「修!」 侑子は修のもとへ駆け寄ると、彼の顔を両手で包み込んだ。 「大丈夫なの?痛くないの?」 彼の傷ついた顔を心配そうに見つめながら、内心では安堵していた。 さっき若子が「修」と呼んだとき、一瞬、胸が凍りつくほど焦ったのだ。もしかして、これがきっかけで二人が復縁してしまうのではないか―?絶対に、そんなことは許せない。けれど、幸いにも若子が気にかけていたのは自分の夫のようだった。 修は侑子に抱きしめられたまま、ただ黙っていた。 まるで魂を抜かれたように、ぼんやりとして、どこか遠くを見つめている。 呆然とした表情は、まるで魂を抜かれたかのようだった。 若子は、その様子を見ながら、改めて思う。 ―この女性は、本当に修を愛しているのだな、と。 その愛情の強さが、ひしひしと伝わってくる。 若子は視線を西也に移し、そっと声をかけた。 「西也......大丈夫?」 修と同じく顔に傷を負っていたが、彼のほうが明らかにひどい状態だった。 彼はつい最近、治療を終えたばかりなのに...... 無理をして、また何か悪化するのではないかと心配になる。 「......平気だ」 西也は目を伏せ、彼を押さえていた男たちに向かって言う。 「もう離せ」 だが、スタッフは彼が再び暴れることを恐れ、すぐには手を離さなかった。 若子は彼らに向かって静かに言った。 「すみません、主人を放していただけますか?もう手は出しませんから」 その言葉を聞いて、ようやく男たちは彼を解放した。 西也は口元の血を拭いながら、小さく苦笑する。 「......心配かけてすまない。大丈夫、ただのかすり傷だ」 強がるその姿は、どこか痛々しかった。 若子はそんな彼にそっと微笑み、静かに提案する。 「......子供を抱いてあげて」 西也は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに頷き、若子の腕からそっと子供を受け取った。 その様子を確認すると、若子は今度は修のほうへ向き直った。 「修......どうして、いつもこうなるの?」 その声には、怒りも、咎めるような強さもなかった。 ただ、静かに問いかける。 しかし、その穏やかさの奥には、深い悲しみが滲んでいた。 「なんだって?」 若子の視線が彼
しかし、彼の言葉を聞いた瞬間― 若子の心の奥底で、微かな「喜び」が生まれてしまった。 ―修は、まだ私を忘れられない? ―山田さんの存在も、ただの演技に過ぎない? そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎる。 けれど、それはすぐに消えた。 もう、すべては手遅れだった。 現実は、そんな淡い期待を許してくれない。 彼女と修の間には、埋めることのできない溝がある。 だから、彼を追い払うしかない。 残酷な言葉で、徹底的に傷つけるしかない。 「......修、西也を傷つけないと気が済まないの?」 冷たい声が、静かに響く。 「そうよ、私はあの日、西也を選んだ。あなたがどう思おうと、それが私の決断だったの。私を恨むのは構わない。でも―」 若子は拳を握りしめ、痛みを堪えながら続ける。 「彼には手を出さないで。彼には何の罪もないのよ。西也もまた、傷ついた一人なのだから......! もし怒りの矛先を向けたいなら、私にしなさい。殴りたければ、私を殴ればいい。だからお願い、彼にはもう指一本触れないで......!」 修の指先が、ぎゅっと握り締められる。 心臓が抉られるように痛む。 ―また、彼女は遠藤を庇うのか。 ―いつもそうだ。 彼が西也を殴る理由なんて、一度も聞かない。 ただ、無条件に彼を庇うだけ。 視線を移すと、西也の口元に、わずかな笑みが浮かんでいた。 それは、まるで勝者の微笑み。 修の胸に、言いようのない敗北感が押し寄せた。 もう終わりだ― 彼は、何もかも失ったのだ。 「松本若子」 喉が焼けるように痛む。 「先にトイレに入ったのは俺だ。その後、こいつがついてきた。なぜ彼がついてきたのか、考えたことはあるか?俺がなぜ殴り合うことになったのか、考えたことは?」 「......西也が、何を言ったっていうの?」 若子はじっと修を見つめながら問い返した。 修はわずかに笑う。 「言ったところで、お前は信じるのか?」 その声には、諦めと皮肉が滲んでいた。 「お前はいつだってこいつの味方だ。何があろうと、彼を疑わない。証拠を突きつけられても、結局は許す。お前の中で彼は、何をしても許される存在なんだろ?」 「......違う」 若子は本能的に否定した。 だ
