婚約破棄され売られた欠陥聖女は、隣の大国で『魔獣の聖女』と呼ばれることになった

婚約破棄され売られた欠陥聖女は、隣の大国で『魔獣の聖女』と呼ばれることになった

last update最終更新日 : 2026-08-05
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概要

スカッと

異世界ファンタジー

強いヒロイン

おとなしい子

聖女

貴族

ざまぁ

成長

「聖眼を持たないお前に、もう価値はない」 婚約破棄され、欠陥聖女として隣国に売られたルシア。 しかし彼女の持つ金の魔眼は、魔獣たちの「見えない痛み」を色として視える唯一の力だった。 地味な薬餌と記録で魔獣を救う日々を送るうち、フランキス王国では彼女を「魔獣の聖女」と呼ぶ声が広がっていく。 一方、故国では銀の聖女である妹・セシリアが同じ問題に直面し――。 壊れる前に見つける。癒やすだけでは足りない。 静かな魔眼が、魔獣と人々の運命を変えていく、 優しい癒やしのお仕事再評価ファンタジー。

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第1話

第1話 売られた欠陥聖女①

「本日をもって、オスカー・ヴァーダンド殿との婚約は解消される」

 伯父ギルバートの声は、驚くほど平坦だった。

 叱責でもない。

 慰めでもない。

 ただ、決定済みの書類を読み上げるような声。

 ルシア・アージェントは、執務室の中央で静かに立っていた。

 窓の外では、春の光が庭木を明るく照らしている。けれど室内の空気だけは、別の季節に取り残されたように冷えていた。重厚な机の向こうにギルバートが座り、その斜め後ろにはオスカーが立っている。

 婚約者だった人。

 いいえ、今まさに、元婚約者になった人。

 オスカーは少しも動揺していなかった。公爵家の子息らしい整った身なり。乱れのない姿勢。感情を読み取らせない瞳。

 その態度を見て、ルシアは理解した。

 これは今、思いつきで告げられたことではない。

 ずっと前から決まっていたのだ。

「……はい」

 返事をした声は、自分でも意外なほど静かだった。

 今日がセシリアの聖女認定の日であること。

 こんな日に限って、宮廷の仕事を終えた直後に本邸へ呼び戻されたこと。

 廊下で使用人たちが目を合わせようとしなかったこと。

 すべて、今の言葉につながっていた。

 だから、驚きは遅れてこなかった。

 胸の奥に、ただ冷たいものが沈んでいくだけだった。

「本日の認定によって、セシリアは正式な聖女となる」

 ギルバートは続けた。

「アージェント家は、代々聖女を輩出してきた家だ。公爵家との縁は今後も必要となる。だが、聖女となったのがセシリアである以上、婚約相手としてふさわしいのは、もはやお前ではない」

 もはや。

 その一言が、妙にはっきり耳に残った。

 ルシアは、聖眼を持たなかった。

 聖女の家に生まれながら、傷を癒やし、呪いを祓う銀の聖眼を持たなかった。だから幼い頃から、欠陥聖女と呼ばれてきた。

 事故で両親を失い、伯父の家に引き取られてからは、迷惑をかけないよう必死に学んだ。聖女になれないなら、せめて役に立つ人間になろうと思った。

 薬草の性質を覚え、調合を学び、狭き門をくぐって王室付薬剤師になった。

 その時、王妃エレオノーラが書いてくれた推薦状だけは、宮廷でのルシアにとって小さな支えだった。以前、王家の馬型魔獣の不調を診た時、誰も見なかった食べ方と水の飲み方を拾ったことを、王妃だけは覚えていてくれたのだ。

 けれど、宮廷で与えられた仕事の多くは、人のための薬ではなかった。

 魔獣の餌。

 魔獣の腹具合。

 魔獣舎の薬草。

 騎士たちが乗る戦闘魔獣や移動用魔獣の、地味な補食と体調管理。

 誰もやりたがらない仕事だった。

 徹夜で調合した薬餌によって魔獣の体調が戻っても、記録にルシアの名が残ることはほとんどなかった。

「誰でもできる雑務」と呼ばれた仕事だけが、いつの間にか彼女の机に積まれていった。

 それでも、ルシアは続けた。

 このところ、テレジア王国では辺境の開拓政策が急がれていた。森を切り開き、街道を広げ、鉱山を増やす。その影響で棲み処を追われた野生魔獣が街道近くへ現れ、宮廷の魔獣たちは護衛や巡回に駆り出される回数が増えていた。

