玄武は十一郎を伴って北冥親王家に戻った。十一郎は紫乃が相変わらず明るく振る舞う様子を目の当たりにし、少し安堵の息をついた。昨夜、棒太郎が衛所に駆け込んできた時は本当に肝を潰した。すぐさま部下を召集し、馬を飛ばすように現場へ向かった。最初は叱りつけるつもりだったが、笑顔の下に潜む充血した瞳を見て、彼女も相当な恐怖を味わったのだと悟り、言葉を飲み込んだ。ただ、燕良親王の現状について説明した。怪我の他に、文之進の激しい制裁により、もはや男としての機能を失ったことも。紫乃は昨夜の一件で、弟子たちが城外まで駆けつけてくれたこと、特に文之進が実力行使に及んだことを知った。胸に込み上げる感動と切なさ。弟子の中で最も出世に執着していたはずの文之進が、その時は全てを投げ打って、自分の恨みを晴らそうとしてくれたのだ。叱責は控えめにしつつも、十一郎は優しく諭した。「どんな相手と出会っても、どんな事態に直面しても、冷静さを失うな。特に、下心があると分かっている相手には要注意だ。何を言われても、何をされても、安易に信じてはいけない。判断に迷ったら、義兄の私でも、親王様や王妃様、有田先生でも相談するんだ」「はい、義兄様」紫乃は素直に頷いた。十一郎は彼女を見つめ、心からの賛辞を送った。「今回は危うい所だったが、無事で何よりだ。最近の工房設立に向けての奔走ぶり、お前の功績は大きい。義兄として、本当に誇りに思うよ」十一郎は紫乃の義侠心と忠義の精神をよく知っていた。だが、そういう人間は大抵、大きな理想を語るばかりで世を変えようとし、身近な人々の苦しみには目を向けないものだった。紫乃も王妃も実践的だった。遠い理想は置いておき、目の前の人と事に向き合い、できることから始める。それは日々理想を語るよりもずっと価値があった。以前なら、紫乃はこのような褒め言葉に有頂天になっていただろう。しかし今回の出来事を経て、自分の力を過信していたこと、何でも対処できると傲慢に構えていたことを痛感していた。さくらには言えなかったことがある。かつて燕良親王邸に乗り込んで、燕良親王を懲らしめてやろうと考えていたことだ。行かなくて本当に良かった。今でも背筋が寒くなる。さくらが何度も止めてくれなければ、きっと行動に移していただろう。梅の館では、さくらが玄武に冷やした梅干
湯気が立ち込める湯船で、二人を包み込む。湯加減は熱すぎず、心地よい温度だった。さくらは自分なりに反省していた。玄武の怒りは、紫乃を追って都を出た自分の無謀な行動にあるのだろう。彼の胸に両手を当て、静かに言葉を紡いだ。「あの時は急いでいて、紫乃が危険な目に遭うかもしれないから、つい……あの子は私のために都に来てくれたのよ。いつも私のことを支えてくれる。傷つけられるなんて、見過ごせなかったの」優しい声音に謝意が滲み、湯気で紅潮した顔には、申し訳なさと恥じらいが混ざっていた。少しかすれた声は、まるで柔らかな羽が心を撫でるよう。玄武は思った。深水師兄は本当に厄介な存在だ。自身独り身で、何が恋愛か、何が夫婦の絆か分かるというのか。人の縁を取り持とうなどと、随分と手前勝手な話だ。そんなことは些末な問題だ。目の前の現実こそが大切なのだ。さくらは自分の妻であり、その心も体も、全てが自分のものなのだ。二人は夫婦として共に暮らし、北冥親王家を我が家とし、同じ門をくぐり、同じ寝所で眠る。死後は同じ陵に葬られ、生々世々に渡って共にある。そんな二人なのに、何を拗ねているのか。些細な嫉妬など意味がない。自分を苦しめ、彼女を不安にさせるだけではないか。玄武は彼女の柔らかな腰に両手を回し、身体を寄せた。「怒ってなんかいないよ。紫乃を助けに行ったのは正しい判断だった。よく考えてみれば、お前の対応に一点の非もない。禁衛府の指揮官として、部下も動かせる立場だし、周到な手筈も整えていた。私の助けが必要なら、部下が声をかけてくれたはずさ。実際、城門を封鎖する時も、禁衛府が私を探し出したじゃないか。私が早く知ろうが遅く知ろうが、大した違いはない。私が行かなくたって、お前は解決できた。禁衛府も動くし、十一郎も呼べた。だから謝る必要なんてないんだ」「それに、私が着く前から、すでに芝居は整っていた。私が加わったのは錦上花を添えただけさ。私がいなくても、同じように事は運んでいただろう」さくらは濡れた睫毛を上げた。「違うわ。あなたが来てくれて、やっと安心できた。あんなに大勢の前で、紅羽と緋雲が人質に取られて……私一人じゃ、もしかしたら長く持ちこたえられなかったかも。来てくれて良かった」玄武は彼女の愛らしい頬をそっと撫で、目に笑みを湛えた。「私が行かなくても、禁衛府が来ただろう
