LOGIN過去の事件により、記憶を封じられた殺し屋。 アラーナ・ノクターン。 王国の闇を歩き、命じられた首を、ためらいなく狩る。 その動きは祈りのように静かで、その刃は、夜気よりも冷たい。 語ることも、嘆くこともなく、彼女の存在は風のように通り過ぎる。 光は届かず、血も熱を持たない。 世界の底で、ただひとり、彼女は「沈黙」という名の孤独を抱いていた。 けれど、刃が触れるたびに、ほんの一瞬だけ、生と死のハザマに“音”が生まれる。 誰にも届かぬその音こそ、彼女がこの世に残せる唯一の“声”。 ――その刃は、声なきままに首を断つ。 アラーナの声は、ひとつの詩となる。
View More夕暮れ。
ルメアの下層区は、深く沈んでいた。
市場は閉ざされ、風見鶏は止まっている。
風だけが、影のように通り抜けていった。
通りの片隅で、子どもたちが輪をつくる。
声は小さい。けれど、確かに歌があった。
誰が教えたのかも、いつから始まったのかもわからない。
それでも皆、その歌を知っていた。
少女がぬいぐるみを抱き、片足で回る。
歌が輪を描き、影が地面に伸びる。
風が通り抜け、誰かの髪を揺らした。
―――――――
ねぇねぇ おしえて
だれのなまえが きょうはきえるの?
しらないこえが ふりむいたら
くびが ころん おちるから
なまえはかくして ほら うたおう
しんだふりして ねむろうよ
―――――――
それは遊びだった。
目隠しをした鬼がひとり、中央に立つ。
誰かがそっと背を叩き、「なまえは?」と囁く。
答えられなければ捕まる。
ただ、それだけのこと。
意味を知る者はいない。
けれど、この街では“暗闇で名を呼ばれたら首が落ちる”と信じられていた。
石畳の向こうで、店主が窓を閉めた。
古書屋の老婆は本を読むふりをしている。
誰も歌に触れない。
ただ、聞こえないふりをしていた。
この街では、名は呪いに似ている。
呼ぶことは、結ぶこと。
呼ばれることは、切られること。
それでも、誰かが必ずその歌を口にする。
忘れないために。
あるいは、思い出してしまうために。
その歌は、今も起こっている。
ほんとうに“あった”ことだった。
けれど――誰も、その意味を知らない。
風が通りを撫でた。
輪が揺れ、歌が止まる。
空気が一瞬、遠い過去の色を帯びた。
その夜、ひとつの名が誰にも知られずに消えた。
誰もそれを知らない。
けれど確かに、存在していた。
それは過去ではない。
今も起こっていることだった。
けれど、“誰の話か”を知る者はいない。
物語は記録されなかった。
沈黙の底で、ひとつの刃が動き出す。
(つづく)
黒煙は消え、路地裏の空気が戻ってきた。 雨はやんでいた。けれど、地面はまだ濡れていて、踏みしめるたびに薄く水音を立てた。 沈黙だけが、雨の名残として残っていた。 追跡兵の形も血も、何も残らなかった。 ただそこにあったのは、“処理されたという事実”だけだった。 アラーナは、しばらくその場に立ち尽くしていた。 やがて、背中に貼りついた冷気が動き、足が前に出る。 左手には、古い金属の鍵。 名も知らない男が、数日前に残していったもの。 鍵は、廃聖堂裏の一室を開いた。 蝋燭の火は、すでに灯されていた。 男は机の前に座っていた。前と同じ姿、同じ場所、同じ表情。 アラーナが一歩足を踏み入れると、彼は視線を上げ、静かに言った。 「……“死神”が戻ったという噂は、もう軍だけじゃない。王国の上層部――いや、国王の耳にも入っているだろうな」 アラーナは返さない。沈黙のまま、壁際に立つ。 「記録ってのはな、誰かが“生きてる”って信じてる限り、燃やしても残る。良くも悪くもな」 彼は机の上の一枚の紙を滑らせる。 アラーナが受け取り、目を落とす。 そこに書かれていたのは、区画番号と座標、そして十日後の日付。 名前も、依頼人も、理由もない。ただ、それだけ。 「……だが、塗りつぶすことは、できるかもしれない。