明日香が記憶を取り戻し、翔と再び一緒に暮らし始めてから5日が経過した。仕事を終わらせた翔が自宅へ戻ると、明日香が液晶タブレットに向かってイラストを描いてる最中だった。「明日香、仕事をしていたのか?」ネクタイを緩めながら翔が尋ねると明日香が顔を上げた。「ええ、そうよ。半年以上仕事をしていなかったから、そろそろ再開しないとね。でも出版社には本当に感謝だわ。ブランクがあるのに、また声をかけてくれるんだから」「そうか……ところで明日香。明日は土曜日で仕事も休みだし、久しぶりに2人で一緒に出掛けないか? 那須の温泉なんてどうだ?」翔が笑顔で言う。「ねえ。そんなことして朱莉さんに悪い気がしないの?」明日香は真面目な顔で翔を見上げた。「何故そこで朱莉さんが出て来るんだ?」首を傾げる翔。「私……入院生活をして初めて分かったんだけど、土日はやっぱり入院患者に面会が多いのよね。ほら、平日は皆仕事を抱えているからじゃない? 朱莉さんのお母さんだって入院しているのに、普段から朱莉さんは蓮の子育てで面会に行けないわけでしょう? だから土曜か日曜位は私たちが蓮を見るのは当然なんじゃないかと思ったのよ。私1人で蓮を見る自信は全くないけど、翔と2人なら私、蓮の世話を出来そうな気がするんだけど……」「ああ、それなら大丈夫だ。朱莉さんにはベビーシッターを探してくれってお願いしてあるから。きっと今頃はもう蓮のお世話を頼んでいるはずだ。だから、一緒に温泉に行こう。明日香の記憶が戻ったお祝いも兼ねてさ」「え……? ベビーシッターですって……?」明日香の顔が曇った。「どうしたんだ? 明日香」「翔……貴方、朱莉さんにベビーシッターを雇うように言ったの?」「ああ、そうだ。だってそうしないと誰が朱莉さんの代わりに蓮を見るんだ? 明日香は赤ん坊が苦手だろう? だから俺達が蓮を見るのは無理じゃないか。ベビーシッター代だって、こちらが払うんだから」「…」明日香は翔を冷めた目で見た。「私の……為だって言うの?」「あ、ああ。そうだが……?」明日香は溜息をついた。「ねぇ、私は一度でも翔にそんな事頼んだ覚えはないけど? 前から不思議に思っていたけど、翔は朱莉さんに冷たいわね。まるでわざと冷たい態度を取って自分から遠ざけようとしているみたい。何故なの?」「え? 俺がわざと朱莉さん
同時刻―― 仕事が終了し、マンションへ帰宅した琢磨は朱莉に電話を掛けた。何コール目かの呼び出し音の後に朱莉が電話口にでた。『はい、もしもし』「こんばんは、朱莉さん。今少し大丈夫かな?」『はい、大丈夫ですよ、さっきレンちゃんは眠った所ですので』「そうか、それは都合がいい。朱莉さん、明日なんだけどお邪魔しても大丈夫かな?」『え……と、明日……ですか?』「うん。明日なんだけど」『午前中なら大丈夫ですけど。午後は都合が悪くて』「お母さんの処へ面会に行く予定なんだろう? ベビーシッターを雇って」琢磨は身を乗り出す。『え? 何故そのことを……あ、翔先輩に聞いたんですね?」「そうなんだ、それで蓮の世話を俺と航で面倒をみさせてもらえないかと思って連絡したんだ」『ええ!? 九条さんと航君がですか!?』電話越しから朱莉の驚いた声が聞こえてきた。「うん。俺と航じゃ心もとないかもしれないけど……何とか頑張ってみるよ。それで明日、蓮のお世話の仕方を教えて貰いたいと思って連絡を入れたんだ。午前中大丈夫なら朱莉さんの自宅へ行くから教えてくれないか?」『い、いえ! そんな大丈夫ですよ! ちゃんともうシッターさんにお願いしましたから』朱莉が動揺しているのが分かったが、琢磨は続けた。「俺は、朱莉さんの力になりたいんだ。翔の奴が明日香ちゃんが退院してきたからもう蓮の面倒は見れないと言ってきたんだろう? そんな理屈が通るはずない。そう思わないかい?」『九条さん……』「俺はもう翔の秘書でも無ければ、鳴海グループとも一切関係は無くなったが、朱莉さんのことは手助けしてあげたいって思っている。だから協力させて貰いたいんだ。航も朱莉さんには沖縄で散々お世話になっているから、力になりたいって言っていたんだよ」(航のことを持ち出せば、朱莉さんも断りにくいだろう)『で、でも九条さんも航君も普段はお仕事が忙しいのに、このうえお休みの日に子守をさせるなんて……』「朱莉さん。もし逆に俺と航に蓮の面倒を見させるのが困るなら、正直に言って欲しいんだ。誰だって育児の経験が無い男2人に面倒を見てもらうのは不安に思うかもしれないからね」卑怯だと思ったが、琢磨はあえて朱莉が断りにくい言い方をした。『困ると言うことは……ありませんけど……』受話器越しからためらいがちな朱莉の声が聞こえて
