侑子は、何度も何度も修の顔にキスを落とした。 けれど― 修は、まるで人形のように微動だにしなかった。 侑子の存在など感じていないかのように。 「......っ!」 狂ったように、修のスーツを乱暴に引き剥がす。 「修......!あんた、本当に男なの!?本当に......!」 あらゆる手を尽くして、彼を「人間」に戻そうとした。 男としての本能を、無理やり呼び覚まそうとした。 だが― どれだけ肌を晒し、彼の胸元に爪痕を刻んでも、修は何の反応も示さない。 表情すら、変えなかった。 まるで、そこに「心」が存在しないかのように。 ―この光景は、まるで。 自分が修を、「無理やり」抱こうとしているように見えるではないか。 侑子は、修の上にまたがりながら、涙を流した。 「......この世界で、あんたが反応するのは、あの女だけなの? 松本若子だけなの......?」 ―その瞬間。 修の虚ろな瞳が、やっと侑子へと焦点を結んだ。 涙で赤く染まった顔を見つめながら、彼はそっと手を伸ばし、侑子の頬に触れる。 そして、ようやく口を開いた。 「......どうして、そこまで......?」 「修......!」 侑子は彼の手をぎゅっと握りしめ、頬に押し当てる。 「私は、修に抱かれたいの......!修が私を求めてくれるなら、それでいいの! たとえ『道具』みたいに扱われたって......! 終わったら、すぐに捨てられたって......! それでもいいから......修の痛みを少しでも和らげたいの......!」 これ以上、ただ見ているだけなんてできなかった。彼はあまりにも絶望している。 もし、この身体が彼の気をそらせるのなら―少しでも彼の苦しみを和らげられるのなら―私は、差し出したっていい。 でも......彼は、それすらも望んでいないようだった。 突然、修は、ふいに身体を起こし、彼女を見つめた。 二人の距離は、異様なほどに近い。 彼の長い指が、そっと侑子の頬を撫で、そこから腰へと滑り落ちていく。 ―そして。 修の指先が、侑子の腰にある青黒い痕を捉えた。 それは、今日の昼間、彼が無意識に強く抱きしめたせいでできた傷痕だった。 ―自分の苛立ちや怒り
―愛する女には冷酷に突き放され、愛さない女にはすべてを捧げられる。 現実というものは、いつも理不尽だ。 人は手にしたくないものを与えられ、心から望むものには手が届かない。 結局のところ、「手に入らないものこそ最高のもの」なのだろう。 手に入らないからこそ、追い求めたくなる― くだらない、本能だ。 修はゆっくりとカーペットから身を起こし、侑子を抱き上げると、そのまま階段を上がっていった。 寝室に入るなり、彼は侑子をベッドに投げ出し、自分のシャツを脱ぎ捨てる。 そして、何の迷いもなく彼女に覆いかぶさり、その両手をベッドに押し付けた。 「......侑子、お前が欲しい」 男というのは、どうしても弱い女に惹かれるものだ。 侑子のように、健気で、弱くて、必死で愛を乞う女には。 修の心は鉄ではない。 心が愛する女に踏みにじられた今、代わりにすべてを捧げる女がいるなら―その存在に救いを求めずにはいられない。 このままでは、自分は壊れてしまう。 だから、何かで埋めなければならない。 侑子の身体は、その痛みを紛らわすにはちょうどいい。 とくに―彼女の顔が、若子とよく似ているのだから。 自分勝手なのはわかっている。 それでも、今だけは侑子を若子だと思ってもいいはずだ。 侑子は緊張していた。 だが、その奥には期待があった。 彼女は何もかもを捨て去るように、静かに目を閉じた。 「......うん」 その言葉を最後に、何もかもを差し出すように身を預ける。 次の瞬間、熱を帯びた唇が首筋に落とされた。 一度始まれば、もう止まらない。 この夜は―決して静かなものにはならなかった。 ...... 若子は、自宅に戻った途端、まるで魂を抜かれたようになった。 西也は子どもを抱いたまま、黙って彼女の後をついていく。 若子がベッドの縁に腰を下ろすと、しばらくの間、微動だにしなかった。 やがて、ゆっくりと意識が戻り、かすれた声で言った。 「......西也、子どもを私にちょうだい。ベビールームに連れていくから」 その声は、今にも崩れ落ちそうだった。 「俺が連れていくよ」 そう言って、西也は子どもを抱えたまま部屋を出る。 扉が閉まると同時に、若子はベッドに倒れ込んだ
