままに。 そう思うには、少し異常すぎた。「……勘違いよ。偶然、重なっただけ」 小さな声が風に溶ける。 誰に向けた言葉でもない。 けれど、それを口にすることでしか、あの夜のざらつきは拭えなかった。 ほんの一瞬、胸の奥で何かが鳴った気がした。 鼓動でも、呼吸でもない。 ――思考の隙間に、かすかな音が落ちた。 ふと、あの少年の目が脳裏をかすめた。 思い出したのではない。 ただ、映像のように――浮かんだ。 ルメアでは今、噂が沈黙街を超えて広がっている。 中央通りの商人たちは語る。「目を見たら、心まで狩られる」「誰にも知られずに消える女」 そんな話が、いつのまにか“祈りを聞く者”の伝説にすり替わっていた。 子どもたちは路地裏で歌っている。 メガミさま、くびだけでいい。 なまえをあげるから、タスケテ。 アラーナのことを知る者はいない。 けれど、彼女の“結果”だけが街を歩いていた。「恐れられるのは構わない。……でも」 アラーナは静かに目を伏せた。 あの少年の目。 わらべうた。 名前のない祈り。 どれもただの空気のはずだった。 けれど、なぜ今も胸に残っている? ――規律を守った。……はずだった 通りには誰もいない。 風が吹き、紙片が転がる。 朝の光が屋根の縁を撫で、街の影がゆっくりと動く。「気の迷い……か」 アラーナは歩き出す。 背後のどこか遠く
ปรับปรุงล่าสุด: 2025-12-30
Chapter: 幕八 祈りの代価 沈黙街の灯りは、今夜もまたひとつずつ消えていく。 それは風の仕業ではない。 黒いロングコートが通りを抜けるたび、店の扉が静かに閉まり、路地から息づかいが消えていく。 誰も声をかけない。 誰も視線を交わさない。 ただ、足音だけが石畳に均等な間隔で落ちていく。 コツ、コツ――。 それが、この街で唯一残された“音”だった。 アラーナには、いくつかの規律があった。 依頼人と顔を合わせない。 声を交わさない。 名を問わない。 そして、誰かの感情に踏み込まない。 そのどれかが崩れれば、自分の輪郭が揺らぐ気がした。 理由はない。 けれど、守らなければならないとだけ、強く感じていた。 その夜、廃材の積まれた路地の端に、ひとりの少年が立っていた。 やせた肩。薄い上着。 顔や腕には、紫色の痣がいくつも浮かんでいる。 少年は両手を握りしめ、何かに耐えるように立っていた。 アラーナは一瞬、足を止めた。 影が、灯のない壁に伸びる。 視線が交わった。 その少年からは、敵意も、憎しみも感じられなかった。 むしろ、祈りに似たものが漂っていた。 声のない願い。 沈黙の奥に沈む、かすかな熱。 アラーナが近づくと、少年は顔を上げた。 瞳の奥で何かが震えている。 唇が、ゆっくりと動いた。「……あの人を、殺して」 声はなかった。 けれど、その形が確かに“言葉”を語っていた。 それは依頼ではない。 報酬も、封筒も、構文印もない。 ただ、ひとりの少年が祈るように願った。 それだけだった。 彼女は短く息を吐き、視線を逸らす。 自身に架した規律を反芻する。 耳を貸さず、言葉を返さず、通り過ぎた。 それが、アラーナの“仕事”。 けれど――その夜の空気には、いつもと違う何かが残っていた。 路地を抜けると、霧が低く垂れ込めていた。 遠くで鐘が鳴った気がしたが、風が音を奪っていく。 アラーナは歩調を緩めず、ただ夜の奥へと進む。 街の端、森へ続く獣道。 その向こうで、世界の音が――途切れた。 翌朝、静まり返った森の入口で、死体がひとつ見つかる。 首がなかった。 血痕もない。 それが誰なのかも分からない。 まるで、首から上の空間ごと消えたようだった。 沈黙街の者たちは、それを見ても騒がなかった。 ただ、またひとつ“支払
ปรับปรุงล่าสุด: 2025-12-30
