「申し訳ありません。娘さんは二月十五日、午前一時十三分に蘇生処置の甲斐なく、お亡くなりになりました」
寺原真衣(てらばら まい)はウサギのぬいぐるみを握りしめたまま、無表情で手術室をじっと見つめていた。
彼女は娘の最後の旅立ちを見送るため、静かに歩み寄った。
手術台の上、真衣は娘の枯れ枝のように細く乾いた小さな手をそっと握った。
その手は冷たく、すでにぬくもりは失われていた。
彼女は静かに娘の髪を整えた。
脳裏には、娘がまだ救急室へ運ばれる前、かすかに漏らした弱々しい声がよみがえる。
「ママ……おじさんは、まだ来ないの?」
娘が「おじさん」と呼んでいたのは、実の父親である高瀬礼央(たかせ れお)だった。彼は娘に「パパ」と呼ぶことを許さず、そのくせ忘れられない初恋相手の息子には「パパ」と呼ばせていた。
高瀬千咲(ちさき)のいちばんの誕生日の願いは、パパと一緒に過ごすこと、そして一度だけでも「パパ」と呼ばせてもらうことだった。
千咲は体が弱く、去年の冬、冷たい風の中で礼央が帰ってくるのを待ち続けたせいでインフルエンザにかかり、肺炎を患った。今年に入ってからは病状が急激に悪化し、ずっと入院していた。
今日もまた、寒い冬の日だった。千咲はこっそりと家の門の外で、礼央の帰りを待ち続けていた。
倒れていたところを真衣が見つけ、すぐに病院へと運ばれた。
医師からは、危篤状態だと宣告された。
真衣は礼央に、娘の誕生日くらいは一緒にいてほしいと、必死に懇願した。
彼はそれを承諾した。
だが、またしても約束は裏切られた。
彼女は枯れ枝のように痩せ細った娘の小さな体をそっと抱きしめ、優しくささやいた。「いい子ね……もう、つらいことは終わりよ」
もう、病の苦しみに耐える必要はない。
もう、毎日父親に嫌われ、決して届かない父の愛を求めて泣くこともない。
「ママ、どうしておじさんは私にパパって呼ばせてくれないの? でもお兄ちゃんはいいのに……
ママ、萌寧さんがお兄ちゃんのこと好きだから、パパもお兄ちゃんのこと好きなんだよね……」
娘の無邪気な問いかけが、今もなお彼女の耳元で何度も何度も響いているようだった。
幼い彼女には、なぜパパが自分を好きになってくれないのか、なぜ自分だけ「パパ」と呼べないのか、その理由がどうしてもわからなかった。ただ、きっと自分がお兄ちゃんよりも劣っているから、だからパパに嫌われているのだと、そう思い込んでいた……
六年前、彼女は礼央とふとしたことで関係を持ち、千咲を身ごもった。いわゆる授かり婚だった。
千咲を産んだ時、彼女は難産の末、大量出血したが、彼は一度も顔を見せることはなかった。
その頃、礼央は憧れの女性・外山萌寧(とやま もえ)の出産に付き添っていたのだ。どちらが大事か、それは一目でわかることだった。
萌寧は男の子を産んだ後、その子を礼央に預けて出国し、そのまま消息を絶った。
一方、真衣は長年、礼央を一途に想い続けてきた。彼の心を少しでも引き寄せたくて、萌寧が産んだ子供を受け入れ、我が子同然に心を込めて育て上げた。
彼は千咲に「パパ」と呼ばせることを決して許さなかった。だが、萌寧の息子にはまるで宝物のように接した。これが、決定的な違いだった。
難産の時、彼女は本当は気づくべきだったのだ。あの男の心は氷のように冷たく、どれほど手を尽くしても、決して温めることはできないということに。
本当は千咲のほうが午前中に先に生まれていた。それなのに、彼は萌寧の息子を「兄」にして、高瀬家の長男としての地位を与えた。
その結果――
誰もが、その子こそ礼央の本当の息子だと信じて疑わなかった。
そして、千咲はただの私生児だと蔑まれたのだ。
医師は彼女の震える背中を重苦しい面持ちで見つめながら、そっと声をかけた。「お父様は……まだお見えになっていないのですか?」
この子・高瀬千咲が入院してからというもの、父親の姿は一度たりとも見かけることはなかった。
真衣の瞳は冷たく光り、皮肉げにかすかに笑った。「父親なら、私生児を連れてその実の母親に会いに行き、誕生日パーティーを開いていますよ」
毎年、同じことの繰り返しだった。
それでも彼女は、馬鹿みたいに四年間も他人の子を育て続けてきた。
同じ誕生日の子供なのに、千咲には冷たい仕打ちしか与えられなかった。
医師は呆然とし、目の前の哀れな女性に、どんな言葉をかければいいのか分からずにいた。
-
千咲が亡くなって初日、真衣は全ての手続きを済ませた。
北城の火葬手続き確認書には、父母双方の署名が必要だった。
真衣は港湾の別荘へ戻り、千咲の遺品を静かに整理した。
その時、階下から車の音が聞こえてきた。
「パパ!いつママを捨てて萌寧さんと結婚するの?萌寧さんにママになってほしい!」