「西也......もう、あの人を愛したくない......本当に、もう愛したくないのに......どうして?どうしてこんなに苦しいの?」 若子の声は震え、涙が止まらなかった。 西也は奥歯を強く噛みしめ、瞳の奥に怒りの影を滲ませる。 ―奴は、あんなにも冷酷に彼女を傷つけた。 それなのに、若子はまだあの男を愛し、泣き続けている。 西也は、若子に対して少し苛立ちを覚えた。 だが、それ以上に―藤沢修への憎しみが込み上げる。 あんな男が、若子の愛を受ける資格なんて、どこにもない。 ―若子、お前はなんて、愚かな女なんだ。 そう思うと同時に、彼は彼女のことがたまらなく愛おしくなった。 「西也......私たち、離婚しよう。ねぇ、離婚しよう?」 若子はとうとう堪えきれず、心の中に閉じ込めていた本音を口にする。 まるで雷に打たれたような衝撃が、西也の身体を貫いた。 「......今、なんて言った?」 「西也」 若子は彼の腕の中から身を起こし、そっとその顔を両手で包み込む。 「私たちの結婚は、最初から偽物だった。だから、もう終わりにしよう。これ以上続けるのは、西也にとって不公平だよ。だって、私たちは本当の夫婦じゃない......」 「......嫌だ、俺は離婚なんてしない!」 西也は取り乱したように若子を抱きしめ、必死に訴えた。 「若子、お前......約束しただろう?もう二度と、離婚の話はしないって......お願いだ、頼むから、そんなこと言わないでくれ......!」 「西也......なんで、そんなにバカなの?わかってるでしょ?これ以上続けても、私は―」 「お前は、俺を裏切ってなんかいない」 西也は、静かに言った。 「俺にとって、お前はずっと最高の女だよ。今日、あいつに会って辛かっただろ?でも、それでいいんだ。泣いてもいい。俺は、どんなお前も受け止める」 優しい声だった。 「時間が経てば、きっと痛みは薄れていく。だから、一人になんかしない。俺がそばにいる」 若子は涙で声を失った。 言葉にならない想いが、ただ涙となって溢れ続ける。 西也は彼女がずっと同じ姿勢でいるのを気にして、そっと抱き上げると、ベッドへと横たえた。 布団をかけ、ぴったりと寄り添うように抱きしめる。
しかし― 彼は、彼女を深く慈しんでいた。 こんなにも傷つき、涙を流す彼女に、どうしてさらに痛みを与えることができるだろうか? 若子は、出産してまだ二ヶ月。 体調も万全とは言えない。 彼は念のため、医者に相談していた。 産後の女性の体が回復するには、少なくとも三ヶ月は必要だと。 ―なら、待てばいい。 彼女の身体を傷つけるくらいなら、いくらでも待てる。 だから、彼はただそっと若子を抱きしめた。 若子は泣き続けた。 彼の胸の中で、声が枯れるほど泣き、やがて疲れ果て、静かに眠りについた。 しばらくして、西也は彼女が深く眠っているのを確認すると、そっと腕をほどき、ベッドを抜け出した。 バスルームへ向かい、熱いおしぼりを用意すると、静かに彼女の元へ戻る。 若子の頬に、そっとそれを当てる。 できるだけ優しく、慎重に―彼女を起こさないように、そっと。 腫れた瞼、涙の跡が残る頬。 西也の胸が締めつけられる。 こんなにも疲れ果てた表情で、こんなにも苦しそうに眠るなんて。 まるで、夢の中でも泣いているみたいに。 ―藤沢、お前、なんでまた現れたんだ。 俺たちの生活を壊したいだけなのか?ふざけんな......! でも、西也には、修がここへ来ることを事前に知っていた。 それは、ある一本の電話があったからだった。 昨日の夜― 突然、携帯が鳴る。 画面に表示された名前を見て、西也は眉をひそめた。 ―伊藤光莉? なぜ、彼女が自分に電話を? 不審に思いながらも通話を繋げた。 「伊藤さん......僕に何の用ですか?」 「話がある。あんたにとっても悪い話じゃない」 「僕にとって悪くない?」 西也は鼻で笑う。 「失礼ですが、あなたと僕は敵同士のはずです。どうして僕を助けようと?」 「敵?」 光莉は苦笑した。 「もし、私があんたのことを敵だと思ってないって言ったら?」 「僕がそれを信じるかどうか、何の意味があるんですか?僕たちは敵ですよね。伊藤さんが僕に言ったこと、今でもはっきり覚えています」 電話の向こうで、光莉はしばらく沈黙する。 「ご用がないのでしたら、失礼します」 西也は淡々と言った。 「待って......あんたに知らせなきゃならない
