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第937話

Author: 夜月 アヤメ
「暁―忘れるなよ。『藤沢修』、その名前を覚えておけ。あいつは、おまえの仇だ」

......

夜が降りた。

病院は静まり返り、あたり一面が闇に包まれていた。

窓の外には星が点々と浮かび、真珠のように建物の屋根を彩っていた。

やわらかな月光が屋上からゆっくりと差し込み、建物の輪郭を静かに浮かび上がらせる。

白い病室。

修は、真っ白なシーツに身を包まれてベッドに横たわっていた。

消毒液の匂いが、空気を支配している。

ベッドの脇には点滴が吊るされ、透明な液体が少しずつ彼の身体へと流れ込んでいた。

穏やかな灯りが、彼の青ざめた顔に落ちる。

その表情には、深い疲労と痛みがにじんでいた。

修は、目を開いた。

視線をさまよわせ、室内を確認する。

ゆっくりと身を起こし、点滴に目をやると、まだ半分ほど残っていた。

そのとき―病室のドアが開いた。

ひとりの外国人の男が入ってくる。

「藤沢さん、目が覚めたか」

「......見つかったか?」

修の声には焦りがにじんでいた。

男は首を振った。

「いや、まだだ。他の場所も順番に探してる」

修の瞳から、いつもの鋭さは失われ、暗く沈んでいた。

眉間には深い皺が刻まれ、重たい悔恨が彼の表情を支配していた。

彼は視線を落とし、口元に力なく笑みを浮かべる。

―なぜあのとき、追いかけなかったのか。

若子を、あんなふうにひとりで行かせるべきじゃなかった。

夜の道を、彼女ひとりで運転させるなんて、自分はなんて馬鹿なんだろう。

どんな理由があろうと、あのとき引き止めて、一緒に行くべきだった。

侑子が怪我をしたからって、あそこで立ち止まるべきじゃなかったんだ。

すぐに追いかければ、若子に何か起きることもなかったかもしれない。

彼は、若子を恨んでいた。

あの瞬間、彼女が選んだのは自分ではなく、西也だったから。

でも今―

彼が選んだのは、侑子だった。そして、その選択が若子を傷つけた。

あのとき、彼にとっては難しい決断ではなかった。

もしすぐに若子を追いかけていれば、侑子に危険は及ばなかったはずなのに。

修は、自分が彼女を追わなかったことを、心の底から憎んだ。

その瞳には、痛みの波が渦を巻いていた。

まるで深い夜の湖
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