修はそっと目を閉じ、腕の中の侑子をぎゅっと抱きしめた。 大きな手で彼女の後頭部を包み込み、そして額に、静かにキスを落とす。 「侑子......いつも俺のことを考えてくれて、ほんとに......何て言ったらいいか分からない」 「じゃあ......何も言わないで」 侑子は顔を上げて、彼のあごに優しくキスした。 「修さえ望んでくれるなら、私はいつまでも『修の女』でいる。あなたのためなら、何だってする。あなたが幸せでいてくれるなら、それで全部いいの」 そのまま、侑子は照れくさそうに彼の胸元に顔をうずめ、再び彼に抱きついた。 その手はそっと修の胸に触れ―やがて、彼の頬へと撫で上げていく。 ―もう、これだけ関係が深くなっていて、他に何が必要なの? 自分はもう、完全に「修の女」なのだと。侑子の中では、それは揺るがない事実になっていた。 修はそっと彼女を横抱きにし、そのまま病室へと戻る。 ベッドへゆっくりと彼女を下ろし、慎重に寝かせた。 「侑子......さっきあいつに言った言葉、全部『俺のため』ってのは分かってる。でも、正直なところ......ちょっと無駄だったかもな」 「えっ?どうして?」 侑子は不思議そうに聞き返す。 「忘れたのか?あいつはもうすぐ『塀の中』だ」 侑子の表情が一瞬こわばる。けれどすぐに、照れ隠しのように笑みを浮かべた。 「そっか......あーあ、私ったら。そんな大事なこと、すっかり忘れてた。ごめんね、修。本当に、無駄なことしちゃった。 しかも、ちょっと感情入れて彼の手まで握っちゃって......あ〜、ほんと恥ずかしいっ」 「恥ずかしがることなんかないさ。お前は、俺のためにやったんだろ?」 修は、少し眉を下げて、優しく言った。 「でも―もう、そんなことしないで。俺、そういうの......辛いんだよ」 侑子はにっこり微笑んだ。 「たぶんね、心臓が悪いからかな。記憶力までダメになっちゃったのかも」 「構わないよ」 修は、彼女の頬に優しく手を添えて、静かに微笑んだ。 「責めたりなんかしない。あんな風に言ってくれて......俺、本当に感動したんだ。侑子、お前って......本当に優しくて、懐が深い女だよ」 彼のそばにいた女たちは、どの子もみんな―本当にいい子だ
彼の口から「自分を認めた」その一言。 それは―たとえ百回一緒に夜を過ごすよりも、ずっとずっと重い意味を持っていた。 心の底から「認めてくれた」。 それだけで、今までしてきたすべてのことが報われた気がした。 たとえ、修が「最初の男」じゃなかったとしても。 たとえ、さっき小さな嘘をついたとしても―あれが「初めて」なんかじゃなかった。 侑子には、それなりの経験があった。 決して、見た目どおりの「純粋な女の子」なんかじゃない。 むしろ、昔はスリルを求めて刺激的なことばかりしていた。 男の理性が壊れていく瞬間―その感覚に、快感を覚えていた。 修の前で「慣れていないフリ」をしていたのも、演技にすぎなかった。 でも。 ―今は違う。 本当に、彼を好きになってしまった。 今になって、ようやく分かった。 ―私、今までどれだけ目が節穴だったの? 昔の男たちなんて、何ひとつ価値がなかった。 金もない、顔もない、スタイルも微妙― でも、修は違う。すべてを持っている男。 だからこそ、絶対に―この男だけは離さない。 男を「落とす」ことなら、侑子にはそれなりに自信があった。 ...... 一方その頃。 西也は、人気のない場所まで歩き、そっと手を開いた。 手のひらの中には、くしゃくしゃになった一枚の紙切れがあった。 周囲を見回し、誰もいないことを確認してから、そっと紙を開く。 そこには、びっしりと文字が書かれていた。 【この前、あなたが修のところに行った時の映像、全部「隠しカメラ」に撮られてたわ。修はその証拠を警察に出すつもりよ。アメリカで服役する覚悟、できてる?】 ―その瞬間、西也の脳内に「ズドン」と重い音が鳴り響いた。 目を見開き、信じられないという表情で紙を見つめる。 足がふらつき、数歩後ろへよろける。 胸の中は、まるで嵐のようだった。 混乱、恐怖、怒り、疑念―すべてが渦巻いて、顔色は真っ青になっていく。 手が震え、紙をぎゅっと握りしめた時、背筋に冷たいものが走った。 ―どうしてだ?そんなはずない。 あのとき、監視カメラは全部潰した。 隠しカメラなんて、どこにあったっていうんだ!? 西也は紙に書かれた数行の文字を、じっと見つめていた。 ―クソッ