「西也、私がこうするのも、あんたたち三人のためよ」 光莉の声は静かだった。 「あんたと若子はもう結婚してるんだから、ちゃんと夫婦として生きていけばいいの。修と若子は、もう終わったのよ。たとえ無理に復縁したとしても、二人とも苦しむだけ。三角関係なんて、結局誰も幸せになれないものよ」 西也は目を細める。 「つまり......あなたは、ご自分の息子が苦しまないようにするために、若子を完全に諦めさせようとしているんですね?」 「ええ、その通りよ」 光莉は穏やかに言った。 「だから、あんたたちの三角関係が本当に終わるかどうか―それは、明日次第ね」 その後、光莉は彼にいくつかの指示を出した。 ―明日、どう動くべきか。 ―修にどう対応すればいいのか。 西也は電話を切ると、妙な気分になった。 最初は半信半疑だった。 まさか本当に修が現れるとは思っていなかった。しかも、女を連れて。 だが、運よく事前に情報を得られたおかげで、彼の耳に「あの言葉」を届けることができた。 あの子が、若子との子どもだと―そう思わせるように。 修が絶望すれば、きっと傷つけるような言葉を口にする。 若子はその言葉を聞いて、さらに傷つく。 絶望した彼女が、修に子どものことを話すはずがない。 それでいい。 あの子には、こんな父親はいらない。 若子も、きっとそう思うはずだ。 すべてが順調に運んでいた。 修は何度やっても自分に負ける。もはや挑戦する意味すらないほどに。 ただ、一つだけ気に入らないことがある。 若子が、まだ修を想っていること。 あんなに泣いていた。 もし本当に気持ちが残っていなかったら、あんなふうに涙を流すはずがない。 愛しているからこそ、あれほど強く感情が揺さぶられる。 いったい、いつになったら若子は完全に修を忘れられるのか。 ―でも、今回のことで気づくはずだ。 西也は静かに息を吐き、隣で眠る若子の体をそっと抱き寄せた。 その額に、優しく唇を落とす。 目を覚まさないように、そっと。 若子― 俺は、お前のためなら何だってする。たとえそれが、良いことでも、悪いことでも。 許してくれ。俺は本当に、お前を愛してる。 あいつなんかより、何千倍も何万倍も、大切にする。
修の手が、優しく侑子の髪を撫でた。 ふと、頭の中に懐かしい光景がよぎる。 ―何度も迎えた朝。 若子が、こうして恥ずかしそうに彼の胸に顔をうずめていた朝。 彼は彼女の頬を撫で、長い髪に指を通し、そしてそっと唇を重ねた。 今、彼の腕の中には侑子がいる。 まるで子猫のように身を寄せ、甘えるように身体を預けている。 彼女は小さく微笑み、細い指で彼の胸にそっと触れた。 そして、顔を上げ、静かに問いかける。 「......修、平気?」 修は小さく首を振った。 嘘はつけなかった。 ただ彼女を安心させるために「大丈夫」だなんて言うことは、できなかった。 侑子は切なそうに、彼の傷にそっと手を伸ばす。 「......まだ痛む?」 修は静かに首を振る。 「もう痛くない。心配するな」 侑子は少し躊躇いながらも、そっと言葉を続けた。 「......修、国に帰ろう?」 もう、ここにいる意味なんてない。 これ以上、この場所に留まれば、修の心はますます壊れてしまう。 だから、彼を遠ざけたかった。 彼を苦しめるものから―できるだけ遠くに。 「でも、お前......旅行を楽しみにしてたんじゃないのか?せっかく来たのに」 「いいの。他の場所に行けばいいだけだから、二人で」 つい、口をついて出た「二人」という言葉。 言った瞬間、後悔した。 ―二人? そんなふうに言える立場じゃないのに。 修がここに来た理由は、前妻のためだった。 自分のためではない。 きっと、他の場所に旅行に行くなんて話も、彼にはどうでもいいことだろう。 だが、修はしばらく黙ったあと、意外にもこう言った。 「......もう少しここにいよう。せっかく来たんだし、少しくらい遊べよ」 侑子の胸が、一瞬だけ高鳴る。 でも、すぐに不安がよぎる。 「でも......ここにいたら、また彼女と―」 「心配するな」 修は、彼女の考えを見抜いたように言った。 「もう、彼女には会わない。これからの時間は、お前と過ごす。遊び終わったら、一緒に帰ろう」 侑子は驚きつつも、小さく頷くと、幸せそうに修の胸に顔を埋めた。 腕を回し、ぎゅっと抱きしめる。 こんなに近くにいる。 同じベッドで、同じ温もりを
侑子の胸の奥に、じわじわと悲しみが広がっていく。 ―自分に魅力が足りないの? ―それとも、彼があの女を愛しすぎているの? たぶん、両方だ。 もし自分がもっと美しかったら、彼は昨夜、あんなふうに自制しなかったのではないか。 そう考えると、悔しくてたまらなかった。 けれど―それでも、昨夜のことは彼女にとって夢のようだった。 あんなに近くにいて、彼の唇が自分の肌をなぞった。 彼の温もりを、これほど感じられた夜は初めてだった。 それだけでも、彼女にとっては十分な前進だった。 ―必ず、もっと近づいてみせる。 若子を、彼の心から完全に消し去る。 彼の隣にいるのは、自分だけになる。 その思いは、日に日に強くなっていった。 もう、満足なんてできない。 彼を、完全に自分のものにする。 修は朝食を作り終え、侑子を呼びに来た。 ベッドの上で、彼女は恥ずかしそうに毛布にくるまっていた。 ―昨夜も、今朝も、修にはすべてを見られている。 それでも、やはり恥じらいはあった。 好きな人の前では、少しは慎みを持たなければ。 