しかし、前回の件―あのときは、確かに西也が修を陥れたのだ。 もしも彼が自分で真相を話さなかったら、今でも修のことを誤解したままだったかもしれない。 今になって思い返せば、あの出来事は恐ろしいものだった。 一度目があったのなら、二度目があってもおかしくないのでは? けれど―今回の件には証拠がない。 監視カメラもない以上、事実がどうだったのか、彼女にはわからない。 修を疑いたくない。 けれど、それ以上に、西也を悪者にしたくなかった。 この二人のどちらかが間違っている。 だが、それが誰なのか―それだけは、どうしてもはっきりさせたかった。 心の奥では、西也のほうが間違っていてほしいと願っていた。 もう、修に対してこれ以上絶望したくなかったから。 「若子、確かに俺は少しきつい言い方をしたかもしれない。でも、それはこいつが若子を侮辱したからだ!」 西也の声には、怒りが滲んでいた。 「頭にきた俺に殴りかかってきたのは向こうだ。だから、俺もやり返したんだ。信じてくれ、俺は本当のことを言ってる」 「......きつい言い方?」 若子の唇がかすかに震えた。 「じゃあ、彼に何を言ったの?」 「ただ、『若子を大切にする』『子どもと一緒に幸せにする』って言っただけだ」 西也は少し苛立ったように答える。 「それと、彼がお前に対して酷いことを言ったから、それを否定しただけだ」 「修が......そんなことを言うはずがありません」 侑子が強く首を振った。 「修は紳士的な人よ。そんなふうに、松本さんを侮辱するなんて、絶対にありえません!」 そう言いながら、修の腕にしがみつく。 彼女の目には、微塵の迷いもなかった。 「本当に?確信してる?」 西也は冷たく笑う。 「ええ、確信しています」 侑子はまっすぐに彼を見据えた。 「私は修のことを知っています。そんなことを言う人ではありません。むしろ、あなたのほうが修を傷つけたんじゃないんですか?」 話は完全に平行線。 お互いの主張は食い違い、どちらも証拠がない。 ―いや、証拠がないわけではなかった。 「若子、証拠ならある」 西也はそう言って、ポケットからスマホを取り出し、再生ボタンを押した。 そこから流れてきたのは―修の
修も、自分の言葉がひどかったことはわかっていた。 だが、それはただの怒りに任せた言葉で、本心ではなかった。 けれど、人は往々にして一部分だけを切り取って解釈する。 前後の文脈なんて気にも留めずに。 「お前、なんでその一言だけを録音した!?全部流せよ!お前が何を言ったのか、みんなに聞かせてやれ!」 そう叫ぶと同時に、修は西也のスマホを奪おうと前へ出た。 西也は片腕で子供を抱えながら、素早く後ろへと下がる。 その動きに周囲の人々も警戒し、すぐに数人が修を押さえ込んだ。 「遠藤!お前みたいな卑怯者がいるか!断片だけ切り取って印象操作するなんて、ふざけるな!」 「俺が断片だけ切り取った?」 西也は嘲笑うように言った。 「これはお前の『そのままの言葉』だろ?俺は何も捏造してない。そうやって取り乱すってことは、図星を突かれたからか?お前がやましいことを隠してるからじゃないのか?」 「お前......覚えておけ。俺は絶対にお前を許さない」 「いい加減にしなさい!」 その場の空気を震わせるような大声が響いた。 「修!西也を許さないって言うなら......いっそ私を殺せばいいじゃない!」 若子だった。 修は、まるで世界が崩れ落ちるような絶望の目で彼女を見つめる。 「......やっぱり、お前はこいつを信じるのか?」 「西也を信じないって言うなら、あなたを信じろって?修、録音の中の声、あれはあなたが自分で言ったことでしょ?」 若子の悲しみに染まった瞳が、ふいに笑みを浮かべた。 ただし、それは皮肉そのものだった。 「本当にすごいわね、修。あなたに捨てられた私だけど、結果的にはそれでよかったのよね?だって最初に私をいらないって言ったのは、あなたなんだから」 その笑みは、どこまでも冷たい。 「桜井のために、私と離婚したんでしょう?彼女の言葉を無条件に信じて、何度も何度も、全部私が悪いって決めつけたわよね? ......なのに、後になって後悔したからって、今さら『ずっと愛してた』なんて言い出すの?理由を並べ立てて、何とか私を振り向かせようとして......ほんと、呆れるわ」 若子は、自嘲気味に笑った。 「修、これがあなたの本音でしょう?ようやく気づいたのね。『本当に欲しいのは誰か』っ