翌朝9時―朱莉が蓮のおむつ交換をしている時に、突如として自宅のインターホンが鳴らされた。「あ! 九条さんと航君、もう来たのかな?」そこでモニターを確認した朱莉は驚いた。何とそこに立っていたのは姫宮だったのである。「は、はいっ!」朱莉は慌ててモニター越しに返事をした。すると姫宮が笑顔で挨拶してきた。『おはようございます。朱莉様。連絡も入れずに突然、来訪してしまい申し訳ございません。実は副社長から、本日お子様の面倒を見てもらいたいと連絡が入りましたので、こちらへ伺いました』「え!? そうなんですか!?」(そんな……翔先輩。わざわざお休みの日なのに姫宮さんに連絡を入れたの?)『はい、なので今からお邪魔してもよろしいでしょうか?』姫宮は翔の秘書を務めている。そして翔直々に姫宮に蓮の世話を頼むと依頼してきたのだから、朱莉にはそれを拒む理由が見つからなかった。蓮はいくら自分が母親代わりに育てているとはいえ、所詮は明日香と翔の子供なのだ。翔がどこの誰に蓮の世話をお願いしようが、朱莉にはそれを拒む権利は無い。「分かりました。今開けますね」朱莉がドアを開けると姫宮は礼を言い、中へと入って行った。姫宮が自宅へやって来る間、朱莉はめまぐるしく考えていた。(どうしよう……。九条さんと航君は10時にはこっちに来ることになっている……。今から断りを入れたほうがいいのかな……?)その時、再び今度は玄関のインターホンが鳴り響いた。ドアアイをのぞき込むとそこには姫宮が立っている。朱莉はドアを開けると姫宮は笑顔を見せた。「申し訳ございませんでした、朱莉様。日曜の朝早くからご自宅に伺ってしまって。それでは早速ですが蓮君のお世話の方法を教えていただけますか?」「は、はい。それが実は知り合いの2人の男性が蓮君のお世話をしてくれることになっていたのですが……」するとそれを聞いた姫宮の顔が曇った。「恐れ入りますが、朱莉様。それはおやめになった方がよろしいかと思います。一応書類上とはいえ、朱莉様は副社長の奥さまでいらっしゃいます。ここに住んでいない若い男性が朱莉様の自宅を出入りしているところを見られたらどうされるおつもりですか? 噂が広がり、世間に知られてしまえば大変な事態になりかねません。なのでお2人には断りを入れて下さい」姫宮の有無を言わさない態度に朱莉は気おくれして
「あの、姫宮さんは直に翔さんから蓮君のお世話を頼むとお願いされたそうなんです。ですから……」朱莉はチラリと姫宮を見た。すると、姫宮が朱莉に声をかけた。「相手の男性の方に電話を代わっていただけますか?」「え? でも……」「大丈夫です。私にお任せください」そして朱莉が返事をする前に、ヒョイとスマホを朱莉の手から抜き取ると電話に出てしまった。「もしもし、お電話変わりました。副社長の秘書の姫宮と申します。初めまして」一方、琢磨は驚いた。先程まで話をしていた朱莉から急に聞きなれない女性の声が話しかけてきたからだ。『……初めまして。九条琢磨……と申します』琢磨は出来るだけ冷静に対応した。「九条琢磨さんですか。確か貴方は副社長の前の秘書の方ですね?」『そうですか。私のことを御存じだったのですね』「ええ、勿論。副社長から詳しくお話は伺っておりますので。ところで九条さん、貴方なら朱莉さんの立場をよくご存じのはずですが、何故このような真似をされるのですか?」『……それはどういう意味でしょうか?』「朱莉様は、書類上ですが正式な副社長の奥様でいらっしゃいます。それなのに朱莉様の処へ出入りしようとするのは、いかがなものでしょうか? 朱莉様と副社長の立場をもう少し考えて行動すべきかと思います。例え、お2人の間に恋愛感情が無いとしても……世間はどう思うでしょうか?」『そ、それは……』琢磨は苦し気な声を出した。朱莉はそんな2人のやり取りをハラハラしながら見守っていた。琢磨の声は全く聞こえては来ないが、姫宮の話の内容でどのような内容なのかは分かっていた。「今回は蓮君のお世話は私がいたしますので、遠慮願いますか?」『分かりました…。それでは最後に朱莉さんに挨拶だけしたいので電話を代わっていただけますか?』「ええ、お待ちください。朱莉様、九条様がお話ししたいとのことです」姫宮が電話を渡してきた。「は、はい……」朱莉は電話を代わった。「もしもし……」『朱莉さん、何だか悪かったね。どうやら俺は軽はずみな行動を取ろうとしていたようだよ』電話越しから琢磨の悲し気な声が聞こえてくる。「いえ、むしろ謝罪するのは私です」『いや、朱莉さんは何も悪くないよ。もともと最初に手伝いを申し出たのも俺の方だし』「九条さん……」朱莉は何と声をかければよいか分からなかった