楽章はひじ掛け椅子に腰を下ろし、片足を立てて肘を膝に載せながら、二人を怪訝そうに眺めた。「本当にそんなに疲れているのか?元気がないようだが。帰ってきたなら、まず何か食べるべきだろう?」玄武とさくらは互いに顔を背け、それぞれ咳払いをした。「食事は済ませた」玄武は幾度か咳き込んでから答えた。「確かに疲れが……ええと、そう、一晩中の騒ぎで、それに参内もあって、戻ってきて湯浴みまでして……や、やはり、疲れが出たようだ」楽章は眉をひそめてさくらを見た。どうしたことか。この師弟がどもりでもしたか?「あの、五郎師兄はお食事はもう?」さくらは彼の奇妙な視線を避けながら尋ねた。「ああ、昨夜から今まで三度な」途端に楽章の表情が明るくなった。「それにしても梅田ばあやの水餃子は絶品だった。どんな珍味よりも美味いな」「ええ、本当に美味しかったわ」さくらは頷きながら、彼の手にある銅のような物に目を向けた。「それは火銃?」「その通り。師匠の新作でな。師弟に届けてほしいと。兵部で量産の可能性を検討してもらうためだ」玄武の目が一気にその物に釘付けになった。この火銃は今までと違う。延長部分が付き、何やら機関のような引き金もある。それに、導火線も見当たらない。「この火銃はどう改良したんだ?二発、三発と連続して撃てるのか?」玄武が食い入るように尋ねた。「六発だ。火薬式で、導火線も要らない。引き金を引くだけで……」楽章は火銃を分解しながら説明した。「発火装置が組み込まれている。普通のは三発だが、これは六発撃てる。三発式は師匠が何年か前に完成させたんだが、三発じゃ足りないと。六発が丁度いいってな。だから六眼銃と呼んでる。師匠は十眼銃まで作りたいらしいが、まだ研究中だ」「六発だと?」玄武の疲れも眠気も一気に吹き飛んだ。急いで近寄り、手に取って見入った。これまで火銃にはあまり興味を示さなかった。使いづらく、銃身が破裂する危険もあり、緊急時に導火線に火をつける手間も要る。伏兵ならまだしも、実戦では役に立たなかったのだ。「射程はどのくらいある?」「かなり遠くまで届くそうだ。ただ、具体的な距離は師匠も測ってない。親王家で測ってくれと言っていた」「五郎師兄、試してみませんか」玄武は組み立て方が分からず、輝く瞳で楽章を見つめた。楽章は再び組み立て始めた。「あの林で一度
一同が目を丸くして驚愕する中、楽章はさほど感慨深くもない様子だった。梅月山では既に散々見てきたし、破壊も数知れず。もはやこの道具に好奇心は抱かない。ただ、師匠が玄武とさくらの役に立つと言い、命を守る術になると聞いたから、持ってきただけだった。玄武が自ら試してみたいと言うと、楽章は快く指南した。今度は的ではなく、三十丈の先、さらに二十丈ほど先にある岩を狙った。玄武は弓術の心得があり、目も確かだったため、照準器は却って邪魔だった。そのまま構えて発射する。衆人環視の中、弾は外れ、大岩から一丈ほど手前の草地に着弾した。しかし玄武の興奮は収まらない。五十丈だ。五十丈まで届くのだ!これは何を意味するのか?敵将が五十丈先にいても、一発で首を吹き飛ばせるということだ。興奮が収まると、ある疑問が浮かんだ。火薬弾を撃ち尽くしたら、その後はどうするのか?楽章は玄武の心を見透かしたように、悠然と一冊の帳面を取り出した。「全部ここに書いてある。配合通りに作ればいい」玄武は帳面を受け取るなり、さっと開いた。一目見ただけでは内容が理解できなかったが、問題ない。兵部には武器の専門家がいくらでもいる。この六眼銃を兵部大臣の清家本宗に見せてやろう。あの老狐に新しい玩具を見せてやるのだ。一同が見守る中、玄武は馬に飛び乗り、誰にも一言も告げずに颯爽と駆け去った。有田先生は行き先を察していたのか、追いもせず問いもしなかった。代わりに拓磨と共に草むらを調べ始めた。焼け焦げた芒を見つけては、「素晴らしい、本当に素晴らしい」と感嘆の声を上げていた。兵部の役所では――清家本宗の目の前に玄武が旋風のように現れた。清家は目の前が光ったかと思うと、よろめきながら引っ張られていた。北冥親王とも分からず、誘拐されたかと思ったほどだ。役所の中庭に着くと、玄武は興奮気味に火銃を差し出した。「これを見てください、これを!」清家は引きずられて目が回っていた上に、胸に鉄の棒を突きつけられ、肋骨が折れるかと思った。深い息を何度か吸って、「お静かに。これではいかにも品位に欠けますな」しかし火銃を手に取ると、一瞬の戸惑いの後、目が輝きだした。そして三度の呼吸も待たずに、見事に分解してみせた。さすがは兵部大臣、徒な役職ではない。武器庫の全てを知り尽くした者の手際であった。
