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五節 「最期の日」

Author: 桃口 優
last update Last Updated: 2025-05-12 04:06:09
 彼女を看取る日がやって来た。

 天気は驚くほどにいい。

 今日彼女が死ぬ。

 それはどうしようもできない現実なのだ。

 今日は少しだけ日差しが優しい気がする。

 いつものように朝の挨拶をしたけど、彼女の返事はもう声になっていなかった。

 それでも笑顔を作ろうとする彼女が痛々しかった。

 気を使わなくていいと思った。

 彼女はいつも平気そうな顔をしている。

 その行動が余計に僕の胸を苦しめた。

 そして、それはある人と被るのだけど、僕は意識してその感情を今は心に奥にしまった。

 今思い出したら、きっと彼女を看取ることに全神経を向けられないから。

 僕は頬を叩き、彼女の方を向いた。

 彼女はこの頃食事もとらないし、一日寝ていることが多い。

 学さんの顔がいつでも見えるように、ベットの近くに写真を置いてある。

 僕はいつものように声をかけた。

「淑子さん」

 声をかけることが、彼女を孤独から救う手段だと思ったから。

 まだ僕は孤独についてほとんどわかっていないけど、本心から彼女にそうしたいと思った。

 ちなみに、最期の瞬間を病院ではなく、家で迎えたいと思う人が割合的にかなり多い。

 今では彼女の意思はわからないけど、彼女もきっとそう言うだろうとわかった。

 この家はご主人との思い出がたくさん詰まっているだろうから。

 もっと早くに彼女と出会いたかったなという気持ちが今更になってわいてきた。

 それでも、僕は再度彼女の顔を見た時、彼女に出会えてよかったと思った。

 それは、綺麗事じゃない。

 彼女は愛のために生きようとしていた。

 その思いを、ちゃんと感じることができたのだから。僕は彼女のそばにいられて本当によかった。

 彼女の思いを胸に抱え、僕は彼女に語りかけた。

 彼女が僕に向けてくれる優しい笑顔を思い浮かべながら、それをまねた。あなたは独りじゃないという思いを言葉に込めた。

「淑子さん、学ぶさんときっと会えますよ。次会えたら好きだと言ってくれますよ」

 人が聞けば、なんの根拠もないと思うだろう。

 無責任だと感じる人もいるかもしれない。

 でも、彼女に希望を与えることはおかしなことではないと僕は思っている。

 そして、僕は二人の愛を信じている。

 彼女の目から涙がすーっと落ちた。

 僕は、彼女の手に優しく手を添えた。

「今よりも幸せになってくださいね」

 太陽の
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