姫宮は優秀な秘書だけあって、育児に関しても呑み込みが早かった。首の座らない蓮の抱き方も、ミルクの作り方から飲ませ方、ゲップのさせ方……そしておむつ交換。そのどれもが1度ですんなり覚えられたのだ。「流石は姫宮さん。優秀な秘書でいらっしゃいますね」すると姫宮が笑みを浮かべた。「いいえ、朱莉様の教え方がお上手だからです。お陰様で将来の役に立てそうです」「そうなんですか? きっと姫宮さんなら素敵なお母さんになれそうですね」すると姫宮が意外な質問をしてきた。「朱莉様は、副社長との離婚が成立したらどうされるのですか?」「え?」まさか翔の秘書からそのような質問が投げかけらると思っていなかった朱莉は戸惑った。「私は……」(私は……どうしたいんだろう……? また1人暮らしに戻ってお母さんが退院してくるのを待って、将来一緒に暮らす……? それとも何か良い縁があればいつかは結婚も……)朱莉が考え込んでしまったのを見て、姫宮は慌てた。「朱莉様、今の話は気にしないで下さい。変な質問をして申し訳ございませんでした」「い、いえ。そんなことはありませんけど…。でも姫宮さんもとても立派な方ですね。お休みの日だと言うのにお仕事には全く関係無いプライベートな育児を翔さんにお願いされて、引き受けて下さるなんて」すると姫宮が意味深な表情を見せた。「ええ……そのことですが……実は副社長から『特別手当』を支給すると言われたからなんです。副社長にはお金が理由で引き受けたとは思われたくないので、黙っていてくださいね?」「え? は、はい……分かりました」**** その後も育児のレクチャーは続き、2人でケータリングの昼食を食べたりしている内に、あっと言う間に朱莉が外出する時間がやってきた。「すみません、姫宮さん。17時までには必ず戻りますのでレンちゃんのことをよろしくお願いいたします」朱莉は玄関先で姫宮に頭を下げた。「ええ、大丈夫です。お任せください。どうぞ安心してお母様のお見舞いに行って下さい」姫宮に見送られながら朱莉はお辞儀をすると玄関のドアを閉めた。 姫宮は朱莉が玄関から出ていくのを見届けると、蓮の様子を見に行った。蓮は今から1時間ほど前にオムツも交換し、ミルクも飲んだのでぐっすり眠っている。少しの間、無言で蓮の様子を見守っていた姫宮はスマホを取り出すと、画面を
「覚えていない? 翔さんの秘書を務めていた男の人で、一度ここにも来たことがあるんだけど?」「あ! あの方ね。とても感じが良くて素敵な方だったわ」洋子はようやく思い出した。「そうだね。確かに九条さんはとても素敵な人だと私も思うよ」朱莉の話を聞いた洋子は躊躇いがちに尋ねた。「私は……ああいう男性が朱莉には向いてると思ったのよ……。優しそうで気立ても良さそうだったから……」「お母さん?」「あ、な、何でもないの。今言った事は忘れて頂戴」すると朱莉は母を見て微笑んだ。「九条さん、今はお付き合いしている女性がいなみたいだけど、きっとすぐに素敵な女性がみつかるでしょう? 私じゃ釣り合わなさすぎるってば」「朱莉……」(でもあの時……九条さんは朱莉に好意があるように思えたけど……。朱莉はそのことに気が付かなかったのかしら?)『ラージウェアハウス』のHPを見ている朱莉を洋子はじっと見つめるのだった——****「それじゃ、お母さん。そろそろ私帰るね。本当は毎日面会に来たいんだけど忙しくて……」朱莉は名残惜しそうに立ち上がった。「いいのよ。そんな毎日なんて。毎週来て貰ってるだけでも貴女の負担になってるんじゃないかと思うと、かえって申し訳ないわ」すると朱莉は洋子の手を握った。「何言ってるの? お母さん。たった2人きりの家族じゃない」「え? 朱莉……2人きりって……翔さんは?」そこで、朱莉はハッとした。(そうだった……! 翔先輩と私は夫婦だったんだっけ!)洋子は心配そうに朱莉を見つめている。「それはね、血の繋がった家族は2人だけって意味で言ったの。別に深い意味は無いからね?」「ああ。そういう意味だったのね? 分かったわ。……ところで朱莉」急に真面目な顔で朱莉を見た。「な、何? お母さん」「私は……何があっても貴女の味方だからね?」「お母さん……?」洋子の身体は少しだけ震えていた。「どうしたの?」「いいえ、何でも無いの。それじゃ、朱莉……気を付けて帰るのよ?」「う、うん。それじゃまたね。お母さん」朱莉は手を振ると病室を去って行った――それを見届けると、洋子は封筒からスナップ写真を取り出した。「朱莉……」その写真は朱莉が男性と抱き合っている写真であった。男性の方は背中を向けているので顔は分からない。だが朱莉はこちらを向いてい
——18時 有楽町の繁華街の、とある1軒の居酒屋に琢磨と航の姿があった。「まさか、お勧めの居酒屋があるって言ってたけど……沖縄風の居酒屋だったとはな……」お座敷席で航は泡盛を飲んだ。「何だ? 沖縄風よりも北海道の味覚の方が良かったか?」琢磨はオリオンビールを飲みながら航に尋ねる。「う~ん……どうだろうな? もうすぐ12月だから北海道風でもいいけど……うん。でもやっぱり沖縄かな? あれ以来沖縄にはまったもんな! 朱莉との生活も楽しかったし……」何処か挑発的な目で琢磨を見る航。「ああ、そうか!」琢磨はイライラしながらビールを煽るように飲み、空になったグラスをダンッ!と置く。(くっそ……航の奴め……俺よりも朱莉さんとの出会いが遅いくせに、俺よりも長く朱莉さんと会っていた時間が長いなんて……)「お? どうした? 