しかし清家は一つの懸念を抱いていた。この六眼銃はまだ十分な実験を経ていないため、大々的に宣伝するわけにはいかない。北冥親王が試し撃ちをしたと言っても、一度の実験では確実性に欠ける。銃身が裂ける危険を最小限に抑えるため、さらなる試験が必要だと考えたのだ。まるで夢でも見ているかのように、清家は銃を丹念に観察し、何度も手で触れた。「導火線なしで発射できるとは、なんという利便性だ。神弓営や伏兵営を編成できる。この神器があれば、もはや恐れるものなどない」銃を抱きしめながら、清家は喜びと感動で涙を流した。「お堅い話で恐縮ですが、我が妻と比べてもこちらが正室でしょうな。どうして側室を迎えぬと?家内を恐れているなどと思われては困る。私の心には常に一つの座が空いている。それはこの正室のためにね」玄武は微笑んで言った。「それが正室なら、十眼銃は?大砲は?」「なっ……何と?」清家は震える唇で尋ねた。「大砲とおっしゃいました?北森のあの大砲のことですか?」玄武は音無楽章のような物腰で、ゆっくりと懐から帳面を取り出した。「ほら、全部ここにある。まずはご覧になってください」清家は帳面を奪うように受け取ると、貪るような目で一枚一枚めくっていった。最後まで確認したものの設計図は見当たらず、少々落胆の色を見せた。だが、それも束の間のことだった。製造方法の記載があれば、じっくりと研究することができるのだから。「おお、これは先祖の御加護!」清家は帳面を握りしめ、思わず玄武に抱きついて泣き出した。「平和は絵空事ではなくなる。戦がなければ、我が大和国が栄えぬはずがない!」玄武も清家の感激を理解していた。六眼銃が五十丈先まで届いた時は、自分も飛び上がるほど興奮したのだから。無論、砲車が完成すれば、さらに強大な力となるだろう。玄武は師匠の言葉を思い出していた。師伯が火薬と花火の実験に没頭するあまり、自身の院を爆破してしまったという話だ。おそらく六眼銃の開発中に、砲車の試作も行っていたのだろう。帳面には確かに大砲の製造法が記されているものの、完成された技術とは言い難い。師伯も試行錯誤の最中だったに違いない。だが、今は六眼銃だけでも十分だった。「厳秘中の厳秘です」清家は涙を拭いながら、凛とした眼差しで言った。「実験と量産体制が整うまでは、絶対に漏らしてはなりません
天皇は興奮のあまり、その後の影響を考えていなかった。菅原陽雲の先祖である菅原義信は確かに異姓王であったが、その世襲はすでに終わっていた。新たに王位を授けるとなれば、天下に示せるほどの功績が必要となる。六眼銃の量産体制も整っていない上、神火器部隊もまだ設立されていない今、王位を授けるのは時期尚早だ。梅月山へ余計な目が向けられては厄介なことになる。「そうだ、その通りだ。王位の件は今は見送ることにしよう」清和天皇の目は輝きを増した。玄武にとって、陛下の即位以来、これほどまでに目が輝いているのを見たことがなかった。天皇は六眼銃の威力を自らの目で確かめようと、玄鉄衛に冷宮の封鎖を命じ、人の出入りを厳禁とした。広大な冷宮には、今は誰も住んでいなかった。先帝が崩御の際、慈悲深くも冷宮の女性たちを皇家の尼寺へ移させたのだ。冷宮の壁が六眼銃の一撃でほぼ貫通したのを目の当たりにし、天皇は言葉を失った。「鋼球を使うことは可能か?」天皇が尋ねた。「可能でございます」清家は答えた。「ですが、まだ最大の威力を把握しきれておりません。兵庫の主事と武器匠に詳しく研究させます」清家は帳面の内容をある程度理解していた。最も威力があるのは火薬弾で、敵に命中すれば炸裂し、より大きな損傷を与えられるという。「よかろう。この重責を汝に託す。だが、信頼できる者のみを用いよ」天皇も緊張した面持ちだった。この至宝を最大限活用したいという思いと、他者の垂涎を恐れる不安が交錯していた。「御意」清家は厳かに命を受けた。天皇は再び帳面を繰り、その内容に目を通した。書き記された文字には混乱した部分もあれば、修正された跡もある。思考の過程が随所に表れており、菅原陽雲が何一つ隠さず、大砲の構造まで含めて全てを明かしたことは明白だった。ただ、設計図だけが惜しくも欠けていた。天皇は思い巡らせた。陽雲は愛弟子の上原さくらを何より大切にしている。玄武も万華宗の出身だ。夫婦とはいえ、二人とも朝廷に仕える身でありながら、その本質は武将なのだろう。戦が起これば、必ずや戦場に赴くことになる。少なくとも、陽雲はそう考えているに違いない。だからこそ何も隠す必要はなく、むしろ研究に励むのも、さくらと玄武が戦場で傷つくことなく、勝利を収められるようにという思いからなのだろう。退出後、清家は浮き
この数日間、街中で持ち切りになっているのは燕良親王家の醜聞ばかり。沢村家の娘のことは、誰一人として口にする者はいなかった。紫乃の弟子たちも黙ってはいなかった。師匠の名誉を貶めようとする者などいなかったが、紫乃と沢村氏が従姉妹という話題が出ただけでも、彼らは即座に反論に出向いた。「姉妹だからって?とんでもない。別の親から生まれた従姉妹であって、しかも既に他家に嫁いでいるのだ。沢村家とも沢村紫乃とも何の関係もありはしない」西山口での一件について、天方十一郎も調査を進めていた。確かに目撃証言によると、意識朦朧とした様子の娘が何人かの男たちに連れ去られるところを見たという。農具を手に取って助けようとした村人もいたそうだが、いずれも娘の顔ははっきりと見えなかったと証言している。日が暮れかけていた上、娘は激しく抵抗したらしく、髪が乱れて顔が隠れていたという。