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第936話

Author: 夜月 アヤメ
西也の心は―まるでとろけるようだった。

「暁、今の......パパに笑ったのか?もう一回、笑ってくれるか?」

声が震えていた。

嬉しくて、感動して、涙が出そうだった。

暁が笑ったのは、これが初めてだった。

しかも、それが自分に向けられた笑顔。

初めて、「父親としての喜び」を、はっきりと実感した瞬間だった。

これまでどれだけこの子を大切にしてきたとしても―

心のどこかで、わずかに隔たりがあったのは事実だった。

この子は、自分の子ではない。

修の血を引いている子だ。

若子への愛ゆえに、この子にも愛情を注いできた。

そうすれば、彼女にもっと愛されると思っていた。

けれど、今―

暁のその笑顔を見た瞬間、彼は心から思った。

―愛してる。

たとえ血の繋がりがなくても。

たとえこの子が修の子でも。

そんなことは、どうでもよくなった。

ただ、この子が笑ってくれれば―それだけで十分だった。

暁は再び笑った。

その澄みきった瞳が、きらきらと輝いていた。

笑顔はまるで小さな花が咲くようで、甘く香って心を満たしてくれる。

その笑い声は鈴のように澄んでいて、胸の奥まで響いた。

その無垢な笑顔は、生きることの美しさと希望を映し出していて、誰もが幸福に満たされるような魔法を持っていた。

「暁......俺の可愛い息子」

西也はそっと指先を伸ばし、彼のほっぺたを撫でる。

まるで壊れてしまいそうなほど繊細な肌に、細心の注意を払いながら。

「おまえは本当にいい子だ。パパの気持ち、ちゃんとわかってくれるんだよな......

ママは、わかってくれなかった......あんなに尽くしたのに」

暁は小さな腕をぱたぱたと動かし、雪のように白い手が宙を舞う。

まるで幸せのリズムを刻むように。

「......パパの顔、触りたいのか?」

西也は優しく微笑んで、顔を近づけた。

暁の小さな手が、ふわりと西也の頬に触れる。

その目には喜びと好奇心に満ちていて、純粋な視線でじっと彼を見つめていた。

まるで、この広い世界を初めて覗き込んでいるかのように。

恐れも、警戒もなく、ただまっすぐな瞳で西也を見つめる。

その瞳は、一点の曇りもない。あるのはただ、「知りたい」という気持ちだけ
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    若子の姿は血まみれだった。 自分の血じゃない、それでも―あまりにも生々しくて、見ているだけで胸がえぐられそうだった。 修はすぐに若子をひょいと抱き上げた。 「ちょっ......なにしてるの!?私はここにいる、彼を待たなきゃ」 「若子、手術はまだまだかかる。だから、まず体を洗って、着替えて、きれいになって......それから待とう。もし彼が無事に目を覚ましたとき、君が血まみれのままだったら、きっと心配するよ?」 若子は唇を噛みしめて、小さく頷いた。 「......うん」 修は若子をVIP病室へと連れて行った。ちょうど空いていた部屋で、すぐに清潔な服を持ってこさせた。まだ届いていなかったけれど― 若子はずっと泣き続けていた。 修は洗面台の前で、そっと後ろから若子を抱きしめるように支え、水を出しながらタオルを濡らして、彼女の手や顔を丁寧に拭っていく。 「いい子だから、じっとしてて。血、すぐ落ちるから」 「修......あんなに血が......彼の血、全部流れちゃったんじゃないの......?」 まるで迷子の子どものように、若子は震えていた。 「医者が輸血するさ。絶対に助けてくれる。若子、手を広げて、もうちょっと拭くから」 彼女の体からは生々しい血の匂いが漂っていて、魂まで抜けたように虚ろだった。 修はタオルで彼女の手、腕、顔を優しく拭い、そしてふと、手を伸ばして彼女のシャツのボタンに指をかけた―その瞬間、 「なにしてるの!?」 若子が慌ててその手を掴んだ。目には警戒と不安の色。 修は一瞬、固まった。そして......思い出した。 ―自分たちは、もう夫婦じゃない。 ただの錯覚だった。かつての関係に、心が勝手に戻ってしまっていた。 もう彼女に触れる資格なんて、ないのに。 それでも、腰にまわした腕は......なかなか離せなかった。 しばらく見つめ合ったあと、若子は静かにタオルを取り、赤く染まったそれを見つめた。 「......自分でやるから。もう出て行って」 修は小さく息を吐き、名残惜しそうに腕を離した。 「......わかった。外で待ってる。何かあったら呼んで」 若子はこくんと頷く。 修は浴室を出て、ドアをそっと閉めた。 鏡の前で水を浴びた若子は、腫れ上がった