色男が俺に嫉妬してるのか?」航がからかうように言う。「誰が色男だよ!」「お前に決まってるじゃないか。俺より先に待ち合わせ場所に来ていただろう? お前、女に声かけられていたじゃないか」「は? 何だ、航。お前見ていたのか!?」「ああ、勿論。あの九条琢磨がどんなふうに女を断るか見ておきたかったからなあ。いや〜それにしてもやっぱりお前って女にモテるんだな?」「向こうから声をかけてくるような女なんて、こっちから願い下げだ」琢磨は言いながら、海ブドウに箸をつけた。「へえ〜お前って肉食系の女は苦手だったんだな? そうか。だから朱莉みたいなタイプの女がいいのか」「お前なあ……前から言おうと思っていたんだが、どうして朱莉さんのことを呼び捨てにするんだ? 彼女はお前より幾つ年上だと思ってるんだよ」「3歳しか変わらないだろう? 何だよ、お前も京極と同様嫉妬してるのか? 大体朱莉がよびすてで構わないって言ってくれたんだぜ? だったら琢磨も聞いてみればいいだろう?『朱莉、俺もお前のこと呼び捨てで呼んでも構わないか?』ってな?」「お前……俺のことからかってるだろう? おい、俺にも泡盛よこせ!」航がボトルで頼んだ泡盛を琢磨は奪うと、空いてるグラスに並々注いで、グイッと飲む。「あ~あ……俺より5歳も年上なのに……男の嫉妬程醜いものは無いぜ?」航はゴーヤチャンプルーを美味しそうに口に運ぶ。「うん、美味いな。そう言えば朱莉も俺の為にゴーヤチャンプ
「うん? 誰からだ?」航はスマホを見るが、知らないアドレスからの着信である。「何だ? このアドレスは……それに添付ファイルが付いてるぞ?」「おい、航。ウィルスソフトかもしれない。何もしない方がいいぞ?」泡盛を飲みながら琢磨は言う。しかし、航は首を振った。「いや……このメール……何か変だ……」「変? どういうことだ?」琢磨は尋ねた。「鳴海朱莉に関する扱いについて……って書いてある」「何だって!?」琢磨が腰を上げた。「メッセージ……開いてみるぞ……」航は震える指先でメッセージを開いた。すると驚きの内容が記されていた。『鳴海朱莉は鳴海翔の人妻である。なので不用意に近付かないように』メッセージはまだ続く。航は画面をスクロールさせ、その文章を目にした。「画像を確認してみろ……?」「おい、どうするんだ? 航」「開いてみるしか無いだろう?」ファイルをタップして、2人は目を見開いた。それはこの間、雨の夜朱莉と航が再会した時の写真だった。そこには朱莉を抱きしめた航の姿が映っている。「「!!」」2人は息を飲んだ。「おい琢磨……この写真撮ったの……お前じゃ無いだろうな……?」航が睨みつけると、琢磨は激怒した。「何だって……? ふざけるな! 俺がそんな卑怯な真似をすると思っているのか!?」「そ、そうだな……。悪かった。お前はそんなことする奴じゃ無いだろう。それじゃ一体誰なんだ? 俺たち以外にあの時、誰かがいたのか……?」そこまで言いかけて航はハッとなった。「まさか、マスコミの連中か……? また朱莉を狙って……?」航の呟きを琢磨は聞き逃さなかった。「何だって? マスコミがどうしたんだ? まさか朱莉さんはマスコミにつけ狙われてるのか?」「い、いや……俺はその辺の事情は知らない。ただ沖縄で京極に言われたんだ。マスコミが朱莉を狙ってるから、朱莉とは当分連絡を取るなって……」「これは……誰に対する脅迫なんだ……?」「さあな……。少なくとも、お前に対する脅迫では無いってことだけは確かだろう?」そして航は再び泡盛に手を伸ばした——**** 琢磨と航が有楽町でお酒を飲んでいる頃、既に帰宅していた朱莉は夕食の支度をしていた。姫宮は朱莉が帰宅するとすぐに帰って行き、今は眠っている蓮と朱莉の2人きりである。今夜のメニューは湯豆腐に鶏むね肉
朱莉は英会話の勉強をしていた。——ピンポーンその時、玄関のインターホンが鳴り響いた。「え? ひょっとして翔先輩?」朱莉は玄関へ行き、ドアアイを覗きこむと思っていた通り、翔の姿があった。だが……何か様子がおかしい。鍵を開けてドアを開けると、そこには険しい顔つきの翔が何も言わずに靴を脱ぐと上がり込んできた。「こんばんは、翔さん」朱莉は挨拶をしたが、翔はチラリと朱莉を一瞥しただけで前を素通りし、リビングのソファに座ると低い声で朱莉を呼んだ。「朱莉さん……来てくれ。大事な話があるんだ」「は、はい……?」朱莉は言われた通り翔の向かいのソファに座ると、いきなり翔は切り出してきた。「朱莉さん……やり方が汚いと思わないのか?」「え? 何のことですか?」朱莉は訳が分からず首を傾げた。「とぼけるのはやめてくれないか? そんなに俺が蓮のお宮参りを1人で行くように言ったのが気に入らなかったのか?」翔は苛立ちを隠す素振りも無く朱莉を睨み付けるように言う。しかし、一方の朱莉には今の状況が分からなかった。「あ、あの……私には何のことかさっぱり分からないのですけど……?」