Chapter: 第12話 国境の向こう④ ――テレジア王国、王城。 セシリアは、薬務室の机に広げられた記録を見つめていた。 ルシアが残していった調合記録。 新しく薬剤師たちが作った補食の配合表。 そして、ここ数日の移動用魔獣の体調記録。 並べれば、違いははっきりしていた。 同じ材料。 同じ分量。 同じ形。 けれど、結果が違う。 ルシアの補食を食べていた時、長距離移動後の魔獣たちは翌朝には食欲を戻していた。 水も飲み、腹を壊す個体も少なかった。 だが、今は違う。 食べる。歩く。けれど、戻りが遅い。 目に見える傷はない。 呪いもない。瘴気もない。 それでも、確かに弱っている。 セシリアは懐の手紙に触れかけて、指を止めた。 読み返せば、また姉の優しさに甘えてしまう気がした。今見るべきものは、机の上の記録だ。 「……お姉様は、ここで何を見つけたの」 小さく呟く。 机の端には、古い記録帳が置かれている。 ルシアの筆跡だった。 ――湿気の多い日は、乾燥薬草を半量に。 ――胃の弱い個体には蜂蜜を足さない。 ――長距離移動後、すぐに濃い補食を与えないこと。まず水。 ――よく食べる個体ほど、食後の様子を見る。食欲は健康の証とは限らない。 細かい。 あまりに細かい。 けれど、その細かさのひとつひとつが、今のセシリアには痛いほど分かった。 調合法だけではない。 姉は、【魔獣】を見ていた。 食べ方を見て、水の飲み方を見て、眠る前の姿勢まで見ていた。 だから効いていたのだ。 薬が特別だったからではない。 その子に合わせて、薬を変えていたから。 部屋の扉が開き、教会騎士が入ってきた。 セシリアの護衛を務める青年騎士だった。名はレオン。あの日、ルシアを欠陥聖女と呼んでしまった騎士でもある。 今の彼は、以前よりずっと慎重な顔をしていた。 「セシリア様。厩舎の子ですが、先ほどまた食べ残しました」 「水は?」 「飲みます。ですが、飲んだあとに首を下げます」 「補食は」 「半分ほどです」 セシリアは目を伏せた。 ルシアなら、きっとその動作を見逃さなかった。 食べ残した量だけでなく、なぜ食べ残したのかを考えただろう。 「聖眼で診ます」 「はい」 ◇ 厩舎
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Chapter: 第11話 国境の向こう③ ヴァルミア王国へ向かう馬車は、フランキスの街道を南西へ進んでいた。 窓の外に広がる景色は、少しずつ変わっていく。 王都近郊の整えられた道を抜けると、緩やかな丘陵が続き、やがて遠くに青灰色の山並みが見え始めた。 あの山の向こうが、ヴァルミア。 ワイバーンの国。 ルシアは膝の上に開いた資料へ目を落とした。 昨夜から何度も読み返した記録だ。 ――山岳待機、七時間。 ――夜間気温、著しく低下。 ――翌朝、緊急出撃。 ――帰還後、右翼を下げ、飛行不能。 ――翼膜裂傷、治癒術にて閉鎖。 ――三日後、再発。 文字だけなら、ただの報告書だ。 けれど今のルシアには、その裏にあるものが気になって仕方がなかった。 冷えた岩場。 湿った風。 動けないまま待たされる体。 重い肉餌。 温まらない翼。 それでも命令で空へ上がるワイバーン。 まだ見てもいないのに、苦しみの輪郭だけが紙面の向こうで揺れている気がした。 「酔った?」 向かい側からマグダレナが声をかける。 白衣ではなく、今日は移動用の濃紺の外套を羽織っている。いつもの軍服めいた服装と相まって、医療施設長というより前線指揮官のようだった。 「いえ、大丈夫です」 「ならいいわ。顔が険しいから、資料に噛まれたのかと思った」 隣に座っていたノーマンが、記録板を抱えたまま真顔で頷いた。 「資料は噛みます。特に急ぎで集められた資料は、誤字と抜けで精神をガブリと……あ、施設長の視線が痛いのでここまでにしておきます」 「賢明ね」 「生存判断です」 ルシアは思わず目を瞬いた。 そのやり取りを見ていたアルベルトが、低く笑う。 今回はアルベルトも同行している。 フランキス第一王子として、同盟国ヴァルミアとの調整役を担うためだという。 「緊張しすぎなくていい。ヴァルミア側も、こちらを責めるために呼んだわけではない」 「はい」 「ただし、かなり焦ってはいるだろうね。山岳国にとって、ワイバーンは空の足だ。飛べない個体が増えれば、砦も村も孤立する」 ルシアは資料を閉じた。 「……ペガサスより、生活への影響が大きいのですか」 「地形によるわ」 マグダレナが答える。 「フランキスではペガサスもヒッポグリフもドレイクも使う。で