修は、ずっと侑子のそばにいて、彼女の検査を見守っていた。 ただ、心ここにあらずという感じで、どうしても―若子の哀しげな顔が頭から離れなかった。 「修、顔、大丈夫?医者に見てもらった方がいいんじゃない?」 侑子は心配そうに言う。 「もう腫れてきてるし」 修は軽く首を振りながら答える。 「大丈夫だよ。あと二日もすれば治るし、心配しないで。今はお前が一番大事だから」 侑子は、修の言葉を耳にし、心が温かくなった。 「そうだ、修。昨日、私に約束したよね?今日も検査を受けるって。じゃあ、先に行ってきて。二人で一緒にやろうよ」 修は少し迷った後、優しく言った。 「大丈夫だよ。お前が終わるまで待つよ。お前を見守ってるから」 「修、いいから先に行って。結果を待つのは一緒にするんだから、時間を無駄にしないで」 侑子は修の体調が心配で仕方なかった。 彼がしっかりと健康でいなければ―それが彼女の未来を支えるためにも必要なことだ。 この男が元気でないと、どうするんだろう― 修は、侑子が少しでも安心できるよう、そっと彼女の髪に手を置いた。 「わかったよ。今すぐ行くから、お前はここで待ってて。医者がちゃんと見てくれるから安心して」 侑子がいるのはVIP病室。最高のケアを受けられる場所だ。 それがあるから、修も少しだけ心が軽くなった。 「いってらっしゃい。何かあったら、すぐに電話するからね」 修は彼女の額に軽くキスをしてから、部屋を出て行った。 侑子はベッドに横になり、ふと窓の外に目を向け、深く息を吐き出す。 ―私はこんなに頑張ってるんだから、きっと天は私を見捨てないはず。 口元に、ほのかな自信を浮かべた笑みを浮かべながら。 しばらくして、携帯電話の着信音が鳴り響いた。 侑子はスマホを手に取った。 画面に表示されたのは、見覚えのない番号。 少しだけ首をかしげながら、通話ボタンを押す。 「はい」 「山田さん、俺だ」 その声を聞いて、侑子の表情が一瞬変わる。 楚西也―彼の声だった。 「遠藤さん......どうして、私の番号を?」 「お前の番号を調べるなんて、簡単なことだ」 そう言われて、侑子はすぐに察した。 ―紙、見たのね。 自分が渡したあの紙切れが、ちゃんと
「そうですよ、最初はそう思っていました」 侑子は冷ややかな口調で続ける。 「あなたがあんなことをしたと知って、本当に憎くて、できることならアメリカの刑務所で一生出てこられなければいいとすら思っていました。 でも、よくよく考えてみたんです。もしあなたが本当に捕まってしまったら、松本さんはまた『独り身』になるんですよね? そうなれば、修には山ほど理由ができます。きっと彼女と「やり直す」って言い出すはずです。そうなったら―私が捨てられる可能性も出てきます。 だから考えたんです。あなたが捕まらず、松本さんのそばにい続けてくれた方が、私にとっても都合がいいって。 ......『あなたのため』じゃなく、『私自身のため』に、そう決めたんです」 その言葉に、西也は長く沈黙した。 ―確かに、理屈としては通っている。 けれど、西也の性格は疑い深い。それだけで納得するわけがなかった。 「......俺は、なんでお前の言うことを信じなきゃならない?もしこれが罠で、俺をはめるための芝居だったらどうする?」 「信じなくても構いません」 侑子は淡々と返す。 「ただ、修は病院から出たらすぐに警察に証拠を提出します。そして私も証言します。 修は一流の弁護士を雇いました。あなたを本気で『牢の中に叩き込む』つもりなんです。 信じるも信じないも、あなた次第です。信じないなら、そのまま何もしないでいてください。そのうち、警察が迎えに来ますから」 再び、通話口から沈黙が返ってきた。 侑子の耳には、明らかに荒くなった西也の呼吸音が聞こえていた。 しばらくして― 「......もしお前が俺を騙してたら、絶対に許さないからな」 「遠藤さん、ひとつだけ申し上げておきます。 あなたが私を『許さない』ということは、つまり―修と松本さんを近づけることになります。 私たちはお互いを嫌っているかもしれませんが、お互いにとって『有益な存在』でもあります。 松本さんのそばにあなたがいれば、修は近づけない。そして、修のそばに私がいれば、松本さんに近づけない。 私たちが協力し合えば、それぞれの『愛する人』を守ることができるんです。 それでも、どうしても私を敵に回したいというのなら―仕方ありません。でも、遠藤さんほどの方なら、そんな愚かな