身を縮こませながら尋ねる朱莉は激しく動揺していた。(分からない……何故翔先輩はこれ程迄に私に対して怒っているの……?)すると翔はますます機嫌が悪くなっていく。「何だ? 君が蒔いた種なのに説明が必要なのか? ……全く嫌みな態度だな。朱莉さん、君が祖父にお宮参りのことで連絡を入れたんだろう? それで祖父が中国から明日帰国することになったんだぞ? どうするんだ? 一時の感情に任せて祖父を日本へ呼び出せば不利な立場になるのは朱莉さん、君の方なんだぞ? そのあたりのことは理解出来ているんだろうね? 祖父から色々質問をされて、一つでもきちんと答えられるのか?」「え? 会長が……日本へ戻って来るのですか?」朱莉は驚いて尋ねた。「朱莉さん。君は随分演技がうまいんだな? 自分から祖父に連絡を入れたくせに……」翔は溜息をついた。「そ、そんな! 私は何も知りません。会長が日本に来るなんて今初めて聞きました。それに……第一私は会長の連絡先を知らないんですよ?」朱莉は必死で訴えた。「君の話を信じろと言うのか?」「そうです、お願いですから信じて下さい」「……悪いが、今回の件は流石に信用するのは無理
「どうかしたんですか? 明日香さん」「え、ええ……。今までのこと、ちゃんと謝りたかったの。朱莉さんには酷いことばかりしてきたから」「でも明日香さんは私に親切にしてくれましたよ? 沖縄から東京に来るとき、わざわざビジネスクラスの航空券を手配してくれたじゃないですか」「あ、あれは……」明日香は顔を赤くすると、一度そこで言葉を切って俯き、再び顔を上げた。「お宮参りのことだけど、まさか翔が朱莉さんに一人で行って来いなんて酷いことを言うとは思わなかったの。翔の代わりに謝らせて。本当にごめんなさい」まさか明日香が謝ってくるとは思わず、朱莉は驚いた。「明日香さん、どうか顔を上げて下さい。それよりお聞きしたいことがあるのですけど……ひょっとして何処かへ出掛けるんですか?」「そうなの。実は今度『星の降る駅』っていう小説のイラストを描くことになったんだけど、星がきれいに見える駅がどこかにないか、SNSで質問していたのよ。そしたら昨日突然書き込みが上がったのよ。『野辺山駅』がとても星空が綺麗に見えるんですって。だから今日から早速行ってみようと思って」「すごいですね……それっていわゆる取材ってものですよね。明日香さん、恰好いいですね。憧れます」朱莉は尊敬のまなざしで明日香を見た。「そ、そう? あ……ありがとう」明日香は頬を染めた。「あの……でもその話、翔さんはご存じなんですか?」「翔には話してないわ。言えば反対されそうだし。その代り書置きだけはしておいたけど。スマホに連絡入れるつもりもないし。それじゃ……私そろそろ行くわ」そして明日香は立ち上がった。玄関まで朱莉は蓮を抱いたまま見送りに出た。「明日香さん。お気をつけて行って来てください」「ええ。それじゃ朱莉さん。行ってくるわ。お土産……何か買ってくるわね」再び明日香は頬を染めた。「はい。ありがとうございます」そして明日香は玄関まで見送られながら、朱莉の自宅を後にした——****——その夜自宅へ帰って来た翔は驚いた。いつもなら電気がついて明るい部屋が今夜は真っ暗である。「明日香? 出かけてるのか?」ネクタイを緩めながら部屋の電気をつけると、リビングのテーブルに残されている手書きのメモを見つけた。「なんだ? これは……書置き?」拾い上げ、目を見開いた。『イラストの取材で良い場所の情報を
ビデオ通話を切った後、翔は椅子の背もたれに寄りかかるとフウッと息を吐いた。その様子を離れたデスクで見守っていた姫宮が声をかけてきた。「会長からお電話だったんですね」「ああ、そうなんだ。だけど……あまりにも偶然と言うか……」「会長は日本の伝統的行事を重んじる方ですよ。私が秘書をしていた時から翔さんにお子さんが生まれたら伝統行事に参加したいと常日頃から仰っておられましたから」「……そうなんだが……。朱莉さんを明日鳴海家に連れて来るように言われてしまった。……色々とまずいな」「まずいと仰いますと?」「朱莉さんに妊娠中のこととか、出産のことについて根掘り葉掘り聞かれても朱莉さんは何一つ答えられない。きっと会長に疑われてしまう」「……会長に疑われるよりも前に朱莉様が心配にはなりませんか?」姫宮の言葉に翔は顔を上げた。「え?」姫宮は頭を下げた。「差し出がましい事を申し上げますが、会長と会われて一番困ることになるのは朱莉様だと思います。初めて鳴海家へ行くわけですし。恐らく翔さんとの結婚生活について会長が尋ねられるのは朱莉様の方だと思います。出産時の苦労話とか、それらを未経験の朱莉様に答えられるとお思いでしょうか?」「確かに……。どうしよう、必ず連れて行くと答えてしまったが、朱莉さんには急に具合が悪くなったとか理由を付けて、蓮だけ連れて行けないだろうか? 恐らく会長のお目当ては蓮だと思うし」「……僭越ながらそれでは根本的解決にはならないと思いますが? 