ログイン「聖眼を持たないお前に、もう価値はない」 婚約破棄され、欠陥聖女として隣国に売られたルシア。 しかし彼女の持つ金の魔眼は、魔獣たちの「見えない痛み」を色として視える唯一の力だった。 地味な薬餌と記録で魔獣を救う日々を送るうち、フランキス王国では彼女を「魔獣の聖女」と呼ぶ声が広がっていく。 一方、故国では銀の聖女である妹・セシリアが同じ問題に直面し――。 壊れる前に見つける。癒やすだけでは足りない。 静かな魔眼が、魔獣と人々の運命を変えていく、 優しい癒やしのお仕事再評価ファンタジー。
もっと見る「本日をもって、オスカー・ヴァーダンド殿との婚約は解消される」
伯父ギルバートの声は、驚くほど平坦だった。 叱責でもない。 慰めでもない。 ただ、決定済みの書類を読み上げるような声。 ルシア・アージェントは、執務室の中央で静かに立っていた。 窓の外では、春の光が庭木を明るく照らしている。けれど室内の空気だけは、別の季節に取り残されたように冷えていた。重厚な机の向こうにギルバートが座り、その斜め後ろにはオスカーが立っている。 婚約者だった人。 いいえ、今まさに、元婚約者になった人。 オスカーは少しも動揺していなかった。公爵家の子息らしい整った身なり。乱れのない姿勢。感情を読み取らせない瞳。 その態度を見て、ルシアは理解した。 これは今、思いつきで告げられたことではない。 ずっと前から決まっていたのだ。 「……はい」 返事をした声は、自分でも意外なほど静かだった。 今日がセシリアの聖女認定の日であること。 こんな日に限って、宮廷の仕事を終えた直後に本邸へ呼び戻されたこと。 廊下で使用人たちが目を合わせようとしなかったこと。 すべて、今の言葉につながっていた。 だから、驚きは遅れてこなかった。 胸の奥に、ただ冷たいものが沈んでいくだけだった。 「本日の認定によって、セシリアは正式な聖女となる」 ギルバートは続けた。 「アージェント家は、代々聖女を輩出してきた家だ。公爵家との縁は今後も必要となる。だが、聖女となったのがセシリアである以上、婚約相手としてふさわしいのは、もはやお前ではない」 もはや。 その一言が、妙にはっきり耳に残った。 ルシアは、聖眼を持たなかった。 聖女の家に生まれながら、傷を癒やし、呪いを祓う銀の聖眼を持たなかった。だから幼い頃から、欠陥聖女と呼ばれてきた。 事故で両親を失い、伯父の家に引き取られてからは、迷惑をかけないよう必死に学んだ。聖女になれないなら、せめて役に立つ人間になろうと思った。 薬草の性質を覚え、調合を学び、狭き門をくぐって王室付薬剤師になった。 その時、王妃エレオノーラが書いてくれた推薦状だけは、宮廷でのルシアにとって小さな支えだった。以前、王家の馬型魔獣の不調を診た時、誰も見なかった食べ方と水の飲み方を拾ったことを、王妃だけは覚えていてくれたのだ。 けれど、宮廷で与えられた仕事の多くは、人のための薬ではなかった。 魔獣の餌。 魔獣の腹具合。 魔獣舎の薬草。 騎士たちが乗る戦闘魔獣や移動用魔獣の、地味な補食と体調管理。 誰もやりたがらない仕事だった。 徹夜で調合した薬餌によって魔獣の体調が戻っても、記録にルシアの名が残ることはほとんどなかった。 「誰でもできる雑務」と呼ばれた仕事だけが、いつの間にか彼女の机に積まれていった。 それでも、ルシアは続けた。 このところ、テレジア王国では辺境の開拓政策が急がれていた。森を切り開き、街道を広げ、鉱山を増やす。その影響で棲み処を追われた野生魔獣が街道近くへ現れ、宮廷の魔獣たちは護衛や巡回に駆り出される回数が増えていた。 疲れやすくなった個体。 腹を壊す個体。 眠れず、気が立つ個体。 ルシアはそういう変化を、ひとつずつ記録してきた。 誰かが気づく前に、少しでも崩れを止めたかった。 それでも、聖女の価値には届かない。 その事実だけは、ルシア自身が誰よりよく知っていた。 「ルシア」 オスカーが口を開いた。 「これは家と国のための判断だ。