娘の素性が特定できなかったことに、十一郎はかえって安堵の胸を撫で下ろした。一方、燕良親王家は民衆の怒りを真っ向から受けることとなった。天皇自らが譴責の詔を下したことからも、事の重大さは明らかだった。これにより、民衆は権力者への不満を吐き出し、その怒りを鎮めることができた。同時に、皇叔である燕良親王であっても擁護することなく裁いた天皇の英明さを、人々は賞賛したのである。燕良親王の股間の傷は日増しに悪化の一途を辿っていた。その原因の一つは、彼の強情な性格にあった。自分の不能が本当なのかと疑い、艶本を広げては確かめようとする度に、傷は深刻さを増していった。都の名医をことごとく呼び寄せようとしたものの、実際に診察に訪れる者は少なかった。御典医だけは幾人か来てくれたが、これもひとえに燕良親王という身分と、榮乃皇太妃が事態を知って太后様に取り成しを頼んだからこそであった。御典医たちの診立ては一様で、現状では回復は極めて難しく、わずかな望みがあるとすれば、丹治先生の診察を仰ぐことだけだという。燕良親王は苛立ちながら、無相と金森側妃に丹治先生を呼びに行かせた。もし失敗したら榮乃皇太妃に頼むしかないと言い放った。しかし、運の悪いことに丹治先生は昨日、百年に一度しか咲かないという薬草を採りに都を離れたところだった。薬王堂の者の話では、戻るまでには半月ほどかかるという。半月後?その頃には手の施しよう
無相は数日間熟考の末、燕良親王に進言した。「親王様は当分の間、傷の養生で都を離れられぬでしょう。しかし、燕良州を長く留守にしており、淡嶋親王様が実権を握っておられます。このままでは燕良州を乗っ取られかねません。私めが先に燕良州へ戻る必要がございます」その言葉に燕良親王は一瞬驚きの表情を見せた後、怒りを露わにした。「何だと?このような有様で私を置き去りにして燕良州へ戻るというのか。この混乱を誰が収めろというのだ」無相は予想通りの主君の怒りに、平静を装って説明を続けた。「親王様、現状は如何様にも好転し難い状況です。ですが、親王様は養生に専念なさってください。世間の噂も数日すれば収まるでしょう。都に留まられている間、私めが淡嶋親王様と今後の対策を協議して参ります。我々の死士の半数が敵の手中に落ちた今、新たな策を練り直さねばなりません。それに」無相は声を落として続けた。「燕良州を淡嶋親王様に任せきりで、本当によろしいのでしょうか」燕良親王は確かに不安だった。だが、この窮地を一人で乗り切る自信もない。そのもどかしさが更なる怒りとなって表れた。「それに」無相は更に続けた。「沢村家から破門された王妃様のことも考慮せねばなりません。もはや沢村家との姻戚関係は途絶えました。彼らの軍馬も、武器も、資金援助も望めません。別の手立てを考えねばなりませんが、時間との戦いです。これだけの兵を養うには日々莫大な出費がかかります。大長公主様からの資金提供も途絶えた今、私めが燕良州に戻り、何としても打開策を見出さねばなりません」不能な体になってしまった現実は、燕良親王の誇りと自信を完全に打ち砕いていた。無相の提案に即座には首を縦に振らず、数日の猶予を求めた。清和天皇からの新たな詔が下されるかもしれないと様子を見たかったのだ。本当の懸念は別にあった。もし誰かが適当な娘を連れてきて、自分に汚されたと言い出したらどうする。そんな時、無相がいなければ誰が知恵を貸してくれるというのか。無相は王の不安を察すると、心中で深い溜息をつきながら諭した。「親王様、そのようなことは決してございません。あの事件の被害者は沢村紫乃。彼らは必死になってこの事実を隠そうとしております。女学校や工房を設立し、女性の権利を守ると標榜している彼らが、どうして無実の娘を世間の噂の的にするでしょうか。それは
さくらと紫乃は宮を後にすると、紫乃は工房へ、さくらは女学校へと向かった。以前、斎藤礼子に警告を与えたばかりだった。これ以上問題を起こせば退学処分にすると。しかし、束の間の平穏はすぐに崩れ去ったようだ。国太夫人はさくらを見るなり、礼子の件で来たことを察した。「あの子には学ぶ意志がないようです。自ら退学するよう促してはいかがでしょう。縁談の話も出ている娘のことです。穏便に済ませた方が……」斎藤家など恐れるはずもない国太夫人だが、礼子のことを真摯に案じているのは確かだった。雅君書院から追い出されれば、その評判は取り返しがつかないだろう。国太夫人は若い娘たちへの情が深かった。良縁に恵まれなければ、一生を棒に振ることになりかねない。それを誰よりも知っていた。「そう焦らずとも」さくらは穏やかに答えた。「まずは事の次第を確認してから、本人と話をさせていただきます」「大きな問題というわけではないのですが……」国太夫人は溜息交じりに説明を始めた。「あの子と仲間の娘が授業の邪魔をして。特に玉葉先生の講義中はひどい。下で騒いで、皆の顰蹙を買っているんです。