修と西也は、殴り合いの末に近くの警察署へ連行された。 警察署内で、二人は別々に分けられ、事情聴取を受けることになった。 数時間に及ぶ調査と審問の結果、警察は最終的に二人を釈放することを決定した。 責任逃れをせず、また大きな怪我や破壊行為もなかったため、厳重注意のうえでの処分となったのだ。 警察は二人に法を遵守するよう警告し、今後トラブルを起こさないことを誓約する書類に署名させた。 すべての手続きが終わると、家族に引き取りの連絡が入る。 今回の件は保釈金が必要なほどの重大事件ではなかったため、若子と侑子がそれぞれ書類にサインをし、二人を連れて帰ることになった。 ―夜の帳が降りる頃。 警察署の厳めしい門は、喧騒と混沌に満ちた世界と、今ここにいる者たちを分かつ鉄の幕のようだった。 薄暗い街灯の光が冷たく輝き、淡く寂しげな影を路上に落とす。 まるで、夜空にぽつんと浮かぶ孤独な星のように― 警察署の門前で、四人は再び顔を合わせた。 若子の視線が、修の腕をそっと掴む侑子の手に向けられる。 彼女は何も言わず、すぐに視線を逸らした。 そして、西也の手首をしっかりと握る。 「西也、帰るよ」 その声は、かすれていた。 長い一日だった。 身体だけでなく、心まで擦り減らされていた。 誰も何も言わないまま、二組の人間は背中を向け、それぞれ違う道へと歩き出した。 静寂の中で幕を閉じる、騒がしくも虚しい茶番劇。 夜の街はひっそりと静まり返り、行き交う人々もまばらになっていく。 風が吹き抜けるたび、広い道路に寂しげな音が響いた。 闇が墨のように街を包み込み、遠くのネオンライトだけが、かろうじてこの都市の輪郭を描いていた。 ―侑子は修の腕にそっと手を回し、一緒にゆっくりと歩いていた。 駐車場はすぐそこなのに、修は車に向かおうとはしない。 どこへ行くつもりなのか、彼女にはわからなかった。 でも、何も言わずに彼に寄り添う。 見知らぬ国の夜道を、一人で歩いていたら怖かったかもしれない。 でも、修が隣にいるなら―なぜか安心できた。 まるで、彼が自分のボディーガードであるかのように。 思い切って、そっと頭を彼の肩に預ける。 修は、それを拒まなかった。 ―それだけで、侑子の唇には、
侑子は本当に心配だった。 修の今の状態が― それなのに、彼は何も言わない。 ただ、冷たい床の上に横たわったまま、動こうともしなかった。 侑子は彼を支え起こそうとした。 だが、どんなに力を込めても、びくともしない。 この家は、藤沢家がアメリカに所有している別荘だった。 普段は誰も住んでおらず、当然ながら使用人もいない。 修自身も、ここに来るとき誰にも知らせず、一人で静かに過ごすつもりだったのだろう。 広々とした家は、冷たく、静まり返っていた。 どこにも人の気配はなく、侑子の不安げな声だけが虚しく響く。 「藤沢さん、お願いだから、しっかりしてください......!」 侑子は震える声で懇願した。 「お願いだから......私を怖がらせないで......」 修の瞳には、底なしの絶望が広がっていた。 まるで、世界そのものが崩れ落ちたような―そんな絶望が。 それは静かに広がり、部屋の隅々にまで浸透していく。 まるで、深い闇へと続く扉が開かれたかのように。 どんなに手を伸ばしても、その世界から彼を連れ出すことはできない。 修の目は、ただ虚ろに開かれたままだった。 反応はない。 彼は、まるで人形のように、ただそこに横たわっているだけだった。 「......お願いだから、やめて......」 侑子は耐えきれず、彼の胸元に飛び込む。 「もう、こんなふうにならないで......!この世界には、あの女だけじゃない......!藤沢さんには、私がいるじゃない......!」 「......あんな冷酷な女のことで、もうそんなに苦しまないで。お願い......」 侑子の声は震えていた。 彼女の目には、若子という女はどうしようもなく酷い存在だった。 あの女は修の心を奪い、魂を絡めとり、命さえも蝕んでいく―そんな女に、一体何の価値があるというのか? 修を想う気持ちは本物だった。彼のことを心配し、胸が締めつけられるほどに苦しんでいる。 でも、一方で、若子が冷酷であることをどこかで感謝していた。 彼女がそうでなければ、自分には決してチャンスがなかったのだから。 だけど― 今の修を見ていると、そんなことはどうでもよくなってくる。 彼のために、どうすればいいのか。どんな方法
侑子は、何度も何度も修の顔にキスを落とした。 けれど― 修は、まるで人形のように微動だにしなかった。 侑子の存在など感じていないかのように。 「......っ!」 狂ったように、修のスーツを乱暴に引き剥がす。 「修......!あんた、本当に男なの!?本当に......!」 あらゆる手を尽くして、彼を「人間」に戻そうとした。 男としての本能を、無理やり呼び覚まそうとした。 だが― どれだけ肌を晒し、彼の胸元に爪痕を刻んでも、修は何の反応も示さない。 表情すら、変えなかった。 まるで、そこに「心」が存在しないかのように。 ―この光景は、まるで。 自分が修を、「無理やり」抱こうとしているように見えるではないか。 侑子は、修の上にまたがりながら、涙を流した。 