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    確かに、修もヴィンセントに銃を向けた―でも。 あの時、若子の目に映った修の目は......あんな狂気に満ちたものじゃなかった。 しかも、あの場面で修は西也を止めていた。もし本気でヴィンセントを殺すつもりだったら、止める理由なんてなかったはず。 だから、若子は......修を選んだ。 黙り込む若子に、修がそっと問いかけた。 「若子......まだ答えてないぞ。俺のこと、信じてないって言ったのに、どうして俺を選んだんだ?」 「......もう、聞かないで」 若子はうつむいて、ぽつりと呟いた。 「ただ、その場で......なんとなく、選んだだけ。深くは考えてなかったの」 西也のことをここで悪く言うつもりはなかった。あれは彼女の個人的な「感覚」に過ぎない。言葉にするには、曖昧すぎる。 修は深く息を吸い込み、しばらく黙ったまま天井を見つめていた。 「......わかった。もう聞かないよ。でも、若子......もし、こいつが死んだら......お前は、どうするつもりなんだ?」 「そんなこと言わないで!彼は、死なない!絶対に、死なないんだから!」 「でも......」 修の口から出かけた言葉を飲み込む。 ヴィンセントの状態は、正直、絶望的だった。助かる可能性は限りなく低い。でも―今の若子に、それを突きつけるなんて......できなかった。 西也だけでも、十分に厄介だったのに、そこへ現れたヴィンセント。命を賭して彼女を守ったこの男。 一方は陰険で冷静な策士、もう一方は命を投げ出す危険人物― 修の胸は、重く沈んだ。 この泥沼の関係、一体いつ終わるのか。 そして― ―侑子は大丈夫だろうか...... 自分が出て行ったとき、きっと彼女は傷ついていた。放っていくしかなかった自分の無力さを噛み締めながら、彼はただ、唇をかみしめた。 侑子に対して抱くのは、情と同情。 でも―若子に対しては、愛。どうしようもなく、深い愛。 ようやく車が病院に到着し、すでに待機していた医療スタッフが慌ただしく駆け寄ってきた。 ヴィンセントはすぐさま担架に乗せられ、ベッドごと手術室へと運び込まれる。 手術室のランプが点灯する。 若子は、血まみれの服のまま、外で立ち尽くしていた。 震える手を見つめると、そ

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第961話

    ―どこで、何が、狂ったんだ? 自分の気持ちが足りなかったのか、行動が空回りしていたのか。 西也の体は力なく落ちていくように崩れ、まるで希望ごと奪われたようだった。 拳を握りしめ、爪が肉に食い込む。 ―こんなはずじゃない。絶対に違う。 やっと若子との関係がここまで進んだのに。なのに、あの「ヴィンセント」とかいう男が、どこから湧いて出た?全部ぶち壊しやがって......! ―許せない。 ...... 夜の闇が、防弾車の車内を静かに包み込む。 漆黒のボディはまるで鋼の獣のように、無音の闇を進む。金属の冷たい光をちらつかせながら、獲物を守るように― 若子はヴィンセントを腕の中でしっかりと抱きしめていた。その瞳には、計り知れないほどの不安が滲んでいる。 車内には、血に染まった止血バンデージが散乱し、痛ましい光景が広がっていた。 窓の外では、夜の都市が幻想的に流れていく。ぼんやりと浮かぶ高層ビル、にじむ街灯、歩く人々の影―けれど誰にも、心の奥底の混乱と恐怖までは見えやしない。 修はその隣で、無言のまま座っていた。表情は険しく、苦しみと焦りが混じったような沈痛な面持ち。眉間のしわ、蒼白な頬―まるで、荒れた海に浮かぶ小舟のような無力さを纏っていた。 「冴島さん、お願い、耐えて......お願いだから、死なないで」 若子は必死にヴィンセントの体温を確かめ、冷えた身体を自分の上着で包み込む。 「お願い......死なないで」 ヴィンセントはすでに意識を失っていて、呼吸もかすかになっていた。 「もっとスピード出して!急いで、お願いっ!」 「若子、もう限界だよ。全速力で走ってる。医療班には連絡済み、もうすぐ到着する」 若子は震える手でヴィンセントの前髪を撫で、ポロポロと涙を落とした。 「ごめんね、ごめん......」 その姿に、修は耐えきれず口を開いた。 「若子、それはお前のせいじゃない。謝る必要なんてないよ」 「黙って!!」 若子の声が鋭く響く。 「もしあの時、いきなりあの部屋を爆破して踏み込まなければ......ヴィンセントさんはこんな目に遭わなかった!私はあなたを信じてた。なのに、あなたは私の想いを......裏切った!」 「でも、俺は今、彼を助けようとしてる。お前だって、俺に