 疲れやすくなった個体。

 腹を壊す個体。

 眠れず、気が立つ個体。

 ルシアはそういう変化を、ひとつずつ記録してきた。

 誰かが気づく前に、少しでも崩れを止めたかった。

 それでも、聖女の価値には届かない。

 その事実だけは、ルシア自身が誰よりよく知っていた。

「ルシア」

 オスカーが口を開いた。

「これは家と国のための判断だ。君も理解してくれるだろう」

 理解。

 その言葉に、ルシアは心の中だけで小さく息を吐いた。

 理解はできる。

 セシリアが選ばれることも。

 セシリアがこの国に必要な聖女であることも。

 たぶん、誰よりルシア自身が知っている。

 妹は、姉を踏みつけて聖女になったのではない。

 セシリアは昔から、不器用なくらい真っ直ぐだった。薬草園で泥だらけになっているルシアを見つけては、こっそり手伝ってくれた。魔獣用の補食がうまくいった時には、自分のことのように喜んでくれた。

 ――お姉様は、ちゃんとすごいのよ。

 幼いセシリアが、誰もいない廊下でそう言ってくれた日のことを、ルシアは今でも覚えている。

 だから、責められない。

 セシリアは奪ったのではない。

 ただ、選ばれただけだ。

「……セシリアに」

 ルシアは、喉の奥に引っかかるものを飲み込んだ。

「おめでとうございます、と。そう、お伝えください」

 一瞬だけ、ギルバートの眉が動いた。

 オスカーは何も言わなかった。

 執務室に、短い沈黙が落ちる。

 その沈黙を破ったのは、ギルバートだった。

「それから、もうひとつある」

 もうひとつ。

 婚約破棄だけでは終わらないのだと、その言葉で分かった。

 ルシアは知らず、重ねた指先に力を込めていた。

「お前は、フランキス王国へ行くことが決まった」

 意味を理解するまで、一拍かかった。

 フランキス王国。

 大陸中央に広がる大国。

 魔獣と共に生き、魔獣によって国境を守る国。

 他国からは、魔獣番の国とも呼ばれている。

 どうして、その国の名が今ここで出るのか。

「……フランキスへ、ですか」

「そうだ」

 ギルバートは書類へ視線を落とす。

「向こうは以前から、お前が調製していた魔獣用の薬餌と補助薬に関心を示していた。継続的な輸入の打診もあった」

 ルシアは黙って聞いていた。

 薬餌。

 そう呼ぶほど、大げさなものではない。

 胃腸の弱い個体に、少しだけ薬草を混ぜる。

 肉食魔獣の回復食に、滋養の強い粉末を足す。

 長距離移動の前後に、腹を壊しにくい補食を与える。

 食べているものに、ほんの少し調味料を足すような感覚だった。

 傷を塞ぐわけでもない。

 呪いを祓うわけでもない。

 誰の目にも奇跡だと分かるものではない。

「先方は、お前ごと引き取ることを望んでいる」

 ギルバートの声は変わらない。

「すでに話はまとまっている。向こうでの住まいと職も用意される」

「私の意思は」

 聞き返してから、ルシアはその問いが無意味だと悟った。

 ギルバートは答えなかった。

 オスカーが代わりに口を開く。

「悪い話ではないだろう。君の薬餌の調合法はすでに文献にも記録にも残っている。それでもなお欲しがるほど、フランキスは魔獣運用に困っているということだ」

 その声音に、労わりはない。

 ただ、損得を説明する冷たさだけがあった。

「君にとっても、役に立てる場所へ行けるのなら悪くないはずだ」

 役に立てる場所。

 その言葉が、不思議なほど遠く聞こえた。

 もし本当にそうなら、少しは喜べたのかもしれない。

 けれど、この場で交わされているのは雇用の相談ではない。

 婚約を破棄したあと、不要になった娘を他国へ渡すための取り決めだ。

 ルシアは、その時ようやく理解した。

 自分は隣国へ迎えられるのではない。

 家にも、婚約にも、宮廷にも残す価値のないものとして。

 厄介払いに、売られるのだと。

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第1話 売られた欠陥聖女①