「......この世界で、あんたが反応するのは、あの女だけなの? 松本若子だけなの......?」 ―その瞬間。 修の虚ろな瞳が、やっと侑子へと焦点を結んだ。 涙で赤く染まった顔を見つめながら、彼はそっと手を伸ばし、侑子の頬に触れる。 そして、ようやく口を開いた。 「......どうして、そこまで......?」 「修......!」 侑子は彼の手をぎゅっと握りしめ、頬に押し当てる。 「私は、修に抱かれたいの......!修が私を求めてくれるなら、それでいいの! たとえ『道具』みたいに扱われたって......! 終わったら、すぐに捨てられたって......! それでもいいから......修の痛みを少しでも和らげたいの......!」 これ以上、ただ見ているだけなんてできなかった。彼はあまりにも絶望している。 もし、この身体が彼の気をそらせるのなら―少しでも彼の苦しみを和らげられるのなら―私は、差し出したっていい。 でも......彼は、それすらも望んでいないようだった。 突然、修は、ふいに身体を起こし、彼女を見つめた。 二人の距離は、異様なほどに近い。 彼の長い指が、そっと侑子の頬を撫で、そこから腰へと滑り落ちていく。 ―そして。 修の指先が、侑子の腰にある青黒い痕を捉えた。 それは、今日の昼間、彼が無意識に強く抱きしめたせいでできた傷痕だった。 ―自分の苛立ちや怒り
―愛する女には冷酷に突き放され、愛さない女にはすべてを捧げられる。 現実というものは、いつも理不尽だ。 人は手にしたくないものを与えられ、心から望むものには手が届かない。 結局のところ、「手に入らないものこそ最高のもの」なのだろう。 手に入らないからこそ、追い求めたくなる― くだらない、本能だ。 修はゆっくりとカーペットから身を起こし、侑子を抱き上げると、そのまま階段を上がっていった。 寝室に入るなり、彼は侑子をベッドに投げ出し、自分のシャツを脱ぎ捨てる。 そして、何の迷いもなく彼女に覆いかぶさり、その両手をベッドに押し付けた。 「......侑子、お前が欲しい」 男というのは、どうしても弱い女に惹かれるものだ。 侑子のように、健気で、弱くて、必死で愛を乞う女には。 修の心は鉄ではない。 心が愛する女に踏みにじられた今、代わりにすべてを捧げる女がいるなら―その存在に救いを求めずにはいられない。 このままでは、自分は壊れてしまう。 だから、何かで埋めなければならない。 侑子の身体は、その痛みを紛らわすにはちょうどいい。 とくに―彼女の顔が、若子とよく似ているのだから。 自分勝手なのはわかっている。 それでも、今だけは侑子を若子だと思ってもいいはずだ。 侑子は緊張していた。 だが、その奥には期待があった。 彼女は何もかもを捨て去るように、静かに目を閉じた。 「......うん」 その言葉を最後に、何もかもを差し出すように身を預ける。 次の瞬間、熱を帯びた唇が首筋に落とされた。 一度始まれば、もう止まらない。 この夜は―決して静かなものにはならなかった。 ...... 若子は、自宅に戻った途端、まるで魂を抜かれたようになった。 西也は子どもを抱いたまま、黙って彼女の後をついていく。 若子がベッドの縁に腰を下ろすと、しばらくの間、微動だにしなかった。 やがて、ゆっくりと意識が戻り、かすれた声で言った。 「......西也、子どもを私にちょうだい。ベビールームに連れていくから」 その声は、今にも崩れ落ちそうだった。 「俺が連れていくよ」 そう言って、西也は子どもを抱えたまま部屋を出る。 扉が閉まると同時に、若子はベッドに倒れ込んだ
修はそっと目を閉じ、腕の中の侑子をぎゅっと抱きしめた。 大きな手で彼女の後頭部を包み込み、そして額に、静かにキスを落とす。 「侑子......いつも俺のことを考えてくれて、ほんとに......何て言ったらいいか分からない」 「じゃあ......何も言わないで」 侑子は顔を上げて、彼のあごに優しくキスした。 「修さえ望んでくれるなら、私はいつまでも『修の女』でいる。あなたのためなら、何だってする。あなたが幸せでいてくれるなら、それで全部いいの」 そのまま、侑子は照れくさそうに彼の胸元に顔をうずめ、再び彼に抱きついた。 その手はそっと修の胸に触れ―やがて、彼の頬へと撫で上げていく。 ―もう、これだけ関係が深くなっていて、他に何が必要なの? 自分はもう、完全に「修の女」なのだと。侑子の中では、それは揺るがない事実になっていた。 修はそっと彼女を横抱きにし、そのまま病室へと戻る。 ベッドへゆっくりと彼女を下ろし、慎重に寝かせた。 「侑子......さっきあいつに言った言葉、全部『俺のため』ってのは分かってる。でも、正直なところ......