蓮君はゆくゆくはこの鳴海グループの跡継ぎとなられるお子さんです。恐らく今後も会長は蓮君の行事の祝い事には予定を開けて参加されることになると思います。その度に朱莉さんを会長から遠ざける等、難しいと思います」「困ったな……八方塞がりだ……」片手で頭を支えながらため息をつく翔。「もしよろしければ私も明日、鳴海家へ伺ってもよろしいでしょうか?」「え? 姫宮さんが……?」「はい。会長の質問で朱莉さんが困るような場面があった場合、私が会長の気を引きますので。私は会長の秘書をしておりましたので、お2人の力になれると思います」そして姫宮はにっこりと微笑んだ——****――14時 蓮の沐浴を終えて、ミルクを飲ませている所に突然インターホンが鳴った。「え? 誰かな……?」朱莉は哺乳瓶をテーブルに置くと、
翔は社長室のデスクでため息をついていた。そこへ秘書である姫宮がノックをして入室して来た。「おはようございます、翔さん。……どうしたのですか? 朝からため息をつかれて」「いや……少し蓮のことで……あ、すまなかった。プライベートなことなのに」「いえ、蓮君がどうされたのですか?」「実は……朱莉さんから週末、蓮のお宮参りに行かないか誘われたんだ」「まあ、それは素晴らしいですね。お祝い事の行事は大事ですから」「だから、明日香を誘ったんだ。2人でお宮参りに行かないかって」「え?」「だが……明日香は行かないと断ったんだ……」翔は頭を押さえた。姫宮は黙って聞いている。「だから朱莉さんに言ったんだ。悪いけど1人でお宮参りに行ってくれって。写真は頼んだんだが……。明日香の機嫌がどうにも良くなってくれなくて……」そして再び翔は溜息をついた。「そうでしたか……」姫宮は静かに答えた。すると、突然翔が立ち上った。「翔さん? どちらへ行かれるのですか?」「あ……いや、まだ始業時間まで時間があるからコーヒーを買ってくる」「コーヒーならコーヒーサーバーがありますよ? おいれしましょうか?」「いや。いいんだ。少し外の空気も吸ってきたいから」翔は上着をひっかけた。「はい、分かりました。行ってらっしゃいませ」姫宮は頭下げた。やがてドアが閉じられると姫宮はスマホを取り出し、メッセージを打ちこみ始めた……。**** 昼休憩の後。突然、翔のPCから呼び出し音が鳴った。「え……? ビデオ通話……会長だ!」翔は慌てながら応答した。すると画面上に会長である鳴海猛が映し出された。『やあ、久しぶりだな。翔』「はい、お久しぶりです。会長……突然どうされたのですか?」『いや、どうされたも無いだろう? お前がいつまでたっても曾孫の蓮の画像を送ってくれないからお前に電話を入れたんじゃないか。それに蓮は生れて一カ月が経過しただろう。お宮参りの行事があるんじゃないのか?』翔はドキリとした。まさか猛から蓮のお宮参りの話が出てくるとは思ってもいなかった。「そ、そうですね。そのことは考えてはいたのですが……」翔が言い淀む。『それでな、翔。今、私は上海支社にいるんだが、明日の朝一番の便で帰国することにした。お前の子供に会わせてくれ。それで朱莉さんを連れて一緒に土曜日にお
電話を切った航は項垂れてスマホを強く握りしめた。「あ……朱莉……。ごめん……」その上にポタポタと涙がこぼれて落ちてゆく。今までこんなに誰かを好きになったことは無かった。過去に何回か交際したことはあったが、誰とも長続きはしなかった。なのに朱莉にだけは強く惹かれた。背負っているものが重過ぎて、年上なのに何所か守ってやらなければと思わせる儚さ。朱莉本人は全く自覚していないようだが、美しい容姿……優しい心……そのどれもが航の心を鷲掴みにしてしまっていたのだ。出来ることなら自分の思いを告げたかったが、朱莉はあの鳴海翔の人妻だ。例えそれが嘘にまみれた偽装結婚でも、書類上はれっきとした婚姻関係を結んでいる。不倫の代償は……大きい。おまけに朱莉は契約書に決して浮気をしてはいけないとサインまでさせられているのだ。朱莉にその気が無くても自分が周りをうろついていた為に第三者に付け込まれてしまった。「俺も琢磨も……朱莉のことを遠くから見守っていれば……別れを告げずに済んだのか……?」航は自問自答した。「朱莉……お前が俺のこと、弟としか見ていなくても……お前のことが大好きだったよ……」航はいつまでも泣き続けるのだった——**** 電話が切れた後も、朱莉は暫くの間呆然としていた。(航君……さよならって言ってたけど……もう二度と連絡を取り合わないってことなの? それに九条さんがオハイオ州に行くなんて……)何もかも初めて聞かされたことなので、とてもではないが朱莉はすぐに受け入れられずにいた。「フエエエエ……」その時、蓮がむずかった。その声に朱莉は我に返り、慌ててベビーベッドへ向かうと蓮を抱き上げた。「よしよし……レンちゃん。どうしたの?」蓮を胸に抱きしめ、あやしながらだんだん朱莉は冷静さを取り戻してきた。(航君、彼女が出来たんだ。航君はいい子だから彼女が出来ても当然だよね。少し寂しいけど、応援してあげなくちゃ。その為には私は邪魔しちゃいけないものね。それに九条さんがオハイオ州に行くなんて……。最後にお礼を言いたかったけど航君に連絡をしないように言われたから諦めなくちゃ)朱莉にあやされているうちに、いつの間にか蓮は眠りに就いていた。その姿を見ながら朱莉は思った。(そうよ、私にはまだレンちゃんがいる。それに、もともと私は1人きりだったんだから。それが