「本日をもって、オスカー・ヴァーダンド殿との婚約は解消される」  伯父ギルバートの声は、驚くほど平坦だった。  叱責でもない。  慰めでもない。  ただ、決定済みの書類を読み上げるような声。  ルシア・アージェントは、執務室の中央で静かに立っていた。  窓の外では、春の光が庭木を明るく照らしている。けれど室内の空気だけは、別の季節に取り残されたように冷えていた。重厚な机の向こうにギルバートが座り、その斜め後ろにはオスカーが立っている。  婚約者だった人。  いいえ、今まさに、元婚約者になった人。  オスカーは少しも動揺していなかった。公爵家の子息らしい整った身なり。乱れのない姿勢。感情を読み取らせない瞳。  その態度を見て、ルシアは理解した。  これは今、思いつきで告げられたことではない。  ずっと前から決まっていたのだ。 「……はい」  返事をした声は、自分でも意外なほど静かだった。  今日がセシリアの聖女認定の日であること。  こんな日に限って、宮廷の仕事を終えた直後に本邸へ呼び戻されたこと。  廊下で使用人たちが目を合わせようとしなかったこと。  すべて、今の言葉につながっていた。  だから、驚きは遅れてこなかった。  胸の奥に、ただ冷たいものが沈んでいくだけだった。 「本日の認定によって、セシリアは正式な聖女となる」  ギルバートは続けた。 「アージェント家は、代々聖女を輩出してきた家だ。公爵家との縁は今後も必要となる。だが、聖女となったのがセシリアである以上、婚約相手としてふさわしいのは、もはやお前ではない」  もはや。  その一言が、妙にはっきり耳に残った。  ルシアは、聖眼を持たなかった。  聖女の家に生まれながら、傷を癒やし、呪いを祓う銀の聖眼を持たなかった。だから幼い頃から、欠陥聖女と呼ばれてきた。  事故で両親を失い、伯父の家に引き取られてからは、迷惑をかけないよう必死に学んだ。聖女になれないなら、せめて役に立つ人間になろうと思った。  薬草の性質を覚え、調合を学び、狭き門をくぐって王室付薬剤師になった。  その時、王妃エレオノーラが書いてくれた推薦状だけは、宮廷でのルシアにとって小さな支えだった。以前、王家の馬型魔獣の不調を診た時、誰も見なかった食べ方と水の飲み方を拾ったことを、王妃だ
last update最終更新日 : 2026-07-08
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第2話 売られた欠陥聖女②
 厄介払いに、売られるのだと。  そう理解した途端、かえって頭の中は静かになった。  伯父ギルバートの執務室には、紙をめくる音ひとつない。窓の外では、聖女認定を祝う鐘が鳴っているはずだった。だが、この部屋だけは音が遠い。  ルシアは、自分の指先を見た。  朝から薬草を刻んでいたせいで、爪の端にかすかな緑が残っている。  聖女の証ではない。  貴族令嬢らしい宝石でもない。  自分に残っているのは、こういう匂いばかりだった。 「……私の薬餌が、フランキスに?」  ようやく出た声は、自分のものではないように聞こえた。  ギルバートは短く頷いた。 「正確には、お前が魔獣用に調整していた補助薬と薬餌だ。向こうは以前から継続的な輸入を求めていた。今回の取り決めには、薬餌の安定供給と技術協力の名目がつけられている」  ルシアには、すぐには呑み込めなかった。  薬餌。  そう呼ばれてはいても、彼女にとっては胸を張れるものではなかった。誰もやりたがらない仕事が、いつの間にか自分の机に積まれていただけだ。  腹の弱い一頭のために、煎じの濃さを変えた夜があった。  肉ばかりで胃を重くした個体に、消化を助ける草を選んだ朝があった。  気が立って眠れずにいた子の傍らで、匂いの強い薬をそっと遠ざけた時間もあった。  どれも、記録の隅にしか残らない仕事だった。  宮廷では、そういう扱いだった。  人に使う薬こそが本物で、魔獣の餌に混ぜるようなものは気休めにもならない。  他の薬剤師たちは、半ば本気でそう考えていた。