礼央はコートを腕にかけ、身をかがめて子供である高瀬翔太(たかせ しょうた)の頬を優しくつねった。「翔太、萌寧さんをママって呼んでいいんだよ」
真衣は階上で、その会話の一部始終をはっきりと耳にした。
胸の奥がきゅっと締めつけられる。彼女はそっと目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「ママにお風呂に入れてもらって、着替えたら萌寧さんを迎えに行きなさい」
翔太は嬉しそうに跳びはねた。「やった!」
けれど次の瞬間、翔太の小さな顔は曇り、しょんぼりとつぶやいた。「でも……ママが知ったら、行かせてくれないかも。ママ大嫌い、いつも外のもの食べさせてくれないんだもん」
礼央は翔太の頭を撫で、やさしく背中を押すように言った。「パパがいるから、ママは何も言えないよ」
礼央はふと目を上げ、ちょうど階段を下りてくる真衣と視線がぶつかった。
だが彼の顔は淡々としていて、何の感情も浮かばず、視線を逸らして見なかったことにした。
翔太は駆け寄り、真衣の手を握って言った。「ママ、お風呂入れて。あとでお出かけするんだ!」
真衣はその手を静かに振りほどき、顔を上げて礼央を真っすぐに見つめた。「何か……忘れてない?」
礼央は淡々と真衣を一瞥した。「何を?」
何年経っても、礼央はずっと冷たかった。彼女に対しても、千咲に対しても、冷たさは変わらなかった。
真衣は自嘲するように微笑んだ。
そうね。礼央が千咲と翔太の誕生日が同じ日だなんて、覚えているはずがない。
翔太の誕生日は毎年、萌寧と一緒に盛大に祝われる。
その一方で、千咲は毎年、毎年、冷たい冬の風の中で、決して帰ってこない父を待ち続けていたのだ。
「話がある」
礼央は嘲笑うように鼻で笑った。「今日は忙しい」
「長くはかからないわ。サインして」
真衣は静かに言い、手にしたファイルを開いて、署名する場所を指し示した。
礼央はひどく不機嫌そうで、まるで彼女と一秒でも一緒にいること自体が鬱陶しいとでも言いたげだった。
彼は眉をひそめ、勢いよく署名すると、書類を真衣に突き返した。
「今夜は翔太と外で泊まるから帰らない。明日の朝、学校の先生に翔太が半日休みをもらうことを伝えておけ」
真衣は奥歯を噛みしめ、書類を握る指先が真っ白になるほど力を込めた。
もし彼がほんの少しでも真剣に目を通していれば。
すぐに気づいたはずだ。文書の一枚は離婚届、もう一枚は千咲の火葬手続きの書類だということに。
それなのに、彼はどちらの書類にも無造作に、心を込めることなくサインしたのだった。
「それと、千咲に電話してくるなと伝えろ」
真衣は冷たく笑った。
千咲はもう電話なんてかけてこない。
なぜなら、彼女はもう、この世にはいないから。
礼央は、普段とは明らかに違う真衣の態度にも、まるで気にする様子はなかった。
時間が迫る中、萌寧の方から電話が入り、彼らがいつ到着するのか尋ねてきた。
翔太はお風呂にも入らず、着替えもしないまま、礼央のあとについて外へ出た。「今夜は新しいママにお風呂に入れてもらう~」
礼央は甘やかすようにその言葉に応えた。
「いいよ」
真衣はその場に立ち尽くし、彼らの去っていく背中を、ただ呆然と見つめ続けた。
彼女は家の中にある、自分と千咲に関係するすべてのものを整理し、燃やした。
そしてその足で火葬場へ向かい、千咲の遺体を火葬した。
遺骨を受け取った時――
真衣の涙は、こらえきれずに頬をつたって落ちた。
「千咲……ママを待ってて。すぐに会いに行くから……」
-
一方その頃。
礼央は翔太を連れ、萌寧の帰国歓迎パーティーに出席していた。
三人は和やかに語らい、まるで本当の家族のように親密だった。周囲の人々も皆、彼らの家庭の幸せを称賛し、真衣がいつまでも高瀬夫人の座に居座り、彼らの幸せを壊しているのだと噂していた。
その時、誰かが人混みをかき分けて礼央の前に駆け寄ってきた。
「高瀬社長、奥様とお嬢様が本日火葬されました。どうか葬儀場へ、遺骨を受け取りにいらしてください」
礼央は眉一つ動かさず、冷えきった声で言った。「いい歳して、そんな嫉妬じみた茶番をいつまで続けるつもりだ?」
「ですが……火葬許可書にはご自身で署名されましたし、離婚届にも……」
その言葉に、礼央の心臓は一瞬、脈打つのを忘れた。「……何だと?」
礼央はほとんどスピード違反のまま火葬場に辿り着き、妻と娘が火葬炉に送り込まれる光景を目の当たりにした。
それだけの光景で、彼の胸は何かに引き裂かれるような痛みに貫かれた。
火葬場の職員が聞いたのは、彼が「ドサッ」と倒れる音だけだった……
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