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第960話

    「はいっ!」 部下たちが一斉に動き、ヴィンセントを受け取ろうと前へ出る。 修はすぐに若子の前に立ち、きっぱりと言った。 「若子、ヴィンセントは俺に任せて。安全な病院を知ってる。そこの医者は通報なんてしない。俺が責任を持って、彼のことを秘密裏に処理する」 そう言うと同時に、修は部下にさりげなく目配せをした。 すると―場面はまるでコントのような奇妙な空気に包まれた。 なんと、修と西也、ふたりの陣営がヴィンセントを奪い合い始めたのだ。 「遠藤、お前は引っ込んでろ。今は命を救うことが先決だ。俺には医療のリソースがある」 「お前にあるなら、俺にもある。なめるなよ?俺だって安全な病院にコネがあるし、信頼できる医者もいる。若子、俺にヴィンセントを預けて!」 「若子、信じるなよ、遠藤なんて!彼は腹黒い。ヴィンセントを死なせるぞ。俺なら絶対に助けられる!」 「若子、やめとけ。こいつのことなんて、もう信用できないだろ?こいつが前にお前にしたこと、忘れたのか?」 修と西也、互いに一歩も引かずに言い争いを続ける。 ......もう、ぐちゃぐちゃだった。 「全員、黙りなさいっ!!」 若子の怒声が、あたりを震わせた。 こんな大事な時に、男たちが口げんかしてる場合じゃない。彼女は真っ直ぐに修を見つめた。 「修......最後の最後に、あなたを信じる。ヴィンセントさんを任せるから、絶対に、最善の医者に診せて。彼を助けて」 修は深く頷き、安堵の息を吐くと、自らの腕でヴィンセントを抱き上げた。すぐに部下たちが受け取り、彼を連れて足早に去っていく。 若子も、そのあとを追った。 「若子!」 西也が焦って駆け寄り、叫ぶ。 「どうしてこいつに預けたんだ!?こいつは絶対に、ヴィンセントを殺す!信じちゃダメだ!」 「......さっき、彼はあなたに殺されかけたのよ」 若子は西也の手を振り払い、きっぱり言い放った。 「もういいの。これ以上話したくない。今は彼を救うことだけが私のすべてよ。だからお願い、放っておいて」 混乱と疲労で頭が真っ白だった。何もかもが絡まりすぎて、考える余裕もない。ただひとつ―ヴィンセントの命を救う、それだけだった。 それ以外のことは、あとで考える。 西也は呆然としたまま、若子が自分の手

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第959話

    今の若子には、他のことなんてどうでもよかった。たとえ医者が警察に通報しても、しなくても、彼女が望んでいるのは―ヴィンセントを、生かすこと。 彼がここで死んでしまったら、すべてが終わってしまう。 ヴィンセントは手を上げて、そっと若子の頬に触れた。涙を指でぬぐいながら、弱々しく笑う。 「泣くなよ......どうせ、俺たちそんなに親しくもないし。俺が死んだって、別にいいだろ」 「だめ!絶対にだめ!ヴィンセントさん、お願い、生きて......生きてよ、頼むから!」 「俺が死ねば、妹のところに行ける。だから......そんなに悲しむな。あのふたりの男、君のことすごく愛してるみたいだな。でもさ......俺は、君には幸せでいてほしい。誰かに愛されてるからって、それに縛られなくていいんだ。松本さん、男なんて、あんまり信じるなよ」 「冴島さん、目を開けて!ねぇ、お願い、開けてってば!」 若子は震える手でヴィンセントの瞼を押し開こうと必死になった。 そして、奥歯を噛み締めながら、全力で彼の体を背負い上げる。 「病院に連れてく!絶対に死なせない、私が死んでも、あなたは生きるの!マツだって、きっと同じ気持ちよ!」 そのとき、修がやっと我に返って駆け寄った。 「若子―!」 「来ないでっ!!」 若子は振り返って怒鳴りつけた。 「触らないで、修!あれだけ『撃たないで』って言ったのに、どうして聞いてくれなかったの?なんで私の話を、無視するの!?西也、あんたもよ!何も知らないくせに、勝手に撃って......ひどいよ、ふたりとも、ひどすぎる!」 怒りと絶望が入り混じった叫び声は、途中で息が続かなくなるほどだった。目には怒りの火が灯り、血の気の引いた顔には氷のような冷たさが宿っていた。彼女のその表情に、沈霆修も西也も言葉を失う。 ―まるで、憎しみを湛えているみたいだ。 「若子、俺だって、助けたかったんだよ......」西也は慌てたように言った。「この男が、まさかお前を助けたなんて......そんなの知らなかったんだ!これは、全部、誤解なんだよ!ワザとじゃない、信じてくれ!」 「どいて、もう何も話したくない。どいて!」 彼女の体は小さくても、気迫は誰にも負けなかった。全身が血と汗にまみれても、彼を背負って一歩一歩、出口へ向かおう

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