だからこそ、その仕事はいつもルシアのもとへ回された。 「……あれは、そんなに価値のあるものではありません」  思わずそう言うと、オスカーが薄く目を細めた。 「既に薬餌の調合法は発表されているでしょう。調合法と担当者の移籍まで求めるのは、フランキス側の都合です。それでもなお、貴方自身に特別な価値があるとは思えませんけど」  その声音に、労わりはない。 「フランキスは魔獣の運用規模が大きい。些細な不調でも損失になる。だからこそ、貴方の作る薬餌のような地味なものにまで重要性を見いだしているのでしょう」  ルシアは黙った。  分からなかった。  本当に、分からなかった。  腹を壊しやすい個体には、冷やしすぎない。  肉ばかり食べて胃
last update最終更新日 : 2026-07-08
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第3話 魔獣番の国①
 ――魔獣の聖女ルシア様、ようこそフランキス王国へ。 馬車の扉が開いた瞬間、それが目に入った。 正門の上には、白地に濃紺の文字で大きく書かれた横断幕が掲げられている。 けれど、王家の式典で使われるような整いきったものではなかった。 布の端は少し歪み、文字の大きさもところどころ揃っていない。急いで縫い合わせたのか、端にはまだ新しい糸の跡が残っている。 それでも、その横断幕には、不思議な熱があった。 まるで、誰かが一生懸命に用意したもののように。 ルシアは馬車の踏み台に足をかけたまま、しばらく動けなかった。 魔獣の聖女。 その言葉が、自分に向けられているとは思えなかった。 おそらく正式な称号ではない。布の縫い目も、文字の揃わなさも、王城の式典ではなく、現場の誰かが急いで用意したものだと告げていた。 息を呑む間もなく、正門の下に整列した騎士たちの姿が視界へ飛び込んでくる。 黒曜石のような鱗を持つドレイク型の魔獣。 風をはらんだ翼を静かに震わせるヒッポグリフ型の魔獣。 豪奢でありながら実戦用と一目で分かる装備を身につけた騎士たちは、テレジアの宮廷で見慣れた儀礼兵とはまるで違った。 飾りではない。 この国の魔獣と共に働く者たちの顔だった。 一人の騎士が、胸に拳を当てて頭を下げる。 それを合図にするように、列の左右が一斉に礼を取った。「ようこそ、ルシア殿!」 歓迎の声が重なる。 軽い賛辞ではなかった。 張りつめた敬意と、抑えきれない安堵が混じった声だった。 ルシアは、どう反応すればいいのか分からなかった。 これは、自分のような者に向けられるものではないはずだった。 売られてきた薬剤師に。 欠陥聖女と呼ばれてきた自分に。 それでも、馬車の外へ出ないわけにはいかない。 差し出された手を借りて地面へ降り立つと、冷たい朝の空気が頬を打った。 視線の先に、灰白色の石で築かれた大きな施設がある。 華やかな宮殿ではない。 堅牢で、清潔で、いかにも実務のために造られた建物だった。 王立魔獣医療・保護施設。 国が管理する危険な魔獣や軍用魔獣の治療と保養を担い、傷や病で荒れた個体を他施設から分けて収容する隔離施設。 迎えの馬車の中で何度か聞いた名を、ルシアは心の中でそっとなぞった。 着いたら、すぐ働かされるのだろう。 そう思
last update最終更新日 : 2026-07-09
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第4話 魔獣番の国②
案内された先は、施設のさらに奥だった。 歓迎のために整えられていた応接室を出ると、空気はがらりと変わった。石造りの廊下はひんやりとしていて、壁には魔導灯が等間隔に灯っている。 薬草を煎じたような匂い。 消毒液の鋭い匂い。 その奥に、獣の体温を含んだ重い気配が混じっていた。 遠くで、金属が軋む音がする。 ルシアの胸の奥が、小さく震えた。 怖くないわけではない。 けれど、足は止まらなかった。 「ここから先は、危険個体を収容する隔離棟よ」 前を歩くマグダレナ・オフィウスが、振り返らずに言った。 「治療と保護のための施設だけれど、ここにいる子たちは傷つき、病み、追いつめられている。