形を変え、存在を消して、別の姿で歩かせることができるなら――な」 アラーナは紙を伏せたまま、男の顔を見た。 だが彼は何も言わない。微笑むこともなく、ただそのまま、語り始めた。 「……第四実行班。あれは、存在を“記録される前に”消すための班だった」 彼の声は、低く静かだった。 「再教育された貴族。禁術保持者。密命に背いた軍人。王国にとって“不都合な存在”を、表に出さず、記録ごと抹消する――それが、俺たちの任務だった」 「俺たち暗号兵は、ただ、命令だけに従った。意志持つこともなく、番号で生かされて、番号で処理されるために存在していた」 机の上の蝋燭が、わずかに揺れた。 「……でもな。気づいてた。処理対象が、何もしてない子どもだった時もある。“記録に残る前に消せ”って……あれは、ただの予防だった」 男は、無意識に「俺たち」と言っていることに気づくと、少しバツが悪そうに頭を搔いた。 アラーナは、その言葉を聞きながら、ひとつの記憶を思い出し
夜の雨は、音を吸い取るように降っていた。 濡れた石畳に、足音は沈んでいく。 空に、月はない。 音が消え、世界が息を止めた。 アラーナは、歩きながら思い出していた。――影衛(シャド・ガルド)第四実行班。 その中でも最も冷静で、最も速く、そして確実に“処理”を遂行する暗号兵。 コードネーム、ゼロフォー。 命令に感情を挟まず、声も音もなく対象を狩る。 指令室の者すら、その背に不用意に近づくことはなかった。 処理兵のあいだで広まったひとつの噂。「目を合わせた者が消える」「呼びかけただけで次の処理対象になる」 記録されぬ囁きが、ひとつの異名を作った。――“死神”。 与えられたのではない。 ただ、そう呼ばれるようになっただけ。 ゼロフォーの、もう一つの呼び名。 雨が視界を滲ませるなか、遠くで誰かが噂している声が聞こえた。「なあ、また出たんだって……首が、なかったって」「だから言ったろ、あれは“死神”なんだよ。名も、顔もないって」 ふと、足を止める。 アラーナは小さく、息を吸った。 そのまま、誰に向けるでもなく、低くつぶやいた。「……し・に・がみ、か」 雨の音が、すぐにその言葉をさらっていった。 だが、アラーナの胸の奥には、確かに残っていた。 自分が“名を持たないまま呼ばれていた《モノ》”として――。 背中に視線を感じたのは、それから数歩後だった。 雨音に紛れた気配。 振り返らずとも、わかる。 こちらに向けられた、敵意のない“探索”。 追跡兵。 アラーナは歩を止めず、周囲の通りと建物の配置を把握する。 ルメア旧街区の西側。ギルドの管理が及ばない“観測外エリア”。 つまり、軍が動きやすい場所だった。 視線はひとつではない。 前方、屋上、通路の端。 複数の足音。呼吸の抑制。誰かが無線を使ったような“沈黙の重み”。 完全に囲まれている。 だが、アラーナの表情は変わらない。 腰の《ルジェ・ノワール》には触れることもなく、路地に駆け込んだ。 廃工場の裏路地へと足を踏み入れたとき、空気が切り替わった。 一斉に気配が動いた。 囲みが縮まる。 武器の気配はない。 だが、数人が同時に、無言で跳び出してくる。 名乗りもなく、口もきかない。 まるで過去の自分のように、“番号”しか持たぬ者たち。
蝋燭の小さな炎が、冷えた空気をゆっくり撫でていく。 その温度が、記憶と現実の境を曖昧にしていた。 男は椅子にもたれかかり、組んだ指をゆっくりほどくと、静かに机の上を叩いた。「……第四実行班の名簿、いまじゃ軍の中でも一部の上層部しか見られない」 アラーナは反応を返さない。 呼吸を抑えるようにして、言葉を封じた。 口を開けば、過去に飲み込まれてしまう気がした。「十人いた暗号兵のうち、八人は任務中に消えたとされてる。 処理兵は全員、内部記録抹消。指揮官だった女――セリア・グランネヴィル。 最後に目撃されたのは、首だけが指令室に残された時だった」 蝋燭の炎が、机の上に置かれた一枚の紙を照らす。 