たとえ、それが本心でなくても。 修はそんな彼女に気づくと、静かに言った。 「先に着替えろ。外で待ってる」 そう言い残し、彼は食堂へと向かった。 侑子が食卓につくと、目の前には豪華な朝食が並んでいた。 お腹がすいていた彼女は、思わず感嘆の声を上げる。 「......すごくいい匂い!」 修は軽く微笑みながら、紳士的に椅子を引いた。 「座って」 侑子は嬉しそうに頷き、席についた。 修も彼女の向かいに座る。 侑子は一口食べてみた。 その瞬間、思わず目を見開いた。 ―おいしい。 味そのものがどうというより、これは修が作ってくれた朝食。 それだけで、彼女の舌は最高のフィルターをかける。 「美味しい!まさか、こんなに料理が上手だったなんて」 修ほどの男なら、家に専属のシェフがいるのが当たり前だと思っていた。 それなのに、彼自身がこれほど料理ができるなんて― 「適当に作っただけだ。食えればそれでいい」 彼の何気ない一言に、昨夜のことがよぎる。 昨日、ちゃんと食事をさせてやるべきだった。 けれど、あのときの彼には、それを気にかけ
西也は、若子がそれを疑っているとは思わなかった。 「若子、最初から録音するつもりはなかったんだ。でも、あいつの言葉がどんどんひどくなっていくから、ポケットの中のスマホをこっそり操作して、ちょうどこの部分が録れたんだ。実は、これよりもっとひどいことも言ってたけど、それは録音してない」 西也は彼女の肩をしっかりと掴み、真剣な表情で言った。 「信じてくれ、俺にあいつを陥れるつもりはなかった。もし本当にそうするつもりなら、最初から録音を仕込んで、最初から全部記録してるよ。 若子、俺を信じてくれ。誓って、嘘はついてない」 若子はそっと西也を押し返し、かすれた声で言った。 「......わかった、信じる」 ―たとえ信じられなくても、もう関係ない。 たとえ西也が言葉を切り取って都合のいいようにしたとしても、修があの言葉を口にしたことは事実。 それでいい。もう疲れた― 心も体もすり減っていたけれど、それでも若子は授業を続けた。 この機会を無駄にしたくなかった。 日々は、ただ淡々と続いていく。 でも、授業中に何度もぼんやりしてしまう。 頭の中が雑音でいっぱいだった。 ようやく一日の授業が終わった頃、西也が車で迎えに来た。 「若子、今日の授業はどうだった?」 「うん、まあまあ」 若子は短く答える。 「ただ、集中できなくて......最近ちょっと情緒が不安定かも」 「だったら、もう少し休んだらどうだ?授業のスケジュールも調整できる」 「いいの」 若子は小さく首を振った。 「授業は続けたい。無駄にしたくないから」 休んでも、心の痛みが消えるわけじゃない。 ならば、前に進むしかない。 西也は彼女の意思を尊重し、それ以上は何も言わなかった。 家に戻ると、西也は自ら夕食を作った。 しかし、若子はほとんど箸をつけなかった。 「......西也、ちょっと疲れたから、今日は早めに寝るわ。子どものことは、使用人に頼んであるから......たぶん、夜は起きられない」 西也は頷いた。 「わかった。子どものことは俺が見るから、心配しなくていい」 若子は小さく「うん」とだけ返し、部屋へと戻っていった。 時計を見ると、まだ七時前だった。 ―この数日、ずっとこんな調子だ。 魂が
若子はその場を追いかけたくてたまらなかった。けれど、足はまるで鉛を詰められたように重くて、動くことができなかった。 ―ダメだ。私はもう、修を追いかけちゃいけない。 彼との関係は、もう終わったんだから。 彼には山田さんがいる。もう自分とは終わっている。だったら、いっそ嫌われて、憎まれたままでもいい。 その方が、きっと彼のためになる。 そんな思いで立ち尽くしていた若子の背後から、ふわりと誰かが彼女を抱きしめた。 「若子......信じてくれてありがとう。俺を信じてくれて、本当に......ありがとう」 西也の声だった。 最終的に、若子は彼の言葉を選んだ。それだけで彼の中に、確かな勝利の実感が湧いてきた。 その口元には、ふっと得意げな笑みが浮かんでいた。 ―藤沢、お前は俺に勝てない。 俺は若子を傷つけたりしなかった。ずっと彼女のそばにいて、支えてきたんだ。暗闇の中で手を差し伸べてきたのは、この俺だ。 それに比べて、お前はずっと彼女を泣かせてきたじゃないか。 だが― 若子はその腕を、ギュッと掴んで無理やりほどいた。 「西也......本当に......本当にボディーガードを連れて、銃まで持って修のところに行ったの?本当に......傷つけるつもりだったの?正直に話して」 さっき、修にあんなふうに言ったのも、完全に信じてなかったわけじゃない。 もう修を信じるか信じないかは、正直どうでもよくなっていた。