だから、近づく者を敵と見ることもあるわ」 「……はい」 「はっきり言うわ。噛まれたら痛いじゃ済まない」 ルシアは思わず喉を鳴らした。 隣を歩いていたアルベルトが、少しだけ苦笑する。 「マグダレナは脅しているわけではないよ」 「脅しているわ」 「……正直で助かるね」 「怖いと知った上で近づく方が、結果的に生き残るの」 マグダレナは淡々と言い切った。 その言葉は物騒だったが、不思議と信頼できた。 この人は危険を隠さない。だからこそ、必要なところまでは案内する。 扉を二つ抜けると、広い収容区画に出た。 天井は高く、壁面には厚い魔導硝子が嵌め込まれている。その向こうに、白い影が見えた。 ルシアは息を呑む。 ペガサスだった。 絵物語や図鑑でしか見たことがない。 白銀に近い毛並み。背から伸びる大きな翼。長い首と、しなやかな脚。神殿の壁画に描かれるような、清らかで美しい魔獣。 けれど今、その姿は痛々しかった。 翼の羽は乱れ、ところどころ艶を失っている。床に置かれた餌桶にはほとんど手がつけられていない。水桶も減りが浅い。ペガサスは立ったまま、何度も前脚を踏み替えていた。 眠れず、横にもなれず、ただそこに立ち尽くしているように見える。 金具が鳴ると、白い翼がびくりと震えた。 ペガサスは首を上げ、こちらを睨むように耳を伏せる。澄んでいるはずの瞳は濁り、荒い息が白く漏れていた。 「航空迎撃部隊所属のペガサスよ」 マグダレナが静かに説明を始める。 「本来は非常に優秀な子だった。反応が速く、騎手と
last update最終更新日 : 2026-07-11
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第5話 魔獣番の国③
 ――テレジア王国、同じ頃。 セシリアは、移動用の馬型魔獣の背に揺られながら、何度目か分からないため息を飲み込んだ。 朝からずっと移動している。 神殿での祈祷。 貴族家への挨拶。 教会関係者との面会。 正式な聖女となってから、セシリアの予定は隙間なく埋められていた。誰もが丁寧に接し、誰もが祝福の言葉をくれる。 けれど、その中にルシアの名前だけがなかった。「お父様は、やはり教えてくださいませんでした」 ぽつりと呟くと、横を進んでいた教会騎士がこちらを見た。「ルシア様のことですか」「はい。オスカー様にも尋ねました。でも、必要ないことだと」 手綱を握る指に、少しだけ力が入る。 ルシアはどこへ行ったのか。 誰といるのか。 ちゃんと休めているのか。 そればかりが頭から離れない。 セシリアは、自分が乗っている馬型魔獣の首筋をそっと撫でた。栗色の毛並みはよく手入れされていて、朝からずっと走り続けているにもかかわらず、足取りはまだ軽い。「この子、朝からずっと移動していますのに、とても元気ですね」「ああ、それはこれのおかげでしょう」 教会騎士は鞍に括りつけた鞄から、小さな紙包みを取り出した。 中には、乾いた菓子のような補食が入っている。穀物と薬草を固めたものらしく、ほんのり甘い匂いと、青い草の香りがした。「長距離移動用の補食です。最近、教会騎士団でも使われるようになりました。腹を壊しにくく、疲れも残りにくい。移動用魔獣には評判がいいですよ」 セシリアは、その紙包みを見つめた。 胸の奥が、少し痛んだ。「……それを作ったのは、お姉様です」「ルシア様が、ですか?」 騎士の声には、素直な驚きがあった。「ええ。最初は、宮廷の魔獣舎で使うための試作品でした。移動用の魔獣が長く歩いても胃を痛めにくいように。食べやすく、でも薬が強すぎないように、と。何度も配合を変えていました」 セシリアは、馬型魔獣のたてがみを指で梳いた。「難しい薬草の栽培方法を見つけたのも、お姉様です。人に使うには弱すぎる薬草でも、魔獣の餌に混ぜるにはちょうどいいものがある、と言って。水の量も、日当たりも、土の混ぜ方も、毎日細かく記録していました」 騎士は、手元の補食へ視線を落とす。「ですが……失礼ながら、なぜそこまで気にかけるのです」 セシリアは顔を上げた。 
last update最終更新日 : 2026-07-13