Chapter: 幕七 名を呼ぶ記憶 夜の空気は冷たく、湿っていた。 アラーナは人気のない路地を、変わらぬ歩調で進んでいく。 足音は一定で、呼吸と同じリズムを保っていた。 誰も彼女に近づかない。 すれ違う者がいても、影を見ただけで視線を逸らす。 この街では、名前を持たない者たちが祈る。 声に出せない願いを、紙に書けぬまま胸にしまう。 そして、夜のどこかで子どもたちが歌を口ずさむ。 女神さま、首だけでいい…… 名前を差し出すから、あの人を連れていって…… それは最近、この街で流行しはじめた“うた”だった。 誰が最初に口にしたのかはわからない。 子どもたちは意味も知らずに遊びながら歌い、大人たちは静かに聞き流している。 けれど、アラーナはその旋律を確かに“感じていた”。 耳に届くというより、空気の振動として。 言葉より先に、街全体がその節を覚えているようだった。 瓦屋根の上。 古びた窓の下。 濡れた石段の影。 どこで誰が歌っているのかはわからない。 それでも、その声は確かに沈黙街のどこかで息づいていた。 アラーナは歩みを止めた。 一歩だけ。 それ以上でも、それ以下でもない。 足元に、小さな水たまりがあった。 濁った闇が鏡のように光を返し、そこにぼんやりと浮かぶ輪郭。 自分の姿ではない。 知らない誰かの顔。 それが、ほんの一瞬だけ映ったように見えた。 アラーナは目を細め、息を吸う。 夜の湿度が肺の奥に沈む。 胸の奥で、何かが微かに疼いた。 声ではない。 名でもない。 ただ、呼ばれた気配のようなもの。 それは記憶と呼ぶにはあまりにも曖昧で、感情と呼ぶにはあまりに冷たい。 けれど確かに、彼女の中で何かが反応していた。「……知ってるわよ、そんな話」 小さく呟いた声が、路地の石壁に吸い込まれる。 その響きは言葉ではなく、吐息に近かった。 街の空気が、それに応えるようにわずかに揺れた。 遠くで犬が吠える。 風が看板を鳴らす。 そのどれもが“うた”の続きのように聞こえた。 子どもたちの歌は、願いの形にも似ている。 誰かの名を差し出せば、死神がその者の首を持ち去ってくれる。 そんな噂が、街の隅々まで染み込もうとしていた。 アラーナは空を見上げた。 月は雲に隠れ、光はない。 夜の輪郭がゆっくりと滲んでいく。「……忘れたわ」
ปรับปรุงล่าสุด: 2025-12-30
Chapter: 『あとがき風』法子「――はいっ、ここまで読んでくれてありがとねっ☆ 『法廷にはコーヒーとプリンを』これにて閉廷しまーす!」菊乃「判事っ! あとがきでまで“閉廷”を叫ぶなど、前代未聞でございます! せめて“ありがとうございました”にしてくださいませ!」 法子「じゃあ、“閉廷ありがとうございました〜☆”」菊乃「組み合わせがめちゃくちゃですのよ!」 法子「でもさぁ、ちゃんと最後は“プリン・エトワール”でしめられたでしょ? おキクさんだって、頬ゆるんでたじゃん?」菊乃「ゆ、緩んでなどおりませんっ! あれは……プリンの質を確認するために真剣な表情をしただけで……!」法子「読者のみんな、聞いた? “真剣にプリンを味わう”って、なんかすごくお嬢様らしいでしょ☆」菊乃「判事っ! 勝手に変換しないでくださいまし!」 法子「あ、そういえばさ。おキクさん、“何度でも一緒に”って言ってくれたじゃん? あれ録音してあるから、次の裁判で流してもいい?」菊乃「ななななっ……!? 録音!? そんなものを証拠品のように扱わないでくださいませぇぇ!」 法子「え〜? でも“判事のいじわるぅぅぅ!”って叫んだのも、いい感じに録れてるよ☆」菊乃「も、もはや辱めでございますわ……! どうかお慈悲を……!」 法子「はいはい、冗談冗談。……でもさ、第二部がもしあるなら――またプリン食べながら騒ごうねっ☆」菊乃「はぁ……結局最後まで、食べ物でまとめるのですか……。ですが……皆さま、もし次がございましたら、そのときもどうか温かく見守っていただけますと幸いでございます……(深々と一礼)」 法子「よしっ! それじゃあ最後にみんなで復唱しよっか! “甘味の過剰摂取には 気をつけましょう☆”」菊乃「そんなあとがきの締め、聞いたことがございませんわぁぁぁっ!」
ปรับปรุงล่าสุด: 2025-12-16
