Masuk「聖眼を持たないお前に、もう価値はない」 婚約破棄され、欠陥聖女として隣国に売られたルシア。 しかし彼女の持つ金の魔眼は、魔獣たちの「見えない痛み」を色として視える唯一の力だった。 地味な薬餌と記録で魔獣を救う日々を送るうち、フランキス王国では彼女を「魔獣の聖女」と呼ぶ声が広がっていく。 一方、故国では銀の聖女である妹・セシリアが同じ問題に直面し――。 壊れる前に見つける。癒やすだけでは足りない。 静かな魔眼が、魔獣と人々の運命を変えていく、 優しい癒やしのお仕事再評価ファンタジー。
Lihat lebih banyak――テレジア王国、王城。 セシリアは、薬務室の机に広げられた記録を見つめていた。 ルシアが残していった調合記録。 新しく薬剤師たちが作った補食の配合表。 そして、ここ数日の移動用魔獣の体調記録。 並べれば、違いははっきりしていた。 同じ材料。 同じ分量。 同じ形。 けれど、結果が違う。 ルシアの補食を食べていた時、長距離移動後の魔獣たちは翌朝には食欲を戻していた。 水も飲み、腹を壊す個体も少なかった。 だが、今は違う。 食べる。歩く。けれど、戻りが遅い。 目に見える傷はない。 呪いもない。瘴気もない。 それでも、確かに弱っている。 セシリアは懐の手紙に触れかけて、指を止めた。 読み返せば、また姉の優しさに甘えてしまう気がした。今見るべきものは、机の上の記録だ。 「……お姉様は、ここで何を見つけたの」 小さく呟く。 机の端には、古い記録帳が置かれている。 ルシアの筆跡だった。 ――湿気の多い日は、乾燥薬草を半量に。 ――胃の弱い個体には蜂蜜を足さない。 ――長距離移動後、すぐに濃い補食を与えないこと。まず水。 ――よく食べる個体ほど、食後の様子を見る。食欲は健康の証とは限らない。 細かい。 あまりに細かい。 けれど、その細かさのひとつひとつが、今のセシリアには痛いほど分かった。 調合法だけではない。 姉は、【魔獣】を見ていた。 食べ方を見て、水の飲み方を見て、眠る前の姿勢まで見ていた。 だから効いていたのだ。 薬が特別だったからではない。 その子に合わせて、薬を変えていたから。 部屋の扉が開き、教会騎士が入ってきた。 セシリアの護衛を務める青年騎士だった。名はレオン。あの日、ルシアを欠陥聖女と呼んでしまった騎士でもある。 今の彼は、以前よりずっと慎重な顔をしていた。 「セシリア様。厩舎の子ですが、先ほどまた食べ残しました」 「水は?」 「飲みます。ですが、飲んだあとに首を下げます」 「補食は」 「半分ほどです」 セシリアは目を伏せた。 ルシアなら、きっとその動作を見逃さなかった。 食べ残した量だけでなく、なぜ食べ残したのかを考えただろう。 「聖眼で診ます」 「はい」 ◇ 厩舎
ヴァルミア王国へ向かう馬車は、フランキスの街道を南西へ進んでいた。 窓の外に広がる景色は、少しずつ変わっていく。 王都近郊の整えられた道を抜けると、緩やかな丘陵が続き、やがて遠くに青灰色の山並みが見え始めた。 あの山の向こうが、ヴァルミア。 ワイバーンの国。 ルシアは膝の上に開いた資料へ目を落とした。 昨夜から何度も読み返した記録だ。 ――山岳待機、七時間。 ――夜間気温、著しく低下。 ――翌朝、緊急出撃。 ――帰還後、右翼を下げ、飛行不能。 ――翼膜裂傷、治癒術にて閉鎖。 ――三日後、再発。 文字だけなら、ただの報告書だ。 けれど今のルシアには、その裏にあるものが気になって仕方がなかった。 冷えた岩場。 湿った風。 動けないまま待たされる体。 重い肉餌。 温まらない翼。 それでも命令で空へ上がるワイバーン。 まだ見てもいないのに、苦しみの輪郭だけが紙面の向こうで揺れている気がした。 「酔った?」 向かい側からマグダレナが声をかける。 白衣ではなく、今日は移動用の濃紺の外套を羽織っている。いつもの軍服めいた服装と相まって、医療施設長というより前線指揮官のようだった。 「いえ、大丈夫です」 「ならいいわ。顔が険しいから、資料に噛まれたのかと思った」 隣に座っていたノーマンが、記録板を抱えたまま真顔で頷いた。 「資料は噛みます。特に急ぎで集められた資料は、誤字と抜けで精神をガブリと……あ、施設長の視線が痛いのでここまでにしておきます」 「賢明ね」 「生存判断です」 ルシアは思わず目を瞬いた。 そのやり取りを見ていたアルベルトが、低く笑う。 今回はアルベルトも同行している。 フランキス第一王子として、同盟国ヴァルミアとの調整役を担うためだという。 「緊張しすぎなくていい。ヴァルミア側も、こちらを責めるために呼んだわけではない」 「はい」 「ただし、かなり焦ってはいるだろうね。山岳国にとって、ワイバーンは空の足だ。飛べない個体が増えれば、砦も村も孤立する」 ルシアは資料を閉じた。 「……ペガサスより、生活への影響が大きいのですか」 「地形によるわ」 マグダレナが答える。 「フランキスではペガサスもヒッポグリフもドレイクも使う。で