朱莉から電話がかかってくる少し前—— 缶ビールを片手に、航は自分のスマホを強く握りしめていた。父の弘樹に諭されてから、今日こそ、明日こそ朱莉に別れを告げなければと思いつつ、数日が過ぎてしまっていた。そんな航の元気の無い姿を弘樹は気づいていたが、特に声をかけることはしなかった。琢磨とは既に打ち合わせ済みだった。もし仮にどちらかのスマホに朱莉から連絡が入ってきた場合は、自分たちに二度と連絡を入れないように朱莉に告げようと。琢磨は現在オハイオ州に移り住む為の準備で奔走している。朱莉に別れを告げるなら自分の役目だと航は決め、そのことを既に琢磨には告げてあった。それなのに航は朱莉と別れを告げるのが怖かった。だから先延ばしにしていたのに……。その電話は突然鳴ったのだ。握りしめていたスマホが突然鳴り響き、航は驚いた。そして着信相手を見てさらに衝撃を受けた。「あ、朱莉……!」まさかこんなに早く朱莉から電話がかかって来るとは思ってもいなかった。(朱莉……この電話に出たら俺はお前に別れを告げなくちゃならないんだ……! 頼むから諦めて切ってくれ……!)航は唇をかみしめてスマホが鳴りやむのを待っていたが、根負けして10コール目でとうとう電話に出てしまった。「もしもし……」自分でも驚くほど弱々しい声が口を突いて出てきた。『こんばんは。航君。……どうしたの? 何だか随分元気が無さそうだけど?』受話器越しから自分の身を案ずる朱莉の声が聞こえてくる。思わず涙ぐみそうになるのを航は必死でこらえて、わざとぶっきらぼうに答えた。「いや、別に。気のせいだろう?」『でも……』「いいから、何の用なんだよ」応答しながら、航は激しく後悔していた。(俺は……なんて酷い対応をしているんだ……!)朱莉の電話の内容は蓮のお宮参りについて来てほしいとのことだった。その話を聞きながら、航は翔に対して怒りをたぎらせていた。(あいつめ……! また朱莉一人に自分の子供の行事を押し付けるなんて! 俺がお前の立場だったら、絶対にそんなことはさせないのに……! だけど……俺はもうこれ以上お前の傍にいちゃいけなんだよ!)「無理だな」朱莉の話を聞き終えると、血を吐く様な思いで航は返事をした。『え?』朱莉の戸惑った声が何所か悲しみを帯びたように航には聞こえた。朱莉に何か問い詰められるのが怖
明日香は朱莉に親切にして貰って以来、少しずつ朱莉に対して思う所が出てきていた。沖縄では翔の浮気疑惑が浮上した時、身重の明日香に変わって朱莉がわざわざ東京まで足を運んでくれたし、今だって蓮の子育てを一生懸命やってくれている。そのことは1週間ごとに報告してくる朱莉のメールで良く分かっている。まだ素直になれない明日香ではあったが、いずれはきちんと心からの謝罪とお礼を述べたいと思っていたのだ。それなのに、翔の態度は相変わらずだ。朱莉に対する扱いは、かつて自分が鳴海家で受けてきた扱いを彷彿とさせ、明日香にとって非常に嫌な気分にさせる。「明日香……それじゃお宮参りには……?」「行かない、と言うか行けないわ。来月『独身イラストレーターの座談会』というイベントが開催されるのよ。私はそこに呼ばれてるの。『独身』の私が蓮を連れてお宮参りになんて行けるはずないでしょう?そんなに行きたいなら、朱莉さんと2人で行けばいいでしょう!?」明日香はそこまで言って気が付いた。以前の明日香なら翔と朱莉の中を激しく嫉妬していたが、朱莉に対する思いの変化に、翔の冷たい態度。さらに一時的に10年分の記憶を失って琢磨を好きだった頃の自分の記憶を取り戻し、少しずつ翔に対する依存度が減ってきていることを今更ながら自覚したのだ。一方の翔は明日香に思いがけない言葉を投げつけられ、酷く傷ついていた。そして深いため息をついた。「……分かった。お宮参りの件は……断るよ」「え?」明日香は一瞬顔を上げたが……そっぽを向いた。「勝手にしたら?」そしてグラスをテーブルに置くと明日香は仕事部屋へと戻って行った。そんな明日香を見届けながら翔は朱莉に電話を掛けた。呼び出し音の後、朱莉が電話口に出た。『はい、もしもし』「こんばんは。朱莉さん」『はい、こんばんは』「蓮は今どうしてる?」『フフ……今はお目目パッチリ開いてベビーベッドに取り付けたメリーを見つめています。この頃ってまだ殆ど目は見えていない様なんですけど、うっすらと見えているんでしょうね?』電話口からは穏やかな朱莉の声が聞こえてくる。「そうか……。それで、お宮参りの件なんだけどね……悪いけど行けないんだ。だから朱莉さん1人で行ってきてくれるかい?」『え……? 1人で……ですか?』「何だ? 無理かい?」『い、いえ! そんなことはありませ