玉葉先生も困っておられます。まだお若いので、こういった事態の対処に慣れていないものですから」さくらは思った。相良玉葉は対処法を心得ているはずだ。ただ、この妨害行為が単なる個人的な問題ではなく、女学校の存続そのものを望まない者の仕業かもしれないと察していたのだろう。そうなると、一教師の判断で軽々しく動けるものではない。さくらが玉葉を訪ねようとした時、偶然、斎藤礼子が親友の向井玉穂と赤野間羽菜を連れて中にいるのを目にした。意外なことに、彼女たちは謝罪に来ていたのだ。礼子を先頭に、三人は玉葉に向かって深々と頭を下げた。悔恨の表情を浮かべ、言葉には誠意が溢れていた。「これまでの私の不埒な振る舞い、先生にご迷惑をおかけして申し訳ございません。どうかお叱りください。今後二度とこのような行為は致しません。どのような罰でも、写経でも手の平打ちでも、甘んじて受けさせていただきます」さくらは部屋には入らず、入口から様子を窺っていた。この突然の改心を、さくらは信じなかった。騒ぎを起こしていた生徒たちが、何の前触れもなく悔い改めるなど、不自然すぎる。裏で何かを企んでいるか、誰かに指示されているかのどちらか
激怒した皇后は、手元の茶碗を叩きつけた。「いつも邪魔ばかり。まったく目障りな存在ね」「でございますね」蘭子は静かに進言した。「太后様の勅命で女学校を創設し、雅君女学の塾長となられてから、京の奥様方の間で持て囃されておりまして。今や都の貴族半数の婦人方が一目置いているとか。簡単には手が出せませぬ」皇后は冬至の日のことを思い出していた。あの時、参内した貴婦人たちが揃って上原さくらを褒め称えていた。夫婦仲の良さを賞賛し、その才覚と手腕を誉め、女性の鑑だと持ち上げていた。彼女が女性の鑑なら、皇后である自分は何なのか。その思いが、さらなる憎悪を掻き立てた。「太后様は以前、葉月琴音こそが女性の鑑だとおっしゃっていたのに。今や自分でその称号を得て、恥ずかしくもないのかしら」「皇后様」蘭子は慎重に言葉を選んだ。「今は確かにあの方が世間の注目を集めておられます。しかし、風が吹けば桶屋が儲かるとはよく言ったもの。今この時期に敢えて手を出すのは得策ではございません。何事も極まれば必ず反転する道理。その時こそが災いの始まり。それに太后様がお守りになっている以上……」「太后様が庇っているのは、ただあの方の母上との昔なじみゆえでしょう」皇后は冷ややかに言い放った。「女学校は太后様のご意向。陛下だってあまり賛成なさっていなかったもの。ただ孝行のためにお認めになっただけよ。あの女、塾長だなんて本当に思い上がったものね。自分が幾つの文字を知っているのか、恥ずかしくないのかしら?太后様があれほど女学校を重んじていらっしゃる。もし学院の評判を落としでもしたら、果たしてまだ庇ってくださるかしら」「礼子様に女学校の先生方を困らせるように仕向けたことは、太后様のお耳に入らなければよいのですが……」蘭子は心配そうに進言した。「これ以上過激な行動は慎むべきかと。太后様のご立腹を買えば、陛下も皇后様のお味方にはなって下さいますまい」蘭子の言葉は皇后の逆鱗に触れた。「むやみに動くつもりなどないわ」皇后は苛立たしげに言った。「たとえ何かするにしても、自分の立場は守れるわ。まさか礼子に危険な真似をさせるほど愚かではないでしょう。もう少し考えてみるわ。余計な心配は無用よ」ここ最近、皇后は天方家との縁組みばかり考えていた。天方十一郎こそが最適な人選だった。朝廷の総兵官たちの中で、未
「まあ、お覚えいただけるとは、礼子にとってこの上ない光栄でございます」皇后は微笑を浮かべながら答えた。「確かに今年元服いたしまして、十五歳半になります。叔母上も縁談をお探しで、私にもご相談がありましたところです」「そうそう、わたくしも聞いておりましてね。広陵侯爵家の三郎君との縁談を望んでおられるそうじゃないの。わざわざ人に調べさせたところ、才気煥発で品行方正な若者だそうよ。年頃も似つかわしいし、まことにいい組み合わせじゃないかしら」太后の鋭い眼差しに見透かされ、皇后の表情が一瞬にして曇った。しかし、なんとか取り繕おうと、「婚姻は重大な事柄でございます。礼子も納得してこそ……」と言葉を濁した。太后は穏やかに頷いた。「おっしゃる通りよ。だからこそ、わたくしも降嫁の勅命は控えることにしたの。あの子が自分で気に入った相手を見つけてからでも遅くはないわ。その時になったら、皇后の顔を立てて、お墨付きを与えてあげてもいいと思っているのよ」皇后の表情が一層険しくなった。これでは事実上、自分にも降嫁の権限を認めないという意味ではないか。一体誰が密告したのだろう。昨日やっと天方家に使いを出したばかりで、今朝になって裕子を呼び寄せた矢先、まだ話も始められぬうちに、太后からこのような暗示めいた言葉を投げかけられるとは。「他にはないわ。ただこの件についてあなたの考えを聞きたかっただけよ。叔母上にもそう伝えなさい。