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Chapter: 第10話 国境の向こう② ――フランキス王国、王立魔獣医療・保護施設。 その日の午後、ルシアは飼料庫にいた。 机の上には、乾燥薬草、砕いた穀類、甘樹脂、塩分を含む鉱石粉、水に溶けやすい整腸薬が並んでいる。 白い迎撃ペガサス用。 灰色の伝令ペガサス、リューネ用。 輸送用ヒッポグリフ用。 同じ飛行魔獣でも、必要なものは違う。 ルシアは小さな匙で薬草を量りながら、記録板に数字を書き込んでいた。 「白灯草、二匙。月露草、半匙。甘樹脂は……少しだけ」 「少しだけ、という単位は正式記録に向きません」 隣でノーマンが即座に言った。 ルシアは手を止める。 「では、四分の一匙で」 「よろしいです。記録係が泣かずに済みます」 「ノーマン様は、記録係なのですか?」 「研究員です。ですが最近、紙に埋もれる係になりました」 ノーマンは真顔で言った。 「魔獣の命と引き換えなら、紙の山くらい受け入れます。ただし、誤字は許しません」 ルシアは思わず笑いそうになった。 その時、飼料庫の扉が勢いよく開いた。 「ルシア」 入ってきたのはマグダレナだった。 いつもの白衣。肩で切り揃えた金髪。 表情は落ち着いている。けれど、目の奥が少し鋭い。 何かあったのだと、ルシアはすぐに察した。 「はい」 マグダレナは扉を押さえたまま、まっすぐにルシアを見た。 「会議室へ。ヴァルミアから報告が届いたわ」 「ヴァルミア……」 聞き慣れない国名に、ルシアは瞬きをする。 ノーマンが記録板を抱え直した。 「同盟国ですね。南西の山岳国家。ワイバーン運用が多い」 「ノーマン、説明は歩きながら」 「はい。歩く資料係になります」 マグダレナはすでに廊下へ出ていた。 ルシアは慌てて手を拭き、記録板と筆を持って後を追った。 ◇ 会議室には、アルベルトがいた。 机の上には数通の封書と、広げられた地図。 フランキスの南西に、険しい山脈を抱く国が描かれている。 ヴァルミア王国。 ルシアは地図の上に並ぶ山の記号を見つめた。 フランキスとは違う。 平原より山が多い。 街道は谷間を縫うように伸び、国境付近には砦の印がいくつもある。 「来たね」 アルベルトが顔を上げた。 いつもの穏やかな声だったが、机の上の書類
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Chapter: 第9話 国境の向こう① ――テレジア王国、王都。 ルシアが屋敷を去ってから、七日が過ぎていた。 セシリアの毎日は、相変わらず忙しかった。 朝は神殿で祈りを捧げ、昼には貴族家の訪問を受け、午後には王城へ呼ばれる。夕刻には教会関係者との面会が入り、夜には聖女として覚えるべき儀礼や記録に目を通す。 誰もが、セシリアを丁寧に扱った。 銀の聖眼を持つ、正統な聖女。 傷を癒やし、呪いを祓う、アージェント家の誇り。 そう呼ばれるたび、胸がかすかに冷えた。 誇り。 その言葉の隣に、本当ならもう一人いるはずだった人の名前を、誰も口にしない。 ルシアの部屋に残されていた手紙は、今もセシリアの懐に入っている。 何度も読み返したせいで、封の折り目は少し柔らかくなっていた。 紙の端には、セシリアの指が無意識に触れた跡が残っている。 短い手紙だった。 けれど、その短さが余計に苦しかった。 姉は、何も責めなかった。 何も求めなかった。 ただ、セシリアを祝福して、去っていった。 それが、ずっと胸に引っかかっている。 「セシリア様」 呼びかけられて、セシリアは顔を上げた。 王城の裏手にある魔獣厩舎。 そこには、貴族や教会関係者の移動に使われる馬型魔獣たちが並んでいる。 今日は、神殿騎士団の移動用魔獣の一頭が体調を崩したと聞き、セシリアが呼ばれていた。 銀の聖眼を持つ者なら、傷や呪いの有無をすぐに見分けられる。 そう言われて。 「この子です」 教会騎士が手綱を引き、栗色の馬型魔獣を示した。 以前、セシリアが乗ったことのある子だった。 ルシアの補食を食べて、朝から走っても元気だった、あの子だ。 けれど今は、耳が伏せ気味で、首も低い。脚に大きな傷はない。だが、どこか覇気がなかった。 「昨日から食が細く、今朝もあまり食べませんでした。歩けはしますが、長く走らせると息が乱れます」 「怪我は?」 「ありません。少なくとも見える範囲では」 セシリアはそっと魔獣の額に触れた。 銀の聖眼が、静かに光を帯びる。 見えるのは、表面の傷。 流れ込む瘴気。 呪いの痕跡。 骨や筋を裂くような損傷。 けれど、どこにもそれはなかった。 傷はない。 呪いもない。 瘴気もない。 なら、聖眼で