「修、検査の結果がどうであっても―もう、胃を無理させちゃだめよ」 侑子は修の大きな手を握りしめ、その手をそっと自分の頬にあてた。 「もうあなたには、私がいるのよ。私のためにも、自分の身体を大事にして。もう、そんなふうに好き勝手に傷つけるのはやめて」 修は小さく頷いた。 「......ああ、分かった。約束する」 「修......ねぇ、少しだけでいいから、ベッドで抱きしめててくれる?なんだか、急に心細くなっちゃって」 弱々しく頼むその姿に、修は逆らえなかった。 「分かった。じゃあ、横になろうか」 修は手元のリモコンを操作して、病床の背を少しずつ倒していく。 侑子がそっと横になると、修もその隣に静かに身体を横たえ、優しく彼女を抱き寄せた。 侑子は修の顔を両手で包み込み、そのまま目を閉じ、唇を重ねた。 修も彼女の後頭部に手を添え、熱を帯びたキスを返す。 ―その唇から、互いの温もりが流れ込んでくる。 修のキスは、次第に深く、激しくなっていった。 ...... その頃― ヴィンセントはついに、命の危機を脱し、意識を取り戻した。 今はすでに一般病棟へと移されていた。 窓から差し込む陽光が、静かな病室をやわらかく照らし、穏やかな空気が満ちている。 ベッドに横たわるヴィンセントは、ゆっくりと身体から疲れが抜けていくのを感じていた。 そして、視線の先には―若子の姿。 彼女はずっとそばに座っていた。 その顔には、まだかすかに不安の色が残っていたが、彼が目を覚ました瞬間、ふっと力が抜けたように安心の笑みが浮かぶ。 その瞳には、安堵と喜びが柔らかく灯っていた。 「冴島さん......やっと目を覚ましたのね」 若子の笑顔は、まるで太陽の光そのもの。見る者すべての心を温めるような―そんな優しさに満ちていた。 千景は、一瞬、動揺したように目を見開く。 「今......俺のこと、なんて......?」 若子は、微笑んだまま答えた。 「冴島さん。そう呼んでって、あなたが言ったでしょ?だから私は、ずっとその名前を覚えてたの。一生、忘れたりなんかしないわ」 その言葉を聞いて― 千景の唇の端に、やさしい笑みが浮かんだ。 彼は―少しずつ、この「名前」を好きになっていった。 ずっと
松本若子は小さな体を布団に包み込み、お腹を優しく撫でながら、ほっと息をついた。よかった、赤ちゃんは無事だ。昨晩、修が帰ってきて、彼女と親密になろうとした。夫婦として2ヶ月会っていなかったため、彼女は彼を拒むことができなかった。藤沢修はすでに身支度を整え、グレーのハンドメイドスーツに包まれた長身で洗練された彼の姿は、貴族的で魅力的だった。彼は椅子に座り、タブレットを操作しながら、ゆったりとした動作で指を動かしていた。その仕草には、わずかな気だるさとセクシーさが漂っていた。彼は、ベッドの上で布団に包まって自分を見つめている彼女に気づき、淡々と言った。「目が覚めた?朝ごはんを食べにおいで」「うんうん」松本若子はパジャマを着て、顔を赤らめながらベッドから降りた。ダイニングで、松本若子はフォークで皿の卵をつつきながら、左手でお腹を撫で、緊張と期待が入り混じった声で言った。「あなたに話があるの」「俺も話がある」藤沢修も同時に口を開いた。「…」二人は顔を見合わせた。沈黙の後、藤沢修が言った。「先に話してくれ」「いや、あなたからどうぞ」彼が自分から話を切り出すことは滅多にない。彼は皿の目玉焼きをゆっくりと切りながら言った。「離婚協議書を用意させた。後で届けさせるから、不満があれば言ってくれ。修正させるから、できるだけ早くサインしてくれ」「…」松本若子は呆然とし、頭の中が真っ白になった。椅子に座っているにもかかわらず、今にも倒れそうな感覚だった。呼吸することさえ忘れてしまった。「あなた、私たちが離婚するって言ったの?」彼女はかすれた声で尋ねた。そのトーンには信じられないという気持ちが込められていた。密かに自分の足を摘んで、悪夢から目覚めようとさえしていた。「そうだ」彼の返事は、冷たさすら感じさせないほど平静だった。松本若子の頭は一瞬で混乱した。昨夜まで二人で最も親密な行為をしていたというのに、今では何でもないように離婚を切り出すなんて!彼女はお腹を押さえ、目に涙が浮かんだ。「もし私たちに…」「雅子が帰国した。だから俺たちの契約結婚も終わりだ」「…」この1年間の甘い生活で、彼女はそのことをほとんど忘れかけていた。彼らは契約結婚をしていたのだ。最初から彼の心には別の女性がいて、いつか離婚す
彼女はうつむきながら、苦笑いを浮かべた。自分にはもう何を贅沢に望む権利があるというのだろうか?彼と結婚できたことで、彼女はすでに来世の運まで使い果たしてしまった。彼女の両親はSKグループの普通の従業員だったが、火災に巻き込まれ、操作室に閉じ込められてしまった。しかし、死の間際に重要なシステムを停止させたことで、有毒物質の漏洩を防ぎ、多くの人命を救うことができた。当時、ニュースメディアはその出来事を何日間も連日報道し、彼女の両親が外界と交わした最後の通話記録も残された。わずか10歳だった彼女は、仕方なく叔母と一緒に暮らすことになった。しかし、叔母は煙草と酒が好きで、さらにギャンブルにも手を出していたため、1年後にはSKグループからの賠償金をすべてギャンブルで使い果たしてしまった。彼女が11歳の時、叔母は彼女をSKグループの門前に置き去りにした。