彼には侑子がいて、子どもまでいる。今さら自分が何を言ったところで、どうにもならない。 西也の呼吸が乱れた。肩がわずかに震え、若子の肩を強く掴む。 「若子、俺のこと信じてないのか?......まさか、あいつの方を信じてるのか?」 さっきまで自分を選んでくれたと思っていたのに、まるで手のひらを返されたような気がして、胸の奥がずきりと痛んだ。 「西也......お願いだから、本当のことを言って。本当に銃を持って行ったの?」 二人のうち、どちらかが嘘をついている。でも、どっちなのか、若子にはもうわからなかった。考えれば考えるほど、混乱するだけだった。 「......銃は、持って行った。けど、それは俺のボディーガードが持ってたやつで、護身用なんだ。アメリカじゃ銃の携帯は普通だし、もし危険な目に遭った
若子はしばらく黙って考え込んだ。そして、ゆっくり顔を上げて修を見つめた。 「でも......あのとき、あなたは本気で西也が死ねばいいって思ってた。私に、西也の心臓を桜井さんにあげるようにって、同意を求めたよね」 西也の口元がぐいっと吊り上がる。得意げな笑みを浮かべて、ほっと息をついた。 ―若子は俺のことを信じてくれたんだ。 藤沢修、お前なんかに勝ち目あると思った? 前には桜井雅子、今度は山田侑子。お前がこれまでやってきたこと、どれを取っても正当化できないし、言い逃れもできない。 その一方で、俺は若子にとっての理想の男だ。お前が俺に勝てる要素、どこにある? 若子の言葉は、修の胸を鋭く突き刺した。 「若子......それは......昔のことだ。もう何年も前の話だよ。それと今は別だ。あれはあれ、これはこれなんだ」 「でも、あなたは確かにそうした。確かに―あのとき、あなたは西也に死んでほしいと思ってた。これは事実でしょ?」 修は口をつぐむ。否定できるはずもなかった。あの頃、西也のことを心の底から憎んでいた。そして、雅子が心臓移植を必要としていたタイミングで、西也が倒れた。 これは「チャンス」だと思ってしまった。雅子を助けるには、西也の心臓を......その考えが頭をよぎったことを、否定なんてできない。 ―自分の中の醜い部分。もし誰もがそれを晒されたら、きっと誰も「人間らしく」なんて言えなくなる。 「若子......あれは、あのときの話だ。彼の命が消えかけてたから、俺は......ああ言った。けど、俺は手を下してない。殺してもないし、傷つけてもない。常識的に、そうするのが正しいと思っただけなんだ」 「常識、ね......」 若子はその言葉を聞いて、吐き気がしそうになった。 「修......あなたにとって、西也の治療を諦めることが『常識』なの? だったらもう、これ以上言わなくていいよ。きっと、あなたの心のどこかが後ろめたかったんでしょ?だから西也があなたの元を訪ねてきたとき、勝手に『殺しに来た』って思ったんじゃない?」 「......」 修はふらりと数歩、後ろに下がった。 何もかもが空っぽになったようだった。胸の中から、心臓ごと引き抜かれたかのように。 若子からの言葉。何度も、何度も突き刺さっ
若子のその言葉は、どちらにも肩入れしない「中立」なものだった。 誰が正しいのか、彼女にはわからなかった。だって、その場にいなかったから。修の言い分も、西也の言い分も、どちらも聞いてみれば筋が通っているように思える。 ただ、どちらも誤解していただけだったら―そう願わずにはいられなかった。 西也は修のことを誤解していて、修も西也の護衛が武器を持っていたことで、逆に西也を疑った。ふたりの関係はもともと悪くて、敵意に満ちていた。だから、極端な判断をしてしまったとしても不思議じゃない。 「こいつは本当にやったんだ。侑子まで捕まえて、あと少しで殺されるところだったんだぞ」 修の声には怒りと悔しさが滲んでいた。 だけど、若子の中でその言葉は、ただの「誤解」に聞こえてしまった。 彼女にとっては、現場にいなかった以上、どちらかを一方的に信じることはできなかった。 それでも―自分の命をかけてくれた修の言葉を、疑ってしまっている自分に、彼はきっと傷ついている。 離婚してしまった今、彼女はもう修の味方ではない。 かつてなら、迷わず彼を信じていたはずなのに。 「濡れ衣だ!」西也が激しく声を上げた。「若子、こいつの言うこと信じるな!こいつは嘘をついてる!それに、もし俺が本当に殺すつもりだったら、こいつなんて今こうして立ってられないだろ?あの時、屋敷に彼は一人だった。俺が殺そうと思えば、簡単にできた。でも、やらなかった!」 「それは、お前が油断してたからだ。俺が隙を見て銃を奪い返して、逆転したから助かっただけだ。あのままじゃ、俺も侑子も、確実に殺されてた。お前が死体を処理してしまえば、誰にもバレなかったはずだ」 「お前、よくもそんなでたらめ言いやがって!」 西也は怒りを抑えきれず、若子に向き直った。「若子、お願いだ、信じてくれ。俺がどんな人間か、お前ならわかってるだろ?こいつこそ、俺を殺そうとした張本人だ!」 「お前、忘れたのか?前に俺が事故に遭った時、こいつも含めて全員が、お前に俺の臓器を提供しろって迫ったんだぞ?こいつなんて、俺に早く死ねって言ってたようなもんじゃないか!」 西也は、思い出という武器で切り込んできた。 彼の言葉は、若子の心に鋭く突き刺さる。 あの時―病院で、全員が彼女に迫っていた。西也の命を見捨てて、誰か