Chapter: 第15話 商店街再開発と最後のプリン 花霞地方裁判所桜都支部・小法廷。 ばさり。黒い法服の裾を翻し、判事・司 法子が入廷した。「令和15年(ワ)第311号、都市再開発差止請求事件――開廷しまーす☆」「判事っ! 開廷の宣言を遊ばないでくださいませっ。不謹慎でございますわ!」 書記官・東條菊乃が思わず声を上げる。 年明け最初の法廷。 満席の傍聴席から笑いが漏れ、空気が少し和らいだ。 原告はスターロード商店街の小規模店舗と住民たち。 代理人は高梨悠一。 被告は桜都市と花霞州、そして外資系デベロッパー、ネクサス・シティ・デベロップメント。 代理人は白川真理子。 冷静沈着な大手事務所の弁護士だ。 第1回口頭弁論。 高梨が熱の入った言葉で訴える。「スターロード商店街は半世紀以上、暮らしを支えてきました。八百屋も書店も喫茶店も――顔を合わせ、支え合う場所です。再開発でそれを奪うのは、取り返しのつかない損失です!」 白川が資料から目を上げる。「歴史は尊い。しかし現実をご覧ください。老朽化、空き店舗、利用者の減少。このままでは“廃墟”です。再開発は未来へ生き抜くための必然です」 高梨は食い下がる。「古いものを壊すだけで未来は生まれません。記憶や心を置き去りにして――それを真の未来と呼べますか!」 白川は淡々と返す。「情緒では都市は守れません。必要なのは合理性と効率。新しい施設、道路、雇用――それが目的です」 法子が短く釘を刺す。「双方、感情に流されず論点を整理してね。裁判は討論会じゃないよ」 主張が出揃た。「――第1回口頭弁論はこれで終結にします。次回、第2回期日に判決を言い渡します」 菊乃はペンを止め、法子の横顔を見る。 飄々とした表情。 だが、その目にはかすかな迷いが揺れていた。 法廷を出ると、庁舎前は記者の波。 フラッシュが瞬く。「今回の行方は? 」「判決の方向性は? 」「あっ、暴走した書記官だ! 」 質問が矢継ぎ早に飛ぶ。 菊乃は固まり、顔が真っ赤になる。「あわわわ……わ、わたくしが……発言する……こと……」 そのとき、法子が割って入り、軽く笑った。「判決はまだでしょ〜。ね、もうちょっと空気わきまえてくれないかなっ☆」 一瞬、記者が静まる。法子は菊乃の腕を取り、人垣を抜けて走った。「は、判事っ!? 走るのですかっ!」「質問攻めだも
ปรับปรุงล่าสุด: 2025-12-16
Chapter: 第14話 ロックスターのお出ましだ 年の瀬。12月30日。 桜都市の商店街は、買い出しの人々でにぎわっていた。 東條菊乃は日傘をたたみ、ためらいなくカフェ・ロッソの扉を押した。 カウンターに着くなり、マスターの西園寺に目当ての品を注文する。「本年最後の……ご褒美ですわ」 目当ては期間限定スイーツ。 艶やかに盛られた苺のミルフィーユ仕立てが、白い皿に映えていた。 一口。 サクサクのパイ生地、甘酸っぱい苺、ふんわりクリーム。 至福の甘みが広がり、菊乃の頬がゆるむ。「……んっ。これは……しあわせ、でございますわ……」 ふっと笑みが漏れる。 普段とは違う柔らかな表情だった。 カラン。 扉のベルが鳴り、店の空気が一変する。「よう、ロックスター! 今日も一段とイカしてるじゃねぇか」 マスター・西園寺慎の声に、客が一斉に振り返る。 革ジャンにフリフリのミニスカ。 カラフルなニーハイ、そして大きめサングラス。 鼻歌まじりに現れたのは――花霞地方裁判所桜都支部、判事、司 法子。 菊乃はフォークを落とし、目を剥いた。「は、判事っ! なんですかその珍妙な格好は! 今は令和の時代ですのよ!」「おばけプリンと、地獄のコーヒーちょうだい☆」 本人は悪びれず、カウンター席に腰を下ろした。「……了解、了解」 西園寺は肩をすくめて注文を受ける。「おや、おキクさん、奇遇だねぇ! 今日は年末特別コスだよっ☆」「コスではございません! 羞恥心という言葉を存じないのですかっ!」 菊乃が顔を真っ赤にして立ち上がる。 その姿に、法子は楽しそうに笑った。