松本若子はリュックを抱えながら、会社の門前で二日間待ち続けた。彼女は空腹で疲れ果てていたが、SKグループの会長が通りかかり、彼女を家に連れて帰った。それ以来、会長は彼女の学費を負担し、生活の面倒を見てくれた。そして彼女が成長すると、会長の孫である藤沢修と結婚させた。藤沢修はその結婚に反対しなかったが、暗に松本若子にこう告げた。「たとえ結婚しても、あなたに感情を与えることはできない。あの女が戻ってきたら、いつでもこの結婚は終わりにする。その時は、何も異議を唱えてはいけない」その言葉を聞いた時、彼女の心はまるで刃物で切りつけられたように痛んだ。だが、もし自分が彼との結婚を拒めば、祖母はきっとこのことを藤沢修のせいにし、怒りが収まらないだろう。彼女はそのことで祖母が体調を崩すのを恐れて、どんなに辛くても頷くしかなかった。「大丈夫、私もあなたのことを兄のように思っているだけで、男女の感情はないわ。離婚したいときはいつでも言って、私はあなたを縛りつけたりしないから」彼らの結婚は、こうして始まった。結婚後、彼は彼女をまるで宝物のように大切に扱った。誰もが藤沢修が彼女を深く愛していると思っていたが、彼女だけは知っていた。彼が彼女に優しくするのは、愛ではなく責任感からだった。そして今、その責任も終わった。松本若子は皿の中の最後の一口の卵を食べ終えると、立ち上がった。「お腹い
「そんなことはないわ」松本若子は少し怒りを感じながら答えた。もし本当にそう思っていたなら、昨夜、妊娠しているにもかかわらず彼に触れさせたりはしなかったはずだ。藤沢修はそれ以上何も言わず、彼女を抱きかかえて部屋に戻り、ベッドにそっと寝かせた。その一つ一つの動作が優しく丁寧だった。松本若子は涙を堪えるため、ほとんどすべての力を使い果たした。彼が彼女の服を整えるとき、大きな手が彼女のお腹に触れた。松本若子は胸がざわめき、急いで彼の手を掴んで押し返した。彼女のお腹はまだ平坦だったが、なぜか本能的に焦りを感じ、何かを知られるのではないかと心配だった。藤沢修は一瞬動きを止め、「どうした?」と尋ねた。彼女は離婚が近いから、今は彼に触れてほしくないのか?「何でもないわ。ただ、昨夜よく眠れなくて、頭が少しぼんやりしているだけ」彼女はそう言って言い訳をした。「医者を呼ぶか?顔色が良くないぞ」彼は心配そうに彼女の額に手を当てた。熱はなかった。しかし、どこか違和感を覚えていた。「本当に大丈夫だから」医者に診せたら、妊娠がばれてしまうかもしれない。「少し寝れば治るから」「若子、最後にもう一度だけチャンスをあげる。正直に話すか、病院に行くか、どっちにする?」彼は、彼女が何かを隠していることを見抜けないとでも思っているのか?松本若子は苦笑いを浮かべ、「あまりにも長い間、私たちは親密にならなかったから、昨夜急にあんなことになって、ちょっと慣れなくて。まだ体がついていけてないの。病院に行くのはやめておこう。恥ずかしいから、少し休めば大丈夫」彼女の説明に、彼は少しばかりの恥ずかしさを感じたようで、すぐに布団を引き上げて彼女に掛けた。「それなら、もっと早く言えばよかったのに。起きなくてもいいんだ。朝食はベッドに持ってくるから」松本若子は布団の中で拳を握りしめ、涙を堪えた。彼は残酷だ。どうして離婚を切り出した後でも、こんなに彼女を気遣うことができるのだろう?彼はいつでも身軽に去ることができるが、彼女は彼のために痛みを抱え、そこから抜け出すことができない。藤沢修は時計を見て、何か用事があるようだった。「あなた…いや、藤沢さん、忙しいなら先に行って。私は少し休むわ」「藤沢さん」という言葉が口から出ると、藤沢修は眉をひそ
「修、検査の結果がどうであっても―もう、胃を無理させちゃだめよ」 侑子は修の大きな手を握りしめ、その手をそっと自分の頬にあてた。 「もうあなたには、私がいるのよ。私のためにも、自分の身体を大事にして。もう、そんなふうに好き勝手に傷つけるのはやめて」 修は小さく頷いた。 「......ああ、分かった。約束する」 「修......ねぇ、少しだけでいいから、ベッドで抱きしめててくれる?なんだか、急に心細くなっちゃって」 弱々しく頼むその姿に、修は逆らえなかった。 「分かった。じゃあ、横になろうか」 修は手元のリモコンを操作して、病床の背を少しずつ倒していく。 侑子がそっと横になると、修もその隣に静かに身体を横たえ、優しく彼女を抱き寄せた。 侑子は修の顔を両手で包み込み、そのまま目を閉じ、唇を重ねた。 修も彼女の後頭部に手を添え、熱を帯びたキスを返す。 ―その唇から、互いの温もりが流れ込んでくる。 修のキスは、次第に深く、激しくなっていった。 ...... その頃― ヴィンセントはついに、命の危機を脱し、意識を取り戻した。 今はすでに一般病棟へと移されていた。 窓から差し込む陽光が、静かな病室をやわらかく照らし、穏やかな空気が満ちている。 ベッドに横たわるヴィンセントは、ゆっくりと身体から疲れが抜けていくのを感じていた。 そして、視線の先には―若子の姿。 彼女はずっとそばに座っていた。 その顔には、まだかすかに不安の色が残っていたが、彼が目を覚ました瞬間、ふっと力が抜けたように安心の笑みが浮かぶ。 その瞳には、安堵と喜びが柔らかく灯っていた。 「冴島さん......やっと目を覚ましたのね」 若子の笑顔は、まるで太陽の光そのもの。見る者すべての心を温めるような―そんな優しさに満ちていた。 千景は、一瞬、動揺したように目を見開く。 「今......俺のこと、なんて......?」 若子は、微笑んだまま答えた。 「冴島さん。そう呼んでって、あなたが言ったでしょ?だから私は、ずっとその名前を覚えてたの。一生、忘れたりなんかしないわ」 その言葉を聞いて― 千景の唇の端に、やさしい笑みが浮かんだ。 彼は―少しずつ、この「名前」を好きになっていった。 ずっと
「そうですよ、最初はそう思っていました」 侑子は冷ややかな口調で続ける。 「あなたがあんなことをしたと知って、本当に憎くて、できることならアメリカの刑務所で一生出てこられなければいいとすら思っていました。 でも、よくよく考えてみたんです。もしあなたが本当に捕まってしまったら、松本さんはまた『独り身』になるんですよね? そうなれば、修には山ほど理由ができます。きっと彼女と「やり直す」って言い出すはずです。そうなったら―私が捨てられる可能性も出てきます。 だから考えたんです。あなたが捕まらず、松本さんのそばにい続けてくれた方が、私にとっても都合がいいって。 ......『あなたのため』じゃなく、『私自身のため』に、そう決めたんです」 その言葉に、西也は長く沈黙した。 ―確かに、理屈としては通っている。 けれど、西也の性格は疑い深い。それだけで納得するわけがなかった。 「......俺は、なんでお前の言うことを信じなきゃならない?もしこれが罠で、俺をはめるための芝居だったらどうする?」 「信じなくても構いません」 侑子は淡々と返す。 「ただ、修は病院から出たらすぐに警察に証拠を提出します。そして私も証言します。 修は一流の弁護士を雇いました。あなたを本気で『牢の中に叩き込む』つもりなんです。 信じるも信じないも、あなた次第です。信じないなら、そのまま何もしないでいてください。そのうち、警察が迎えに来ますから」 再び、通話口から沈黙が返ってきた。 侑子の耳には、明らかに荒くなった西也の呼吸音が聞こえていた。 しばらくして― 「......もしお前が俺を騙してたら、絶対に許さないからな」 「遠藤さん、ひとつだけ申し上げておきます。 あなたが私を『許さない』ということは、つまり―修と松本さんを近づけることになります。 私たちはお互いを嫌っているかもしれませんが、お互いにとって『有益な存在』でもあります。 松本さんのそばにあなたがいれば、修は近づけない。そして、修のそばに私がいれば、松本さんに近づけない。 私たちが協力し合えば、それぞれの『愛する人』を守ることができるんです。 それでも、どうしても私を敵に回したいというのなら―仕方ありません。でも、遠藤さんほどの方なら、そんな愚かな
修は、ずっと侑子のそばにいて、彼女の検査を見守っていた。 ただ、心ここにあらずという感じで、どうしても―若子の哀しげな顔が頭から離れなかった。 「修、顔、大丈夫?医者に見てもらった方がいいんじゃない?」 侑子は心配そうに言う。 「もう腫れてきてるし」 修は軽く首を振りながら答える。 「大丈夫だよ。あと二日もすれば治るし、心配しないで。今はお前が一番大事だから」 侑子は、修の言葉を耳にし、心が温かくなった。 「そうだ、修。昨日、私に約束したよね?今日も検査を受けるって。じゃあ、先に行ってきて。二人で一緒にやろうよ」 修は少し迷った後、優しく言った。 「大丈夫だよ。お前が終わるまで待つよ。お前を見守ってるから」 「修、いいから先に行って。結果を待つのは一緒にするんだから、時間を無駄にしないで」 侑子は修の体調が心配で仕方なかった。 彼がしっかりと健康でいなければ―それが彼女の未来を支えるためにも必要なことだ。 この男が元気でないと、どうするんだろう― 修は、侑子が少しでも安心できるよう、そっと彼女の髪に手を置いた。 「わかったよ。今すぐ行くから、お前はここで待ってて。医者がちゃんと見てくれるから安心して」 侑子がいるのはVIP病室。最高のケアを受けられる場所だ。 それがあるから、修も少しだけ心が軽くなった。 