君も理解してくれるだろう」 理解。 その言葉に、ルシアは心の中だけで小さく息を吐いた。 理解はできる。 セシリアが選ばれることも。 セシリアがこの国に必要な聖女であることも。 たぶん、誰よりルシア自身が知っている。 妹は、姉を踏みつけて聖女になったのではない。 セシリアは昔から、不器用なくらい真っ直ぐだった。薬草園で泥だらけになっているルシアを見つけては、こっそり手伝ってくれた。魔獣用の補食がうまくいった時には、自分のことのように喜んでくれた。 ――お姉様は、ちゃんとすごいのよ。 幼いセシリアが、誰もいない廊下でそう言ってくれた日のことを、ルシアは今でも覚えている。 だから、責められない。 セシリアは奪ったのではない。 ただ、選ばれただけだ。 「……セシリアに」 ルシアは、喉の奥に引っかかるものを飲み込んだ。 「おめでとうございます、と。そう、お伝えください」 一瞬だけ、ギルバートの眉が動いた。 オスカーは何も言わなかった。 執務室に、短い沈黙が落ちる。 その沈黙を破ったのは、ギルバートだった。 「それから、もうひとつある」 もうひとつ。 婚約破棄だけでは終わらないのだと、その言葉で分かった。 ルシアは知らず、重ねた指先に力を込めていた。 「お前は、フランキス王国へ行くことが決まった」 意味を理解するまで、一拍かかった。 フランキス王国。 大陸中央に広がる大国。 魔獣と共に生き、魔獣によって国境を守る国。 他国からは、魔獣番の国とも呼ばれている。 どうして、その国の名が今ここで出るのか。 「……フランキスへ、ですか」 「そうだ」 ギルバートは書類へ視線を落とす。 「向こうは以前から、お前が調製していた魔獣用の薬餌と補助薬に関心を示していた。継続的な輸入の打診もあった」 ルシアは黙って聞いていた。 薬餌。 そう呼ぶほど、大げさなものではない。 胃腸の弱い個体に、少しだけ薬草を混ぜる。 肉食魔獣の回復食に、滋養の強い粉末を足す。 長距離移動の前後に、腹を壊しにくい補食を与える。 食べているものに、ほんの少し調味料を足すような感覚だった。 傷を塞ぐわけでもない。 呪いを祓うわけでもない。 誰の目にも奇跡だと分かるものではない。 「先方は、お前ごと引き取ることを望んでいる」 ギルバートの声は変わらない。 「すでに話はまとまっている。向こうでの住まいと職も用意される」 「私の意思は」 聞き返してから、ルシアはその問いが無意味だと悟った。 ギルバートは答えなかった。 オスカーが代わりに口を開く。 「悪い話ではないだろう。君の薬餌の調合法はすでに文献にも記録にも残っている。それでもなお欲しがるほど、フランキスは魔獣運用に困っているということだ」 その声音に、労わりはない。 ただ、損得を説明する冷たさだけがあった。 「君にとっても、役に立てる場所へ行けるのなら悪くないはずだ」 役に立てる場所。 その言葉が、不思議なほど遠く聞こえた。 もし本当にそうなら、少しは喜べたのかもしれない。 けれど、この場で交わされているのは雇用の相談ではない。 婚約を破棄したあと、不要になった娘を他国へ渡すための取り決めだ。 ルシアは、その時ようやく理解した。 自分は隣国へ迎えられるのではない。 家にも、婚約にも、宮廷にも残す価値のないものとして。 厄介払いに、売られるのだと。――テレジア王国、王城。 セシリアは、薬務室の机に広げられた記録を見つめていた。 ルシアが残していった調合記録。 新しく薬剤師たちが作った補食の配合表。 そして、ここ数日の移動用魔獣の体調記録。 並べれば、違いははっきりしていた。 同じ材料。 同じ分量。 同じ形。 けれど、結果が違う。 ルシアの補食を食べていた時、長距離移動後の魔獣たちは翌朝には食欲を戻していた。 水も飲み、腹を壊す個体も少なかった。 だが、今は違う。 食べる。歩く。けれど、戻りが遅い。 目に見える傷はない。 呪いもない。瘴気もない。 それでも、確かに弱っている。 セシリアは懐の手紙に触れかけて、指を止めた。 