そこには手書きの図と、番号の羅列。ゼロフォーの名もある。 「まさか、本当に……お前がやったのか。全部、あの時に」 沈黙。 アラーナは動かない。 だが、その指先が、ごくわずかに動いた。 紙に触れるわけでもなく、ただ手のひらが、無意識に何かを拒絶するように。 男は表情を変えず、続けた。 「命令に背いた、ってことか。あるいは――命令を果たしすぎた、のかもしれないけどな」 椅子のきしむ音。 蝋燭が小さく波打つ。 「でも、ひとつだけ言える。お前は“誰か”を斬らなかった」 その言葉に、アラーナの視線が一瞬だけ動いた。 体温が、ほんのわずかに上がるのを感じる。 忘れたはずの鼓動が、コートの下で鳴った。 「記録に残ってるんだよ。ゼロセブン――リュカ・アーヴェント。“ゼロフォーの任務中に失踪”ってな」 その名に、反応はなかった。 けれど、空気が確かに、少しだけ締まった。 「……それがゼロフォーの“意志”だったのなら」 男はゆっくりと立ち上がった。 机の上に、小さな鍵をひとつ置く。 「俺は、お前に興味がある」 そのまま、背を向けて歩き出す。 扉の前で立ち止まり、最後に一言だけ、背中越しに告げた。 「好きにしていい。この街で居続けるのか、逃げるのか、それとも……この街で、俺を斬るのか。だが、覚えておけ。……ゼロフォーという文字列は、まだ“消されていない”。あの記録庫の底に、きっちり貼られている」 扉が軋んで開き、足音が外へと消えていく。 部屋には、炎の音と、鍵の金属が木に触れる微かな感触だけが残された。 アラーナはまだ、何も言わない
男の背を追って歩く。 アラーナは足音を抑え、視線を絶えず周囲に巡らせていた。 廃聖堂。 かつて宗教施設だったという石造りの建物は、今ではほとんど忘れられた存在だった。 扉は錆びていたが、開く音は意外なほど静かで、内部は思ったより整っていた。 灯りはない。 男が蝋燭を一本取り出し、火をつける。 オレンジ色の光が、埃にまみれた机と椅子を照らし出す。 四方を石壁に囲まれた空間。窓は布で覆われ、外からの気配は届かない。 密室というには、あまりに静かすぎた。 男は机の向こう側に腰を下ろし、椅子をひとつ、軽く手で示した。 アラーナは応じない。 壁際に立ったまま、男を見ていた。 その視線は警戒を解かず、同時に、蝋燭の炎を見てもいなかった。 男は無理に話しかけようとはしなかった。 しばらくの間、室内にはただ蝋の燃える音だけがあった。 “ゼロフォー”。 その言葉が、まだ頭の奥に引っかかっている。──番号だけで呼ばれていた日々。 訓練施設の白い天井。 鉄の音、整列、感情の削除命令。 自分の意思で動いた記憶が、ひとつもない。 眠る時間も、食事の量も、表情の変化すら――すべてが監視されていた。 喜怒哀楽は“廃棄対象”とされ、笑った者は次の朝には部屋から消えていた。『ゼロフォー、次の処理対象』『ゼロフォー、表情変化、規定外』 命令の声が降ってくるたびに、頭の中の何かが凍りついていった。 “判断”という機能が、最初から自分に与えられていなかったのだと、思い知らされる。 あれは意思ではなかった。反射だった。 投げられた言葉に、身体が勝手に反応する。 名を与えられることはなかった。 番号で呼ばれ、番号で消される者だった。 生き残る条件は、ただ命令に従うことだけ。 アラーナの目が、今いる部屋と記憶の中の“あの部屋”を重ねていた。 石壁の冷たさ。灯りの位置。誰もいない静けさ。 違うのは、自分が立っている“意志”の強さだけ。 男がようやく口を開いた。「……影衛(シャド・ガルド)の残党が、動き出してる」 彼の声は低く、抑揚はほとんどなかった。 机の上に、何枚かの紙を広げる。 手描きの地図、記号が刻まれた軍用文書の断片、黒く塗り潰された日付。「影衛の組織自体は、とっくに死んでる。 だが、お前の記録は軍に残ってるし……新