礼子が自分で良い人を見つけるまで待つようにって。結婚は親の一存だけで決めるものではないのだからね」太后は皇后を帰そうとした。皇后は立ち上がり、深々と一礼した。「はい。実家の事にまでご配慮いただき、恐れ入ります。これにて退出させていただきます」吉備蘭子も同じく礼をし、皇后に外套を着せると、共に退出していった。二人が去ると、さくらと紫乃が姿を現した。彼女たちは屏風の陰に隠れ、太后と皇后の会話を全て聞いていたのだ。「太后様」紫乃は好奇心に駆られて尋ねた。「どうして斎藤礼子と広陵侯爵の三郎さんを、すぐにお結びにならないのですか?」太后は目を細めて紫乃を見つめた。「まあ、お馬鹿さんね。婚姻は慎重に決めるべきものよ。相思相愛でない夫婦は、後々怨み合うことになる。それこそ二人とも不幸になってしまうわ。礼子のことはまあいいとして、女学校であんな騒ぎ
西連寺内侍は藩札も茶葉も懐に収めたものの、口元は固く閉ざされたままだった。「参内なさればおのずと分かることです。誥命を賜った方なのですから、礼を失することなどございますまい」「はい、ごもっともでございます」執事は笑みを浮かべながら答えたが、内心では舌打ちをしていた。よほどの重大事でもなければ、これほど頑なに口を閉ざすことはあるまい。さくらは今日、女学校に赴くつもりだった。斎藤礼子がまた何か騒動を起こしたらしく、昨夜、国太夫人から使いを寄越され、収めるようにとの依頼があったのだ。ところが、屋敷を出たところで天方家の駕籠が急ぎ足で近づいてくるのが目に入った。何か重要な用件があるらしい。さくらは足早に駆け寄り、「天方家の方ですか?」と声をかけた。簾が開き、天方夫人が慌ただしく顔を出した。「王妃様、裕子叔母様が皇后様にお召しになりました。斎藤家四男家の礼子と十一郎の縁談のことかと……母は皇后様が降嫁の勅命を下されるのを懸念しており、どうかお力添えを」「斎藤礼子?雅君女学の?」さくらは初耳で、思わず目を丸くした。「はい、雅君女学の。昨日、縁談の話が持ち込まれまして、叔母様は承諾しかねると」天方夫人は焦りを隠せない様子で答えた。事態を察したさくらは、すぐに紫乃を呼び寄せ、太后様に御機嫌伺いに参内すると告げ、二人で馬を走らせた。一方、裕子は既に西連寺内侍と共に馬車で宮中へ向かっていた。さくらと紫乃は裕子より一足早く、太后の御前に伺候した。太后は皇后と王妃たちへの配慮から、通常は朔日と十五日の参内のみを求めていた。清和天皇は既に早朝の御機嫌伺いを済ませ、退出されていた。さくらの報告を聞いた太后は、思わず舌打ちをした。「縁結びを勝手に仕組むとは。あの方の魂胆が分からぬとでも?」所詮は十一郎の兵権を利用して、大皇子の後ろ盾になろうとする魂胆に過ぎなかった。あの日以来、大皇子が潤を見下したことで、太后は心中穏やかではなかった。子供とは言えども、もう幼くはない。師匠に礼儀作法を習っているというのに、礼儀知らずで気ままな振る舞い。鼻高々で、誰を見ても上から目線なのだ。あの一件以来、天皇と皇后も大分躾に力を入れ、太后への御機嫌伺いの際も、形式通りに振る舞うようになった。しかし、幼い心の内などはお見通しだった。形だけの礼儀作法の裏に
哉年は刑部での任務に就いた。当初は父王のことを詮索されるのではないかと戦々恐々としていたが、数日経っても玄武に会うことすらなく、誰一人として尋ねてくる者もいなかった。次第に、その緊張も薄れていった。むしろ、刑部大輔の今中具藤が時折声をかけてくれた。今中は温和な性格で、何かと指南を買って出てくれる。哉年も深く感謝し、分からないことがあれば、職制を超えて今中に助言を求めるようになっていた。これまでまともな仕事など経験したことのない哉年は、司獄としての職務を全うしようと必死だった。学ぶべきことは山積み、配下の獄卒たちの統率も必要で、毎日が慌ただしく過ぎていった。玄武は今中に指示を出していた。今は彼を追及せず、まずは職務に専念させよ。分からないことがあれば助け、成功体験を積ませ、自ら進むべき道を選択させるのだと。冬至を過ぎると、天方家には仲人が続々と訪れるようになった。裕子は息子の十一郎の嫁探しに心を砕いていた。子孫繁栄はさておき、せめて身の回りの世話をしてくれる良き伴侶が必要だと考えていた。息子が死の淵から生還して以来、裕子は子孫のことをさほど重視しなくなっていた。この先、穏やかな人生を送れさえすれば、それで十分だと。親房夕美の一件もあり、今度は嫁選びに際して、何より人柄を重視することにしていた。以前話の出ていた六品官の娘は、才徳兼備だったものの、親房夕美と村松光世の一件が露見してから、話は立ち消えになってしまった。今では縁談が増えてきたが、裕子にはそれぞれの娘の人柄を即座に見極めることはできず、じっくりと調べようと思っていた矢先、斎藤家から縁談が持ち込まれた。斎藤礼子、斎藤家四男の末娘で、裳着の儀を済ませてまだ半年、十六にも満たない。裕子は人柄を知る以前に、年齢があまりにも若すぎると感じた。これまで候補に挙がっていた娘たちは、みな十八を過ぎていた。確かに十八を過ぎても未婚の娘は少なかったが、家の喪中で婚期を遅らせている者や、一度婚約が破談になった者もいた。もちろん、破談に至った事情も詳しく調べる必要があった。再婚の女性も候補に入れていた。裕子は決して再婚を忌避してはおらず、相性が合えばそれで良かったのだが、残念ながら適当な人は見つからなかった。斎藤家には「身分が釣り合いませんし、礼子様はお若すぎます。うちの息子