ちょっと無駄だったかもな」 「えっ?どうして?」 侑子は不思議そうに聞き返す。 「忘れたのか?あいつはもうすぐ『塀の中』だ」 侑子の表情が一瞬こわばる。けれどすぐに、照れ隠しのように笑みを浮かべた。 「そっか......あーあ、私ったら。そんな大事なこと、すっかり忘れてた。ごめんね、修。本当に、無駄なことしちゃった。 しかも、ちょっと感情入れて彼の手まで握っちゃって......あ〜、ほんと恥ずかしいっ」 「恥ずかしがることなんかないさ。お前は、俺のためにやったんだろ?」 修は、少し眉を下げて、優しく言った。 「でも―もう、そんなことしないで。俺、そういうの......辛いんだよ」 侑子はにっこり微笑んだ。 「たぶんね、心臓が悪いからかな。記憶力までダメになっちゃったのかも」 「構わないよ」 修は、彼女の頬に優しく手を添えて、静かに微笑んだ。 「責めたりなんかしない。あんな風に言ってくれて......俺、本当に感動したんだ。侑子、お前って......本当に優しくて、懐が深い女だよ」 彼のそばにいた女たちは、どの子もみんな―本当にいい子だ
―たぶん、この世で唯一、彼の嘘を「叶えてあげよう」と思えるのは、この女性だけかもしれない。 どんな嘘でも、どんな無茶な要求でも、疑いもせずに受け入れてくれる。 それが侑子だった。 ......どうして、こんなにいい子なんだろう。 その「良さ」が、むしろ痛ましいほどに胸に響く。 ―もしかしたら、いつか本当に彼女を愛してしまうかもしれない。 「遠藤さん、少しだけ、お話してもいいですか?」 侑子はそう言って、そっと修の手を離し、西也の方へ歩いていった。 だが、修がすぐにその手を引き留める。 「行くな」 「修、大丈夫。ほんの少し話すだけ。心配しないで。遠藤さんが、こんな場所で私を傷つけたりするような人だとは思ってないから。 ここは病院だし、監視カメラだって山ほどあるしね。彼だって、さすがに壊せないでしょ?」 ―「監視カメラ」。 それはあの日、西也が修の家に乗り込んできて、すべてのカメラを壊した件を指している。 西也はその含みをすぐに察し、鼻で笑った。 侑子は西也の前まで来ると、穏やかに口を開いた。 「遠藤さん、あなたと修の間にある因縁......その始まりは、あなたの奥さんだったと聞いています。でも、時が経てば、きっとふたりとも冷静になれる日が来ると思っています。 どんな事情があったとしても、私は―あなたに、どうかお願いしたいことがあります。 あなたの奥さんを、大切にしてあげてください。彼女は修の『前妻』であり、幼なじみであり、まるで妹のような存在なんです」 その言葉に、侑子はちらりと修へ目を向ける。 「だから、松本さんの幸せが一番大切なんです。私はそう信じています。遠藤さん、あなたなら―きっと彼女を幸せにできるって」 西也は目を細め、じっと侑子を見つめていた。 ―この女、何を言い出すつもりだ?今さら、こんなクソみたいな話をして、何を狙ってる? 「遠藤さん......修の妹は、私にとっても妹なんです。修が大切に思う人なら、私も大切にします......それが誰であろうと」 侑子は涙ぐみながら一歩前へ進むと、そっと西也の手を取った。 「遠藤さん......お願いします。松本さんのこと、あなたに託します」 西也の眉がピクリと動いた。 まさか、彼女が―いきなり自分の手を握って
「分かったわ、修。次は絶対にこんなことしない。全部、私が悪かったの。あんなこと、言っちゃいけないなんて知らなかったし......こういうの、私には経験がなくて、だから修に嫌われるのが怖くて......」 修はそっと手を伸ばし、侑子の髪に優しく触れた。 「もう言うな。これからは―若子とも会わないようにしろ」 「......じゃあ、修は?修は、もう彼女と会わないの?」 その問いに、修は少しの間だけ黙り込む。 彼の沈黙が、すべてを語っていた。 侑子は、その目の奥で何かを悟る。 修ですら、自分でも分かってないんだ。もう一度、若子に会うかどうかなんて。 偶然、会うかもしれない。もしくは、修から会いに行くのかも。あるいは―若子の方から、恥知らずに近づいてくるのか。 どっちにしろ―全部若子のせい。修に非は、ひとつもない。 その時。 「藤沢」 病室の外から、低く響く声が聞こえた。 修が顔を向けると、そこには西也が立っていた。鋭い視線で、じっとこちらを見ている。 侑子は不安げに修の腕を握る。 「修......彼、どうしてここに?」 修は彼女の手を包み込むように握り返す。 「大丈夫だ、侑子。ここで待ってろ。絶対に外へ出るな」 侑子はこくんと頷いた。 修はそれから、病室を出て西也の前に立つ。 「で、遠藤。何の用だ?」 「俺の方が聞きたいね。