修の声は驚くほど冷静だった。西也のように感情をむき出しにすることもなく、彼の言葉には一分の隙もなかった。 どこか、堂々として見えた。 その落ち着いた姿を見て、若子はふと、疲れを覚えた。 修と西也の喧嘩なんて、これが初めてじゃない。もう何度もあった。前なんて、レストランで暴れて警察沙汰になったことすらある。 どちらの肩を持とうと、結局ふたりの間の確執は終わらない。今回の乱闘だって、どうせこれが最後にはならない。 「修、西也、あなたたちもう大人でしょ?自分の行動には自分で責任持ちなよ」 若子の声には、明らかに苛立ちが混じっていた。 「また喧嘩して、これで何回目?私はもう知らない。どっちが先に手を出したとか、正直もうどうでもいい。やりたきゃ好きに殴り合えば?先に殴った方が、もう一発食らう。それでチャラにしなよ。私はあなたたちの母親じゃないの。毎回毎回、警察に駆けつけて後始末して......そんなの、もうごめんだから!」 西也は口を開けかけたが、若子の鋭い一言でぐっと黙り込んだ。 なにか言いたそうな顔をしていたけれど、その勢いはすっかり削がれてしまった。 彼の視線は自然と修に向き、そこに溜まった怒りの矛先をぶつけるように、じろりとにらみつけた。 ―でも、今回、若子は西也をかばわなかった。 修はそれを見逃さなかった。彼にとっては、これが逃せないチャンスだった。 「若子」 修が一歩前に出て、静かに言った。 「なんで俺の話は聞かない?どうして俺が西也を殴ったのか、その理由を考えてくれたことある?」 「藤沢、また話を捏造するつもりか?」 西也がすかさず口を挟んだ。 「捏造?お前、ビビってるのか?若子に話されるのが、そんなに怖いか?」 修は口元だけで笑って、続けた。 「お前、若子には言わないつもりだったんだろ?......あの夜、お前がどんな風に俺の家に乗り込んできたか。銃を持った連中を引き連れて、俺のこめかみに銃口突きつけたよな」 「な―」 若子が目を見開いた。 「西也......それ、本当なの?」 西也は眉をひそめて、必死に否定する。 「若子、違う!誤解だ、そんなことするわけない。確かに何人か連れて行ったけど、それは俺のボディーガードだよ。あくまで護衛で、武力を使うつもりなんてなか
修にとって、若子が西也を責める姿を見るのは、これが初めてだった。 彼は腕を組みながら二人を見つめ、目の奥に一瞬だけ安堵の色を浮かべた。 ―もしこれが昔だったら、若子は絶対に真っ先に西也をかばってた。 でも、今は違う。彼女は西也を守らなかった。 それだけで、少しだけ救われた気がした。 だけど同時に、不安の方が大きかった。 若子が西也をかばわなかったのは、ヴィンセントの存在があったからだ。 11年も一緒に過ごしてきた自分との関係すら壊して、西也をかばった若子が―たった数日で、ヴィンセントのために西也すら突き放すようになった。 それが、何より恐ろしかった。 ヴィンセントはまるで強引に入り込んでくる侵略者のように、既存の人間関係を簡単に壊してしまう。 「若子、お前......俺のこと、責めてるのか?」 西也の声は震え、目を見開いて彼女を見た。 「責めてるかって?ええ、そうよ。責めてるわ」 若子は疲れた表情で言った。ほんとは、こんなこと言いたくなかった。 でも、どうしても感情を抑えきれなかった。 物事がここまでぐちゃぐちゃになって、それでも「全部お前のためだ」なんて顔して、どんどん余計なことをして、混乱ばかりで、結局一番迷惑を被るのは若子だった。 「若子、あのときはお前が危ないって思って......電話で問い詰めるわけにはいかないだろ?もしそばに誰かいたらって思ったら......だから俺は、こっそり探しに行っただけで......俺だって、お前が心配だったんだ。理解してくれよ......それに、お前が夜に出かけたとき、俺には行き先がわからなかった。考えられるのは藤沢だけだった。そして実際、お前は彼に会ってた。お前の失踪は直接彼のせいじゃないかもしれないけど、彼と会ってなければ、そんなことにはならなかったんだ!」 「あなたが心配してくれてたのはわかってる。でも、自分のミスを正当化しないでよ!」 若子の声が一段と強くなった。 「西也......あなたといると、ほんと疲れる」 「......っ」 その一言が、西也の胸に深く突き刺さった。 「ミス」とか「疲れる」なんて―若子の口から、そんな言葉が自分に向けて出てくるなんて、思ってもいなかった。 彼は信じられないような表情で、ただ彼女を見つめるしか