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第6話 魔獣番の国④
 翌朝、隔離棟の空気は、ほんのわずか変わっていた。 静かになった、というほどではない。 檻の奥では、白いペガサスがまだ立ったまま荒い息をしている。翼の羽は乱れ、耳も伏せ気味だ。床を踏み替える回数も多く、眠れたとは言いがたい。 けれど、昨日とは違う。 水桶の水が、目に見えて減っていた。「夜明け前に、もう一度だけ飲みました」 飼育員が、声を潜めて報告した。「ほんの少しです。ですが、自分から鼻先を寄せて」 その声には、驚きと安堵が混じっていた。 ルシアは檻の外からペガサスを見つめる。 碧眼の奥に、かすかな金色が滲む。 腹の奥の濁りはまだ深い。焼けるような痛みは消えていない。喉から胃へ続く流れも、まだぎこちなく乱れている。 けれど、昨日よりほんのわずか、こわばりが弱い。 痛みが消えたのではない。 ただ、痛みの輪から一瞬だけ外へ出られた。 それだけだった。「よくなった、のでしょうか」 ノーマンが記録板を抱えたまま尋ねる。 いつもの軽さは少し控えめだった。 おそらく、昨日の水音がまだ耳に残っているのだろう。 ルシアは首を振った。「少し楽になっただけです。まだ治ったわけではありません」「ですよね。ですよね、分かってます。研究員としては喜びたい。記録係としては喜びすぎるなと自分を叱っています」「喜ぶのは保留ね」 マグダレナが横から口を挟んだ。「記録は増やす。今はそれだけでいいわ」「はい、施設長。喜び保留、記録増量」 ノーマンが素早く書き込む。 ルシアは少しだけ目を瞬いた。 張りつめた場所なのに、彼らのやり取りには妙な速さがある。 テレジアの宮廷薬剤室では、こういう会話はなかった。あちらでは誰かが失敗しないように息を潜めていた。けれどここでは、失敗しないために口を動かしている。 それが、少し不思議だった。 マグダレナがルシアを見る。「次は原因ね」「はい」 ルシアはペガサスへ視線を戻した。「この子だけ見ていても足りません。何を食べていたのか、どれくらい飛んでいたのか、いつから崩れ始めたのかを知りたいです」 ペガサスが、檻の奥で小さく鼻を鳴らす。「それから、似た症状の子たちの記録も。全部、見せてください」「いいわ」 返事は早かった。「記録室を開ける。医療記録、飼料記録、飛行記録、搬送記録。出せるものは全部
last update最終更新日 : 2026-07-15
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第7話 魔獣番の国⑤
「この国のやり方そのものが、魔獣たちを少しずつ追い詰めています」 ルシアの言葉が落ちたあと、記録室にはしばらく誰の声もなかった。 責めるつもりで言ったわけではない。 けれど、言葉にした瞬間、その重さが部屋の中へ広がっていくのが分かった。 ベルンは固い顔で配合表を見つめていた。 ノーマンは記録板を抱えたまま、珍しく何も言わない。 マグダレナは腕を組み、地図と報告書を交互に見下ろしている。 最初に口を開いたのは、アルベルトだった。「ルシア殿。確認したい」 その声は穏やかだった。 けれど、王族として何かを決めようとしている声でもあった。「飛翔用標準配合を止めれば、すぐに魔獣たちは回復するのか」「いいえ」 ルシアは首を振った。「すぐには難しいと思います。胃を痛めている子には、まず負担を減らす必要があります。眠れていない子には、休ませ方を変える必要があります。食べ物を変えるだけでは足りません」「なら、何から変えるべきだ」 問われて、ルシアは一度だけ目を閉じた。 昨日見たペガサスの苦しみが、胸の奥によみがえる。 焼けつく胃の痛み。 空腹のまま張りつめていた待機時間。 装具の音と結びついた恐怖。 水を飲むことすらためらうほどの不快感。「まず、重症の子には飛翔用標準配合を止めてください。少なくとも、今のまま与え続けるのは危険です」 ルシアは配合表の横に、白紙を引き寄せた。「胃を守る薬草を混ぜた柔らかい餌に切り替えます。量は少しずつ。水には薄い整腸薬を。