女連れて、若子を傷つけに来たんじゃないのか?」 「考えすぎだ」 修の声は冷たく、淡々としていた。 「ただ、侑子の身体の検査に来ただけだ」 「検査する病院なんていくらでもあるだろ。よりによってここを選んだのは―わざとじゃないのか?」 「俺はここの病院に詳しいし、付き合いもある。だから便利なんだ。それの何が悪い?」 修は肩をすくめると、ニヤリと笑う。 「それより、お前がここに来てる方が不自然だな。まさかまた俺と殴り合いでもしたくて来たんじゃないだろうな?そんでまた若子に泣きつく気か?『あいつにやられた』ってな」 「ふっ......」 西也は鼻で笑った。 「安心しろ。ここで手を出すつもりなんてないよ。ただ伝えに来ただけだ。ヴィンセントが目を覚ましたってな」 修の眉がぴくりと動く。 「......目を覚ましたのか?」 そのこと
若子は、もう何も言いたくなかった。気分は最悪で、ただ西也の腕をそっと振りほどき、数歩だけ後ろに下がる。 胸の奥が苦しくて、立っているのもつらいほどだった。 「若子......」 西也はたまらず、彼女をそっと支える。 「もう戻ろう。ここにはいない方がいい。ゆっくり休もう?」 でも、若子はかすかに首を振った。 「......私は行かない。ここにいなきゃいけないの」 その視線は、沈静に包まれた一角―冴島千景が運び込まれたICUのガラス越しへ向けられていた。 修のことで胸が引き裂かれそうになったとしても、今一番大事なのは―冴島さんのことだった。 修なんてもうどうでもいい。侑子とどうなろうが、知ったことじゃない。 ―冴島さん、お願いだから、目を覚まして。お願いだから...... 若子はICUのガラスドアの前で、じっと立ち尽くしていた。 その目は不安と焦りに満ちていて、どうしようもない無力感に飲み込まれていた。 病室の中は冷たい空気が支配していて、モニターから発せられる「ピッ、ピッ」という音だけが静寂を破っていた。 千景はベッドに横たわり、まるで眠るように動かない。顔色は真っ青で、まるで命の灯が消えてしまいそうな儚さを漂わせていた。 若子は両手をぎゅっと握りしめた。爪が手のひらに食い込んで、血が滲みそうになっても、痛みなんて感じなかった。 ただただ、目の前の彼に―すべての意識が向いていた。 その時だった。 千景の身体が突然大きく痙攣し始めた。 呼吸は荒く、不規則になり、モニターから「ピーピーピーッ」と警報が鳴り響く。 「医者さん!医者さんっ!!」 若子は我を忘れて叫んだ。 医療スタッフがすぐに駆け込んでくる。 白衣を身にまとい、マスクと手袋で顔と手を覆った彼らは、迷いもなく処置を始めた。 主治医が指示を飛ばしながら、すぐさま胸部の圧迫を行う。 モニターは次々と数値を表示し、警報音が鳴り響く。 若子の目は、監視モニターから一瞬たりとも離れなかった。 恐怖、焦り、そして祈り―胸が張り裂けそうなほどに、感情が渦巻いていた。 ―今すぐ中に飛び込みたい。 そう思ったその瞬間、看護師が彼女の腕を制した。 「落ち着いてください。こちらは全力で治療しています」 看護師は若
若子の声にはかすかな震えが混じっていた。目元は潤んでいたけれど、それでも彼女は涙をこぼすまいと必死にこらえていた。 ―私は、あなたの前でなんて、絶対に弱さを見せない。 最初に西也と結婚した時、たしかにその関係は「本物」なんかじゃなかった。 でも、あれこれと出来事が積み重なって、気づいたらすべてがぐちゃぐちゃに絡まり合っていた。 そして今となっては、もう誰にもどうにもできないほど、取り返しがつかなくなっていた。 修はふいに手を伸ばした。若子の肩に触れようとする―その一瞬。 「触んないでッ!」 彼女は彼の手を激しく振り払って、次の瞬間、またしても彼の頬を平手で打った。 すでに腫れ上がっていた修の顔は、さらに赤く膨れ上がる。 ―なのに。 若子の胸には、少しもスッキリする感覚なんてなかった。 怒鳴り返すわけでも、手を上げるわけでもなく、ただ黙って打たれ続ける修の姿を見て、怒りと苦しさだけがますます募っていった。 「それで満足なの?これが、あなたの答えなの?」 彼女は拳を握ったまま、彼の胸元を何度も何度も打ちつけた。 「こんなの......私、もうイヤなの!大っ嫌いよ、あなたなんか......っ!なんで、なんでいつもそうなの!?なんで離れてくれないの!?どうしてよっ!!」 「もうやめてぇぇ!!」 侑子がとうとう堪えきれず、駆け寄ってきた。 そして若子の腕をつかむと、そのまま力いっぱい突き飛ばす。 若子の体は、床に叩きつけられるように倒れた。 侑子はすぐに修の前に立ちふさがり、まるで子どもを庇うように、彼を守るような姿勢になった。 「お願い......もう殴らないで。これ以上、もうやめてよ......お願いだから......」 「若子!」 修はすぐに侑子を押しのけて、若子の元へ駆け寄る。 そして倒れた彼女をそっと抱き起こした。 「若子、大丈夫か!?」 「触らないで!!」 彼女はその手を振り払い、怒りのままに叫ぶ。 侑子はその光景を、ただ呆然と立ち尽くして見ていた。 修が―迷いもなく、若子のもとへ向かったこと。 その姿に、彼女の全身から力が抜けていった。 ―どうして、こうなっちゃったの? 侑子は胸を押さえ、そのまま「ドサッ」と音を立てて倒れ込む。 息が、