「飛騨」という一言に、玄武とさくらは宴もそこそこに親王家へと急いだ。議事堂に広げられた地図には、濃州の一角に飛騨の地が示されていた。かつては離王の封地であり、その離王は文利天皇の弟。今では世襲で、影森天海が鎮国将軍の称号を受け継いでいた。もっとも、鎮国将軍は名ばかりの称号で、軍権は持っていない。天海は皇家の領地を賜り、朝廷からの俸禄で暮らしているが、この代になってその恩恵は半分以下に削られていた。以前の調査では、確かに飛騨は裕福な土地ではあったものの、燕良州や牟婁郡からは遠く離れており、軍を移すには手間がかかりすぎると判断していた。加えて、影森天海という男は、大それた野心など微塵もない男だった。賭博に溺れ、遊里に入り浸る有様で、先祖代々の家業をほぼ食い潰してしまっている。諜報によると、正妻一人に対し三十二人の側室、さらに五、六十人もの美人たちを抱え込んでいるという。気に入った女を見つければ、金で買い、騙し、それでもダメなら力づくで奪い取る。そのため、地元の役所とも険悪な仲だった。一年で百件を超える騒乱や婦女誘拐の訴えが持ち込まれるという始末。しかし飛騨は彼の封地。追い出すこともできず、とはいえ鎮国将軍の称号がある以上、強く出ることもできない。役所は頭を抱えていた。飛騨の府知事は三年任期で交代するが、皇族の面子を慮って告発状を上げることは控えめだった。皇室への配慮を優先する陛下の裁定で、自身の仕途に傷がつくことを恐れ、できる限り黙認する方針を取っていた。そうして彼の非道な振る舞いは、飛騨の地で野放しにされていた。「彼には顕著な特徴がございます。貧しくても横暴なことです」有田先生が指摘した。玄武は物思わしげに言った。「極限まで貧しく、かつ横暴な者は、必ず金策を考えるはず。しかし、この数年で飛騨での友好関係はほぼ皆無。実権も持たず、金を借りることすらままならない。彼の私有する庄園や山林を徹底的に調べよ」有田先生は調査記録の帳面を繰りながら答えた。「庄園は一つか二つを残すのみ。良い場所の山林は皆、人に貸し出されております。残っているのは、地形が複雑で、貸し手もなく、作物も果樹も育たぬような場所ばかり」「密偵を送り込め」玄武は額に指を当てながら言った。「私から陛下に話を通し、哉年に何か任務を与えよう。どの程度の情報を明かすか、様
「哉年、跪きなさい!」榮乃皇太妃は突然声を張り上げた。「不埒者め。王妃に許しを請いなさい。王妃はあなたの従妹であり、また義理の姉でもありますよ。王妃が許してくだされば、あなたの母上の御霊にも申し上げられるというものですわ」哉年が膝を折ろうとした瞬間、さくらは冷たい眼差しを向けた。「私に跪こうなどと、よくもそんな真似を」その凍てつくような声に、哉年の曲がりかけた膝は瞬時に強張った。さくらは立ち上がった。「他にご用がなければ、これで失礼いたします」大股で出口へ向かうさくらの背中に、皇太妃の切迫した声が追いかけた。「王妃、どうか、これからどんなことが起ころうとも、私の孫たちをお守りください」さくらは足を止め、鋭く振り返った。「皇太妃様は実に慈悲深いお方。ただ残念なことに、その慈悲は叔母様には届きませんでした。今となっては、誰かの慈悲や庇護など、もう彼らには必要ないでしょう」「王妃!」皇太妃は涙ながらに叫んだ。「同じ親戚ではありませんか。哉年たちは王妃の従兄妹なのです。見捨てないでくださいませ」「身を慎んで暮らしていれば、誰かの世話になど必要ありません」さくらの声は冷たく響いた。「皇族の血を引く者が、まさか物乞いにまで落ちぶれるとでも?皇太妃様のご心配は余計かと。もし、ただの取り越し苦労ではなく、何かご存知のことがあるのでしたら、それはこの私ではなく、あなたの孫たちに申し上げるべきことではありませんこと?」言い終えるや否や、さくらは大股で部屋を出た。「従妹上、お待ちください!」哉年が慌てて追いかけ、さくらの前に立ちはだかった。「私はあなたの実の母の子ではありません。従妹などと呼ばないで」さくらは特に彼への憎しみを隠そうともしなかった。燕良親王の三人の息子の中で、最も憎むべきは彼ではなかったかもしれない。だが、女中の子でありながら、育ての母である前王妃に一片の孝行も尽くさず、生前は冷たくあしらい、死後になって後悔の涙を流すなど、あまりにも卑しい。「ただ、心からお詫びを申し上げたかっただけです。他意はございません」哉年はさくらの鋭い眼差しを避けながら、おずおずと言った。「私に謝られても何の意味もない。育ててくださった方に申し上げることでしょう」さくらの目は氷のように冷たかった。「どきなさい。邪魔です」「私にも何も出来なかっ