香りが強いものは避けてください。興奮を高める香草も、今は抜いた方がいいです」「飛行任務は?」 アルベルトが問う。「飛行前の長い絶食は見直すべきです。空腹のまま待機させる時間を減らしてください。任務後はすぐに装具を外し、水分と補助薬を入れて、静かな場所で休ませる必要があります」 ベルンが低く唸った。「だが、飛行前に腹を満たせば、体が重くなる。事故につながる。昔からそう教えられてきた」「満たす必要はありません」 ルシアは静かに答えた。「腹を空にしすぎないだけです。飛ぶために軽くすることと、痛むほど空腹にすることは違います」 ベルンは、返す言葉を探すように唇を結んだ。 マグダレナが机を指で軽く叩いた。その手が、報告書の束の上で止まる。「施設内の重症個体で試験する」「施
last update最終更新日 : 2026-07-15
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第8話 魔獣番の国⑥
 五日後。 劇的に治った魔獣は、まだ一頭もいなかった。 迎撃部隊の白いペガサスは、まだ長く飛べない。 伝令部隊のリューネも、まだ任務復帰には遠い。 輸送用のヒッポグリフたちも、脚や翼の疲労を完全に抜けたわけではない。 それでも、王立魔獣医療・保護施設の朝は、五日前とは確かに違っていた。 檻を叩く音が減った。 水桶の前で迷う時間が短くなった。 夜間の記録に、「浅い眠り」ではなく「短時間だが深く眠った」という文字が増えた。 奇跡ではない。 快癒でもない。 けれど、悪化の速度は確かに落ち始めていた。「今の状態を言うわ」 記録室の中央で、マグダレナが紙束を机に置いた。「治ってはいない。でも、崩れ続ける流れは止まりかけている」 ノーマンが横から記録板を掲げる。「水分摂取量、重症三頭のうち二頭で微増。睡眠記録、伝令部隊の軽症個体五頭中三頭で改善傾向。食欲は…… まあ、まだ渋いです。魔獣も人間も胃が痛い時は機嫌が悪い」「余計な一言は?」「反省中です」「よろしい」 淡々としたやり取りに、会議室の空気が少しだけ緩んだ。 ルシアは記録を一枚ずつ見比べていた。 水を飲んだ量。 餌に口をつけた回数。 翼の震えが出た時間。 装具を見た時の反応。 夜に体を横たえられたかどうか。 どれも小さな数字だ。 テレジアの宮廷なら、たぶん笑われていた。 そんなものを数えて何になる、と。 けれど今、この小さな数字の積み重ねが、命を処分から一歩遠ざけている。「白いペガサスは?」 マグダレナが尋ねる。 ルシアは該当する記録を引き寄せた。「まだ胃の痛みは残っています。ですが、水を飲んだあとに首を振る回数が減りました。餌も、昨日はようやく口をつけました。一口だけですが」「一口」 ノーマンが小さく拳を握る。「地味に嬉しいですね」「地味ですが、大きいです」 ルシアは真面目に頷いた。「この子にとっては、食べてもすぐ痛くならないという経験を積み直している段階です。急に量を増やすと、また食べることが痛みと結びついてしまいます」「なら、一口で勝ちか」「昨日のところは。今朝はこれから診ます」「記録します。一口、勝ち」「ノーマン」「正式記録には書きません」 マグダレナに睨まれ、ノーマンは素早く言い直した。 その時、マグダレナが紙束をめ
last update最終更新日 : 2026-07-17
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第9話 国境の向こう①
――テレジア王国、王都。 ルシアが屋敷を去ってから、七日が過ぎていた。 セシリアの毎日は、相変わらず忙しかった。 朝は神殿で祈りを捧げ、昼には貴族家の訪問を受け、午後には王城へ呼ばれる。夕刻には教会関係者との面会が入り、夜には聖女として覚えるべき儀礼や記録に目を通す。 誰もが、セシリアを丁寧に扱った。 銀の聖眼を持つ、正統な聖女。 傷を癒やし、呪いを祓う、アージェント家の誇り。 そう呼ばれるたび、胸がかすかに冷えた。 誇り。 その言葉の隣に、本当ならもう一人いるはずだった人の名前を、誰も口にしない。 