「いってらっしゃい。何かあったら、すぐに電話するからね」 修は彼女の額に軽くキスをしてから、部屋を出て行った。 侑子はベッドに横になり、ふと窓の外に目を向け、深く息を吐き出す。 ―私はこんなに頑張ってるんだから、きっと天は私を見捨てないはず。 口元に、ほのかな自信を浮かべた笑みを浮かべながら。 しばらくして、携帯電話の着信音が鳴り響いた。 侑子はスマホを手に取った。 画面に表示されたのは、見覚えのない番号。 少しだけ首をかしげながら、通話ボタンを押す。 「はい」 「山田さん、俺だ」 その声を聞いて、侑子の表情が一瞬変わる。 楚西也―彼の声だった。 「遠藤さん......どうして、私の番号を?」 「お前の番号を調べるなんて、簡単なことだ」 そう言われて、侑子はすぐに察した。 ―紙、見たのね。 自分が渡したあの紙切れが、ちゃんと
彼の口から「自分を認めた」その一言。 それは―たとえ百回一緒に夜を過ごすよりも、ずっとずっと重い意味を持っていた。 心の底から「認めてくれた」。 それだけで、今までしてきたすべてのことが報われた気がした。 たとえ、修が「最初の男」じゃなかったとしても。 たとえ、さっき小さな嘘をついたとしても―あれが「初めて」なんかじゃなかった。 侑子には、それなりの経験があった。 決して、見た目どおりの「純粋な女の子」なんかじゃない。 むしろ、昔はスリルを求めて刺激的なことばかりしていた。 男の理性が壊れていく瞬間―その感覚に、快感を覚えていた。 修の前で「慣れていないフリ」をしていたのも、演技にすぎなかった。 でも。 ―今は違う。 本当に、彼を好きになってしまった。 今になって、ようやく分かった。 ―私、今までどれだけ目が節穴だったの? 昔の男たちなんて、何ひとつ価値がなかった。 金もない、顔もない、スタイルも微妙― でも、修は違う。すべてを持っている男。 だからこそ、絶対に―この男だけは離さない。 男を「落とす」ことなら、侑子にはそれなりに自信があった。 ...... 一方その頃。 西也は、人気のない場所まで歩き、そっと手を開いた。 手のひらの中には、くしゃくしゃになった一枚の紙切れがあった。 周囲を見回し、誰もいないことを確認してから、そっと紙を開く。 そこには、びっしりと文字が書かれていた。 【この前、あなたが修のところに行った時の映像、全部「隠しカメラ」に撮られてたわ。修はその証拠を警察に出すつもりよ。アメリカで服役する覚悟、できてる?】 ―その瞬間、西也の脳内に「ズドン」と重い音が鳴り響いた。 目を見開き、信じられないという表情で紙を見つめる。 足がふらつき、数歩後ろへよろける。 胸の中は、まるで嵐のようだった。 混乱、恐怖、怒り、疑念―すべてが渦巻いて、顔色は真っ青になっていく。 手が震え、紙をぎゅっと握りしめた時、背筋に冷たいものが走った。 ―どうしてだ?そんなはずない。 あのとき、監視カメラは全部潰した。 隠しカメラなんて、どこにあったっていうんだ!? 西也は紙に書かれた数行の文字を、じっと見つめていた。 ―クソッ
修はそっと目を閉じ、腕の中の侑子をぎゅっと抱きしめた。 大きな手で彼女の後頭部を包み込み、そして額に、静かにキスを落とす。 「侑子......いつも俺のことを考えてくれて、ほんとに......何て言ったらいいか分からない」 「じゃあ......何も言わないで」 侑子は顔を上げて、彼のあごに優しくキスした。 「修さえ望んでくれるなら、私はいつまでも『修の女』でいる。あなたのためなら、何だってする。あなたが幸せでいてくれるなら、それで全部いいの」 そのまま、侑子は照れくさそうに彼の胸元に顔をうずめ、再び彼に抱きついた。 その手はそっと修の胸に触れ―やがて、彼の頬へと撫で上げていく。 ―もう、これだけ関係が深くなっていて、他に何が必要なの? 自分はもう、完全に「修の女」なのだと。侑子の中では、それは揺るがない事実になっていた。 修はそっと彼女を横抱きにし、そのまま病室へと戻る。 ベッドへゆっくりと彼女を下ろし、慎重に寝かせた。 「侑子......さっきあいつに言った言葉、全部『俺のため』ってのは分かってる。でも、正直なところ......ちょっと無駄だったかもな」 「えっ?どうして?」 侑子は不思議そうに聞き返す。 「忘れたのか?あいつはもうすぐ『塀の中』だ」 侑子の表情が一瞬こわばる。けれどすぐに、照れ隠しのように笑みを浮かべた。 「そっか......あーあ、私ったら。そんな大事なこと、すっかり忘れてた。ごめんね、修。本当に、無駄なことしちゃった。 しかも、ちょっと感情入れて彼の手まで握っちゃって......あ〜、ほんと恥ずかしいっ」 「恥ずかしがることなんかないさ。お前は、俺のためにやったんだろ?」 修は、少し眉を下げて、優しく言った。 「でも―もう、そんなことしないで。俺、そういうの......辛いんだよ」 侑子はにっこり微笑んだ。 「たぶんね、心臓が悪いからかな。記憶力までダメになっちゃったのかも」 「構わないよ」 修は、彼女の頬に優しく手を添えて、静かに微笑んだ。 「責めたりなんかしない。あんな風に言ってくれて......俺、本当に感動したんだ。侑子、お前って......本当に優しくて、懐が深い女だよ」 彼のそばにいた女たちは、どの子もみんな―本当にいい子だ