若子の眉がピクリと動く。 「......彼が殴ったの?」 彼女はゆっくりと修に視線を向けた。 「またやったのね?」 「また」―その一言が、なんとも言えない絶妙な皮肉だった。 正直、ふたりの喧嘩なんて何度目か分からない。もう若子自身も慣れてしまっていた。修が西也を殴って顔を腫らしたとしても、正直、そんなに驚きはなかった。 修は、黙って若子の目を見つめ返す。彼女が自分を責めるつもりだと、わかっていた。 「......ああ、殴ったよ。でも、理由がある」 「理由?」 と、割り込むように西也が口を開いた。 「若子、俺はただ......お前が心配だったんだ。電話はもらってたけど、どうしても不安で......それで、こいつが何かしたんじゃないかって疑って、会いに行った。そしたら、いきなり殴られたんだ」 彼は言葉巧みに語る―が、もちろん真相は違う。 武装した連中を引き連れて、銃を突きつけながら修の家に押し入ったのは、まぎれもなく西也の方だった。 だが、それを言うはずもない。 たとえ修が暴露したところで、「証拠は?」としらを切れば済む話だ。 修は黙ってその顔を見ていた。黒を白と言いくるめるその口ぶりに、内心では呆れていた。 若子は黙ってそのやり取りを聞いていたが、眉間に深いしわを刻みながら、口を開いた。 「......西也。私、電話で『無事だから』ってちゃんと言ったわよね?どうして修のところに行ったの?」 西也の胸に、ひやりと冷たいものが走った。 ......若子、どうしたんだ? これはおかしい。こんなの、彼女らしくない。 本来なら、修に殴られたと聞いて真っ先に怒るはずだ。 「なんでそんなことするのよ!」って修に怒鳴って、もしかしたらビンタの一つも飛ばしてたかもしれない。 なのに―どうして、こんなにも冷静に俺を問い詰める? 修もまた、想定外の反応に言葉を失っていた。 まさか、若子の第一声がそれだなんて、思ってもみなかったのだ。 若子はじっと西也を見つめながら、続けた。 「電話で、ちゃんと伝えたよね?一週間後には帰るって。はっきりそう言ったはずなのに、口では『わかった』って言っておいて、その足で修に連絡して、修まで私が何かあったって思い込んで......それでふたりしてヴィンセン
「若子......もし、もし俺が言いたいことが―」 「若子!」 そのとき、西也が風のように走ってきた。まるで矢のような勢いで。 「若子、大丈夫か!?怪我は!?無事か!?」 修はぐっと息を飲み込み、握りしめた拳に力が入った。 また―またか。なぜこいつは、どこにでも現れるんだ。まるで悪夢のように。 「私は平気よ、心配しないで」 若子はそう言うと、ふたりの男を順番に見つめた。 「ちょうどよかった。ふたりとも揃ったところで、はっきり言っておくわ。ヴィンセントさんは、私の命の恩人よ。だから、どちらも彼を傷つけることは絶対に許さない。もし彼に何かしたら、私は......絶対に許さない」 その声には、これまでにないほどの強さが宿っていた。 ふたりの男は、一瞬言葉を失った。 今までは、何をしても若子は怒らなかった。なのに、いま彼女は、明確に「NO」を突きつけてきた。それも、他の男のために― 修と西也がいがみ合っている間に、彼女の心には、冴島千景という新たな存在が入り込んでいた。 こんなこと―あり得るのか? だが、西也はすぐに切り替えた。彼は、こういうとき、反射的に「正解」を選べる男だ。 「わかった、若子。俺はもう絶対に彼を傷つけたりしない。彼がお前の命を救ってくれたなら、それは俺の恩人でもある。だってお前は、俺の妻であり、俺の子の母親なんだから」 その言葉を聞いて、若子の視線が修の方へと移る。 修は静かに息を吐いて言った。 「......もし俺が彼を殺したかったなら、あの手術は成功してなかったさ。そこは信じてくれ」 ふたりの男が、揃って約束を口にする。 その場に、不思議な静寂が流れた。 若子は修と西也の顔を順に見つめた。 ......昨夜のあの怒りが、ふと胸に蘇る。 このふたりには、本当に怒り狂いそうだった。彼らが無理やりに踏み込んできて、ヴィンセントに銃を向けたあの瞬間を思い出すだけで、胸がギュッと締めつけられる。 あのときは―文句のひとつやふたつじゃ済まさないって、本気で思った。 手術が終わったら、きっちり叱り飛ばしてやろうと。 ......でも。 今こうして、目の前にいるふたりの男は、どちらも申し訳なさそうに頭を垂れていた。 昨夜のことが嘘のように、静かに彼女の前で