―まさか、自分はそんなにも簡単に踏みにじられる存在なのか? あいつは、そんなにも自分を苦しめるのが楽しいのか? なら、いっそみんなで一緒に地獄を味わえばいい―! 修はじっと、無言のまま若子を見つめていた。 十秒以上はそうしていただろうか。やがて口を開いた。 「侑子、離れてろ」 「修、何するつもりなの?」 侑子は不安そうに彼の服を掴み、必死に止めようとする。 「騙されないで!あの女、頭おかしいのよ!行こ、ね?一緒に帰ろう?」 侑子は修の腕を引っ張ろうとした。でも、修はびくとも動かない。 むしろ、自分から彼女をそっと押しやって、やさしく地面の方へと倒した。 「侑子、ここにいろ。動くなよ」 そう言って、修はゆっくりと若子の前へ歩み寄る。 「修っ!」 侑子は追いかけようとしたが、修が振り返り、きっぱりと告げた。 「動くな。次に動いたら、お前のこと無視するぞ」 その声に、侑子はびくっと体を震わせた。 修の真剣な顔つきに、何も言い返せず、その場で立ち尽くす。 ただ、大きく潤んだ瞳で彼の背中を見つめることしかできなかった。 そして、修は再び若子へと向き直る。 「若子、今は―」 パシンッ! その言葉が終わる前に、若子の平手が修の頬を打った。 「あなたが『文句あるなら俺に言え』って言ったんでしょ?だったら今、この怒りは......全部、教えてあげるわ!」 修は拳を握りしめ、ぐっと息を吸い込む。 それから、かすかに笑った。 「......ああ、それでいい。お前はそうやって、俺にぶつければいい。何発でも殴れ、殺したいなら殺せばいい。お前が笑えるなら、それで全部構わない」 「藤沢修!!」 若子はさらに手を振り上げ、容赦なく彼の頬をまた打った。 パシンッ、パシンッ、パシンッ―音を立てて、次々に。 修の頬は真っ赤に腫れ上がっていく。 「......これが、あなたの望んだ『俺に言え』の結果よ、分かった?」 「まだ足りねぇ、もっとだ、お前、俺に甘すぎるんだよ」 修は歯を食いしばりながら言い放つ。 「もっと強く殴れ......思いっきり来い」 その顔は真っ暗に曇っていた。怒りの炎が、瞳の奥で燃え上がっている。 握られた拳は白くなるほどに力が入り、震える手から
「侑子、どうしてそんなにバカなの......?」 修は、自分でも彼女を責めるべきかどうか分からなかった。 でも、彼女なら自分のためにそんなバカなことをやりかねない―そう信じていた。 「私はただ、修に笑ってほしかっただけ。ほかの気持ちはなかったの、ごめんなさい、修、ごめんなさい......」 侑子は修の胸の中で、ポロポロと涙をこぼした。 その泣き顔はまるで雨に濡れた花のようで、誰が見ても胸を締めつけられるような気持ちになるだろう。 修はやれやれと小さくため息をついて、彼女を強く抱きしめた。 それから、もう一度若子の方を振り返る。 「どんな理由があっても、侑子がわざとやったわけじゃない。なのに、どうして手を出したんだ?」 若子は呆れたように笑った。 ―本当に、この人は都合の悪いところだけ見ないようにするんだから。 あんなことを言われて手が出たのは、そっちが先なのに?侑子、ほんと性格悪い。 しかも、修はまるで彼女を特別扱いしてるみたい。あの発言を聞いていたはずなのに、少しも責める気配がないなんて。 若子は皮肉混じりに言った。 「悪かったわね。私が悪かった。彼女を殴るなんて、ほんとに反省してる。だって、今は彼女、あなたの赤ちゃんを抱えてる『大事な人』だもんね?」 「分かってるならそれでいい」 修は怒りをあらわにした。 「お前はもうとっくに吹っ切ったんじゃなかったのか?ならどうして手を出した?手を出すなら俺にすればいいだろ、なんで侑子を傷つける必要がある?言いたいことがあるなら俺に直接言えばいい!」 そう言い終えたあと、修はふと、昔若子が自分に言った言葉を思い出した。 ―「何かあるなら私に言って、西也には関係ないから」 ......ほんと、あの頃のふたりって、変に似てた。 でも、修は気づいていなかった。 全部の始まりは、実は彼自身だったってことを。 若子はゆっくりと修のもとへ近づき、そして思いっきり、平手打ちを食らわせた。 その一撃には、これまで溜め込んできた感情のすべてが込められていた。 「きゃあああああっ!」 侑子が怒りに震えて叫ぶ。 そして修にしがみつきながら、泣き叫んだ。 「なんで修を殴るの!?どうして!?文句があるなら私に言えばいいじゃない!修を傷つけない