「まったく、お前は変わらねえな」 西園寺がカップを磨きながら言う。「昔、バンド組んでた頃も、似たようなこと言ってた奴がいたっけ」「やめろって!」 法子が慌てて制止するが、マスターの口は止まらない。「お嬢様は知ってるか? ノリコは昔、インディーズで絶大な人気だったんだぜ。ライブは満員、雑誌の特集に深夜番組。バンド名は――」「言うなってば!」 法子は顔を真っ赤にして手を伸ばすが、小柄な腕はカウンターの中の西園寺に届かない。 その名はあっさり告げられた。「――爆裂!ぷりん倶楽部……通称、ばくぷり」「ぷ、ぷりんくらぶ……!? 判事が――人気バンド……? ちょっと意味が分からないですわ――ご説明を!」 菊乃はカウンターに手を
ปรับปรุงล่าสุด: 2025-12-16
Chapter: 第13話 お嬢様が見た判事の背中 花霞地方裁判所桜都支部・執務室。 机の上には訴訟記録の山。 横には空になったプリンカップと缶コーヒーが転がっている。 法子は朝から独り言をこぼし、書類をめくっては閉じ、ペンを落としてはため息をつく。「……どっちに寄っても、誰かが泣く」 ぼそりと漏れた声に、菊乃は息を呑む。 いつも軽口ばかりの法子が、珍しく背中を丸めていた。「判事……お加減が悪いのであれば、少しお休みを」「いや、大丈夫。おキクさん。ただ……条文と違って、人の最期はその行間からこぼれ落ちるんだよね」 菊乃は迷った末、机上の空き缶をそっと片付ける。「契約の拘束力は重んじるべき。ですが……本人の“もう十分”という意思を無視するのは、わたくしも違うと感じます」 法子はまだ開けてないプリンカップを指先で弾いた。「プリンだって揺れても芯は残る。判決も、そうあるべきなんだ」 菊乃は返す言葉を失い、ただ横顔を見つめる。(この方は……立ち止まって崩れるのではない。迷いながらも進んでおられるのですわ) ――朝の光が差し込む廊下。 法子は黒法服を腕にかけ、窓ガラスに映る自分をじっと見ていた。 張りのない隈の浮いた顔で、口角を上げてつぶやく。「おキクさん、どう? 今日の顔、五割増しくらいで“冷徹裁判官”に見えるでしょ?」「……とても、そうは見えませんわ」「だよねぇ〜。疲れてるのバレバレか」 無理に明るく振る舞う姿に、菊乃は小さく眉を寄せた。「判事……少し、屋上へ参りましょう。風に当たって、一服されては?」 法子は目を瞬かせ、笑いを含んだ吐息をもらした。「ふふっ。おキクさんが誘うなんて、珍しいね」 ――朝の風が冷たい屋上。 法子は黒法服を脇に置き、ポケットからハイライトを取り出す。「屋上で吸う一本は格別なんだよ」 火をつけ、一口。白い煙が流れていく。 菊乃もマルボロ・メンソール・ライトに火をつける。「誘ったわたくしが言うのも妙ですが、連日連夜の徹夜、多量の喫煙、不規則な食事……お体を壊されては困りますわ――けれど、本日は特別に見逃して差し上げます」 菊乃の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。「ありがと。じゃあ、この一本で気持ちを切り替えるよ」 煙を吐き、目を細める法子の横顔には、人の尊厳に踏み込む覚悟が滲んでいた。(この方は……どんな迷いを抱えても、前を
ปรับปรุงล่าสุด: 2025-12-16
Chapter: 第12話 介護と尊厳、心の重さ 花霞地方裁判所桜都支部・小法廷。 照明の白さが冷たく、時計の秒針がひとつ、またひとつ音を刻む。 書記官の東條菊乃は姿勢を正し、息を潜めていた。 「令和15年(ワ)第290号、介護費用負担請求事件。開廷します」 判事、司 法子が開廷を宣言する。 いつもなら軽口を挟む彼女だが、今日は硬い響きしか残らない。 菊乃は背中越しに普段と違う雰囲気を感じ取った。(……本日は、法服のパフォーマンスも軽口も出ませんのね) 原告は社会福祉法人桜寿会・花霞ケアホーム。代表は柳田昭夫。 穏やかな人柄だが、人手不足と経営難に疲弊していた。 被告は山岸美佐子。45歳。 母・八重を施設に預けた娘である。 