若子は、ついにうんざりしたようにため息をついた。 修は視線を落とし、どこか寂しげに呟く。 「......わかった。じゃあ、言ってみて。お前の言葉、ちゃんと聞くよ」 あいつがまともな男だとは思えない。でも、若子がそこまで言うなら―せめて聞いてみたくなった。 「彼は......一週間だけ一緒にいてほしいって言ったの。ただ、ご飯を作ったり、掃除をしたり......それだけ。それ以上のことは何もなかったの。彼は私に何もしてない。傷つけたりなんて、絶対に......ただ、すごく寂しかっただけ。誰かに、そばにいてほしかったんだと思う」 若子はゆっくりとガラスの向こう―病室の冴島千景に目を向けて、静かに続けた。 「彼、昔......妹さんがいたの。でも、その子を亡くしてしまって......だから私を、妹のように見てた。それだけ。あなたが考えてるようなことじゃないの」 その言葉を聞いた修は、ようやく少し肩の力を抜いた。 ―少なくとも、若子が傷つけられたわけじゃない。それだけで、少しだけ安心できた。 「......じゃあ、あいつが目を覚ましたら?お前はどうするつもりなんだ」 「当然、看病するわ。命を救ってくれた人だもん。絶対に回復させてあげたい。どんな形であれ、私は......彼に恩を返したい」 その言葉に、修の胸にチクリとした痛みが走る。 「彼をそんなに心配して......じゃあ俺はどうなんだよ、若子」 思わず、彼女の腕を掴む。 「この前、お前が誘拐されたとき、俺だって命懸けで助けに行った。死にかけたんだ。それなのに、お前は遠藤を選んだ。あの時、俺がどんな思いで―!」 「......あなたが私に、その選択の余地を与えたの?」 若子の声が鋭く割り込む。 「確かに、私は西也を選んだ。でもそれは、選ばなければ誰も助からなかったから。あの時、どっちかを選べって言われたの。選ばなきゃ、ふたりとも死ぬって言われたのよ。 私は、何度も言ったよ。どっちを選んでも苦しかったって。本当は、私が死ねればよかった。でもそれは許されなかった。だから、あなたを傷つけたこと......謝りたかった。だから、あなたを探して、何度も会おうとした。 だけど、あなた......絶対に会おうとしなかったじゃない。私がどれだけ探しても、避け続けた。
若子は慌てて自分の体を見下ろした。 服は―ちゃんと着ていた。乱れもなく、整っている。修の方も、ちゃんと服を着ていた。 「......昨日の夜、私に......何かあった?」 「倒れたからさ、ここで休ませたんだ。すごくぐっすり眠ってたよ」 修は、彼女が不安がらないように、穏やかに説明した。 若子は自分の服を見つめた。どこもおかしくない。きちんとしてる。 「この服......着替えさせたの、あなた?」 修の表情が一瞬止まる。昨夜、自分がしてしまいかけたことが脳裏に浮かび、胸がきしんだ。あの時のことを思い出すだけで、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになる。 彼は若子の目をまっすぐに見られず、少し目をそらして答えた。 「......女の看護師に頼んだ」 若子はほっと息をついた。 やっぱり昨夜感じたあの感覚―誰かがキスしてきたような、全身が包まれたような、あれは......夢だったのかもしれない。 「......昨日の夜、ずっと一緒にいたの?」 「うん。お前の様子が心配だったから、ここにいた」 修の返事は短く、でもどこか優しかった。 若子は少し不思議そうな顔をした。何か聞こうとした瞬間、ふと思い出す。 「―そうだ、ヴィンセントさん!彼は無事なの?!」 「......一命は取り留めた。今はICUにいる」 その言葉を聞いた瞬間、若子は深く息を吐き、すぐにベッドから降りようとシーツをめくった。 「会いに行く。今すぐ」 彼女が部屋を出ようとすると、修もすぐに追いかけてきて、手を伸ばす。 「若子!」 彼女の腕を掴んだ。 振り向いた若子が問う。 「......なに?」 「今の状態じゃ、会えるわけない」 「外から見るだけでもいいの」 そのまま修の手を振りほどき、若子は病室を出ていった。 ICUに着いた若子は、硝子越しに千景の姿を見つけた。 彼はベッドに横たわり、身体中に医療機器が繋がれていた。心電図のモニターが、規則正しく音を立てている。 若子はそっと硝子に手を当て、ため息を漏らした。 「......ごめんね。私のせいで、こんなひどいケガをさせちゃって。ちゃんと治ってね......まだ、1万ドル返してないんだから......」 その呟きに反応したのか、後ろから修の声