侑子の目には涙が浮かび、今にもこぼれ落ちそうだった。その姿はまるで、怯えた小鹿のようにか弱く、見る人の同情を誘う。 あまりにも脆くて―それだけで、何があったかなんて関係なく、守ってあげたくなってしまう。 「侑子、見せてくれ」 修はそっと彼女の手を引いて、その顔に刻まれたくっきりとした掌打の跡を目にした瞬間、怒りが爆発した。 どれだけ強く叩けば、こんな跡が残るんだ― 彼はくるりと振り返り、怒気を抑えきれない声で叫んだ。 「お前......なんで彼女を殴ったんだ?」 さっきまで「若子」「若子」と呼んでいたのに、今では「お前」呼び。まるで昔に戻ったかのようだ。 そう、かつて雅子のときも、同じだった。 若子の手は小さく震えていた。 「......だって、この女の口の利き方が汚すぎるのよ」 「なんだと?」 修は眉をひそめながら、侑子の方を見た。すると、彼女は何度も首を振って、必死に否定する。 「わ、私はただ偶然ここに来ただけ......少し話したかっただけなの。どうしてあんなに怒られたのか、わからないの......ほんとに......」 彼女はまるで世界が崩れたかのような表情で、修の胸にすがりついた。 その姿が―たまらなく痛ましく見えて、修の心は強く揺さぶられた。 「お前......そんな言いがかりはやめろ。侑子がそんな人間なわけないだろ」 修の言葉に、若子は何も返さなかった。 どうせ信じてもらえないことくらい、最初からわかっていた。 侑子があえてこんな手を使ってきたということは、彼女はよくわかっていたんだ。修がどういう人間かってことを― ―つまり、操れるってこと。 昔もそうだった。雅子が白々しい泣き真似で被害者を演じ、修はそれを全部信じていた。 何度も、何度も。 今はただ、それが雅子から侑子に変わっただけ。 修は―か弱い女に弱い。 涙を流し、怯える女の肩を抱くのが、彼の性分なんだ。 他のどんな女にでも優しくなれるくせに― 本当に愛している女の言葉だけは、なぜか信じようとしない。 かつて若子は、修のことを疑うことなんてなかった。 ―無条件で信じていた。 でも、その信頼は彼の行動で、無惨にも壊されてしまった。 藤沢修という男は、信じるに値しない―それが今の
若子の顔から、さっと表情が消えた。 もう、礼儀なんて見せる気にもなれなかった。 冷たい目で侑子を見据え、バッサリ言い放つ。 「お互いに言い争いになる前に、さっさと出て行ってくれる?」 侑子の言葉は勘違いだらけだし、その態度も傲慢そのもの。話す価値なんてない。 「ここは公共の場所よ。私がここに立ってることの何が悪いの?―ねぇ、『遠藤夫人』」 わざとらしく強調されたその呼び名に、若子の眉がぴくりと動いた。 「旦那がいるくせに、前夫に未練たらたら。しかも失踪劇まで演じて......演技派にもほどがあるわね?」 「いい加減にして。あなた、何が起きたのか本当にわかってるの?何も知らないくせに中途半端な知識で口出すなんて―浅はかだわ」 「へぇ、『浅はか』ね?聞いた?私、浅はかですって」 侑子はあざ笑うように言葉を続ける。 「浅はかでも、少なくとも人の男に手を出したりしないから。こっちは彼の子を身ごもってるの。あんたみたいに恥知らずな真似、できないわ」 「......少しは恥を知ったら?」 「恥を?あんたが言う?笑わせないで」 拳をぎゅっと握りしめた侑子の顔には、もう以前の穏やかさなんて一片も残っていなかった。ただただ、むき出しの憎しみがそこにあった。 「松本さん、あんたって本当に手段を選ばない女よね。修を取り戻すために失踪して、探させて......でも結局失敗。可哀想にね?今回の作戦、完全に裏目に出たわけ。修はますます私を大切にしてくれるようになったの」 彼女はゆっくりと自分の唇に指を這わせた。 「昨日の夜、私たちがどうしてたか......知りたい? ねぇ、彼、ここの使い方がほんとに好きなの」 唇の端をなぞるその指先は、妙にいやらしくて― 「それからね......彼の指って長くて、ほんっとに気持ちいいの。触れられるたびに、私もう......魂まで飛んでっちゃうのよね。他のことなんて、もう言うまでもないけど」 若子の胸の中に、突如として波のような嫌悪感が押し寄せてきた。 ......聞きたくない。そんなことまで、いちいち。 気持ち悪い。吐き気がする。 「......そう。気に入ってるなら、それでいいじゃない。だったらふたりで続けてればいいわ。わざわざ私の前で見せびらかさなくていい。そう