ルシアの部屋に残されていた手紙は、今もセシリアの懐に入っている。 何度も読み返したせいで、封の折り目は少し柔らかくなっていた。 紙の端には、セシリアの指が無意識に触れた跡が残っている。 短い手紙だった。 けれど、その短さが余計に苦しかった。 姉は、何も責めなかった。 何も求めなかった。 ただ、セシリアを祝福して、去っていった。 それが、ずっと胸に引っかかっている。 「セシリア様」 呼びかけられて、セシリアは顔を上げた。 王城の裏手にある魔獣厩舎。 そこには、貴族や教会関係者の移動に使われる馬型魔獣たちが並んでいる。 今日は、神殿騎士団の移動用魔獣の一頭が体調を崩したと聞き、セシリアが呼ばれていた。 銀の聖眼を持つ者なら、傷や呪いの有無をすぐに見分けられる。 そう言われて。 「この子です」 教会騎士が手綱を引き、栗色の馬型魔獣を示した。 以前、セシリアが乗ったことのある子だった。 ルシアの補食を食べて、朝から走っても元気だった、あの子だ。 けれど今は、耳が伏せ気味で、首も低い。脚に大きな傷はない。だが、どこか覇気がなかった。 「昨日から食が細く、今朝もあまり食べませんでした。歩けはしますが、長く走らせると息が乱れます」 「怪我は?」 「ありません。少なくとも見える範囲では」 セシリアはそっと魔獣の額に触れた。 銀の聖眼が、静かに光を帯びる。 見えるのは、表面の傷。 流れ込む瘴気。 呪いの痕跡。 骨や筋を裂くような損傷。 けれど、どこにもそれはなかった。 傷はない。 呪いもない。 瘴気もない。 なら、聖眼で
last update最終更新日 : 2026-07-19
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第10話 国境の向こう②
――フランキス王国、王立魔獣医療・保護施設。 その日の午後、ルシアは飼料庫にいた。 机の上には、乾燥薬草、砕いた穀類、甘樹脂、塩分を含む鉱石粉、水に溶けやすい整腸薬が並んでいる。 白い迎撃ペガサス用。 灰色の伝令ペガサス、リューネ用。 輸送用ヒッポグリフ用。 同じ飛行魔獣でも、必要なものは違う。 ルシアは小さな匙で薬草を量りながら、記録板に数字を書き込んでいた。 「白灯草、二匙。月露草、半匙。甘樹脂は……少しだけ」 「少しだけ、という単位は正式記録に向きません」 隣でノーマンが即座に言った。 ルシアは手を止める。 「では、四分の一匙で」 「よろしいです。記録係が泣かずに済みます」 「ノーマン様は、記録係なのですか?」 「研究員です。ですが最近、紙に埋もれる係になりました」 ノーマンは真顔で言った。 「魔獣の命と引き換えなら、紙の山くらい受け入れます。ただし、誤字は許しません」 ルシアは思わず笑いそうになった。 その時、飼料庫の扉が勢いよく開いた。 「ルシア」 入ってきたのはマグダレナだった。 いつもの白衣。肩で切り揃えた金髪。 表情は落ち着いている。けれど、目の奥が少し鋭い。 何かあったのだと、ルシアはすぐに察した。 「はい」 マグダレナは扉を押さえたまま、まっすぐにルシアを見た。 「会議室へ。ヴァルミアから報告が届いたわ」 「ヴァルミア……」 聞き慣れない国名に、ルシアは瞬きをする。 ノーマンが記録板を抱え直した。 「同盟国ですね。南西の山岳国家。ワイバーン運用が多い」 「ノーマン、説明は歩きながら」 「はい。歩く資料係になります」 マグダレナはすでに廊下へ出ていた。 ルシアは慌てて手を拭き、記録板と筆を持って後を追った。 ◇ 会議室には、アルベルトがいた。 机の上には数通の封書と、広げられた地図。 フランキスの南西に、険しい山脈を抱く国が描かれている。 ヴァルミア王国。 ルシアは地図の上に並ぶ山の記号を見つめた。 フランキスとは違う。 平原より山が多い。 街道は谷間を縫うように伸び、国境付近には砦の印がいくつもある。 「来たね」 アルベルトが顔を上げた。 いつもの穏やかな声だったが、机の上の書類
last update最終更新日 : 2026-07-23
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