―たぶん、この世で唯一、彼の嘘を「叶えてあげよう」と思えるのは、この女性だけかもしれない。 どんな嘘でも、どんな無茶な要求でも、疑いもせずに受け入れてくれる。 それが侑子だった。 ......どうして、こんなにいい子なんだろう。 その「良さ」が、むしろ痛ましいほどに胸に響く。 ―もしかしたら、いつか本当に彼女を愛してしまうかもしれない。 「遠藤さん、少しだけ、お話してもいいですか?」 侑子はそう言って、そっと修の手を離し、西也の方へ歩いていった。 だが、修がすぐにその手を引き留める。 「行くな」 「修、大丈夫。ほんの少し話すだけ。心配しないで。遠藤さんが、こんな場所で私を傷つけたりするような人だとは思ってないから。 ここは病院だし、監視カメラだって山ほどあるしね。彼だって、さすがに壊せないでしょ?」 ―「監視カメラ」。 それはあの日、西也が修の家に乗り込んできて、すべてのカメラを壊した件を指している。 西也はその含みをすぐに察し、鼻で笑った。 侑子は西也の前まで来ると、穏やかに口を開いた。 「遠藤さん、あなたと修の間にある因縁......その始まりは、あなたの奥さんだったと聞いています。でも、時が経てば、きっとふたりとも冷静になれる日が来ると思っています。 どんな事情があったとしても、私は―あなたに、どうかお願いしたいことがあります。 あなたの奥さんを、大切にしてあげてください。彼女は修の『前妻』であり、幼なじみであり、まるで妹のような存在なんです」 その言葉に、侑子はちらりと修へ目を向ける。 「だから、松本さんの幸せが一番大切なんです。私はそう信じています。遠藤さん、あなたなら―きっと彼女を幸せにできるって」 西也は目を細め、じっと侑子を見つめていた。 ―この女、何を言い出すつもりだ?今さら、こんなクソみたいな話をして、何を狙ってる? 「遠藤さん......修の妹は、私にとっても妹なんです。修が大切に思う人なら、私も大切にします......それが誰であろうと」 侑子は涙ぐみながら一歩前へ進むと、そっと西也の手を取った。 「遠藤さん......お願いします。松本さんのこと、あなたに託します」 西也の眉がピクリと動いた。 まさか、彼女が―いきなり自分の手を握って
「分かったわ、修。次は絶対にこんなことしない。全部、私が悪かったの。あんなこと、言っちゃいけないなんて知らなかったし......こういうの、私には経験がなくて、だから修に嫌われるのが怖くて......」 修はそっと手を伸ばし、侑子の髪に優しく触れた。 「もう言うな。これからは―若子とも会わないようにしろ」 「......じゃあ、修は?修は、もう彼女と会わないの?」 その問いに、修は少しの間だけ黙り込む。 彼の沈黙が、すべてを語っていた。 侑子は、その目の奥で何かを悟る。 修ですら、自分でも分かってないんだ。もう一度、若子に会うかどうかなんて。 偶然、会うかもしれない。もしくは、修から会いに行くのかも。あるいは―若子の方から、恥知らずに近づいてくるのか。 どっちにしろ―全部若子のせい。修に非は、ひとつもない。 その時。 「藤沢」 病室の外から、低く響く声が聞こえた。 修が顔を向けると、そこには西也が立っていた。鋭い視線で、じっとこちらを見ている。 侑子は不安げに修の腕を握る。 「修......彼、どうしてここに?」 修は彼女の手を包み込むように握り返す。 「大丈夫だ、侑子。ここで待ってろ。絶対に外へ出るな」 侑子はこくんと頷いた。 修はそれから、病室を出て西也の前に立つ。 「で、遠藤。何の用だ?」 「俺の方が聞きたいね。女連れて、若子を傷つけに来たんじゃないのか?」 「考えすぎだ」 修の声は冷たく、淡々としていた。 「ただ、侑子の身体の検査に来ただけだ」 「検査する病院なんていくらでもあるだろ。よりによってここを選んだのは―わざとじゃないのか?」 「俺はここの病院に詳しいし、付き合いもある。だから便利なんだ。それの何が悪い?」 修は肩をすくめると、ニヤリと笑う。 「それより、お前がここに来てる方が不自然だな。まさかまた俺と殴り合いでもしたくて来たんじゃないだろうな?そんでまた若子に泣きつく気か?『あいつにやられた』ってな」 「ふっ......」 西也は鼻で笑った。 「安心しろ。ここで手を出すつもりなんてないよ。ただ伝えに来ただけだ。ヴィンセントが目を覚ましたってな」 修の眉がぴくりと動く。 「......目を覚ましたのか?」 そのこと