原告代理人は神谷亮介。40代前半。 条文と判例を武器に、冷静沈着に論を組み立てる弁護士だ。 被告代理人は川嶋真理。30代後半の気鋭の女性弁護士。 依頼人に寄り添い、熱を込めて戦うことで評判を得ていた。 無機質な照明の下、四人の視線が交錯する。 論理と感情、契約と尊厳。 そのどちらも、これから天秤に乗せられようとしていた。 法子が争点を整理する。 「本件の争いは、延命措置に伴う追加費用についてです。原告は契約に基づく請求を主張し、被告は“本人の意思に反する延命は無効”と訴えています」 傍聴席には高梨悠一。法子の司法修習時代の同期。 ノートを開き、真剣な目で法廷を見つめていた。(……めずらしいな。いつもの法子じゃない) 原告代理人、神谷亮介が口を開く。 眼鏡越しの視線は冷静沈着だ。 「延命措置は、被告・山岸美佐子様の要望に基づき、医師の判断で実施されました。民法第415条は債務不履行を定めていますが、本件は契約に基づく給付義務の履行です。被告が家族として同意された以上、医療行為は適法であり、追加費用は契約上の債務として支払うべきです」 神谷は判例を重ねる。 「東京高裁平成22年判決でも、『家族の同意を得て行った延命措置の費用は契約に基づき支払義務がある』とされています。介護契約は準委任契約の性質を持ちます。家族が同意した以上、その行為は有効です」 淡々とした声は、冷たい論理の刃となった。 柳田昭夫は疲れきった表情のまま俯いている。 「被告代理人、意見はありますか」 法子が目を向けると、川嶋が立ち上が
ปรับปรุงล่าสุด: 2025-12-16
Chapter: 第11話 契約と血筋と揺れる正義 ― 判決 大荒れとなった第2回口頭弁論期日から一週間が過ぎた。 桜都支部の執務室には重苦しい沈黙が広がっていた。 裁判内での規律違反について、菊乃は所長の訓告にとどまった。 桐生所長自身は本局からの口頭注意で済んだ。 裁判翌日に桐生が本局へ走り、深々と頭を下げて最低限の処分に抑えた結果だった。 桐生は机の引き出しから新しい胃薬を取り出す。 「頭を下げるのが私の仕事だ……これからもよろしく頼む――イタタタ」 みぞおちを押さえながら苦笑する。 その一言に、張りつめていた空気がほんの少しゆるむ。 事務官たちの間にかすかな安堵が走った。 窓の外は冬の曇天。 薄い光が書類の山を冷たく照らしていた。 東條菊乃は、一週間前の自分の叫びを耳の奥で反芻し、肩を落としていた。 ペンを取ろうとする手は、まだ震えている。 そこへ法子が椅子にもたれ、片手をひらひら。 「――『契約自由の原則なんて、くそくらえでございますわっ!』」 菊乃の声色を真似る。 空気が一瞬止まり……事務官の一人が吹き出した。 「は、判事っ……! そのような真似をなさらないでくださいましっ!」 菊乃の頬が真っ赤になる。 だが法子はけろりと笑った。 「まあまあ、判決考えてくるから、おキクさんは気楽に待っててよ☆」 桐生は眉をひそめたが、ため息とともに合議室へ。 ――裁判官三名による評議。 円卓を挟み、裁判長の桐生重信、左陪席の法子、右陪席の真壁京太が着席する。 記録と判例のコピーが重なり、紙の匂いが漂った。 桐生が口火を切る。 「契約自由(民法521条)は私的自治の柱だ。全面無効には慎重であるべきだろう」 法子が即座に返す。 「“自由”を掲げて不均衡を固定化するなら、それはもう自由じゃない。公益の名で弱者に呪いを刻む契約は、法が否定しないと☆」 真壁が資料を繰り、冷静に言葉を置いた。 「落としどころが必要です。違法部分を切除し、残部は生かす。部分無効と一部救済。判例の流れにも沿います」 議論は数時間に及んだ。 “正義とは手続か、実質か”。 言葉はやがて結論へ収束する。 ――一部条項無効。原告の請求は一部認容。契約全体は維持。 三人は静かに頷き合った。 令和15年(ワ)第234号 桜都市水族館建設請負契約 無効確認請求事
ปรับปรุงล่าสุด: 2025-12-16