そのとき、榮乃皇太妃からの使いが参り、さくらを個人的に招かれているとの伝言があった。さくらは太后の許可を得てから、その招きに応じることにした。榮乃皇太妃は文利天皇の妃であった方で、本来なら息子の封地で安寧な暮らしを送るはずだったのに、今は宮廷の片隅の殿で孤独に暮らしていた。高松内侍に導かれて寧寿殿に足を踏み入れた時、さくらは身を切るような寂寥感に包まれた。祝いの雰囲気など微塵もない。まるで他の殿舎とは数棟の距離だけでなく、天と地ほどの隔たりがあるかのようだった。冬の訪れと共に榮乃皇太妃の容態は重くなり、燕良親王の息子である影森哉年が都に残って祖母の看病をしていた。今日も参内し、祖母の傍らで付き添っていた。さくらの姿を認めると、彼は立ち上がって礼を述べた。「王妃様、よくお出でくださいました」さくらは冷ややかな目線を送った。「哉年様もいらしたのですね」「はい、祖母の看病に」哉年はさくらの前では頭が上がらず、まともに目を合わせることすらできなかった。さくらは彼には目もくれず、榮乃皇太妃に御機嫌伺いの挨拶をした。寝台に横たわる皇太妃は、錦織りの柔らかな枕を二つ背に当て、蝋のように黄ばんだ青ざめた顔色で、目は窪み、髪も結わず、白髪交じりの髪は肩に散らばっていた。寝たきりの生活で、髪は乱れたままだった。皇太妃はさくらを見つめ、一つ咳をしてから言った。「王妃、どうぞお座りなさい。堅苦しいことは無用です」その声は遅く、力なく響いた。宮女が寝台の傍らに椅子を運んでくると、高松内侍が「王妃様、どうぞこちらへ。皇太妃様はお声が弱くていらっしゃいますので、お近くでないと」と勧めた。ありがとうございます」さくらは皇太妃に礼を言って腰を下ろすと、「お具合はいかがですか」と尋ねた。「もう良くなることはないでしょう」皇太妃は乾いた唇に薄く紅を引いていたが、それは顔色を良くするどころか、かえって蝋のように青白い顔を際立たせていた。「ゆっくりお養いになれば、きっと」さくらは優しく声をかけた。殿内は炭火で温められ、さくらにはむしろ暑いほどだった。それでいて煙一つ立たない。さすがに上質な白炭を使っているのだろう。清和天皇は、彼女が燕良親王の生母だからといって粗末に扱うことはなかった。「王妃をお呼びしたのは、影森茨子の代わりに上原家の方
恵子皇太妃は参内するや否や、淑徳貴太妃と斎藤貴太妃を誘い、庭園へと急いだ。今日の紅玉の頭飾りが肌の色を一層引き立てることを、誰もが、特に二人に見てもらいたかった。玄武はさくらと共に、太后の御殿で御機嫌伺いをしていた。太后との歓談の最中、次々と内外の貴婦人たちが集まってきた。折しも、十一郎の母、村松裕子も太后への御機嫌伺いに訪れた。太后は思いがけなくも、これだけの貴婦人たちの前で、十一郎の縁談について尋ねられた。裕子は胸に苦い思いを抱えながらも、太后の前では一言も漏らすまいと、笑顔を作って答えた。「はい、縁とは急いで参るものではございませんので」「お気の毒なことです」太后は溜息をつかれた。「いわれのない災難に巻き込まれて。天方家はこれ以上ないほど温厚な家柄というのに、よからぬ輩に掻き回されて、すっかり……」裕子はその時悟った。太后が突然この話題を持ち出されたのは、十一郎と天方家の名誉を守ろうとされてのことだと。感動で目に熱いものが溢れ、声を詰まらせながら答えた。「やはり、十一郎の福運が浅かったのでしょうか……」「とんでもない」太后は即座に打ち消された。「彼は我が大和国の勇将。陛下の御恩を深く受けているお方です。どうして福運が浅いなどということがありましょう。定められた縁は、必ず巡り会うときが来るものです」裕子は慌てて深々と御礼を述べた。「太后さまのお心遣い、誠に恐れ入ります」その場にいた貴婦人たちの視線が、一瞬にして変化した。先ほどまでは嘲笑を隠しきれない目付きで裕子を見ていた。あれほどの醜聞が起きた以上、誰も無実を主張できないと思っていたのだ。だが、太后さまのお言葉が全てを変えた。しかも、どのような言葉で呼ばれたことか。「大和国の勇将」である。太后さまは決して朝廷の事など口にされない方。それなのに、十一郎のためにこのような言葉を。座に連なる者たちは皆、只者ではない。その言外の意味を聞き漏らす者などいようはずもない。これからは誰一人として天方家を軽んじることなどできまい。まして、噂話など口にする者などあるまい。太后は必要以上の言葉は付け加えず、さりげなく各家の様子を尋ねられた。斎藤夫人の姿が見えないことに目を留められると、折よく吉備蘭子の使いが参上し、「体調を崩されており、太后さまにご病気がうつることを懸念され、改め