読み返せば、また姉の優しさに甘えてしまう気がした。今見るべきものは、机の上の記録だ。 「……お姉様は、ここで何を見つけたの」 小さく呟く。 机の端には、古い記録帳が置かれている。 ルシアの筆跡だった。 ――湿気の多い日は、乾燥薬草を半量に。 ――胃の弱い個体には蜂蜜を足さない。 ――長距離移動後、すぐに濃い補食を与えないこと。まず水。 ――よく食べる個体ほど、食後の様子を見る。食欲は健康の証とは限らない。 細かい。 あまりに細かい。 けれど、その細かさのひとつひとつが、今のセシリアには痛いほど分かった。 調合法だけではない。 姉は、【魔獣】を見ていた。 食べ方を見て、水の飲み方を見て、眠る前の姿勢まで見ていた。 だから効いていたのだ。 薬が特別だったからではない。 その子に合わせて、薬を変えていたから。 部屋の扉が開き、教会騎士が入ってきた。 セシリアの護衛を務める青年騎士だった。名はレオン。あの日、ルシアを欠陥聖女と呼んでしまった騎士でもある。 今の彼は、以前よりずっと慎重な顔をしていた。 「セシリア様。厩舎の子ですが、先ほどまた食べ残しました」 「水は?」 「飲みます。ですが、飲んだあとに首を下げます」 「補食は」 「半分ほどです」 セシリアは目を伏せた。 ルシアなら、きっとその動作を見逃さなかった。 食べ残した量だけでなく、なぜ食べ残したのかを考えただろう。 「聖眼で診ます」 「はい」 ◇ 厩舎
ヴァルミア王国へ向かう馬車は、フランキスの街道を南西へ進んでいた。 窓の外に広がる景色は、少しずつ変わっていく。 王都近郊の整えられた道を抜けると、緩やかな丘陵が続き、やがて遠くに青灰色の山並みが見え始めた。 あの山の向こうが、ヴァルミア。 ワイバーンの国。 ルシアは膝の上に開いた資料へ目を落とした。 昨夜から何度も読み返した記録だ。 ――山岳待機、七時間。 ――夜間気温、著しく低下。 ――翌朝、緊急出撃。 ――帰還後、右翼を下げ、飛行不能。 ――翼膜裂傷、治癒術にて閉鎖。 ――三日後、再発。 文字だけなら、ただの報告書だ。 けれど今のルシアには、その裏にあるものが気になって仕方がなかった。 冷えた岩場。 湿った風。 動けないまま待たされる体。 重い肉餌。 温まらない翼。 それでも命令で空へ上がるワイバーン。 まだ見てもいないのに、苦しみの輪郭だけが紙面の向こうで揺れている気がした。 「酔った?」 向かい側からマグダレナが声をかける。 白衣ではなく、今日は移動用の濃紺の外套を羽織っている。いつもの軍服めいた服装と相まって、医療施設長というより前線指揮官のようだった。 「いえ、大丈夫です」 「ならいいわ。顔が険しいから、資料に噛まれたのかと思った」 隣に座っていたノーマンが、記録板を抱えたまま真顔で頷いた。 「資料は噛みます。特に急ぎで集められた資料は、誤字と抜けで精神をガブリと……あ、施設長の視線が痛いのでここまでにしておきます」 「賢明ね」 「生存判断です」 ルシアは思わず目を瞬いた。 そのやり取りを見ていたアルベルトが、低く笑う。 今回はアルベルトも同行している。 フランキス第一王子として、同盟国ヴァルミアとの調整役を担うためだという。 「緊張しすぎなくていい。ヴァルミア側も、こちらを責めるために呼んだわけではない」 「はい」 「ただし、かなり焦ってはいるだろうね。山岳国にとって、ワイバーンは空の足だ。飛べない個体が増えれば、砦も村も孤立する」 ルシアは資料を閉じた。 「……ペガサスより、生活への影響が大きいのですか」 「地形によるわ」 マグダレナが答える。 「フランキスではペガサスもヒッポグリフもドレイクも使う。で
