夫・須藤悠一(すとう ゆういち)の愛人・松岡佑子(まつおか ゆうこ)が妊娠したのを発覚した。
彼の浮気を初めて知った時、私・黒崎静華(くろさき しずか)は狂ったように、家中のものを叩き壊して回った。しかし、今回の私はそうしなかった。
家の骨董の花瓶が高価すぎる。それを壊す気にはなれなかった。
家を出て、通りかかったケーキ屋で、悠一が佑子とベビー用品を買っている姿を偶然見かけることで、食欲など失せることもあった。
ところが、今日のイチゴケーキは、やけに美味かった。
寝る間際、大量に睡眠薬を飲みたくなる衝動が込み上げてきた。
きっとまた、どうしようもなくなり、あのふたりを呪いながら、一番残酷な方法で自分を終わらせようとするのだと思っていた。
そんな時、カウンセラーからメッセージが届いた。
外に出て、できるだけ歩くように、と何度も念を押す内容だった。
だから私は南の島へ飛んだ。
陽の光を浴び、潮風に吹かれながら、まる二十七日間、あのふたりのことを忘れていた。
悠一からの電話が鳴るまで。
「離婚の話、どう考えた?戻ってきて離婚届を出そう。
でもな、安心してくれ。これはあくまで仮の話だ。佑子が産んだら、すぐによりを戻す。お前が知っての通り、俺が愛してるのはいつだってお前だけだ」
彼に言われて、そういえばそんな話もあったな、と思い出した。
でも、今回はもう、疲れてしまった。
彼らとこれ以上、関わりたくなかった。
「佑子が、離婚してくれないなら、子供を堕ろすって言ってるんだ。あの子がどれだけ拗れるか、お前も知ってるだろ?俺にもどうしようも……」
彼はまだ、どうでもいいことを言い続けている。潮風を受けながら、私はほとんど考える間もなく口を開いていた。
「ねえ、いっそのこと、本当に終わりにしない?」
電話の向こうの声が、私の「本当に終わり」という言葉で、ぷつりと途切れた。
しばらくの間があって、聞き間違えたかのように、悠一が尋ねる。
「静華……今、なんて言った?……本当に終わりって、どういう意味だ?」
私は拾った貝殻を指先で弄りながら言った。
「難しい?悠一、つまりはね、あなたとよりを戻すことはないってこと」
「なぜだ?」
彼の声が、すぐに沈む。
「また、俺のこと怒ってるんだろ?
もう約束したじゃないか。佑子が産みさえすれば、すぐにきっぱり別れて、お前のところに戻るって。静華、頼む……もう一度だけ、信じてくれないか?」
信じたことは、あった。
結婚式で、「一生愛する」という彼の言葉を、私は信じた。
私と祖母がすべての貯金で彼の起業を支えた時、「いい暮らしをさせる」という彼の言葉を、私は信じた。
妊娠した私に、彼が膝ついて「佑子とは終わりにする」と誓ったその言葉も、私は信じた。
しかし毎回、現実は容赦なく、私に平手打ちを食らわせてきた。
例えば、今。
電話を切って、まだ十分も経たないうちに、佑子のSNSが更新された。
【あのババアが離婚に同意した途端、彼がすぐにダイヤの指輪を持ってプロポーズしに来てくれたの。ねえ赤ちゃん、パパってば私たちのこと、すっごく愛してるんだね】
添えられていたのは、マタニティ写真だった。
悠一の手が、彼女の膨らんだお腹にそっと触れている。その眼差しはあまりに優しく、胸が痛んだ。
以前なら、これを見ればきっと取り乱して、なりふり構わずふたりを罵っていただろう。
でも、今の私の心はとても静かで、少しも苛立ちを感じることはなかった。
それどころか、彼女の投稿にいいねを押し、コメントまで残していた。
【おふたりの幸せ、お祈りしてる】
同じ界隈で付き合いがある以上、私たちには大勢の共通の友人がいる。
このコメントが流れた途端、事情を知る何人かの友人たちから、私を気遣う声がすぐに届いた。
すぐにまたスマホが震え出し、画面には悠一の名前だ。
「静華、佑子のSNS、見たのか?」
返事を待たずに、彼は一人でまくしたてる。
「佑子がああいうことを書くのは、わざと怒らせようなんて思ってない。
ただ、妊娠してから情緒が不安定でな、つい変なことを考えてしまうんだ。だから、なだめるために指輪を買っただけだ」
そうやって前置きをしてから、彼はようやく本題を切り出した。
「医者からも、彼女に刺激を与えてはいけないって。
だからな、静華、頼む。さっきのコメントといいね、消してくれないか?彼女と、争わないでやってほしい」
彼は、佑子にあの吐き気を催すような投稿を削除しろとは言わないのに、私にはコメントを削除しろと言うのだ。
私は答えなく、削除もしなかった。
やがて、耐えかねたように、悠一が先に口を開いた。
彼はため息をつき、また、私が聞き飽きたあのセリフを繰り返す。
「怒るなよ、いいか?
お前が大好きな、あのケーキを買って、すぐに届けさせるから。な?いい子にしてろ。
もう少しだけ待ってくれ……佑子が産んだら、すべて終わる。そしたら、また元通りだ。いいだろう?」
彼がうまく空っぽの約束を積み上げ、架空の未来を描くのを聞きながら、私は静かに笑みがこぼれた。
「嫌だわ」
夕方の潮風は少し涼しく、私の声も少し冷たかった。
「悠一、いったい何の自信があって、また私たちが元通りになると思えるの?」
あなたが、何度も浮気を繰り返し、愛人を抱きながら愛してるとささやいたその時点で、私たちはもう、終わりよ。
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