11月22日—— 琢磨と航が朱莉との別れを決意してから数日が経過していた。朱莉は蓮を抱っこしながらカレンダーを見ていた。「フフフ……早いな。もうレンちゃんが生まれて一カ月になるんだもの」朱莉は腕の中でスヤスヤ眠る蓮を愛おし気に撫でた。「色々バタバタしていたから、お七夜が出来なかった代わりにお宮参りだけでも出来ないかな?」朱莉は自分が育てる間は、蓮のお祝い事の行事を出来るだけ行いと考えていた。「翔先輩に今週の土曜か日曜、お宮参りに行って貰えないか頼んでみようかな? そうだ、お昼の時間にメッセージを送ってみよう。レンちゃん、パパ、お宮参り一緒に来てくれるといいね?」朱莉は笑みを浮かべ、蓮に頬ずりした。 12時――朱莉は蓮のミルクをあげて寝かせつけた後、翔にメッセージを送った。『御相談したいことがあります。お手すきの時に連絡お待ちしております』それだけ書いて送信すると、すぐに電話がかかってきた。「はい。もしもし」朱莉が電話に出ると、翔のどこか疲れた感じの声が聞こえてきた。『朱莉さん。何か蓮のことであったのかい?』「い、いえ。実は今日が蓮君が生まれて丁度一カ月になったのでご連絡させていただきました」『ああ。そうか……もうそんなになるんだね。それで、他に用件は?』あくまで事務的な態度の翔。最初の内はその対応に多少なりとも傷付いたことがあったが、今の朱莉はこれが普通なのだと受け入れるようになっていた。「はい。それで生後一か月経つと、お宮参りと言うのを行うのですが、今週の土曜か日曜にお宮参りに行きませんか?」『う〜ん……お宮参りか……。そうか! その手があったか!』「え? その手?」『ありがとう、朱莉さん。明日香に確認してみるよ。もし明日香が了承してくれれば俺と明日香の2人でお宮参りに行ってくることにするよ! 教えてくれてありがとう。また後で連絡するよ』それだけ言うと電話は切れてしまった。「翔先輩……」朱莉は暫く呆然としていた。(そうか……翔先輩は明日香さんと2人でお宮参りに行くつもりなんだ……。私は付き添いもさせて貰えないのかな……?)そう思うと無性に寂しい気持ちになったが、朱莉には意見する権利は何処にも無かった。****その夜――「しつこいわねえ……帰宅してから早々にまたその話なの?」イラストの仕事をしていた明
翌朝―― 出社した琢磨は、もう1人の若き社長『ラージウェアハウス』を設立した二階堂晃の社長室に呼び出されていた。僅か24歳でこのネット通販会社を立上げ、30歳になった今では知らない人はいないほどの一流大手企業に成長させた人物である。容姿端麗で独身と言うこともあり、多くの有名女性達からの人気も非常に高い。「九条、今日呼び出したのは他でもない」二階堂は椅子に座り足を組んだ。「実は来年、アメリカに支社を作ることに決めたんだ。九条、お前来週からオハイオ州に行ってくれ。連れて行くメンバーは20名でお前が自由に選出してくれて構わないぞ? そうだな……軌道に乗るまで最低3年は行って貰う」「な、何ですって!? どうしてそんないきなり……!」あまりにも突然の話で琢磨は驚いた。確かに以前から海外にも拠点を置き、現地で人気商品をリサーチして商品として売る話は計画に浮上していたが、まさか自分が選ばれるとも思っていなかったし、正に寝耳に水だ。「どうしてかって? そんなのは九条、お前だから任せたいんじゃないか。学生時代からお前は俺の後輩としてずっと見てきたが、人一倍優秀だったからな。だからお前があの鳴海翔の専属秘書になった時は正直驚いたよ。勿体ないなって思ったな。俺だったらもっとお前の才能を伸ばしてやれたのにって」「それは買いかぶり過ぎですよ。俺はそんなに大層な人間じゃありませんから。とにかくこの話はお断りします。俺は日本を離れるつもりは無いです。では失礼します」一礼して背を向けて去りかけた時、二階堂が声をかけてきた。「九条。恋は盲目って言うけど……事実だったのか?」「え……?」琢磨はその言葉に凍り付いて、思わず振り向いた。「何だ? その顔は……やはり図星だったのか?」「……おっしゃっている意味が……よく分かりませんが……」なるべく冷静さを保ちつつ、琢磨は返事をする。すると二階堂は溜息をつきながらA4サイズの封筒を引き出しから出して、デスクの前に置いた。「今朝匿名で社長室宛てに届いたんだよ」「中を見ても?」「ああ」琢磨は茶封筒から用紙を取り出した。「え……? 九条琢磨の報告書……!?」琢磨はざっと書類に目を通し、見る見るうちに顔色が青ざめていく。 九条琢磨は以前秘書として働いていた『鳴海グループ総合商社』の副社長、鳴海翔の妻である、鳴海朱莉に恋