――フランキス王国、王立魔獣医療・保護施設。 その日の午後、ルシアは飼料庫にいた。 机の上には、乾燥薬草、砕いた穀類、甘樹脂、塩分を含む鉱石粉、水に溶けやすい整腸薬が並んでいる。 白い迎撃ペガサス用。 灰色の伝令ペガサス、リューネ用。 輸送用ヒッポグリフ用。 同じ飛行魔獣でも、必要なものは違う。 ルシアは小さな匙で薬草を量りながら、記録板に数字を書き込んでいた。 「白灯草、二匙。月露草、半匙。甘樹脂は……少しだけ」 「少しだけ、という単位は正式記録に向きません」 隣でノーマンが即座に言った。 ルシアは手を止める。 「では、四分の一匙で」 「よろしいです。記録係が泣かずに済みます」 「ノーマン様は、記録係なのですか?」 「研究員です。ですが最近、紙に埋もれる係になりました」 ノーマンは真顔で言った。 「魔獣の命と引き換えなら、紙の山くらい受け入れます。ただし、誤字は許しません」 ルシアは思わず笑いそうになった。 その時、飼料庫の扉が勢いよく開いた。 「ルシア」 入ってきたのはマグダレナだった。 いつもの白衣。肩で切り揃えた金髪。 表情は落ち着いている。けれど、目の奥が少し鋭い。 何かあったのだと、ルシアはすぐに察した。 「はい」 マグダレナは扉を押さえたまま、まっすぐにルシアを見た。 「会議室へ。ヴァルミアから報告が届いたわ」 「ヴァルミア……」 聞き慣れない国名に、ルシアは瞬きをする。 ノーマンが記録板を抱え直した。 「同盟国ですね。南西の山岳国家。ワイバーン運用が多い」 「ノーマン、説明は歩きながら」 「はい。歩く資料係になります」 マグダレナはすでに廊下へ出ていた。 ルシアは慌てて手を拭き、記録板と筆を持って後を追った。 ◇ 会議室には、アルベルトがいた。 机の上には数通の封書と、広げられた地図。 フランキスの南西に、険しい山脈を抱く国が描かれている。 ヴァルミア王国。 ルシアは地図の上に並ぶ山の記号を見つめた。 フランキスとは違う。 平原より山が多い。 街道は谷間を縫うように伸び、国境付近には砦の印がいくつもある。 「来たね」 アルベルトが顔を上げた。 いつもの穏やかな声だったが、机の上の書類
――テレジア王国、王都。 ルシアが屋敷を去ってから、七日が過ぎていた。 セシリアの毎日は、相変わらず忙しかった。 朝は神殿で祈りを捧げ、昼には貴族家の訪問を受け、午後には王城へ呼ばれる。夕刻には教会関係者との面会が入り、夜には聖女として覚えるべき儀礼や記録に目を通す。 誰もが、セシリアを丁寧に扱った。 銀の聖眼を持つ、正統な聖女。 傷を癒やし、呪いを祓う、アージェント家の誇り。 そう呼ばれるたび、胸がかすかに冷えた。 誇り。 その言葉の隣に、本当ならもう一人いるはずだった人の名前を、誰も口にしない。 ルシアの部屋に残されていた手紙は、今もセシリアの懐に入っている。 何度も読み返したせいで、封の折り目は少し柔らかくなっていた。 紙の端には、セシリアの指が無意識に触れた跡が残っている。 短い手紙だった。 けれど、その短さが余計に苦しかった。 姉は、何も責めなかった。 何も求めなかった。 ただ、セシリアを祝福して、去っていった。 それが、ずっと胸に引っかかっている。 「セシリア様」 呼びかけられて、セシリアは顔を上げた。 王城の裏手にある魔獣厩舎。 そこには、貴族や教会関係者の移動に使われる馬型魔獣たちが並んでいる。 今日は、神殿騎士団の移動用魔獣の一頭が体調を崩したと聞き、セシリアが呼ばれていた。 銀の聖眼を持つ者なら、傷や呪いの有無をすぐに見分けられる。 そう言われて。 「この子です」 教会騎士が手綱を引き、栗色の馬型魔獣を示した。 以前、セシリアが乗ったことのある子だった。 ルシアの補食を食べて、朝から走っても元気だった、あの子だ。 けれど今は、耳が伏せ気味で、首も低い。脚に大きな傷はない。だが、どこか覇気がなかった。 「昨日から食が細く、今朝もあまり食べませんでした。歩けはしますが、長く走らせると息が乱れます」 「怪我は?」 「ありません。少なくとも見える範囲では」 セシリアはそっと魔獣の額に触れた。 銀の聖眼が、静かに光を帯びる。 見えるのは、表面の傷。 流れ込む瘴気。 呪いの痕跡。 骨や筋を裂くような損傷。 けれど、どこにもそれはなかった。 傷はない。 呪いもない。 瘴気もない。 なら、聖眼で