――フランキス王国、王立魔獣医療・保護施設。 その日の午後、ルシアは飼料庫にいた。 机の上には、乾燥薬草、砕いた穀類、甘樹脂、塩分を含む鉱石粉、水に溶けやすい整腸薬が並んでいる。 白い迎撃ペガサス用。 灰色の伝令ペガサス、リューネ用。 輸送用ヒッポグリフ用。 同じ飛行魔獣でも、必要なものは違う。 ルシアは小さな匙で薬草を量りながら、記録板に数字を書き込んでいた。 「白灯草、二匙。月露草、半匙。甘樹脂は……少しだけ」 「少しだけ、という単位は正式記録に向きません」 隣でノーマンが即座に言った。 ルシアは手を止める。 「では、四分の一匙で」 「よろしいです。記録係が泣かずに済みます」 「ノーマン様は、記録係なのですか?」 「研究員です。ですが最近、紙に埋もれる係になりました」 ノーマンは真顔で言った。 「魔獣の命と引き換えなら、紙の山くらい受け入れます。ただし、誤字は許しません」 ルシアは思わず笑いそうになった。 その時、飼料庫の扉が勢いよく開いた。 「ルシア」 入ってきたのはマグダレナだった。 いつもの白衣。肩で切り揃えた金髪。 表情は落ち着いている。けれど、目の奥が少し鋭い。 何かあったのだと、ルシアはすぐに察した。 「はい」 マグダレナは扉を押さえたまま、まっすぐにルシアを見た。 「会議室へ。ヴァルミアから報告が届いたわ」 「ヴァルミア……」 聞き慣れない国名に、ルシアは瞬きをする。 ノーマンが記録板を抱え直した。 「同盟国ですね。南西の山岳国家。ワイバーン運用が多い」 「ノーマン、説明は歩きながら」 「はい。歩く資料係になります」 マグダレナはすでに廊下へ出ていた。 ルシアは慌てて手を拭き、記録板と筆を持って後を追った。 ◇ 会議室には、アルベルトがいた。 机の上には数通の封書と、広げられた地図。 フランキスの南西に、険しい山脈を抱く国が描かれている。 ヴァルミア王国。 ルシアは地図の上に並ぶ山の記号を見つめた。 フランキスとは違う。 平原より山が多い。 街道は谷間を縫うように伸び、国境付近には砦の印がいくつもある。 「来たね」 アルベルトが顔を上げた。 いつもの穏やかな声だったが、机の上の書類
――テレジア王国、王都。 ルシアが屋敷を去ってから、七日が過ぎていた。 セシリアの毎日は、相変わらず忙しかった。 朝は神殿で祈りを捧げ、昼には貴族家の訪問を受け、午後には王城へ呼ばれる。夕刻には教会関係者との面会が入り、夜には聖女として覚えるべき儀礼や記録に目を通す。 誰もが、セシリアを丁寧に扱った。 銀の聖眼を持つ、正統な聖女。 傷を癒やし、呪いを祓う、アージェント家の誇り。 そう呼ばれるたび、胸がかすかに冷えた。 誇り。 その言葉の隣に、本当ならもう一人いるはずだった人の名前を、誰も口にしない。 ルシアの部屋に残されていた手紙は、今もセシリアの懐に入っている。 何度も読み返したせいで、封の折り目は少し柔らかくなっていた。 紙の端には、セシリアの指が無意識に触れた跡が残っている。 短い手紙だった。 けれど、その短さが余計に苦しかった。 姉は、何も責めなかった。 何も求めなかった。 ただ、セシリアを祝福して、去っていった。 それが、ずっと胸に引っかかっている。 「セシリア様」 呼びかけられて、セシリアは顔を上げた。 王城の裏手にある魔獣厩舎。 そこには、貴族や教会関係者の移動に使われる馬型魔獣たちが並んでいる。 今日は、神殿騎士団の移動用魔獣の一頭が体調を崩したと聞き、セシリアが呼ばれていた。 銀の聖眼を持つ者なら、傷や呪いの有無をすぐに見分けられる。 そう言われて。 「この子です」 教会騎士が手綱を引き、栗色の馬型魔獣を示した。 以前、セシリアが乗ったことのある子だった。 ルシアの補食を食べて、朝から走っても元気だった、あの子だ。 けれど今は、耳が伏せ気味で、首も低い。脚に大きな傷はない。だが、どこか覇気がなかった。 「昨日から食が細く、今朝もあまり食べませんでした。歩けはしますが、長く走らせると息が乱れます」 「怪我は?」 「ありません。少なくとも見える範囲では」 セシリアはそっと魔獣の額に触れた。 銀の聖眼が、静かに光を帯びる。 見えるのは、表面の傷。 流れ込む瘴気。 呪いの痕跡。 骨や筋を裂くような損傷。 けれど、どこにもそれはなかった。 傷はない。 呪いもない。 瘴気もない。 なら、聖眼で