若子は、もう何も言いたくなかった。気分は最悪で、ただ西也の腕をそっと振りほどき、数歩だけ後ろに下がる。 胸の奥が苦しくて、立っているのもつらいほどだった。 「若子......」 西也はたまらず、彼女をそっと支える。 「もう戻ろう。ここにはいない方がいい。ゆっくり休もう?」 でも、若子はかすかに首を振った。 「......私は行かない。ここにいなきゃいけないの」 その視線は、沈静に包まれた一角―冴島千景が運び込まれたICUのガラス越しへ向けられていた。 修のことで胸が引き裂かれそうになったとしても、今一番大事なのは―冴島さんのことだった。 修なんてもうどうでもいい。侑子とどうなろうが、知ったことじゃない。 ―冴島さん、お願いだから、目を覚まして。お願いだから...... 若子はICUのガラスドアの前で、じっと立ち尽くしていた。 その目は不安と焦りに満ちていて、どうしようもない無力感に飲み込まれていた。 病室の中は冷たい空気が支配していて、モニターから発せられる「ピッ、ピッ」という音だけが静寂を破っていた。 千景はベッドに横たわり、まるで眠るように動かない。顔色は真っ青で、まるで命の灯が消えてしまいそうな儚さを漂わせていた。 若子は両手をぎゅっと握りしめた。爪が手のひらに食い込んで、血が滲みそうになっても、痛みなんて感じなかった。 ただただ、目の前の彼に―すべての意識が向いていた。 その時だった。 千景の身体が突然大きく痙攣し始めた。 呼吸は荒く、不規則になり、モニターから「ピーピーピーッ」と警報が鳴り響く。 「医者さん!医者さんっ!!」 若子は我を忘れて叫んだ。 医療スタッフがすぐに駆け込んでくる。 白衣を身にまとい、マスクと手袋で顔と手を覆った彼らは、迷いもなく処置を始めた。 主治医が指示を飛ばしながら、すぐさま胸部の圧迫を行う。 モニターは次々と数値を表示し、警報音が鳴り響く。 若子の目は、監視モニターから一瞬たりとも離れなかった。 恐怖、焦り、そして祈り―胸が張り裂けそうなほどに、感情が渦巻いていた。 ―今すぐ中に飛び込みたい。 そう思ったその瞬間、看護師が彼女の腕を制した。 「落ち着いてください。こちらは全力で治療しています」 看護師は若
若子の声にはかすかな震えが混じっていた。目元は潤んでいたけれど、それでも彼女は涙をこぼすまいと必死にこらえていた。 ―私は、あなたの前でなんて、絶対に弱さを見せない。 最初に西也と結婚した時、たしかにその関係は「本物」なんかじゃなかった。 でも、あれこれと出来事が積み重なって、気づいたらすべてがぐちゃぐちゃに絡まり合っていた。 そして今となっては、もう誰にもどうにもできないほど、取り返しがつかなくなっていた。 修はふいに手を伸ばした。若子の肩に触れようとする―その一瞬。 「触んないでッ!」 彼女は彼の手を激しく振り払って、次の瞬間、またしても彼の頬を平手で打った。 すでに腫れ上がっていた修の顔は、さらに赤く膨れ上がる。 ―なのに。 若子の胸には、少しもスッキリする感覚なんてなかった。 怒鳴り返すわけでも、手を上げるわけでもなく、ただ黙って打たれ続ける修の姿を見て、怒りと苦しさだけがますます募っていった。 「それで満足なの?これが、あなたの答えなの?」 彼女は拳を握ったまま、彼の胸元を何度も何度も打ちつけた。 「こんなの......私、もうイヤなの!大っ嫌いよ、あなたなんか......っ!なんで、なんでいつもそうなの!?なんで離れてくれないの!?どうしてよっ!!」 「もうやめてぇぇ!!」 侑子がとうとう堪えきれず、駆け寄ってきた。 そして若子の腕をつかむと、そのまま力いっぱい突き飛ばす。 若子の体は、床に叩きつけられるように倒れた。 侑子はすぐに修の前に立ちふさがり、まるで子どもを庇うように、彼を守るような姿勢になった。 「お願い......もう殴らないで。これ以上、もうやめてよ......お願いだから......」 「若子!」 修はすぐに侑子を押しのけて、若子の元へ駆け寄る。 そして倒れた彼女をそっと抱き起こした。 「若子、大丈夫か!?」 「触らないで!!」 彼女はその手を振り払い、怒りのままに叫ぶ。 侑子はその光景を、ただ呆然と立ち尽くして見ていた。 修が―迷いもなく、若子のもとへ向かったこと。 その姿に、彼女の全身から力が抜けていった。 ―どうして、こうなっちゃったの? 侑子は胸を押さえ、そのまま「ドサッ」と音を立てて倒れ込む。 息が、