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Chapter: 第8話 魔獣番の国⑥ 五日後。 劇的に治った魔獣は、まだ一頭もいなかった。 迎撃部隊の白いペガサスは、まだ長く飛べない。 伝令部隊のリューネも、まだ任務復帰には遠い。 輸送用のヒッポグリフたちも、脚や翼の疲労を完全に抜けたわけではない。 それでも、王立魔獣医療・保護施設の朝は、五日前とは確かに違っていた。 檻を叩く音が減った。 水桶の前で迷う時間が短くなった。 夜間の記録に、「浅い眠り」ではなく「短時間だが深く眠った」という文字が増えた。 奇跡ではない。 快癒でもない。 けれど、悪化の速度は確かに落ち始めていた。「今の状態を言うわ」 記録室の中央で、マグダレナが紙束を机に置いた。「治ってはいない。でも、崩れ続ける流れは止まりかけている」 ノーマンが横から記録板を掲げる。「水分摂取量、重症三頭のうち二頭で微増。睡眠記録、伝令部隊の軽症個体五頭中三頭で改善傾向。食欲は…… まあ、まだ渋いです。魔獣も人間も胃が痛い時は機嫌が悪い」「余計な一言は?」「反省中です」「よろしい」 淡々としたやり取りに、会議室の空気が少しだけ緩んだ。 ルシアは記録を一枚ずつ見比べていた。 水を飲んだ量。 餌に口をつけた回数。 翼の震えが出た時間。 装具を見た時の反応。 夜に体を横たえられたかどうか。 どれも小さな数字だ。 テレジアの宮廷なら、たぶん笑われていた。 そんなものを数えて何になる、と。 けれど今、この小さな数字の積み重ねが、命を処分から一歩遠ざけている。「白いペガサスは?」 マグダレナが尋ねる。 ルシアは該当する記録を引き寄せた。「まだ胃の痛みは残っています。ですが、水を飲んだあとに首を振る回数が減りました。餌も、昨日はようやく口をつけました。一口だけですが」「一口」 ノーマンが小さく拳を握る。「地味に嬉しいですね」「地味ですが、大きいです」 ルシアは真面目に頷いた。「この子にとっては、食べてもすぐ痛くならないという経験を積み直している段階です。急に量を増やすと、また食べることが痛みと結びついてしまいます」「なら、一口で勝ちか」「昨日のところは。今朝はこれから診ます」「記録します。一口、勝ち」「ノーマン」「正式記録には書きません」 マグダレナに睨まれ、ノーマンは素早く言い直した。 その時、マグダレナが紙束をめ
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Chapter: 第7話 魔獣番の国⑤「この国のやり方そのものが、魔獣たちを少しずつ追い詰めています」 ルシアの言葉が落ちたあと、記録室にはしばらく誰の声もなかった。 責めるつもりで言ったわけではない。 けれど、言葉にした瞬間、その重さが部屋の中へ広がっていくのが分かった。 ベルンは固い顔で配合表を見つめていた。 ノーマンは記録板を抱えたまま、珍しく何も言わない。 マグダレナは腕を組み、地図と報告書を交互に見下ろしている。 最初に口を開いたのは、アルベルトだった。「ルシア殿。確認したい」 その声は穏やかだった。 けれど、王族として何かを決めようとしている声でもあった。「飛翔用標準配合を止めれば、すぐに魔獣たちは回復するのか」「いいえ」 ルシアは首を振った。「すぐには難しいと思います。胃を痛めている子には、まず負担を減らす必要があります。眠れていない子には、休ませ方を変える必要があります。食べ物を変えるだけでは足りません」「なら、何から変えるべきだ」 問われて、ルシアは一度だけ目を閉じた。 昨日見たペガサスの苦しみが、胸の奥によみがえる。 焼けつく胃の痛み。 空腹のまま張りつめていた待機時間。 装具の音と結びついた恐怖。 水を飲むことすらためらうほどの不快感。「まず、重症の子には飛翔用標準配合を止めてください。少なくとも、今のまま与え続けるのは危険です」 ルシアは配合表の横に、白紙を引き寄せた。「胃を守る薬草を混ぜた柔らかい餌に切り替えます。量は少しずつ。水には薄い整腸薬を。香りが強いものは避けてください。興奮を高める香草も、今は抜いた方がいいです」「飛行任務は?」 アルベルトが問う。「飛行前の長い絶食は見直すべきです。空腹のまま待機させる時間を減らしてください。任務後はすぐに装具を外し、水分と補助薬を入れて、静かな場所で休ませる必要があります」 ベルンが低く唸った。「だが、飛行前に腹を満たせば、体が重くなる。事故につながる。昔からそう教えられてきた」「満たす必要はありません」 ルシアは静かに答えた。「腹を空にしすぎないだけです。飛ぶために軽くすることと、痛むほど空腹にすることは違います」 ベルンは、返す言葉を探すように唇を結んだ。 マグダレナが机を指で軽く叩いた。その手が、報告書の束の上で止まる。「施設内の重症個体で試験する」「施
ปรับปรุงล่าสุด: 2026-07-15